2008年01月31日

たまにはこういうことも

旧暦:12月23日
曇りのち晴れ。

体調がすぐれず、仕事帰りに道草はせずまっすぐ家に帰った。体の節々が痛く、右目・右肩も痛く、家に着くなりすぐ横になった。この症状にふるえが加われば、今までの経験からすると高熱が出るのだが、ふるえには襲われていない。

ウトウト・眠り・目覚めを繰り返しながら夜を迎えた。体の痛みは依然と続く。10時半頃、お粥を少々食す。食欲はなく、また横になりウトウト・眠り・目覚めを繰り返した。

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2008年01月30日

キジバト対スズメ

旧暦:12月22日
晴れのち曇り。久しぶりで寒さがゆるんだ。こういう暖かい日には、鳥もいつもより張りのある大きな声で鳴いているような気がする。

庭に下り、餌台にエサをまいて部屋に戻ろうとしたとき、電線にとまっていた一羽のスズメが飛び立っていった。今までも、エサをやる時はいつも、一羽のスズメが電線にとまってこちらを見ていた。

しばらくするとスズメの一団が飛んで来た。そしてキジバトもやって来た。まずキジバトが餌台の二階部分に飛び降りて、エサをついばみ始める。スズメたちは餌台近くの木の枝に群がってとまり、キジバトがエサを食べる様子をジッと見ている。

しかし中には我慢できないものもいて、餌台の一階部分に飛び降りてエサを食べようとした。するとキジバトが羽ばたきをして、そのスズメを追い払った。そして木の枝を見上げて、スズメたちをにらみつけた。それからしばらくの間、スズメたちは、早くエサにありつきたいとはやる気持ちを、ひたすらおさえ続けていた。

キジバトは一羽でゆうゆうとエサを食べ続け、ときどき顔をスズメたちの方に向けて、にらみをきかせていた。そんな状態がしばらく続いていたところ、今度は一羽だけでなく数羽が一緒に餌台の一階部分に飛び降りた。キジバトが羽音で威嚇しても、彼らはひるまずそのままエサを食べ続けた。そして枝にとどまっていた残りのスズメも、いっせいに餌台に飛び移った。

かくして、餌台の一階はスズメたちに占領された。キジバトはその後もエサを食べ続けていたが、好物のトウモロコシがなくなったのを機に、飛び去っていった。すぐに、二階部分もスズメたちで埋め尽くされた。

暖かいのも今日だけで、明日からはまた厳しい寒さに戻るそうだ。
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2008年01月29日

佐倉図書館

旧暦:12月22日
小雨。

これを書き始めたところで、「寒中御見舞い」を、また家まで持ち帰ったことに気づいた。実は、佐倉の街を図書館に向かって歩いているとき、なつかしい赤い円柱形のポストがあったが、雨に濡れてポツンと立っている姿を見ると、本当にこのポストに投函したハガキが、相手に届くだろうかと心配になって出すのを思いとどまったことがあった。人通りの少ない冷たい雨の降る街を歩いていると、なんとなく心もとない気分が心に染み透ってくる。

佐倉図書館は歳を重ねたこぢんまりとした図書館だった。目的はもちろん「地名用語語源辞典」を見ることにあった。先日、図書横断検索システムでさがしたとき、一冊だけ見つかった。わざわざ遠くの県立図書館まで行く必要がないと喜び、さっそく地元の図書館に行ったが、棚には見あたらなかった。図書の分類コードを照らし合わせながら背表紙を見ていくと、ちょうどその番号のところが一冊分空いていた。そのあたりの本には、「館内」のラベルが貼られている。たぶん誰かが利用しているのだろうと思い、いったん家に戻ることにした。

家々で夕食を食べ始める頃に、再び図書館に行ったが、「地名用語語源辞典」がおさまるべき空間は空いたままだった。念のため人少なになっている館内をめぐってみたが、それを使っていそうな人は見あたらなかった。

カウンターに行き、本の所在を尋ねてみると、夜間勤務のシニアの男性が、私が示した「書誌資料情報」の紙片を見て、
「この本は、佐倉の図書館のものですね、取り寄せましょうか」
と言った。確かにその紙片には、「佐倉」の文字が印字されていた。

あのポッカリ空いたあの本棚の一冊分の空間には、どんな本が入るのだろうか。そのすき間のせいで、地元の図書館にあるものと思いこみ、二度までも無駄足を運んでしまった。

佐倉の図書館に所蔵されていた「地名用語語源辞典」は、昭和58年初版のもので、定価は4800円だった。「参考」のラベルは貼ってあったが、「館内」のラベルは貼ってなかった。必要な項目だけコピーしようと思っていたが、借りることにした。

県立図書館には、図書の電子チェックシステムはなく、出入り口のところで、警備の人が簡単な荷物チェックを行う。地元の図書館は、チェックシステムがあるので、館内に大きな荷物を持ち込むことができる。館内への出入り口にはチェックのために、むき出しの電子ゲートがある。

佐倉図書館も、荷物の持ち込みは自由にできた。しかし電子ゲートが見あたらなかった。必ずあるはずなのだが、館内の雰囲気にそぐわないと判断して、目立たないような装飾を施してあるのだろうか。

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2008年01月28日

寒中見舞い

旧暦:12月21日
はっきりしない晴れ。日は出ているのだが、薄い雲がかかって陽射しが弱い。
また、幼い子をあずかることになった。外に行きたいというので、昼食後一休みしてから外出する。

○印旛沼のふるさと広場
○ユーカリが丘のモノレール「ボナ」に乗る
全区間一律料金で200円。半額になれば、乗客も増えるかもしれない。
○南公園

一月の中旬を過ぎて、勤務先でたまに顔を合わすことのあった方から、「寒中見舞い」をいただいた。昨年は賀状のやりとりがあったのだが、退職した今年は賀状は出さなかった。先方からもいただかなかった。

「賀状」ではなく「寒中見舞い」ということは、年賀を欠礼しなければならない事情があったのだろう。そんなふうに思うところだが、届いた寒中見舞いには、「わが家の祖母は、元気に新年を迎えました。」と記されていた。さらに97歳の足で二階の寝室にあがっていくとも書かれていた。

どうやら欠礼しなければならない事情はなさそうだった。賀状を出し忘れたということなのだろうか。舞い込んだ一枚の寒中見舞いが、いろいろと想像を広げてくれる。いろいろなことを思いながら、ご返事を書いた。先週の出勤日に、それを投函しようと思って、カバンに入れて家を出た。ところがすっかりそのことを忘れてしまって、家に帰ってカバンを開けたときに思い出した。

その後、外出のたびにカバンに入れておいたのだが、投函し忘れることを繰り返した。一度忘れると、忘れ癖がついてしまうものらしい。「寒中御見舞い」は立春の前日まで、その後は「余寒御見舞い」になるようだから、今ならまだ大丈夫だ。明日は忘れずに投函することにしよう。
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2008年01月27日

市民大学発表の打合せ

旧暦:12月20日
快晴。日中は風もなく、冷気にさえぎられることもなく陽光がふりそそいだ。

日曜日には珍しく、8時半ごろ起床。夫人には8時に起きると言っておいたので、目覚まし電話がちょうどその時刻に鳴ったが、10時までに公民館に行けばよいことを思うと、すぐに起きる気にはなれず、30分ほど床の中でグズグズしていた。

作成した発表用のスライドを映し、全体の流れの打合せを、公民館で10時から行う予定があった。5分の発表に、スライドが26枚になってしまった。単純に割り算をして、一枚あたり12秒程度になってしまう。これは至難の業、というよりは不可能と言った方がいいだろう。枚数が足りなくて水増しするよりは、多めに作っておいて、そこから絞り込んでいく方がよいに決まっているのだが、それにしても多くなりすぎた。

臨時の会合の参加者は、班長・発表者に加えてあと一人、班員10名のところ4名集まった。ガソリン高騰の折、できるだけ自転車を利用するようにしているのだが、今回は大荷物となったため車を使った。

〔持参したもの〕
○ノートパソコン一式
○ディスプレイ(多人数で画面を見ることを想定して、ノートパソコンにつなぎ外部ディスプレイとして利用するため)
○プレゼンデーション用USBマウス
○USB接続のポータブル・ハードディスク
○デジカメ(午後、未撮影の場所を撮影するため)
○コード類

説明用の台本の手直しに手間取り、時間を計りながらのリハーサルまではできなかった。昼頃には切り上げ荷物を家において、4人そろって「とんでん」に向かう。班長さんは新年会をしたいと言っていたが、結局は昼食会となった。

昼食後、他の二人とは別れて、班長さんに「六所明神」に連れて行ってもらう。国道から少し入り、小さな工場のような乱雑な場所の裏手に、小さなお宮がまつられていた。それでも誰かがお守りしているのだろう、こぎれいに整えられていた。

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2008年01月26日

予備用バッテリー

旧暦:12月19日
快晴。

HPから予備用のバッテリーが届く。納品予定は2月末だと思っていたが、思いもかけない速さだった。HPノートパソコンの冬モデルを購入後、外出先で使う機会が何回かあったが、バッテリーが3時間ほどしかもたないので、予備のバッテリーの必要性を感じていた。

メーカーによっては、ネットのダイレクト販売で、予備用のバッテリーを購入することができるところもある。ところがHPのホームページでさがしても、冬モデルのバッテリーが見つからなかった。仕方がないので、同じシリーズのノートパソコンなら使えるのではないかと安易に考え、注文書をファックスで送った。

その後、HPのサービスオーダーセンターから電話があり、注文したバッテリーは冬モデルでは使えないということがわかった。もし、ネットで注文したら、たぶんそのバッテリーが届けられたに違いない。わざわざ確認の電話はくれなかっただろう。ファックスでしか注文できないことに物足りなさを感じたこともあったが、逆にそれに助けられたのだから、アナログ的な方法も捨てたものではない。
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2008年01月25日

地名用語語源辞典

旧暦:12月16日
快晴。外は寒いが、室内に差し込む陽光は、冬のものとは思えないほどの暖かさをもたらしてくれる。

終日スライド作り。日曜日までに、ある程度作り上げて、班の人に見せなければならない。

昨日県立図書館で閲覧した「地名用語語源辞典」は、1983年に出版されている。もう古本の扱いになっているだろうと思って、「日本の古本屋」(http://www.kosho.or.jp/servlet/top)で検索してみたところ、一冊も見つからなかった。そこで、出版元の東京堂出版で調べてみたところ、まだ販売(税込み価格:6090円)されていた。(http://www.tokyodoshuppan.com/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-490-10176-7
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2008年01月24日

北風

旧暦:12月15日
晴れ。しかし強い北風の吹く寒い一日だった。ホームで電車を待つときは、太い柱の陰に隠れて、できるだけ風に当たらないようにしていた。そんなふうにして電車を待っていた時、ふと振り返ると、私の後に女の人が立っていた。

仕事帰りに、県立中央図書館に立ち寄った。閲覧した本は、以下の通り。
○本居宣長全集 第5巻 「地名字音転用例」
 本居宣長、筑摩書房
○大日本地名辞書 板東
 吉田東伍、冨山房
○古代地名語源辞典
 楠原佑介ほか編、東京堂出版
○地名用語語源辞典
 楠原佑介・溝手理太郎共編、東京堂出版

最後の「地名用語語源辞典」は、地名の元となった最小単位の基本語をまとめたもので、地名の由来を考える際、まず見当をつけてみるのに役立ちそうだ。

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2008年01月23日

動物流離譚

旧暦:12月14日
雨。都心では雪になったそうだが、佐倉では一日中冷たい雨が降り続いた。

予想通りにならないことなど、世の中にはたくさんあるのだから、いちいち目くじらを立てていれば身が持たない。心を平らに保って、事実をありのままに受け入れるより仕方がない。

映画「アース」は、その題名通り、地球を真正面から取り上げた映画だろうと思っていたが、実際にはいわゆる「動物もの」だった。主役は地球ではなくて、動物たちだった。動物を主役とする映画は、どうしてもストーリー展開が同じパターンになってしまいがちなのだが、この映画もやはりそこから抜け出ることはできなかった。

一時代前であれば、地の果て・空の果てまで、あるいは海の底までカメラを運んで撮影された映像を見て、驚嘆の声をあげるのであろうが、今はそういう貴重な映像も、テレビなどを通じて提供されることも多く、感動を与えるのが難しくなってしまった。

折口信夫が提唱した考え方に、「貴種流離譚」というものがある。高貴な人が、身をやつして諸国を放浪し、苦難の限り味わい、最後は栄光を手に入れる、こんなストーリーを持つ物語のことを言う。源氏物語がそういった物語の代表格であり、その物語での貴種はもちろん光源氏である。晩年は悲哀を味わうことになってしまうが、幼くして臣籍に降下し、不遇の時代を経たあと、栄華を極めるまでのストーリーは、折口信夫によれば、「貴種流離譚」の類型を踏んでいるということなのである。

動物を主人公とする物語にも、この「貴種流離譚」に類するストーリーの型がある。貴種という言葉が適当でないなら、「動物」流離譚と言ってもよいだろう。「アース」では、それはシロクマであり、ゾウであり、クジラであり、ツルなのである。

命をつなぐために、あるものは氷原を、あるものは草原を、あるものは海中を、そしてあるものは空中を流離していく。そして苦難を越えて喜びを手に入れる。しかし、例外が一つあった。その動物は、歯車の狂った地球の犠牲者となってしまう。

平日の午後の映画館は、20人を越える程度の観客数だった。私たちのように、「夫婦50割」を利用したと思われる二人連れが、何組か見受けられた。
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2008年01月22日

仕事帰りの待ち合わせ

旧暦:12月14日
晴れ。天気予報では、明日雪が降るそうだ。昨日は雪が降るという予報は見事にはずれたが、今回はどうだろうか。

昨日、パワーポイントで作ったスライドの試作版を「Impress」で開いてみたところ、かなり時間がかかったということを書いたが、呼び出したファイルを「Impress」の標準形式で保存してから、それをあらためて「Impress」で開いてみたところ、極端に時間がかかるということはなくなった。「Impress」でパワーポイントのファイルを開くときには、「Impress」のファイル形式に変換しなければならないのだから、時間がかかるのは当たり前のことだった。

近頃は床に入るのが、夜の2時前後になってしまった。その結果、朝起きるのが遅くなり、以前は6時前には起きていたのが、7時に起きるのもつらくなってきた。出勤日の火・木は睡眠不足の状態になるので、足りない分は行き帰りの電車の中で補うことになる。

帰りの電車の中では、すっかり寝入ってしまった。船橋を通過したことも、津田沼を通過したこともまったく分からなかった。
「しまった、乗り過ごした」
と思って突然目が覚めたのは、電車が今まさにホームにとまるというところだった。目を泳がせて、ホームの駅名表示板をさがしたところ、「ユーカリが丘」だった。時計を見ると、2時25分だった。

夫人との待ち合わせの時間は、2時30分にしてあった。仕事は午後1時までだが、その直前に問い合わせが入り、職場を出るのが少し遅れてしまった。しかし、神が降臨し給うたように、ユーカリが丘で奇跡的に目が覚め、約束の時間にかろうじて間に合いそうだった。「夫婦50割」を利用して、映画「アース」を観る予定になっていた。
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2008年01月21日

発表用スライド作成

旧暦:12月13日
薄曇り。結局雪は降らなかった。房総半島の南部では、少し降ったそうだ。

一日中スライドを作成することに時間を費やす。作成には、使い慣れたパワーポイントを使っているが、発表の時に持ち込む予定のノートパソコン(VISTA)には、インストールしていない。購入しようにも、マイクロソフトのオフィスは高価でなかなか手がでない。そこで、「オープンオフィス」の「Impress」を使おうと思っている。

パワーポイントで作ったスライドの試作版を「Impress」で開いてみたが、表示されるまでかなり時間がかかった。まずこの点を頭に入れておく必要がありそうだ。また、パワーポイントのワードアートで作成したタイトル文字の画質が、荒くなってしまう。あらためて「Impress」で作成しなければならないかもしれない。

なんとかパワーポイントを使わずにすませたい。「Impress」をすこし使い込んでみる必要がありそうだ。
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2008年01月20日

愛宕神社

旧暦:12月12日
薄曇り。天気予報では、夜に入って雪になるということだったが、12時を過ぎても、まだ降雪は見られない。
市民大学の発表の際に使うスライドをパワーポイントで作り始める。

午後買い物に出たついでに、前回見落とした千手院近くの愛宕神社を訪ねた。夫人はこの愛宕神社に、息子がまだ小学生だったころ、調べ物の宿題のために来たことがあったということだった。

千手院の駐車場に車を停め、字名「前畑」への入口の道を探すが、なかなか見つからず行きつ戻りつしていたが、最初に見当をつけて途中まで入ったものの、地元の人の家の庭に続くような感じの小道だったので引き返した、その小道をかまわず突き進んでいくと、畑の中に出て、それが尽きるところに小さな鳥居が見えた。

新しいしめ飾りで飾られた鳥居をくぐり、本殿にお参りをした。お餅・お米が備えられていた。本殿の背後は切り立った崖で、下には谷津田が見えた。南の方に目を転じると、木々の間から、ユーカリが丘のマンションが見えた。参道の脇に植えられた低木の下に、わずかではあるがまだ雪が残っていた。

台地状の土地を利用した畑があり、畑中の小道を進んで行き、行き着いた畑の際に神社があった。こういう場所に神社を配置するのは、小竹の御岳神社と同じだった。

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2008年01月19日

第13回市民大学とフクロウのことなど

旧暦:12月12日
晴れ。外は寒いけれども、日中陽光を受けるガラス戸の中では、ストーブはいらない。
市民大学第13回、「地域に生息する野鳥を探る」を聴講する。いよいよ残すところあと二回になってしまった。

今回は、日本野鳥の会のAさんによる、印旛沼周辺で見かける鳥についての講義だった。夫人が言うことには、もともとはこの話を聞きたくて市民大学に申し込んだということだが、今はもうそんなことはすっかり忘れて、地名調査にのめり込んでしまった。

講師のAさんは、小・中学校で鳥の話をなさっているということで、言葉使いもはっきりとして力強く、ときおりユーモアを交え、またパワーポイントによる説明も慣れたものだった。

スズメには悪いのだが、スズメなどは日本中どこにでもいるつまらない鳥だと思っていたが、近頃はそのスズメさえ減少しているそうである。スズメは人間に依存していて、人間がいなくなった土地には、スズメもいなくなるそうである。

そういうことであれば、我が家の「手作り二段式エサ台」にスズメがやってくることも、もっとありがたいことと思わなければならないのかもしれない。近頃は、上下二段になったエサ台の両方が、概算の見積もりで四五十羽ほどのスズメで埋め尽くされてしまう。扶養するのも楽ではない。

フクロウについての情報も、夫人がAさんから入手したが、世の中には悪い人がいて、野生のフクロウを捕まえて高く売り飛ばすということだから、うっかりこんなところに書くわけにもいかない。まあ、入手した情報をもとに、これからもフクロウさがしの旅は続く、ということだけにとどめておこう。

昨日山梨県庁で保護された哀れなフクロウのことを書いたところ、さっそくアカイヌ王国から、asahi.com の山梨県版に、それに関する記事が載っていることをメールで教えてくれた。

『けがのフクロウ 県庁玄関で保護 2008年01月19日』
http://mytown.asahi.com/yamanashi/news.php?k_id=20000000801190006
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2008年01月18日

成木と山梨県庁のフクロウ

 旧暦:12月11日
曇り。依然として寒い日が続く。
夕方になって、図書館に行き今日が期限の本のうち、3冊を返却する。残りの3冊は延長した。「古今佐倉真佐子」を新たに借りる。

図書館の入口に、「成木」(写真)と呼ばれるものが飾ってあった。枝に掛けられていた解説文は以下のようなものだった。

『成木とは、佐倉に伝わる昔からの風習で、栗や椿の木に紅白の餅やみかんを飾り、その年一年間の豊作や健康を願います。飾った餅は、「20日の風にあてるな」の言いならわしに従って、1月20日の朝に焼いて食べます。』

夕方のニュースにフクロウが登場した。山梨県の県庁に、フクロウが迷い込んだそうだ。右目が見えずエサをうまく捕れなくて、衰弱していたということだった。そのためか、簡単に捕まえられて保護された。

県庁といえば交通量の多いところに立地している。そんなところにフクロウが出没したのだ。県庁の近辺で、フクロウが生活するのに適した場所があるのだろうか。今度甲府に行ったときに、情報を収集する必要があるだろう。
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2008年01月17日

アンティクカフェ「さくら木」

旧暦:12月10日
晴れ。薄く降り積もった雪が、朝まで溶けずに残っていた。高架を走る電車から見る船橋の家並みは、屋根が雪で覆われていた。仕事帰りに、佐倉市役所に寄った。佐倉の町も、日陰にはかなり雪が残っていた。

佐倉市役所には、佐倉市の地図を買い求めるために行った。ホームページで調べたところ、「まちづくり計画課」という部署で販売しているということが分かった。以下の四種類の地図を購入した。

白地図…佐倉市全域、1/20000、平成18年3月発行
白地図NO.1…佐倉・根郷・和田地区、1/10000、平成19年8月
白地図NO.2…臼井・志津・千代田地区、同上
白地図NO.3…弥富地区、同上

実は、市役所に行く前に、佐倉図書館に行こうと思っていた。京成佐倉駅を出て、図書館に向かって歩いて行く途中で空腹をおぼえ、図書館を通りすぎて少し行った所に、「川瀬屋」というお蕎麦屋さんがあることを思い出し、腹ごしらえをする方が先だと、雪が残ってすべりやすくなっている道を注意深く歩いて川瀬屋に向かったが、すでに昼の部は終わり準備中になっていた。

仕方なく引き返しながら、いったんは空腹を我慢して図書館をのぞいてみようと思ったが、一度目覚めた腹の虫はおとなしくしてくれるはずもなく、昼食を求めて歩き続けても、適当な店はまったくない。昨年市民大学のメンバーで佐倉市内を散策したときは、大勢だったので感じなかったが、今にも崩れ落ちてしまいそうな古びた家の前を通ったり、すでに屋根が崩れ落ちてしまったまま放置されている家を見ながら一人で歩いていると、ひもじい思いも手伝って、わびしさがひしひしと迫ってきた。

市立美術館の近くまでやってきたとき、アンティクカフェ「さくら木」という店があることに気づいた。営業中という表示板が出ていた。長い間歩き回って、体も冷えてしまっていた。今日はまだ一杯のコーヒーも口にしていなかった。せめて温かいコーヒーでも飲もうと思い、立ち寄ることにした。なんとなく店全体がホコリに包まれているような感じが気になったが、アンティクカフェだから仕方ないだろうと思い直して、ドアを押した。

先客は一人、30歳代の男が携帯電話の画面に見入っていた。四人掛けのテーブルが四卓、室内の中央あたりの木箱に、マンガ・雑誌類が積み重ねられている。壁にはとまった古時計が掛けられ、周囲の壁に沿ってしつらえてある棚に、ホコリをかぶった金属製の花瓶が並べられていた。

調理場の奥から出てきた店主は、古ぼけたアンティクカフェにふさわしいと言えばふさわしい、白髪のまじった長いヒゲをたくわえた年老いた男だった。年は70歳ぐらいにはなっているかもしれない。

席に着くと、水を満たしたグラスを手にして注文をとりにきたが、そのゆっくりと歩を進める様子は、悠揚迫らざると言えば聞こえはいいが、単に歳のせいで動作が緩慢になっていたのだろう。それでも、下はジーンズ、上はジャケットできめていた。グラスを持った左手の薬指には、指輪がはめられていた。

ヒゲの老店主は、注文したブレンドコーヒーと桃山・チョコレートがそれぞれ1つずつ入った小さな器をテーブルに置き、か細い声で、
「ごゆっくり、どうぞ」
と言って、調理場の奥に姿を消した。

店内に流れている音楽は、60年代のアメリカンポップスだった。冷えた手をコーヒーカップであたため、ニール・セダカの「ダイアリー」、ジーン・ピットニーの「ルイジアナ・ママ」、ジョニー・バーネットの「ユア・シックスティーン」、そしてザ・プラターズの「オンリーユー」などに耳をかたむけ、高校のころを思い出しながら飲むコーヒーは意外においしかった。

posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年01月16日

初雪

旧暦:12月9日
晴れ・曇り、夜初雪

夜のニュースで、ほんの一瞬都心で雪が降ったと言っていたので、外に出てみたところ、白いものが降っていた。パラパラと庭の草木を打つ音がかすかに聞こえるので、霰あるい霙かもしれないと思って腕を差し出して受けとめてみた。部屋の灯りがもれる所に行き、指先で触ってみるとあっけなく溶けてしまった。雪なのか霰なのか、それとも霙なのか、結局判然としなかった。

仮に霰あるいは霰だったとすると、初雪と言えるのだろうか。そこで気象庁で調べてみると、次のような説明が載っていた。

『気象庁における初雪とは、寒候期(10月から3月まで)がきて初めて降る雪、みぞれでも良いとしています。』

これに従えば、霙なら初雪ということになる。それでは霰の場合はどうなのだろうか。その点については、はっきりとした記述がないので、霰の場合は雪に含めないということなのだろうか。しかしこういう分類は、専門家にとっては重要なことかもしれないが、まァ面倒なので初雪が降ったことにしておく。

ここまで書いて、もう一度庭に出てみたら、地面がうっすらと白くなっていた。自転車のサドルにも白いものがのっていた。
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2008年01月15日

佐倉の「レジェンド」

旧暦:12月8日
快晴
仕事帰りに、千葉の京成ローザ10で「アイ・アム・レジェンド」を見た。
昨年12月に公開されてからすでに一ヶ月ほど経っていたこと、平日の昼間ということもあったかもしれないが、観客は10人に満たなかった。

エンドロールが流れ始めると、スクリーン横のドアが開き、係りの男性がドアの前に立った。場内が明るくなる前に、観客は皆そのドアから出て行き、私一人になってしまった。それでも、長いエンドロールを観続けた。男も立ち続けている。際限もなく続きそうなエンドロールを映し続けるスクリーンを、たった一人で観続けた。そんなことは初めて経験することであった。もし私が席を立ったら、そこで上映を打ち切ったのだろうか。

場内が明るくなってから、男の立っているドアに向かった。すれ違うときに、男は一礼して「ありがとうございました」と言った。

主演の「ウィルスミス」が、昨年末来日したことは知っていたが、映画の内容についてはまったく予備知識がなかった。この映画を見たある人がつまらなかったと言っていた、ということを夫人から聞いて、はたして私もつまらないと思うだろうか、そんなことを確かめてみたくて、映画館に足を運んだのだった。

予備知識は持たずに観たのだったが、家に帰ってから調べてみた。
○原作はリチャード・マシスンの小説「I Am Legend」
○以前はハヤカワSFで「吸血鬼」というタイトルで発売されたが、今回の映画公開にあわせて復刊され、原題通り「アイ・アム・レジェンド」となった
○過去に二度映画化され、その時の邦題は、「地球最後の男」「地球最後の男オメガマン」

原作はSFホラー小説であった。得体の知れない病原菌に感染した人間がゾンビと化し、野生本能をむき出しにして主人公を襲う場面などは、恐怖映画以外の何ものでもなく、こわがりやの人は何度も目を背けたに違いない。

ただ、SFホラー映画と言い切ってしまうわけにもいかない。ほかの要素も含んだ作品になっているからだ。試みに全編を三つに分けてみると、次のようになる。
1.主人公がただ一人生き残り、孤独にさいなまれる部分
2.ゾンビと戦う場面
3.人類を救うために覚悟を決める部分

この三つの部分のどこに心がひきつけられたかによって、観客それぞれが抱く感想も変わってくるにちがいない。作り手の立場としては、どこに主眼を置いたのだろうか。単なるホラー映画にはしたくなかったのだろうと想像すれば、それは我が身を犠牲にして人類を救おうとする一番最後の部分であろう。

ただ、そういう作り手の気持ちとはうらはらに、その思い入れが強く伝わってこないのは、ゾンビと戦う場面で、あまりにも観客を驚かせすぎたせいかもしれない。主人公ははたして「レジェンド」になるのだろうか、そんな疑問が生じる。

それにしても重苦しい映画だった。帰りの電車の中でも、その重苦しさが尾を引いていた。映画の残像をきれぎれに思い浮かべながら、佐倉惣五郎のことを考えてみた。彼は「レジェンド」になったのだった。

posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年01月14日

「青戸庵」は生き残った

旧暦:12月7日
今日は一段と冷え込み、今季一番の寒さだったそうだ。
親の仕事の都合で、幼い子を一日預かることになった。10時過ぎに夫人が近くの公園に遊びに連れて行ったが、
「さむいさむい、はやくかえろう、かえろう」
と言い出したそうで、すぐ帰って来た。

幼い子の世話に追われ、夕食は出前を頼むことになった。昨日成人式を迎えた息子が、カツ丼・天丼の類を食べたいというので、新成人の希望を尊重して、久しぶりでソバ屋さんの「青戸庵」に注文することになった。

二十数年前、ここ佐倉に転居したころは、いま流の宅配サービスなどなく、昔ながらの出前だけだった。そして家の周辺で出前をしてくれるおソバ屋さんは、「青戸庵」ぐらいしかなかった。その後、お寿司・ピザ・釜飯などの宅配サービスが始まり、ふくろう街道(国道296号線)沿いにファミリーレストランが数を増やし、「青戸庵」に出前を頼むことはすっかりなくなってしまった。

幼い子を親の元に送り届けた帰り、ちょうど「青戸庵」の前にさしかかった時、バイクが出て行った。出前は7時半に届けてくれるように頼んであった。私の家に届けるのでは早すぎるが、バイクの走り去って行く方角が、私の家の方角だったのが気に掛かった。

家に着き車を車庫に入れたとき、バイクが門の前に止まった。青戸庵の出前だった。先ほどのバイクは、やはり私の家に届けるために店を出たのだった。以前はかなり年配の人が届けてくれたと記憶しているが、代替わりがあったのか、出前をしてくれたのは、四十代(たぶん)の若い人だった。

「青戸庵」の道路を隔てた向かいの角地は、新規開店してはすぐに閉店となり、次の店が営業を始めても長続きしないという状態が繰り返されてきた。ある時は美容室、次は花屋さん、そしてさらに次はリサイクルショップという具合に店の周期が短く、近頃はシャッターがおりたままになっている。

ふくろう街道沿いには、ファミリーレストランをはじめとする外食産業のお店、ホームセンター・車のディーラーなどがズラッと軒を並べているが、その栄枯盛衰は、鴨長明の時代とは比べものにならないほどの速さである。大型のホームセンターのあとには、すぐにインターネットカフェができ、書店が閉店してDVDのレンタルショップになるという具合に、若者受けのする店に取って代わられる。そういう栄枯盛衰の波に呑み込まれることなく、「青戸庵」は生き残っていた。

なお、「青戸庵」がある場所は、志津地区の「上志津」という地域に入る。小字名は「赤弥陀(あかみだ)」である。志津地区は地形地名が多いところであるが、この「赤弥陀」という珍しい小字名は、一見地形とはまったく関連性がないように思われる。しかし漢字は後から当てられることが多いので、地名の由来を考える場合には、「弥陀」という字に引きずられないようにした方がいいのかもしれない。
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2008年01月13日

北風吹く

旧暦:12月6日
午前中曇り、午後になって薄日がさしてきたが、強い北風が吹く。散策は中止。
成人式、臼井の音楽ホールで行われた式に息子も出かけた。式後、中学の時の先生を交えて祝賀会があるそうだ。

注文しておいた「手書き文字認識ソフトウェア airpenNOTE」が届いた。宅急便は午後来ることが多くて、買い物のため留守をしていることが多かったが、今日は午前中に届けてくれた。

「佐倉地名研究会資料」の必要箇所をスキャナで読み取る。使用したソフトウェアは「Paper Port」、紙ファイルを画像ファイルとして読み込み、分類整理するのに使っている。

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2008年01月12日

鷲神社と平将門

旧暦:12月5日
久しぶりの雨、予報通り寒い一日だった。

ショルダーバッグの中を整理していたら、鷲神社のパンフレットが出てきた。元日にお参りしたとき、本殿近くの郵便受けに似た形のボックスに入っていたものだった。バッグのポケットに入れたまま忘れてしまっていた。

そのパンフレットの表紙に目を通して、鷲神社の縁起について新たなことが分かった。それにふれる前に、まず境内に立っている佐倉市教育委員会作成の説明板の内容を再度確認しておこう。

鷲神社の開創は「佐倉風土記」によると「承平七年(九三七)七月七日慈恵僧正、朱雀帝の勅を奉じ、来りて此の神を祭る」とあります。
http://www.ne.jp/asahi/sakura/fukuro/syuhen/wasi/wasiyurai.html

『此の神』が記されていない上に、『此の神』を祭った理由が示してされていない。ところが、パンフレットには、次のように記されていた。

  祭神は天乃日鷲命(アメノヒワイノミコト)
『佐倉風土記』には一千余年前、朱雀帝の勅願によりて承平7年(937年)7月天台座主慈恵僧正が来てこの神を祭り、併せて行基の刻んだ釈迦像を安置し平将門の悪行を取り除いたとあります。
 又、3代将軍徳川家光より慶安2年(1649)10月17日に五石の御朱印を賜ったと記されています。

共に「佐倉風土記〔佐倉藩の磯辺昌言が享保7年(1722年)に編纂したもの)〕」に基づいた説明であるが、パンフレットの方には「平将門」の名前が出てくる。将門が朝敵となり討伐の兵を送られてしまうのは、939年のことだから2年のズレがある。しかしこの内容に従えば、鷲神社も平将門に関わってくることになるが、どうなのだろうか。

昨日、将門のことについて書いた。そして今日、たまたまバッグの中を整理して、忘れたままになっていたパンフレットの中に将門の名前を見つけた。偶然の成せる技かもしれないが、なにか因縁めいたものも感じられてくる。どちらにせよ、地名について調べ始めたことから、思いがけない展開を見せ始めた。将門さまが導いてくれたのかもしれない。こうなったからには、やはり平将門についても頭を突っ込んでみる必要がありそうだ。
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2008年01月11日

将門さま

旧暦:12月4日
午前中は晴れていたが、午後になって曇ってきた。この暖かさも今日までのようだ。
家居。遅い朝食にお汁粉を食する。小字地図の作成の続き。

一ヶ月に一度行われるパソコン研修会で、いつも顔を合わせるOさんとは、いつのまにかいろいろ言葉を交わすようになった。12月の研修会に参加し昼食を共にした際、何がきっかけだったのかは忘れたが、初詣のことが話題になった。

「近頃は、毎年地元の鷲神社という所にお参りしますね、以前は成田山に行ったこともありますが」
と言ったところ、Oさんは、
「こちらでは成田山に行くことは、絶対にありません」
ときっぱりと言った。
「どうしてですか」
「将門さまの敵だからです」

平将門は、今から1000年以上も前に、東国でいわゆる「平将門の乱」を起こし、朝敵として討伐されてしまった。その将門が登場したものだから、面食らってしまった。成田山がその将門の敵であるというのは、どういういきさつがあったからだろうか。残念ながら、その点について詳しいことは聞けなかった。

昨日勤め帰りに、また図書館に寄り、佐倉地名研究会がまとめた「城下町佐倉の地名と風土」(1986年)に目を通してみた。冒頭に、元佐倉市長の菊間健夫氏と谷川健一氏との対談が載っていた。その対談で、菊間元市長が興味深い話をしていた。その部分を引用してみる。

『もともと成田山というのは、将門を降伏させるために、不動尊を京都のほうから持ってきまして、一番始め公津原(こうづがはら)で(略)祈祷したんですね。その祈祷したおかげで、天慶三年か、将門がたちまち討ち死にしたといういわれがあるんです。』

『なにかお坊さんをこちらに派遣をしましてね、それで将門降伏の祈りをやったというんですが、それが成田山の始まりなんです。それで成田山は新勝寺という称号を賜ったいうんですね。ですから将門に関係のあるところは成田山にはお参りをしないといういわれが、下総にはかなりあるんです。成田山の前を通っても横むいて、あすこには絶対にお参りをしないという集落がかなりあるんです。東葛から茨城にかけまして』

それらの土地では、平将門だけには「さま」をつけて呼ぶそうである。佐倉も昔は「さま」をつけて呼んだのは二人だけだったそうである。「堀田さま」と「宗五郎さま」である。将門も為政者にとっては反逆者であっても、その土地の人びとにとっては敬意を込めて称する対象であったということだろう。

Oさんから頂いた名刺には、住所が茨城県と記されていた。佐倉市にも「将門」という地名があり、平将門との関連性が言われている。それにしても1000年以上も前の事件が今もって語り伝えられ、その土地に長年住み続けてきた人びとの心情に影響を与えているということは驚くべきことである。
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2008年01月10日

年賀ハガキの販売期間

旧暦:12月3日
今日もおだやかに晴れた。

もう年賀状は来ないだろうと思っていたのに、2枚届いた。夫人にも1枚届いたそうだ。今頃届く年賀状は、いつ頃投函したものなのだろうか。仮に年明けに書いて出したものだとしても、配達されるのがあまりにも遅すぎる。どうしてこのような遅配が起こるのだろうか。

先日追加購入した20枚は、もう買いきってしまった。1月も三分の一が過ぎてしまった今になっては、もう郵便局でも販売していないだろうと思ったが、夫人が行ってみたところ、18日まで販売していることが分かった。

テレビCMでは、「年明け年賀を書きませんか」ということばかりを伝えていたが、1月18日まで販売することも知らせるべきだった。
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2008年01月09日

天國の昼天丼

旧暦:12月2日
午前中は曇っていたが、午後には陽がさしてきた。

昨日わざわざ銀座に出たのは、「ITO-YA」で指示棒を購入するためだった。パソコンの操作手順を画面で説明するとき、注意はしていてもディスプレイの表面を指で触って汚してしまうことがある。それを避けるために、以前から手に入れたかったのだが、普通の文具店にはなかなか置いてない。

はたしてITO-YAにあるかどうか危ぶんだが、一階の案内コーナーでたずねたところ、たちどころに3Fにあることを教えてくれた。以前拡大鏡をさがして尋ねたときにも、すぐに教えてくれた。

数種類あったが、以下の二種類を購入した。
 KAIMEI POINTER(指示棒)
 …PO・2005(長さ 220ミリ〜1150ミリ)
 …ツヤ消しPO・2010

遅い昼食は、「銀座天國」でとることに決め、銀座八丁目まで歩いた。天國には、お昼時に手頃な値段で食べられる天丼があるはずだ。すでに二時をまわっていたので、ランチメニューが終わってしまっているかもしれないが、その場合はその場合でなんとかしようと思い、とりあえず中央通りを、新橋方面に向かって歩き始めた。平日というのに、広い歩道を人波が覆っていた。

ランチタイムは2時頃終わってしまうのが普通だが、「銀座天國」は11時30分から、なんと17時までだった。一階テーブル席フロアの「お昼のお献立」は、「お昼天丼」が消費税込みで1000円だった。

「天國」は、明治18年に小さな屋台として出発、天ぷらの「天」と創業者の露木國松の「國」を組み合わせて屋号としたそうだ。現在は銀座八丁目の角に大きなビルを構えている。

店内は、窓側のテーブルに、十分に歳を重ねた女性が3人ほど、それぞれ一人が一つのテーブルを占めて食事をしていた。私の後から入ってきた年の頃30半ばの男も、昼天丼を注文した。しばらくしてから入ってきた年の頃50程の男は、天ぷら盛り合わせとビールを注文した。

十分な量のご飯の上に、海老二尾・キス・かき揚げがのっていた。こりこりとした歯ごたえのイカのかき揚げもおいしかった。精算するときに、レジを勤めたのは、先程来老婆たちに挨拶していた50代半ばごろと思われる男性だった。
「お昼の時間がずいぶん長いんですね」
と声を掛けると、
「先代が、お昼は5時までとしましたので、それを守っているんです」
という答えが返ってきた。

店を出てから、「銀座柳の碑」を見て、「御門通り」を抜けて新橋駅へと向かった。
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2008年01月08日

焼豆大福

旧暦:12月1日
昨日は、旧暦で11月29日だった。今日からが12月、師走となる。
おだやかに晴れた暖かい日で、散歩にはうってつけな日和だった。

去年の12月27日以来の出勤日だった。いつもの通勤電車には、見慣れた顔があった。ただ素早い動きで、空いた席を確保するのが憎らしいほど上手だった女子高生の姿はなかった。勤務先への最寄り駅で、A氏とばったり出会った。彼は去年、私の送別会の取りまとめをしてくれた。退職後も職場で顔を合わせれば、「今度飲みに行こう」と声を掛けてくれるが、実現したのは一回だけだった。

彼は去年還暦を迎えた。いわゆる団塊の世代の一期生である。彼の話によると、去年の暮れにボーナスの明細を受け取るときに、肩をたたかれた人がいたそうだ。彼が声を掛けられたのかどうか、そこまで確かめるのはためらわれた。彼は今、家のローンをかかえているということだった。35年ローンで、やっと10年ほど払い終えたのだそうだ。定年まで勤めたとしても、あと20年間分のローンが残っている。それを考えると、定年までは頑張らなければならないと言っていた。

仕事を終えて、久しぶりで銀座方面に出た。田舎道を歩くこともおもしろいのだが、しばらく都会から遠ざかっていると、次第に雑踏の中に身を置くことが渇望されてくる。しかし実際にお上りさんになって、都会の人波に洗われているうちに、やはり都会は疲れる、早く佐倉に帰ろうと、後悔の念が沸々とわき起こってくるのも不思議なことだ。

東銀座で地上に出て、歌舞伎座の売店で「焼豆大福」なるものを見つけた。家へのお土産として何か買い求めようとして店に入ったのだが、吸い寄せられるようにその大福に目が向かった。商品を十二分に吟味してから購入することの多い私としては、珍しくまったく迷うことなく大福に手が伸びた。それは、墨文字で「焼豆大福」と記された白い紙に包まれていた。その質素な包装の仕方に、ひきつけられたのかもしれない。

その包装紙には、「焼豆大福の由来」が次のように記されていた。
『戦後の混乱時、復員した当時の店主が、豆大福を七輪であぶって「焼豆大福」として提供したところ、大評判を呼びました。この度、数十年ぶりに商品を復興、当時の味そのままに再現いたしました。』
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2008年01月07日

七草粥

旧暦:11月29日
午前中は曇り、午後になって雨が降り出した。

家居。
朝、夫人が用意してくれた七草粥を食する。
小字地図を見やすいものに修正するために、一日を費やす。
断腸亭日乗の代金を、インターネットを通して大学堂の口座に振り込む。

断腸亭日乗を、昭和14年の分から読み始めた。この年、永井荷風は61歳だった。この年の1月1日は、旧暦で11月11日となっていた。除夜の鐘を千束町の酒店で聞き、夜を通し新年の街で過ごし、隅田川の面の見えるところで、初日の出を迎えたと記されていた。荷風散人は60歳を越えても元気だ。
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2008年01月06日

井野地区散策そして断腸亭日乗

旧暦:11月28日
天気予報通り、おだやかに晴れた暖かい日だった。

午後、夫人の属する班の担当地区、井野地区を歩いた。出発地点のコミュニティセンターに着くと、建物の前にたくさんのエルダーたちが集まっていた。皆リュックを背負い、歩きやすい靴をはいていた。こんな大人数で、これから散策に出発するようだった。しばらくして、準備運動を始めた。私たちも少し離れたところで、ちゃっかり準備運動に参加させてもらった。

井野地区は、近頃急激に開発が進められ、昔の面影をとどめている所が減ってきた。しかし、千手院の南側あたりを歩いてみると、小竹あるいは先崎あたりと同じように昔ながらの農家の雰囲気が残っていた。

コミュニティセンター → 長割遺跡 → 庚申様 → 梵天塚 → 子の神神社 → 千手院 → 前畑(小字) → 向山(小字) → コミュニティセンター

二時間ほどの散策だった。愛宕神社は見落としてしまった。

注文しておいた「断腸亭日乗(全七冊、昭和55年、岩波書店)」が届いた。宅配便が4時頃来てくれたようだったが、その時はまだ外出中で受け取ることができなかった。再配達を依頼しておいたところ、夜の8時過ぎに届けてくれた。

「日本の古本屋」というサイトで、断腸亭日乗をさがしたところ、いろいろな値段のものが見つかった。その中で一番安かったのが、大学堂(名古屋)の6800円だった。定価で買えば、2万5千円ほどはする。箱に少し汚れがあるということだったが、本自体には問題ないということ、そして以前一度注文したことがあったので、そこに決めたのだった。

届いた段ボールを開けたところ、確かに箱の一つにわずかな傷があったが、それを除けばほぼ新刊同様の状態だった。岩波文庫版は摘録なので、どうしても選を行った人の考えで内容が左右されてしまう。やはり日記のすべてが収録されているものでなければ、永井荷風という作家の日常、そして彼が生きた時代を知ることはできない。
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2008年01月05日

予想に反して

旧暦:11月27日
午前中は寒い曇り空、午後になって日がさしてきた。
サッカー全国高校選手権の準々決勝が行われ、都立三鷹は残念ながら、藤枝東に敗れた。やはり力の差は歴然としていて、前半から藤枝東のペースで試合がはこばれた。後半になり、三鷹もここまで勝ち上がってきた力を見せたが、チャンスをものにすることができなかった。

天気予報によると、明日は暖かい日になるそうだ。暖かい日和になるのはうれしいが、明日の夜、「予想に反して」というような言葉を聞くことにならないようにと願う。

以前、あるお天気キャスターが、予報がはずれたとき、そのように言ったことがあった。「予想に反して」という言い方には、予想した方には非がなくて、天気の方が予報通りになってくれなかったという感じが伴う。つまり、「予想に反した」天気の方が悪いということになるのだ。

天候不順の原因をつくったのは人間なのに、悪者に仕立てられて、天気も迷惑なことだろう。
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2008年01月04日

都立三鷹、八強

旧暦:11月27日
今日もおだやかに晴れた。
世の中は仕事始めのところが多いのだろうが、私は8日(火)が仕事始め。

年賀ハガキを買うためにいつもより早めに起きた。念のため一番近い郵便局に問い合わせてみたところ、まだ販売しているということだった。すぐ、自転車をはしらせた。

高校サッカーで都立三鷹高校が勝ち進んでいる。今日も勝ち、8強に入った。かなり前のことになるが、高校野球では都立国立高校が甲子園に出場したことがあった。高校サッカーで都立高校が勝ち進むのは、初めてのことだそうである。三鷹といえば、私の生まれ育った吉祥寺の隣町、どこまで勝ち進めるか、今後の活躍を期待したい。
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2008年01月03日

年賀状が足りない

旧暦:11月26日
快晴、風もないおだやかな一日だった。
箱根駅伝の総合順位は、一位:駒澤大学、二位:早稲田大学、三位:中央学院大学だった。

大晦日から出歩いていたが、今日は一歩も外に出なかった。午後4時過ぎ、市民大学一班の班長さんから頂いたメールの返事を書いているとき、夫人が郵便ポストに入っていた地図とCD−ROMを持ってきてくれた。班長さんがわざわざ届けてくれたものだった。

メールには、今日・明日には地図・CD−ROMをポストに入れておく旨が書かれていた。わざわざ届けていただくのは悪いと思い、適当な場所でお会いしましょうと返事を書くつもりだったが、そのメールを出す前に届けいてしまった。

地図は、小竹・上座地区の住宅地図に小字地図を書き加えたもの、CD−ROMには班長さんが撮影した写真がおさめられていた。

年賀状が足りなくなった。もう退職したのだから賀状は少なくてすむだろうと思い、昨年の半分ほどを購入した。しかし、嘱託として勤めているからだろうか、予想した枚数以上の賀状が届いてしまった。昨日の夕方、近くのコンビニで年賀状をさがしてみたところ、絵入りのものはあったが、80円もするので、郵便局で売れ残っていることに望みをつなげ、買わずに店を出た。

郵便局に年賀状が残っているかどうか心配だったが、テレビで「年賀状販売中」のCMを流していることを夫人が教えてくれた。去年まではこんなCMは流していなかったが、民営化され郵便局株式会社になったことで、少しは商売気が出てきたということだろう。
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2008年01月02日

お正月と富士山

旧暦:11月24日

元日に続き今日も快晴、時折強い北風が吹き抜けたが、澄んだ青空が広がった。関東周辺各地の高所では、青空のもと白雪を冠した富士山がくっきりと見えたことであろう。

富士山を詠んだ歌としてまっさきに思い浮かぶのは、やはり山部赤人の次の歌である。

田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
(万葉集318)
この歌は、百人一首にもとられている。
田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ
(百人一首4)

このように万葉集とは語句の異同があり、その違いによって、両者が想起させるイメージには大きな違いが生じる。共に「青」という色は直接表現されてはいない。しかし、万葉集の歌の、『田子の浦ゆ』の「ゆ、『真白にぞ』、『降りける』という詠み方によって、青空の「青」と富士の冠雪の「白」という二つの色の対比が鮮明なイメージとなって思い浮かんでくる。

快晴のお正月に見える富士の姿は、万葉集に詠まれた富士のイメージに近いということなのであろう。

物心ついてからのことを思いだしてみると、正月三が日に雨の記憶はないが、実際にはどうだったのだろうか。試みに永井荷風の「断腸亭日乗」(岩波文庫、下)で確認してみたところ、圧倒的に晴れの日が多かった(「上・下」の両巻で確認するべきなのだろうが、すぐ目につくところには下巻しかなかった)。

二十歳のころまで住んでいた吉祥寺の住所は、転居するまでには「本町四丁目」となっていたが、古くは「富士見通」だった。そのあたりからも富士山が見えたことからつけられた地名であるとするのが、一番わかりやすい説明になるのだが、その一帯が小高い場所で特に富士山がよく見える場所ということでもなかったので、どうしてそこだけが「富士見通」となったのかよく分からない。

「吉祥寺」という地名は、もともとは水道橋にあった寺の名前からつけれれたのだそうだ。明暦の大火のあと、「吉祥寺」周辺に住んでいた人びとが移住して、その新開地を吉祥寺と名付けたとされている。

水道橋の近くには、富士見町という地名が現在もある。もと住んでいた土地を懐かしんで、それを移住先の地名に用いたのであれば、同じ命名の仕方で、「富士見」を移住先の吉祥寺の地名に用いたということも考えられないこともないが、きちんと調べたわけではないので確実なことは言えない。

富士山にちなんでつけられた「富士見」という地名は、いったいどの位あるのだろうかと思い、調べてみたところこんなページが見つかった。

「富士見地名一覧」
http://folomy.jp/fyamap/fujimichimei.htm

佐倉に近いところでは、以下の地名が載っている。
 流山市 富士見台    
 浦安市 富士見    
 八街市八街 北富士見   
 八街市大関 富士見台    
 四街道市大日 富士見ヶ丘

神奈川・山梨・長野・静岡などに多いのは当然のことながら、遠く長崎にも「富士見町」が存在する。もちろんのことほんとうの富士山は見えないが、上記「富士見地名一覧」によれば、『富士山型の金比羅山に由来』するらしい。
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2008年01月01日

鷲神社のお正月

旧暦:11月23日

昨夜から今日にかけて、鷲神社に3回も足を運んだ。

一度目は、夫人と共に二年参り。昨夜11時半ごろ家を出てお参りした。境内には明かりが点され、数人の男女が火を焚いて暖をとっていた。甘酒を二杯もすすめられ、ミカンを二ついただいた。井野の千手院から除夜の鐘が聞こえてくるころには、参拝の人びとが少しづつ増え、たき火の周りに二十人をこえる輪ができた。

帰りに千手院に寄ってみたところ、境内に長い行列ができていた。若い人たちが多かった。それは、除夜の鐘をつくための行列だった。

二度目は、正月行事を見るため。朝9時半ごろに家を出て、鷲神社に着いたときには、既に境内から太鼓・笛の音が聞こえてきた。鷲神社では、毎年正月に舞を奉納しているそうである。小さな子どもたちも練習のため、交替で小太鼓をたたいていた。

そのあと、佐倉市先崎消防団によって、出初め式が行われた。境内に消防自動車がとめられていたのは、そののためだった。軽トラックの荷台に乗っていた水の満ちたタンクに御神酒を入れ、それが消防自動車のホースから、社殿の横にそびえる大樹めがけて放水された。

三度目は、午後アカイヌ王国の国王夫人と共にお参りした。午前中の賑わいは既に去り、境内はひっそりと落ち着いた雰囲気を取り戻していた。そのあと、小竹の四社大神、さらに井野の八社大神に参拝した。

なお、鷲神社で行事を仕切っていた男性にお話をうかがったところ、今年は三年に一度の大祭が十一月に行われるそうである。今日はその練習も兼ねているということだった。
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