2007年03月26日

葬儀

昨日は、叔母の葬儀のため、甲府に行ってきた。身延線南甲府駅の葬儀場で、1時半から行われた。京成線で日暮里まで行き、JR山手線内回りで新宿まで行く。家を出たとき、雨は小ぶりだったが、新宿は土砂降りだった。

中央本線のホーム5・6番線は、いかにも遠い。10時過ぎには新宿駅に着いたのだが、自由席はホームの西の端の方だったこともあって、前日わざわざ教えたくれたアカイヌ王国からの情報通り、たどり着くまでかなり時間がかかった。

10時30分発のあずさ13号の乗客は、車両の半数程度だった。それでも立川駅、八王子駅に停車後は、7・8割の乗車率になった。

甲府へ行くときは車を利用することが多いので、電車を利用するのは久しぶりになる。車だと、首都高で渋滞に巻き込まれ、八王子手前あたりでまた渋滞、さらに談合坂あたりで渋滞となることが多い。電車では、もちろん渋滞などない。車窓に流れる風景をノンビリ眺めることもできる。眠くなれば、我慢などすることもなく、眠ってしまえばよい。列車の旅もいいものだ。

甲府は小雨だった。武田信玄公の銅像を見ようと思って駅前のロータリーに行ってみたが、広場の真ん中に銅像がない。あの大きな信玄公の銅像がなくなっている。まさか撤去されてしまったわけではないだろう、と思って探してみたところ、広場の西の端に移されていた。

次の身延線の電車は、41分待たなければならない。その間に昼食をとろうと思っていたが、あずさの車内でサンドイッチをたべたので、あまり空腹感は感じられない。そこで時間つぶしのため、駅ビルの本屋さん「改造社書店」に行ってみた。

山梨県関係の書籍コーナーに、「山梨の歌人たち」(中沢玉恵、山梨日日新聞社)という新書版の本があった。伊藤生更は載っているのだろうかと思い、手にとって目次を見ると、予想に違わず12名の歌人の中に入っていた。

さっそく購入して、帰りの車内で読んだ。経歴を説明している部分を以下に引用する。

『生更は、明治十七年(1884)、北巨摩郡穴山村(現韮崎市)に伊藤友重の長男基胤として生まれた。山梨師範学校卒業後、穴山小学校、師範付属小学校に勤務。その後甲府市に移り、大正二年には山城小学校校長となる。時に数え年三十。
……
 またその間、父友重の死を乗り越えて結婚、長男健一、長女千代子、次女ふじ子が誕生し、公私共に大きな出来事が数年間を彩った。』

「長女千代子」が私の母親、「次女ふじ子」はまだ健在であるが、高齢のため葬儀には息子二人が参列した。

『ところが、好事魔多しのたとえのごとく、数え年三十七でチフスに罹患、生死の境をさまよう。そのためにいったん視学を辞し、穴山村での農事に携わるが、大正十二年には師範学校の嘱託として教壇に戻った。その前年、次男基も誕生している。』

今回の葬儀は、次男基の夫人を弔うものだった。子どものころ、夏休みに帰省したときお世話になった。はりのある透きとおった声が思い起こされてくる。

生更に関する記述は、このあと齋藤茂吉への師事、主催した歌誌「美知思波」へと続くのだが、引用が長くなるので以上でとめておくことにする。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗