新ブログ「里ふくろう通信」を開設しました。
「ふくろう」には、千葉県佐倉市を貫く「国道296号線」の意味もこめています。
「里ふくろうの日乗」より更新の頻度は低くなるかもしれません。
【里ふくろう通信】
http://296log.sato296.com/
2013年10月07日
「里ふくろう通信」開設
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2013年08月29日
ブログに替えて「フォトダイアリー」
今後、ブログを書くことに費やしていたエネルギーは、ほかの方面に向けることにして、日々のことは、「里ふくろうコム」の「フォトダイアリー」に気が向いた時に載せることにします。
「里ふくろうコム」は省エネルギーを目ざし、自動的に更新されるモジュールを中心としています。また「フォトダイアリー」は、老骨にむち打つ必要がないように写真と短いコメントだけというシンプルな内容です。
「里ふくろうコム」は省エネルギーを目ざし、自動的に更新されるモジュールを中心としています。また「フォトダイアリー」は、老骨にむち打つ必要がないように写真と短いコメントだけというシンプルな内容です。
posted by 里実福太朗 at 23:59| 里ふくろうの日乗
「里実文庫」のURL変更
◇「里実文庫」のURLを変更しました。
旧:satobn.net
↓
新:http://bunko2.sato296.com
ドメイン「satobn.net」は廃止します。
◇「里実文庫T期」(旧里実文庫)のURLも変更しました。
旧:bunko1.satobn.net
↓
新:http://bunko0.sato296.com
旧:satobn.net
↓
新:http://bunko2.sato296.com
ドメイン「satobn.net」は廃止します。
◇「里実文庫T期」(旧里実文庫)のURLも変更しました。
旧:bunko1.satobn.net
↓
新:http://bunko0.sato296.com
posted by 里実福太朗 at 16:54| 里ふくろうの日乗
2013年08月27日
デジタルからアナログへの回帰
鈴木喜一さんが急逝したのは、7月30日のことだった。早いものでその日からそろそろ1ヶ月ちかくが経とうとしている。その間、喜一さんのブログ「大地の家」を覗いてみることが何回かあった。
もちろんブログが更新されている、などということはあり得ない。書き手が亡くなったあとそのブログはどうなるのだろうか、閉鎖されてしまうのだろうか、あるいはそのままの形で残されているのだろうか、そんなことが気に掛かってのことだった。
喜一さんの手で更新されることがなくなってから何日か経って、そのブログに変化があった。つまり記事が追加されていたのだ。そしてその状態が保たれたまま現在まで続いているのである。追加された記事は、スポンサーサイトの広告のページだった。そこにはこう記されていた。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
〔大地の家〕
http://daichinoie.blog6.fc2.com/
ブログの書き手本人がすでにお亡くなりになっているのだから、無理難題が突きつけられていると言わねばなるまい。ほかの人が書けばその広告を消すことはできるのだが、喜一さんが一人で書き継いできたブログだからそういうわけにはいくまい。だから、ページのトップに広告があるのは目障りだけれど、それは我慢してこのままの状態で残しておくより仕方がないということなのだろう。とりあえずそうしておけば、喜一ワールドにいつでもアクセスすることができるのだ。
この「里ふくろうの日乗」の場合はどうなるのだろうか。月々賃料を払ってサーバースペースを借りているのだから、書き手が亡くなってもトップページに広告記事が掲載されることはないだろう。しかし、銀行口座に預金があるから維持できているわけで、死後時を経て預金が底をついてしまえば、ネット社会の藻くずとなってはかなく消えてしまうのは明らかなことだ。
男性の平均寿命の歳を迎えるまではまだ間があるけれど、そろそろネット社会に見切りをつけて、現実の世界に軸足を移した方が良いのかもしれない。ネットの世界に息苦しさ・重苦しさが漂い始めてきた今が、その時期なのだろう。それはとりもなおさず、ネットというデジタル社会からアナログの世界へと回帰することを意味している。
もちろんブログが更新されている、などということはあり得ない。書き手が亡くなったあとそのブログはどうなるのだろうか、閉鎖されてしまうのだろうか、あるいはそのままの形で残されているのだろうか、そんなことが気に掛かってのことだった。
喜一さんの手で更新されることがなくなってから何日か経って、そのブログに変化があった。つまり記事が追加されていたのだ。そしてその状態が保たれたまま現在まで続いているのである。追加された記事は、スポンサーサイトの広告のページだった。そこにはこう記されていた。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
〔大地の家〕
http://daichinoie.blog6.fc2.com/
ブログの書き手本人がすでにお亡くなりになっているのだから、無理難題が突きつけられていると言わねばなるまい。ほかの人が書けばその広告を消すことはできるのだが、喜一さんが一人で書き継いできたブログだからそういうわけにはいくまい。だから、ページのトップに広告があるのは目障りだけれど、それは我慢してこのままの状態で残しておくより仕方がないということなのだろう。とりあえずそうしておけば、喜一ワールドにいつでもアクセスすることができるのだ。
この「里ふくろうの日乗」の場合はどうなるのだろうか。月々賃料を払ってサーバースペースを借りているのだから、書き手が亡くなってもトップページに広告記事が掲載されることはないだろう。しかし、銀行口座に預金があるから維持できているわけで、死後時を経て預金が底をついてしまえば、ネット社会の藻くずとなってはかなく消えてしまうのは明らかなことだ。
男性の平均寿命の歳を迎えるまではまだ間があるけれど、そろそろネット社会に見切りをつけて、現実の世界に軸足を移した方が良いのかもしれない。ネットの世界に息苦しさ・重苦しさが漂い始めてきた今が、その時期なのだろう。それはとりもなおさず、ネットというデジタル社会からアナログの世界へと回帰することを意味している。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年08月26日
猛暑一服、ゴーヤーは季節の先取り
昨日と今日は最高気温が30度をきり、さしもの猛暑も勢いが衰えてきたことがうかがえる。昨夜はいつもは回す扇風機を止め、薄い上掛けを一枚足してやすんだ。やはり気温が30度を下まわると過ごしやすくなる。ただ予報では、この涼しさも明日まででまた暑い日が戻ってくるらしい。
食卓を飽きるほど賑わしてくれたゴーヤーも、その勢いにかげりが見え始めた。あおあおとした葉に黄化した部分が増え、茶色に変色して網棚からダラリと垂れ下がってしまった葉も増えている。あいかわらず雄花・雌花は咲き続けているがいるが、その数は減少傾向にあり、せっかく受粉しても成長する気配を見せずにそのまま朽ちてしまうものも多くなってきた。今年は紅葉する時期がかなり早まっている。
食卓を飽きるほど賑わしてくれたゴーヤーも、その勢いにかげりが見え始めた。あおあおとした葉に黄化した部分が増え、茶色に変色して網棚からダラリと垂れ下がってしまった葉も増えている。あいかわらず雄花・雌花は咲き続けているがいるが、その数は減少傾向にあり、せっかく受粉しても成長する気配を見せずにそのまま朽ちてしまうものも多くなってきた。今年は紅葉する時期がかなり早まっている。
posted by 里実福太朗 at 23:08| 里ふくろうの日乗
2013年08月25日
藤圭子さんの人柄を偲ばせる映像
藤圭子さんが西新宿のマンションから身を投げた日は、ちょうど私の誕生日の日だった。昨年、父親が亡くなった時の歳に並び、それから一年、父親にとって生きることのできなかった月日を重ねて、オヤジより一つ年上になった。そんな日に命を絶った人がいる。来年、またその日を迎えることができたなら、、きっとその人のことが思い出されてくるような気がする。
YOUTUBEで藤圭子さんの動画を探していたら、故人の人がらを偲ばせるような映像にたどり着いた。以下にリンクを設けておく。
〔面影平野〕 1978年
井上順が司会をしている番組に藤圭子さんが出演した時の映像。
北海道に住む祖母とスタジオで再会する場面がおさめられている。その、おばあさんのほほえましいキャラクターが心に残ります。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=fl4flamTTQ4
〔面影平野★宇崎チーム☆藤 圭子〕
宇崎竜童のバンドをバックにツナギ(?)を着て熱唱する藤圭子。隣には若き日の宇崎竜童さん、アンちゃんぶりが板についています。
ウタダヒカルが、『ユーチューブで見たかーちゃんかっこよかったのに、削除されてた』とつぶやいたとか、真偽のほどは分かりません。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=gplqmF8-498
〔乱れ髪〕
いつも直立不動に近い姿勢で歌うのに、珍しく振りをつけて歌う。歌い終わったあと、照れくさそうに小走りで逃げるように席に戻る様子がほほえましい。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=S52RHqEDAsU
YOUTUBEで藤圭子さんの動画を探していたら、故人の人がらを偲ばせるような映像にたどり着いた。以下にリンクを設けておく。
〔面影平野〕 1978年
井上順が司会をしている番組に藤圭子さんが出演した時の映像。
北海道に住む祖母とスタジオで再会する場面がおさめられている。その、おばあさんのほほえましいキャラクターが心に残ります。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=fl4flamTTQ4
〔面影平野★宇崎チーム☆藤 圭子〕
宇崎竜童のバンドをバックにツナギ(?)を着て熱唱する藤圭子。隣には若き日の宇崎竜童さん、アンちゃんぶりが板についています。
ウタダヒカルが、『ユーチューブで見たかーちゃんかっこよかったのに、削除されてた』とつぶやいたとか、真偽のほどは分かりません。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=gplqmF8-498
〔乱れ髪〕
いつも直立不動に近い姿勢で歌うのに、珍しく振りをつけて歌う。歌い終わったあと、照れくさそうに小走りで逃げるように席に戻る様子がほほえましい。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=S52RHqEDAsU
posted by 里実福太朗 at 01:00| 里ふくろうの日乗
2013年08月24日
岩合光昭写真展「ねこ」
日本橋に続き渋谷でも、岩合ねこが猫好きの人の心に笑顔を届けていた。
渋谷ヒカリエ9Fのヒカリエホールで開催されている岩合光昭写真展「ねこ」展(8月25日まで)は、日本橋三越で行われた時と同様かなりの人で混雑していたが、会場が広かったせいか、少し離れたところから、そして近づいて繰り返し観るゆとりがあって、岩合さんの猫ワールドを堪能することができた。
渋谷ヒカリエ9Fのヒカリエホールで開催されている岩合光昭写真展「ねこ」展(8月25日まで)は、日本橋三越で行われた時と同様かなりの人で混雑していたが、会場が広かったせいか、少し離れたところから、そして近づいて繰り返し観るゆとりがあって、岩合さんの猫ワールドを堪能することができた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年08月23日
船橋市ご当地ゆるキャラ「ふなっしー」
船橋駅近くの文具・生活雑貨の大型店に、ゆるキャラ・ご当地キャラグッズのコーナーが設けらている。一番広いスペースが割り当てられているのは、船橋のキャラクターであることはもちろんのことである。
船橋のキャラクターには二種類があって、一つは公認キャラの「船えもん」、もう一つは非公認の「ふなっしー」である。船橋市が公認している「船えもん」の人気がいまひとつで「ふなっしー」に及ばないことから分かるように、公認されているからといって優位に立てるわけではない。「ふなっしー」の人気の源は、立場の弱い方を応援しようという判官贔屓の心情にあるのかもしれないが、それだけではなくキャラクターの斬新さにもよるのだろう。
さてくだんのご当地キャラグッズコーナーで大々的に販売されていたのは、当然の成り行きとして「ふなっしー」の方だった。近ごろは猫グッズ意外のものにはあまり興味を示さないのだが、そのコーナーを一通り見て回ってから不覚にも二つ買い求めてしまった。
船橋のキャラクターには二種類があって、一つは公認キャラの「船えもん」、もう一つは非公認の「ふなっしー」である。船橋市が公認している「船えもん」の人気がいまひとつで「ふなっしー」に及ばないことから分かるように、公認されているからといって優位に立てるわけではない。「ふなっしー」の人気の源は、立場の弱い方を応援しようという判官贔屓の心情にあるのかもしれないが、それだけではなくキャラクターの斬新さにもよるのだろう。
さてくだんのご当地キャラグッズコーナーで大々的に販売されていたのは、当然の成り行きとして「ふなっしー」の方だった。近ごろは猫グッズ意外のものにはあまり興味を示さないのだが、そのコーナーを一通り見て回ってから不覚にも二つ買い求めてしまった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年08月22日
藤圭子さんを悼む
歌手の藤圭子さんが、マンション13階のベランダから転落して死亡したそうだ。午前7時頃のことで、飛び降り自殺ではないかとみられている。
【藤圭子さんが飛び降り自殺か 東京・新宿のマンションから転落死】
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130822/crm13082213100016-n1.htm
…msn・産経ニュース
今では宇多田ヒカルの母親と紹介されることの方が多いが、昭和44年に「新宿の女」でデビューして、翌年に「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたころのことを知っている者にとっては、藤圭子の娘が宇多田ヒカルなのである。
昭和44年・45年といえば、駆け出しのサラリーマンの時代で、川崎の小向工場でコンピュータのプログラム開発を担当していた。いわゆる高度経済成長第二期の中程にさしかかったころで、今のような閉塞感に覆われた社会情勢ではなかった。藤圭子が登場したのは、そんな時代を背景にしていた。
その時、藤圭子はまだ17・18歳で、幼さと鄙の雰囲気を漂わせていた。しかしそういう外見とはうらはらに、暗い色をたたえた瞳とドスのきいたハスキーボイスが、いかにも新鮮に響いたのだった。
作家の五木寛之さんが、亡くなった藤圭子さんに寄せたコメントが、朝日新聞デジタルに載っていた。
「藤圭子の衝撃、まちがいなく怨歌」五木寛之さん
http://www.asahi.com/culture/update/0822/TKY201308220390.html
…朝日新聞デジタル 2013年8月22日23時20分
「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」
そうだ、その当時、五木さんは藤圭子の歌を『怨歌』と評していた。この記事を読んで、そんな40年以上も前のことを思い出した。
昭和46年8月に出版された「ゴキブリの歌」は、五木寛之さんの「風に吹かれて」に次ぐ随筆集で、毎日新聞の日曜版に連載された文章をまとめたものである。その中に「艶歌と援歌と怨歌」と題された一文がある。
その一文は「演歌」の原義を説くことから始まり、仇花としての「艶歌」への共感、また「援歌」への嫌悪感が綴られる。そして最後の部分で藤圭子が登場するのである。その部分を少し引用してみよう。
『藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを買ってきて、夜中に聴いた。彼女はこのレコード一枚残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。…略…彼女のこのLPは、おそらくこの歌い手の生涯で最高の短いきらめきではないか、という気がした。』
そして少しおいて、藤圭子の歌を<艶歌>でも<援歌>でもなく、正真正銘の<怨歌>であると述べるくだりが続くのである。そして、藤圭子の行く末に不吉な予感を感じるのだった。
『だが、しかし、この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今この数ヶ月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の閃光であって、芸として繰り返し再生産し得るものではないからだ。彼女は酷使され、商品として成功し、やがてこのレコードの中にあるこの独特の暗く鋭い輝きを失うのではあるまいか。』
藤圭子さんのその後の人生をたどってみれば、五木さんの予感とは遠からずと言っても良さそうな生き方だった。突然引退を表明して歌手の道を捨ててアメリカに渡ってみたり、芸名を変えて芸能界に復帰したり、再びもとの藤圭子に戻したりと、出口の見えない迷い道に入り込んでしまったかのような人生を送っている。
しかし、実は進んで行く道は見えていたのかもしれない、五木さんが指摘した彼女の不吉な道が。目を瞑ってその道に入り込まないようにしたことが、結局迷い道にばかり入り込んでしまうことにつながったのかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=f9QsJo-j17c
〔圭子の夢は夜ひらく〜京都から博多まで〕youtube
http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM
1970年紅白 圭子の夢は夜ひらく 演奏 小野満とスイングビーバーズ
1972年紅白 京都から博多まで 演奏 ダン池田とニューブリード
【藤圭子さんが飛び降り自殺か 東京・新宿のマンションから転落死】
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130822/crm13082213100016-n1.htm
…msn・産経ニュース
今では宇多田ヒカルの母親と紹介されることの方が多いが、昭和44年に「新宿の女」でデビューして、翌年に「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたころのことを知っている者にとっては、藤圭子の娘が宇多田ヒカルなのである。
昭和44年・45年といえば、駆け出しのサラリーマンの時代で、川崎の小向工場でコンピュータのプログラム開発を担当していた。いわゆる高度経済成長第二期の中程にさしかかったころで、今のような閉塞感に覆われた社会情勢ではなかった。藤圭子が登場したのは、そんな時代を背景にしていた。
その時、藤圭子はまだ17・18歳で、幼さと鄙の雰囲気を漂わせていた。しかしそういう外見とはうらはらに、暗い色をたたえた瞳とドスのきいたハスキーボイスが、いかにも新鮮に響いたのだった。
作家の五木寛之さんが、亡くなった藤圭子さんに寄せたコメントが、朝日新聞デジタルに載っていた。
「藤圭子の衝撃、まちがいなく怨歌」五木寛之さん
http://www.asahi.com/culture/update/0822/TKY201308220390.html
…朝日新聞デジタル 2013年8月22日23時20分
「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」
そうだ、その当時、五木さんは藤圭子の歌を『怨歌』と評していた。この記事を読んで、そんな40年以上も前のことを思い出した。
昭和46年8月に出版された「ゴキブリの歌」は、五木寛之さんの「風に吹かれて」に次ぐ随筆集で、毎日新聞の日曜版に連載された文章をまとめたものである。その中に「艶歌と援歌と怨歌」と題された一文がある。
その一文は「演歌」の原義を説くことから始まり、仇花としての「艶歌」への共感、また「援歌」への嫌悪感が綴られる。そして最後の部分で藤圭子が登場するのである。その部分を少し引用してみよう。
『藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを買ってきて、夜中に聴いた。彼女はこのレコード一枚残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。…略…彼女のこのLPは、おそらくこの歌い手の生涯で最高の短いきらめきではないか、という気がした。』
そして少しおいて、藤圭子の歌を<艶歌>でも<援歌>でもなく、正真正銘の<怨歌>であると述べるくだりが続くのである。そして、藤圭子の行く末に不吉な予感を感じるのだった。
『だが、しかし、この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今この数ヶ月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の閃光であって、芸として繰り返し再生産し得るものではないからだ。彼女は酷使され、商品として成功し、やがてこのレコードの中にあるこの独特の暗く鋭い輝きを失うのではあるまいか。』
藤圭子さんのその後の人生をたどってみれば、五木さんの予感とは遠からずと言っても良さそうな生き方だった。突然引退を表明して歌手の道を捨ててアメリカに渡ってみたり、芸名を変えて芸能界に復帰したり、再びもとの藤圭子に戻したりと、出口の見えない迷い道に入り込んでしまったかのような人生を送っている。
しかし、実は進んで行く道は見えていたのかもしれない、五木さんが指摘した彼女の不吉な道が。目を瞑ってその道に入り込まないようにしたことが、結局迷い道にばかり入り込んでしまうことにつながったのかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=f9QsJo-j17c
〔圭子の夢は夜ひらく〜京都から博多まで〕youtube
http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM
1970年紅白 圭子の夢は夜ひらく 演奏 小野満とスイングビーバーズ
1972年紅白 京都から博多まで 演奏 ダン池田とニューブリード
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗