旧暦;2月24日
雨・はれ。昨日からの雨が、お昼過ぎまで残った。
月曜日になると、翌日の出勤日の予定を考えることが、この一年間の習慣となっていた。さて明日仕事が終わったあと、どうしようか、築地を散策しようか、映画鑑賞にするか、リニューアルした歴博にも行ってみなければならないな、と考え始めたとき、明日はもう行く必要はないのだということを思い出した。
一年間の嘱託勤務だったけれども、一週間の内、火・木の二日間は勤めモードになるように、いつの間にか体がそういうリズムに慣らされてしまっていた。そういうリズムから解放されるのは、いつのことになるのだろうか。無意識的に勤めに出ることを思い、思い出しては打ち消すことを、しばらくは繰り返すのだろう。
電子レンジが使い物にならなくなってしまった。小雨になったころ、16号線沿いの量販店「ミドリ」に新しいものを買いに行ったのだが、「3月31日で完全閉店」という貼り紙がしてあった。店内に入ってみると、閉店セールスで最後まで売れ残った商品が、わずかばかりあるだけだった。電子レンジは、近くのヤマダ電機で購入した。
2008年03月31日
平成19年度最後の日
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月30日
第一回市民大学同窓会
旧暦;2月23日
くもり・雨
天候がどうも思わしくなかったが、午後1時から上座公園で、第1回市民大学同窓会が行われた。夫人は、どうも風邪がすっきりしないので欠席。集合場所は、ユーカリが丘駅。飲み物・食べ物・敷物は各自で持参。
少し早めに家を出て、駅前のスーパーで、ビールとおつまみを購入後、駅の改札口に向かう。最終的に集まったのは、私を含めて11人だった。クラスの人数が40人だから、四分の一ほどの参加人数だが、まあこんなところだろう。
公園の近くに住む人が、朝ブルーシートを敷いて、場所取りをしておいてくれた。桜はまだ五分咲きという程度だった。
班ごとに活動することが多かったので、ほかの班の人のことは良く分からない。そこで自己紹介をすることになったのだが、全員の紹介が終わる前に、雨がぽつりぽつりと降り始めた。次回の会合は、3ヶ月後の6月頃ということを決めて解散した。
くもり・雨
天候がどうも思わしくなかったが、午後1時から上座公園で、第1回市民大学同窓会が行われた。夫人は、どうも風邪がすっきりしないので欠席。集合場所は、ユーカリが丘駅。飲み物・食べ物・敷物は各自で持参。
少し早めに家を出て、駅前のスーパーで、ビールとおつまみを購入後、駅の改札口に向かう。最終的に集まったのは、私を含めて11人だった。クラスの人数が40人だから、四分の一ほどの参加人数だが、まあこんなところだろう。
公園の近くに住む人が、朝ブルーシートを敷いて、場所取りをしておいてくれた。桜はまだ五分咲きという程度だった。
班ごとに活動することが多かったので、ほかの班の人のことは良く分からない。そこで自己紹介をすることになったのだが、全員の紹介が終わる前に、雨がぽつりぽつりと降り始めた。次回の会合は、3ヶ月後の6月頃ということを決めて解散した。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月29日
一気に別世界
旧暦;2月22日
はれ・くもり
旅行から帰ってから三日間、ずっと外出していなかった。その間気象情報では、毎日、大量の花粉が飛ぶことを伝えていた。そういうことを知ってしまうと、花粉が充満している外界の様子が頭に浮かんできては離れなくなり、そら恐ろしい気持ちさえ生じてくる。外出しなかったのは、ホームページ作りに没頭していたことにもよるが、心の中に充満する花粉が躊躇させたと言ってもよいのだろう。
先日、桜の開花状況を確かめるために佐倉城址公園に行った帰り、いつも利用するセルフサービスのガソリンスタンドに立ち寄った。公園を歩いているときは何ともなかったのだが、車に戻ってから、クシャミ・鼻水がとまらなくなり、その状態がガソリンスタンドまで続いていた。
給油を始めると、その状態はさらに悪化した。ハンカチで鼻水を拭き取ろうとしたのだが、ここに到るまで車内で使い続け、かなり水分を含んでしまったので、車の中に置いてきてしまった。給油を途中でやめるのは良くない、というような注意書きがあったので、ホースを握る手を離すこともできない。
拭き取ることもできない鼻水を、どう処理したらよいのか。しかしもう打つ手はなくなった。水のように粘り気を失った鼻水は、タラタラとしたたり落ちて、コンクリートに黒いシミを作り始めた。そのシミをみている内に、洗車までする気力は失せていった。
その時のつらかった気持ちも、この三日間の内にだいぶ薄れてきて、今日、近くのホームセンターに鳥のエサなどを買い求めに行った。途中、桜並木のある道路を走ると、すでに桜は見頃になっていた。家に籠もっていた三日の間に、外には別世界が広がっていた。これほど一気に風景が変わってしまうということは、一年中でもこの今の季節だけにちがいない。
家に帰ってから、クシャミ・鼻水が出始めた。佐倉城址公園に行った時ほどではないが、夕刻までその状態が続いた。横になって少し仮眠をとったら、いくぶん楽になった。
はれ・くもり
旅行から帰ってから三日間、ずっと外出していなかった。その間気象情報では、毎日、大量の花粉が飛ぶことを伝えていた。そういうことを知ってしまうと、花粉が充満している外界の様子が頭に浮かんできては離れなくなり、そら恐ろしい気持ちさえ生じてくる。外出しなかったのは、ホームページ作りに没頭していたことにもよるが、心の中に充満する花粉が躊躇させたと言ってもよいのだろう。
先日、桜の開花状況を確かめるために佐倉城址公園に行った帰り、いつも利用するセルフサービスのガソリンスタンドに立ち寄った。公園を歩いているときは何ともなかったのだが、車に戻ってから、クシャミ・鼻水がとまらなくなり、その状態がガソリンスタンドまで続いていた。
給油を始めると、その状態はさらに悪化した。ハンカチで鼻水を拭き取ろうとしたのだが、ここに到るまで車内で使い続け、かなり水分を含んでしまったので、車の中に置いてきてしまった。給油を途中でやめるのは良くない、というような注意書きがあったので、ホースを握る手を離すこともできない。
拭き取ることもできない鼻水を、どう処理したらよいのか。しかしもう打つ手はなくなった。水のように粘り気を失った鼻水は、タラタラとしたたり落ちて、コンクリートに黒いシミを作り始めた。そのシミをみている内に、洗車までする気力は失せていった。
その時のつらかった気持ちも、この三日間の内にだいぶ薄れてきて、今日、近くのホームセンターに鳥のエサなどを買い求めに行った。途中、桜並木のある道路を走ると、すでに桜は見頃になっていた。家に籠もっていた三日の間に、外には別世界が広がっていた。これほど一気に風景が変わってしまうということは、一年中でもこの今の季節だけにちがいない。
家に帰ってから、クシャミ・鼻水が出始めた。佐倉城址公園に行った時ほどではないが、夕刻までその状態が続いた。横になって少し仮眠をとったら、いくぶん楽になった。
posted by 里実福太朗 at 23:57| 里ふくろうの日乗
2008年03月28日
にわか雨
旧暦;2月21日
はれ・くもり・雨
午後3時過ぎ、パソコンに向かっているとき、カミナリの音が聞こえるなと思っていたところ、
「里実さ〜ん…?????」
と叫ぶ声が聞こえてきた。名前が呼ばれているのは分かるのだが、その後が聞き取れない。座ったまま聞き耳をたてていると、
「里実さ〜ん、里実さ〜ん…?????」
と、いっそう大きく張り上げた声が聞こえた。
隣家で何か差し迫った事件が発生したのかと思い、とりあえず「はーい、はーい」と大声で返事をしながら居間に走り、戸を開け、隣家の庭に目をやると、洗濯物の間から、隣の奥さんがこちらを凝視していた。それで、ピントきた。それを指摘される前に、
「わかりました。ありがとうございました」
と、まず礼を言うと、奥さんは用件を言わずに家の中に消えていった。
隣の奥さんは、雨が降ってきたことを知らせてくれたのだった。洗濯物の間から顔が見えた時点で、「洗濯物が濡れますよ」ということを教えてくれているのだということに気づいた。だから、まず礼を言ったのだった。
夫人は外出する際、雨の降りそうな気配がある時は、雨が降ったら洗濯物を取り込むようにと指示していくのだが、今日はそれがなかった。予報では、雨が降り出すのは夕刻となっていたからかもしれない。
ともかくも、洗濯物を取り込むことができたのは、大いなる手柄であるに違いない。隣の奥さんに注意されて取り込んだのではなく、自分で気づいて取り込んだことにしておくのがよさそうだ。
はれ・くもり・雨
午後3時過ぎ、パソコンに向かっているとき、カミナリの音が聞こえるなと思っていたところ、
「里実さ〜ん…?????」
と叫ぶ声が聞こえてきた。名前が呼ばれているのは分かるのだが、その後が聞き取れない。座ったまま聞き耳をたてていると、
「里実さ〜ん、里実さ〜ん…?????」
と、いっそう大きく張り上げた声が聞こえた。
隣家で何か差し迫った事件が発生したのかと思い、とりあえず「はーい、はーい」と大声で返事をしながら居間に走り、戸を開け、隣家の庭に目をやると、洗濯物の間から、隣の奥さんがこちらを凝視していた。それで、ピントきた。それを指摘される前に、
「わかりました。ありがとうございました」
と、まず礼を言うと、奥さんは用件を言わずに家の中に消えていった。
隣の奥さんは、雨が降ってきたことを知らせてくれたのだった。洗濯物の間から顔が見えた時点で、「洗濯物が濡れますよ」ということを教えてくれているのだということに気づいた。だから、まず礼を言ったのだった。
夫人は外出する際、雨の降りそうな気配がある時は、雨が降ったら洗濯物を取り込むようにと指示していくのだが、今日はそれがなかった。予報では、雨が降り出すのは夕刻となっていたからかもしれない。
ともかくも、洗濯物を取り込むことができたのは、大いなる手柄であるに違いない。隣の奥さんに注意されて取り込んだのではなく、自分で気づいて取り込んだことにしておくのがよさそうだ。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月27日
「ふくろう共和国」の手直し
旧暦;2月20日
はれ
旅行に行く前から、「ふくろう共和国」の手直しに取りかかった。今日も一日中、その手直しに時間をとられてしまった。旅行中の三日間、23日から25日のブログに穴があいてしまい、それを埋めようとは思っているのだが、なかなかそれに取りかかることができない。
「ふくろう共和国」は、初めて作ったホームページだった。その時は「ホームぺージビルダー」を使ったが、今回はXHTMLとCSSを用いることにした。従って作成用のソフトウェアとしては、エディターがあれば用は足りる。
エディターは、フリーウェアーの「NoEditor」を使っている。このエディターには、「Html編集モード」があり、基本的なタグはツールボタンをクリックすれば、そのタグが自動的に挿入される。こういう便利な機能があっても、エディターだけでページを作るのはなかなか面倒なことで、アップするまでにはもう少し時間がかかりそうだ。
はれ
旅行に行く前から、「ふくろう共和国」の手直しに取りかかった。今日も一日中、その手直しに時間をとられてしまった。旅行中の三日間、23日から25日のブログに穴があいてしまい、それを埋めようとは思っているのだが、なかなかそれに取りかかることができない。
「ふくろう共和国」は、初めて作ったホームページだった。その時は「ホームぺージビルダー」を使ったが、今回はXHTMLとCSSを用いることにした。従って作成用のソフトウェアとしては、エディターがあれば用は足りる。
エディターは、フリーウェアーの「NoEditor」を使っている。このエディターには、「Html編集モード」があり、基本的なタグはツールボタンをクリックすれば、そのタグが自動的に挿入される。こういう便利な機能があっても、エディターだけでページを作るのはなかなか面倒なことで、アップするまでにはもう少し時間がかかりそうだ。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月26日
身も心も満腹
旧暦;2月19日
はれ
今回は墓参が主目的だったが、せっかく山梨に行くのだからということで、すこし足をのばして韮崎のペンションで2泊することにした。八ヶ岳方面には、毎年のように出かけていたが、いつも韮崎は素通りしていたので、初めて訪れることになった。
ペンション「ガストホフ ビスタポイント」は、夫人がいろいろ調べて見つけ出してくれた。茅ヶ岳南麓に位置して、南に富士山がそびえ、西に鳳凰三山を望む。さらに顔を右に回すと、甲斐駒ヶ岳が目に入ってくる。
北の方より駒鳳凰農鳥と我が目を移す雪の高山
伊藤生更
祖父が詠み、甲府の愛宕山中腹の歌碑に刻まれている歌の通りに、雪の高山が連なっている、その見事な景色を「ビスタポイント」から眺望できる。この眺望が、このペンションを、「ビスタポイント」と名付けた所以であるということも頷ける。
この景色は、銀河鉄道公園でも、新府の桃源郷でも、韮崎駅前の平和観音像でも、あるいは「シャトレーゼ ベルフォーレ ワイナリー」でも目の前に広がっていた。工夫を加えた和食中心の夕食とこのすばらしい眺望が、身と心を満たしてくれた三日間だった。
はれ
今回は墓参が主目的だったが、せっかく山梨に行くのだからということで、すこし足をのばして韮崎のペンションで2泊することにした。八ヶ岳方面には、毎年のように出かけていたが、いつも韮崎は素通りしていたので、初めて訪れることになった。
ペンション「ガストホフ ビスタポイント」は、夫人がいろいろ調べて見つけ出してくれた。茅ヶ岳南麓に位置して、南に富士山がそびえ、西に鳳凰三山を望む。さらに顔を右に回すと、甲斐駒ヶ岳が目に入ってくる。
北の方より駒鳳凰農鳥と我が目を移す雪の高山
伊藤生更
祖父が詠み、甲府の愛宕山中腹の歌碑に刻まれている歌の通りに、雪の高山が連なっている、その見事な景色を「ビスタポイント」から眺望できる。この眺望が、このペンションを、「ビスタポイント」と名付けた所以であるということも頷ける。
この景色は、銀河鉄道公園でも、新府の桃源郷でも、韮崎駅前の平和観音像でも、あるいは「シャトレーゼ ベルフォーレ ワイナリー」でも目の前に広がっていた。工夫を加えた和食中心の夕食とこのすばらしい眺望が、身と心を満たしてくれた三日間だった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月23日
墓参
旧暦:2月16日
はれ・くもり
10時頃家を出た。いつも通り両国料金所あたりで渋滞したが、その後は順調に高速道を走った。中央道を昭和インターで下り、甲府市内に入る。春のお彼岸の最後の日ということで、菩提寺には墓参の人の姿がチラホラと見えた。墓前には、真新しい花が供えられていた。だれがお参りしてくれたのだろうか。
父親は60歳を過ぎても現役を続け、66歳で力尽きた。主催していた歌誌「雪炎」追悼号に載っている年譜を見ると、亡くなる前年の昭和42年12月7日に、駿河台日大病院に入院している。そして退院する日を迎えることなく、退職という区切りを経ることもなく生涯を終えることになった。今思えば、父親が生きた道をなぞるように生きてきた部分もあったが、これからは父親が通らなかった道を歩いていくことになる。
菩提寺からは、舞鶴城公園の脇を通り甲府駅の北口に出て、そこから6号線に入り韮崎を目指した。途中「龍地」あたりの三叉路で6号線と別れ、616号線を北上した。地図があれば場所の確認ができるのだが、山梨県の地図を持ってくるのを忘れてしまった。
ただひたすら道なりに進んで行くと、農産物加工施設で何やら作業している人がいたので、車をおりて誰とはなしに声を掛けたところ、上下赤のジャージを着て、髪の一部を茶色に染めたこわもてのおじさんが近寄ってきた。ペンション周辺の略図を見せたところ、私の手からその地図を奪い取って、
「この地図は、こういう向きで見るんだ」
とかなり強引な口調で言うので、無駄口をたたかず頷いていると、道順を詳しく教えてくれた。
教えられたとおりに進んで行き、車がやっと通れるほどの狭い道に入り、道幅に対しては広すぎる排水用の溝に落ちないよう注意しつつハンドルを切っていくと、やっとペンション「ビスタポイント」の建物が見える所にたどり着いた。駐車場の南側、遙かかなたの曇り空の中に、薄墨色の富士山がそびえ立っていた。
はれ・くもり
10時頃家を出た。いつも通り両国料金所あたりで渋滞したが、その後は順調に高速道を走った。中央道を昭和インターで下り、甲府市内に入る。春のお彼岸の最後の日ということで、菩提寺には墓参の人の姿がチラホラと見えた。墓前には、真新しい花が供えられていた。だれがお参りしてくれたのだろうか。
父親は60歳を過ぎても現役を続け、66歳で力尽きた。主催していた歌誌「雪炎」追悼号に載っている年譜を見ると、亡くなる前年の昭和42年12月7日に、駿河台日大病院に入院している。そして退院する日を迎えることなく、退職という区切りを経ることもなく生涯を終えることになった。今思えば、父親が生きた道をなぞるように生きてきた部分もあったが、これからは父親が通らなかった道を歩いていくことになる。
菩提寺からは、舞鶴城公園の脇を通り甲府駅の北口に出て、そこから6号線に入り韮崎を目指した。途中「龍地」あたりの三叉路で6号線と別れ、616号線を北上した。地図があれば場所の確認ができるのだが、山梨県の地図を持ってくるのを忘れてしまった。
ただひたすら道なりに進んで行くと、農産物加工施設で何やら作業している人がいたので、車をおりて誰とはなしに声を掛けたところ、上下赤のジャージを着て、髪の一部を茶色に染めたこわもてのおじさんが近寄ってきた。ペンション周辺の略図を見せたところ、私の手からその地図を奪い取って、
「この地図は、こういう向きで見るんだ」
とかなり強引な口調で言うので、無駄口をたたかず頷いていると、道順を詳しく教えてくれた。
教えられたとおりに進んで行き、車がやっと通れるほどの狭い道に入り、道幅に対しては広すぎる排水用の溝に落ちないよう注意しつつハンドルを切っていくと、やっとペンション「ビスタポイント」の建物が見える所にたどり着いた。駐車場の南側、遙かかなたの曇り空の中に、薄墨色の富士山がそびえ立っていた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月22日
花の季節の前に
旧暦:2月15日
快晴
東京では、今日桜の開花宣言が出た。ここ佐倉地方でもそろそろ咲き始めているかもしれないと思い、桜の開花状態を確かめるために、午後、歴史民俗博物館のある佐倉城址公園に行ってみた。
「今日のフォト」にも載せておいたが、花が開いているものは一輪もなかった。良く陽の当たる場所では、つぼみが半ばほど開いているものもあったが、咲き始めるにはもう少し日数を要する状態だった。
明日から、小旅行に出かける。目的地は、両親の生まれ故郷の山梨である。4月に入れば桃の花も咲き、桃源郷の様相を呈してきて、花見には格好の季節になるのであろうが、3月中に墓参して、区切りをつけておきたいという気持ちがあったので、花の季節を待たずに出発することにした。
運が良ければ、花のはしりを見られるかもしれないと思っていたが、今日の城址公園の状態では、それも望み薄の感じがしてきた。宿は眺望の開けたところに立地しているということだから、まだ白雪を頂いているに違いない甲斐の山々を眺めてくることにする。
快晴
東京では、今日桜の開花宣言が出た。ここ佐倉地方でもそろそろ咲き始めているかもしれないと思い、桜の開花状態を確かめるために、午後、歴史民俗博物館のある佐倉城址公園に行ってみた。
「今日のフォト」にも載せておいたが、花が開いているものは一輪もなかった。良く陽の当たる場所では、つぼみが半ばほど開いているものもあったが、咲き始めるにはもう少し日数を要する状態だった。
明日から、小旅行に出かける。目的地は、両親の生まれ故郷の山梨である。4月に入れば桃の花も咲き、桃源郷の様相を呈してきて、花見には格好の季節になるのであろうが、3月中に墓参して、区切りをつけておきたいという気持ちがあったので、花の季節を待たずに出発することにした。
運が良ければ、花のはしりを見られるかもしれないと思っていたが、今日の城址公園の状態では、それも望み薄の感じがしてきた。宿は眺望の開けたところに立地しているということだから、まだ白雪を頂いているに違いない甲斐の山々を眺めてくることにする。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月21日
捨てることの愉悦
旧暦:2月14日
くもり
荷物を引き取りに行くため、9時頃に家を出た。勤務先に車で行くのは、久しぶりのことだ。東関東自動車道から京葉道路へと乗り継いで、市川インターでおりた。京葉道路の渋滞はほとんどなかったが、市川インターをおりてからすこし渋滞に巻き込まれ、着いたのは10時半ごろだった。
まだ未整理のファイルがあるのだが、必要の有無を判断して分別する時間的余裕はない。手当たり次第段ボール箱に移し、分別は家ですることにした。その結果、最終的に運ばなければならない段ボール箱は、8つになってしまった。
その中の一つの箱の中には、クリアーファイルだけがギッシリと詰まっている。もちろんそのクリアーファイルには、さまざまな文書がはさまれていたのだが、その多くはゴミ袋に捨ててしまった。
勤めていたときには、それらの文書ファイルは、なかなか捨てることができなかった。そのうちひょっとして必要になることもあるかもしれないと思い、後生大事に持ち続けているうちに、どんどん膨れあがっていった。ところが退職ということになって、それらの文書ファイルは、ほとんどがゴミ同然のモノと化してしまった。勤めていればこそ、それらのファイルは存在価値があったのだった。
作成した文書をクリアーファイルにとじて整理するために、多くの時間を費やした。それに反して、存在意義を失った文書を、クリアーファイルから抜き出して捨てることの何と簡単なことか。抜き出しては捨て、抜き出しては捨てることの繰り返し、半ば無意識的に行われるその反復作業の何と気持ちよいことか。捨てることは、なんとも言えない開放感をもたらしてくれた。
多大な労力を要する文書整理の作業は、それらが無用の長物となり果てたあと、捨てることの愉悦を味わうための前提として課せられているのかもしれない。
くもり
荷物を引き取りに行くため、9時頃に家を出た。勤務先に車で行くのは、久しぶりのことだ。東関東自動車道から京葉道路へと乗り継いで、市川インターでおりた。京葉道路の渋滞はほとんどなかったが、市川インターをおりてからすこし渋滞に巻き込まれ、着いたのは10時半ごろだった。
まだ未整理のファイルがあるのだが、必要の有無を判断して分別する時間的余裕はない。手当たり次第段ボール箱に移し、分別は家ですることにした。その結果、最終的に運ばなければならない段ボール箱は、8つになってしまった。
その中の一つの箱の中には、クリアーファイルだけがギッシリと詰まっている。もちろんそのクリアーファイルには、さまざまな文書がはさまれていたのだが、その多くはゴミ袋に捨ててしまった。
勤めていたときには、それらの文書ファイルは、なかなか捨てることができなかった。そのうちひょっとして必要になることもあるかもしれないと思い、後生大事に持ち続けているうちに、どんどん膨れあがっていった。ところが退職ということになって、それらの文書ファイルは、ほとんどがゴミ同然のモノと化してしまった。勤めていればこそ、それらのファイルは存在価値があったのだった。
作成した文書をクリアーファイルにとじて整理するために、多くの時間を費やした。それに反して、存在意義を失った文書を、クリアーファイルから抜き出して捨てることの何と簡単なことか。抜き出しては捨て、抜き出しては捨てることの繰り返し、半ば無意識的に行われるその反復作業の何と気持ちよいことか。捨てることは、なんとも言えない開放感をもたらしてくれた。
多大な労力を要する文書整理の作業は、それらが無用の長物となり果てたあと、捨てることの愉悦を味わうための前提として課せられているのかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月20日
三寒四温
旧暦:2月13日
春分の日。一日中、冷たい雨が降る。
気象情報では、真冬並みの寒さとコメントしていた。いくら何でも真冬並みとは言い過ぎであるが、たしかに昨日までに比べると格段に寒い。冬から春に移り変わる季節は、「三寒四温」と言われ、寒さと暖かさが周期的に繰り返すものであるが、今年はそれがない。それとも、これからそういう状態になるのだろうか。
なお、「三寒四温」と言う言葉は、もともと中国で使われていたもので、日本に持ち込まれてからは、本来の意味とは違った意味(上記の意味)で使われるようになったらしい。
パリーグが開幕した。千葉マリーンズは、札幌に遠征して「ファイターズ」と戦い、小林投手も良く投げたが、ダルビッシュ投手を打ち崩すことができず惜敗した。
それにしても開幕戦だというのに、中継するテレビ局がまったくない。見落としたのかもしれないと思って、新聞のテレビ欄を何回も確かめたが、ないことにかわりはなかった。地方局が中継している試合はわずかながらあったが、千葉マリーンズ戦はどこでも中継していなかった。どの局も同じような魅力に欠ける番組ばかりで、これでは本当にテレビ放送は衰退すると言わざるをえない。
春分の日。一日中、冷たい雨が降る。
気象情報では、真冬並みの寒さとコメントしていた。いくら何でも真冬並みとは言い過ぎであるが、たしかに昨日までに比べると格段に寒い。冬から春に移り変わる季節は、「三寒四温」と言われ、寒さと暖かさが周期的に繰り返すものであるが、今年はそれがない。それとも、これからそういう状態になるのだろうか。
なお、「三寒四温」と言う言葉は、もともと中国で使われていたもので、日本に持ち込まれてからは、本来の意味とは違った意味(上記の意味)で使われるようになったらしい。
パリーグが開幕した。千葉マリーンズは、札幌に遠征して「ファイターズ」と戦い、小林投手も良く投げたが、ダルビッシュ投手を打ち崩すことができず惜敗した。
それにしても開幕戦だというのに、中継するテレビ局がまったくない。見落としたのかもしれないと思って、新聞のテレビ欄を何回も確かめたが、ないことにかわりはなかった。地方局が中継している試合はわずかながらあったが、千葉マリーンズ戦はどこでも中継していなかった。どの局も同じような魅力に欠ける番組ばかりで、これでは本当にテレビ放送は衰退すると言わざるをえない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月19日
在りし日の「王様の木」の写真
旧暦:2月11日
はれ、夜に入り雨
「ふくろう共和国」の修正をすることにした。「里ふくろうコム」のサブページとして位置づけたので、内容の面で統一性を欠いてきたためだ。とりあえず新たな内容は追加せず、一部は「里ふくろうコム」のトップページにリンクを設け、不要なページは削除する予定である。
「ふくろう共和国」内の「ふくろう風土記」に、「王様の木」というページがある。以前このブログに書いたこともあるが、子どもたちがカブトムシを捕まえたその木が、宅地造成のために根元あたりで切られてしまい、往時の姿が失われてしまった。
伐採される前の四季折々の姿を捕らえた「王様の木」の写真が、そのページに載っている。「王様の木」が失われた今になっては、貴重な写真になるかもしれない。「王様の木」の周辺では、今まさに大規模開発が行われている。地名の由来を考える際、重要な役割を果たす地形が、急速に失われている。「王様の木」の周辺を、もっと広範囲にわたって撮影しておくべきだったと思っても、もう取り返しがつかない。
王様の木
http://www.ne.jp/asahi/sakura/fukuro/syuhen/osama/osamanoki.htm
はれ、夜に入り雨
「ふくろう共和国」の修正をすることにした。「里ふくろうコム」のサブページとして位置づけたので、内容の面で統一性を欠いてきたためだ。とりあえず新たな内容は追加せず、一部は「里ふくろうコム」のトップページにリンクを設け、不要なページは削除する予定である。
「ふくろう共和国」内の「ふくろう風土記」に、「王様の木」というページがある。以前このブログに書いたこともあるが、子どもたちがカブトムシを捕まえたその木が、宅地造成のために根元あたりで切られてしまい、往時の姿が失われてしまった。
伐採される前の四季折々の姿を捕らえた「王様の木」の写真が、そのページに載っている。「王様の木」が失われた今になっては、貴重な写真になるかもしれない。「王様の木」の周辺では、今まさに大規模開発が行われている。地名の由来を考える際、重要な役割を果たす地形が、急速に失われている。「王様の木」の周辺を、もっと広範囲にわたって撮影しておくべきだったと思っても、もう取り返しがつかない。
王様の木
http://www.ne.jp/asahi/sakura/fukuro/syuhen/osama/osamanoki.htm
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月18日
最後の出勤日
旧暦:2月10日
はれ
最後の出勤日は、ひたすら書類を整理することに追われた。そのかいあって、と言いたいところだが、書類というものは、後から後から際限なく出てくるようである。これですべて終わったなと思いながら一休みしていると、部屋の隅に置かれている段ボール箱が目に入ってきて、ヤレヤレと思いながら中を確かめてみると、書類がギッシリと入っている。こんなことが何回かあった。
あと一息というところまでたどり着いた時には、もう3時を過ぎていた。段ボール箱を家に持ち帰るために、金曜日は車で行くことを予定している。残りは金曜日に片付けることにして、打ち切ることにした。
金曜日は残りの片付けと、段ボール箱の運搬を行うだけである。本来の出勤日ではないので、家を出る時間も適当でよい。片付けが終わったら、いよいよこの職場ともお別れだな、と感慨にふけってみるのもいいかもしれない。
はれ
最後の出勤日は、ひたすら書類を整理することに追われた。そのかいあって、と言いたいところだが、書類というものは、後から後から際限なく出てくるようである。これですべて終わったなと思いながら一休みしていると、部屋の隅に置かれている段ボール箱が目に入ってきて、ヤレヤレと思いながら中を確かめてみると、書類がギッシリと入っている。こんなことが何回かあった。
あと一息というところまでたどり着いた時には、もう3時を過ぎていた。段ボール箱を家に持ち帰るために、金曜日は車で行くことを予定している。残りは金曜日に片付けることにして、打ち切ることにした。
金曜日は残りの片付けと、段ボール箱の運搬を行うだけである。本来の出勤日ではないので、家を出る時間も適当でよい。片付けが終わったら、いよいよこの職場ともお別れだな、と感慨にふけってみるのもいいかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月17日
「シャリーン♪」が聞こえればチャージ終了
旧暦:2月9日
はれ、家居。昨日は花粉がかなり舞ったらしい。上座公園にいるときから、クシャミ・鼻水さらに目のかゆみに苦しめられ、夜になってもいっこうに直らなかった。今日はほとんど家にいたこともあり、三重苦に悩むことはなかった。
夕方、ホームセンターに行く途中で、新しくできたファミリーマートに立ち寄り、Edyのチャージをした。今さらことわるまでもないが、Edyはプリペイドカードの一種である。あらかじめEdy対応のカードに適当な金額をチャージしておき、コンビニなどで会計をする際、読み取り機にカードをタッチすれば、自動的に支払いが行われる。支払いが簡便化されると同時に、サイフがおつりの小銭でふくれあがることも避けられる。
そういった理由もあって、しばらく前から、街歩きに疲れて一休みする時、カフェ「PRONTO」のカードを使っていた。プリペイドカードの便利さに加えて、飲み物が10パーセントの割引になるので、自ずと利用することが多かった。
最近何かのきっかけがあって、「Honda C-CARD」にEdy機能がついているのに気がついた。そのカードは、以前車を購入したときに取得したのだが、ほとんど使うことがなかった。せっかくだからこの際使ってみようと思い立ち、コンビニに立ち寄ったのだった。
チャージは、すでに「PRONTO」で数回行ったことがあるので、要領は分かっていた。レジでチャージを申し出ればよいのである。ファミリーマートでも同じ方式だった。
「Edyのチャージをしたいんですが」
と店員さんに告げ、チャージする金額を渡した。
「どうぞ」
と言われ、目の前にあるディスプレイを見ると、四角い枠の中に、『Edyを「シャリーン♪」となるまでタッチ願います』と表示されていた。そこでレジ横にある読み取り機にカードをタッチしようと思って、そちらに視線を向けると、「iD」の文字が記されていた。Edy用の読み取り機ではないなと素早く判断して、視線をディスプレイの画面に戻した。
もう一度『Edyを「シャリーン♪」となるまでタッチ願います』という表示を確かめてから、カードをディスプレイの画面にタッチしてみた。私のようにコンピュータに使い慣れた人間は、タッチパネル方式のディスプレイなどは、もう何度となく使ったことがある。だから、そのディスプレイについても、タッチすることで情報を読み取る機能を持っているのだろうと予想することなど、容易なことなのである。
しかしタッチしても、画面に変化は起こらない。「シャリーン♪」という音も聞こえてこない。接触時間が短いのかなと思い、四角い枠の中からはみ出さないように注意して、少し長めにタッチすることを2〜3回繰り返したが、やはり同じであった。しばらくして、店員さんがこんなふうに言った。
「こちらにタッチして下さい」
店員さんが指し示しているのは、先ほどみた「iD」と記されている読み取り機だった。もう一度それを注意深く見直してみたところ、「Edy」の文字も記されていた。
はれ、家居。昨日は花粉がかなり舞ったらしい。上座公園にいるときから、クシャミ・鼻水さらに目のかゆみに苦しめられ、夜になってもいっこうに直らなかった。今日はほとんど家にいたこともあり、三重苦に悩むことはなかった。
夕方、ホームセンターに行く途中で、新しくできたファミリーマートに立ち寄り、Edyのチャージをした。今さらことわるまでもないが、Edyはプリペイドカードの一種である。あらかじめEdy対応のカードに適当な金額をチャージしておき、コンビニなどで会計をする際、読み取り機にカードをタッチすれば、自動的に支払いが行われる。支払いが簡便化されると同時に、サイフがおつりの小銭でふくれあがることも避けられる。
そういった理由もあって、しばらく前から、街歩きに疲れて一休みする時、カフェ「PRONTO」のカードを使っていた。プリペイドカードの便利さに加えて、飲み物が10パーセントの割引になるので、自ずと利用することが多かった。
最近何かのきっかけがあって、「Honda C-CARD」にEdy機能がついているのに気がついた。そのカードは、以前車を購入したときに取得したのだが、ほとんど使うことがなかった。せっかくだからこの際使ってみようと思い立ち、コンビニに立ち寄ったのだった。
チャージは、すでに「PRONTO」で数回行ったことがあるので、要領は分かっていた。レジでチャージを申し出ればよいのである。ファミリーマートでも同じ方式だった。
「Edyのチャージをしたいんですが」
と店員さんに告げ、チャージする金額を渡した。
「どうぞ」
と言われ、目の前にあるディスプレイを見ると、四角い枠の中に、『Edyを「シャリーン♪」となるまでタッチ願います』と表示されていた。そこでレジ横にある読み取り機にカードをタッチしようと思って、そちらに視線を向けると、「iD」の文字が記されていた。Edy用の読み取り機ではないなと素早く判断して、視線をディスプレイの画面に戻した。
もう一度『Edyを「シャリーン♪」となるまでタッチ願います』という表示を確かめてから、カードをディスプレイの画面にタッチしてみた。私のようにコンピュータに使い慣れた人間は、タッチパネル方式のディスプレイなどは、もう何度となく使ったことがある。だから、そのディスプレイについても、タッチすることで情報を読み取る機能を持っているのだろうと予想することなど、容易なことなのである。
しかしタッチしても、画面に変化は起こらない。「シャリーン♪」という音も聞こえてこない。接触時間が短いのかなと思い、四角い枠の中からはみ出さないように注意して、少し長めにタッチすることを2〜3回繰り返したが、やはり同じであった。しばらくして、店員さんがこんなふうに言った。
「こちらにタッチして下さい」
店員さんが指し示しているのは、先ほどみた「iD」と記されている読み取り機だった。もう一度それを注意深く見直してみたところ、「Edy」の文字も記されていた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月16日
上座公園
旧暦:2月9日
はれ
幼い子を連れて、久しぶりで上座公園に行ってきた。昨年、市民大学でこの地区の散策を行った際、上座公園に立ち寄ったことがあったが、その時は時間も短く、公園の様子を細かく確かめることはできなかった。
自分たちの子どもが、今日連れてきた幼い子と同じ年ごろの時に、この公園をよく利用した。もう20年以上も前のことになる。その時、レジャーシートを広げた芝生広場には、今も同じ景色がひろがっていた。ただ違っていたことは、桜の幹が太くなっていることだった。
私たちがまだ若かったころ、桜の樹も若く、花見の季節には、まだ華やかさを感じることはなかった。幹の太さから想像すると、今はもう一人前になって、さくら色に飾り立てた姿を見せてくれそうである。今月の下旬に、市民大学の同窓会が、お花見を兼ねてここで行われる。
はれ
幼い子を連れて、久しぶりで上座公園に行ってきた。昨年、市民大学でこの地区の散策を行った際、上座公園に立ち寄ったことがあったが、その時は時間も短く、公園の様子を細かく確かめることはできなかった。
自分たちの子どもが、今日連れてきた幼い子と同じ年ごろの時に、この公園をよく利用した。もう20年以上も前のことになる。その時、レジャーシートを広げた芝生広場には、今も同じ景色がひろがっていた。ただ違っていたことは、桜の幹が太くなっていることだった。
私たちがまだ若かったころ、桜の樹も若く、花見の季節には、まだ華やかさを感じることはなかった。幹の太さから想像すると、今はもう一人前になって、さくら色に飾り立てた姿を見せてくれそうである。今月の下旬に、市民大学の同窓会が、お花見を兼ねてここで行われる。
2008年03月15日
黒木投手引退セレモニー
旧暦:2月8日
はれ
マリーンスタジアムで、黒木投手の引退セレモニーが行われた。球場は3万人もの観客で埋まったという。プロ13年間の投手生活に終止符を打った。肩を故障して33歳という若さで引退せざるを得なくなったのは、ほんとうに残念なことであった。一球一球に全身全霊を込めて投げる姿が記憶に残るが、そういう投球スタイルが投手生命を縮めてしまったのかもしれない。
シドニーオリンピックで投げたのが2000年、次の年に右肩を痛め、出場選手登録を抹消されてしまう。そしてこの時から右肩の痛みをかかえながら、選手生活を送ることになる。
千葉マリーンズには、18連敗という不名誉な記録がある。その17連敗目が、黒木投手だった。1998年7月7日の七夕の夜、3対1で9回2死を迎え、あと一人で長い長い連敗を抜け出せるところまでたどりついた。カウントは2−1、黒木投手が投じた直球は、誰もが予想しなかったことを招いた。打ち返された打球は、同点ホームランとなってしまったのである。黒木投手はその場に崩れ落ち、そしてマウンドをおりた。試合は延長戦に入り、12回に満塁ホームランをあびて17連敗が確定した。
千葉マリーンズの開幕戦は、3月20日(木)に行われる。いよいよ今年も野球シーズンが到来する。
はれ
マリーンスタジアムで、黒木投手の引退セレモニーが行われた。球場は3万人もの観客で埋まったという。プロ13年間の投手生活に終止符を打った。肩を故障して33歳という若さで引退せざるを得なくなったのは、ほんとうに残念なことであった。一球一球に全身全霊を込めて投げる姿が記憶に残るが、そういう投球スタイルが投手生命を縮めてしまったのかもしれない。
シドニーオリンピックで投げたのが2000年、次の年に右肩を痛め、出場選手登録を抹消されてしまう。そしてこの時から右肩の痛みをかかえながら、選手生活を送ることになる。
千葉マリーンズには、18連敗という不名誉な記録がある。その17連敗目が、黒木投手だった。1998年7月7日の七夕の夜、3対1で9回2死を迎え、あと一人で長い長い連敗を抜け出せるところまでたどりついた。カウントは2−1、黒木投手が投じた直球は、誰もが予想しなかったことを招いた。打ち返された打球は、同点ホームランとなってしまったのである。黒木投手はその場に崩れ落ち、そしてマウンドをおりた。試合は延長戦に入り、12回に満塁ホームランをあびて17連敗が確定した。
千葉マリーンズの開幕戦は、3月20日(木)に行われる。いよいよ今年も野球シーズンが到来する。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月14日
虫出しのカミナリ
旧暦:2月7日
はれ、夜に入って、激しい雷雨となった。
春雷は、いうまでもなく春の季語である。関連する季語に、「春の雷(らい)・初雷・虫出しの雷・虫出し」というものもある。「虫出しの雷・虫だし」は、あまりにも激しい雷雨で、子どもが驚くだけでなく、腹の中にいるムシまでがビックリして体の外に出てくる意かと思ったが、そうではなかった。啓蟄のころの雷のことを言うそうだ。
下町は雨になりけり春の雷
正岡子規
「下町は雨になりけり」には、どことなくノンビリとした下町の風情がただよう。地面を強くたたく雨ではなくて、こぬか雨のような春雨なのだろうか。分かりやすい言葉を使った平易な句のように思われるが、喚起されるイメージは豊かで、光と音、そして暖かみと湿り気を含んだ空気まで伝わってくる。
暦の上では、とっくに春になっているのだが、春雷は春の実質的な到来を告げてくれる。
はれ、夜に入って、激しい雷雨となった。
春雷は、いうまでもなく春の季語である。関連する季語に、「春の雷(らい)・初雷・虫出しの雷・虫出し」というものもある。「虫出しの雷・虫だし」は、あまりにも激しい雷雨で、子どもが驚くだけでなく、腹の中にいるムシまでがビックリして体の外に出てくる意かと思ったが、そうではなかった。啓蟄のころの雷のことを言うそうだ。
下町は雨になりけり春の雷
正岡子規
「下町は雨になりけり」には、どことなくノンビリとした下町の風情がただよう。地面を強くたたく雨ではなくて、こぬか雨のような春雨なのだろうか。分かりやすい言葉を使った平易な句のように思われるが、喚起されるイメージは豊かで、光と音、そして暖かみと湿り気を含んだ空気まで伝わってくる。
暦の上では、とっくに春になっているのだが、春雷は春の実質的な到来を告げてくれる。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月13日
3月は別れの季節
旧暦:2月6日
はれ
勤務終了時間の午後1時を過ぎても整理したのだが、なかなかはかどらなかった。勤務日は来週いっぱいというところまできたが、来週の木曜日は20日・春分の日で、休日となってしまう。ということは、来週火曜日だけということになる。片付けが終わるかどうか、微妙なところである。
今日、本年度退職者の送別会が予定されていたようだ。昨年の退職者は、私を含めて3人だった。そのうちの2人は、65歳の定年退職者だった。今年は、今までに耳に入って来た情報によると、人数は6人、その人数にもれがなければ、定年退職者は1人だけである。
昨年私が退職するとき、ネットワーク関係の仕事を引き継いでくれた人も退職する。1年間嘱託として勤めることになったのは、その人に業務内容を伝え、仕事に習熟してもらうためだった。しかしその彼が辞めて郷里に帰るという。この1年間が無駄になってしまったという気がしないでもない。
先日来年度の人事が発表されて、彼の後任も決まった。彼がその後任の人と仕事の引き継ぎをするのが本来の流れなのだが、私の方にもお鉢が回ってきて、何回か仕事内容の説明を行った。いささか言い訳めいて聞こえるかもしれないが、そういうことにも時間をとられて、片付けの方がはかどらなかったのである。
はれ
勤務終了時間の午後1時を過ぎても整理したのだが、なかなかはかどらなかった。勤務日は来週いっぱいというところまできたが、来週の木曜日は20日・春分の日で、休日となってしまう。ということは、来週火曜日だけということになる。片付けが終わるかどうか、微妙なところである。
今日、本年度退職者の送別会が予定されていたようだ。昨年の退職者は、私を含めて3人だった。そのうちの2人は、65歳の定年退職者だった。今年は、今までに耳に入って来た情報によると、人数は6人、その人数にもれがなければ、定年退職者は1人だけである。
昨年私が退職するとき、ネットワーク関係の仕事を引き継いでくれた人も退職する。1年間嘱託として勤めることになったのは、その人に業務内容を伝え、仕事に習熟してもらうためだった。しかしその彼が辞めて郷里に帰るという。この1年間が無駄になってしまったという気がしないでもない。
先日来年度の人事が発表されて、彼の後任も決まった。彼がその後任の人と仕事の引き継ぎをするのが本来の流れなのだが、私の方にもお鉢が回ってきて、何回か仕事内容の説明を行った。いささか言い訳めいて聞こえるかもしれないが、そういうことにも時間をとられて、片付けの方がはかどらなかったのである。
posted by 里実福太朗 at 23:54| 里ふくろうの日乗
2008年03月12日
整理法再考
旧暦:2月5日
はれ
家居、机まわりに乱雑に積み重ねられていた書類の整理に着手する。「着手」という表現は大げさかもしれないが、そのくらいの気合いを込めないと、完遂することは難しい。職場でも書類整理、家でも書類整理、3月はそういう時期なのかもしれない。
整理の方法ついては、今までさまざまの方法を試してきた。そのために費やした時間と費用は決して少なくないのだが、その成果は、今のこの部屋の有様で一目瞭然である。
さまざまな試行錯誤で分かったことは、練りに練った整理法ほど、それが破綻するのは早いということであった。そういうことに気がつけば、当然単純な整理方法を模索していくことになる。そして整理の単純化を考え続けていくうちに、いつのまにか整理の迷路に入り込んでしまい、整理ではなく、整理の方法を考えることに時間を奪われることになる。そして時間をかけただけあって、さまざまな資料の特性に応じた細かな整理のルールが決められ、これでもう整理は完璧にできるはずだと成就感に浸るのである。
ところがそういう達成感に満たされたときから、整理のために用意した棚・ボックス・ファイリング用品に書類がルールに従って整理されることはなくなってしまうのである。机の手近なところから、無秩序に少しづつ書類が重ねられていく。そしてその行き着く先は、もう自明である。
あまり認めたくないのだが、どうやら私は整理好きというよりは、整理法好きということになるのかもしれない。整理の方法を考える方が好きということだから、整理方法が一通りの完成をみれば、それで満足が得られるのである。
しかしこんな現状に満足していてはいけない。整理せざるを得ない状態に追い込まれたのが、ちょうどよい機会である。この際、もう一度整理の仕方に関して考え直してみようか、こりもせずそんなことを考え始めたところである。
はれ
家居、机まわりに乱雑に積み重ねられていた書類の整理に着手する。「着手」という表現は大げさかもしれないが、そのくらいの気合いを込めないと、完遂することは難しい。職場でも書類整理、家でも書類整理、3月はそういう時期なのかもしれない。
整理の方法ついては、今までさまざまの方法を試してきた。そのために費やした時間と費用は決して少なくないのだが、その成果は、今のこの部屋の有様で一目瞭然である。
さまざまな試行錯誤で分かったことは、練りに練った整理法ほど、それが破綻するのは早いということであった。そういうことに気がつけば、当然単純な整理方法を模索していくことになる。そして整理の単純化を考え続けていくうちに、いつのまにか整理の迷路に入り込んでしまい、整理ではなく、整理の方法を考えることに時間を奪われることになる。そして時間をかけただけあって、さまざまな資料の特性に応じた細かな整理のルールが決められ、これでもう整理は完璧にできるはずだと成就感に浸るのである。
ところがそういう達成感に満たされたときから、整理のために用意した棚・ボックス・ファイリング用品に書類がルールに従って整理されることはなくなってしまうのである。机の手近なところから、無秩序に少しづつ書類が重ねられていく。そしてその行き着く先は、もう自明である。
あまり認めたくないのだが、どうやら私は整理好きというよりは、整理法好きということになるのかもしれない。整理の方法を考える方が好きということだから、整理方法が一通りの完成をみれば、それで満足が得られるのである。
しかしこんな現状に満足していてはいけない。整理せざるを得ない状態に追い込まれたのが、ちょうどよい機会である。この際、もう一度整理の仕方に関して考え直してみようか、こりもせずそんなことを考え始めたところである。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月11日
私物の整理
旧暦:2月4日
はれ。街行く人が、コートをぬいで、腕にかかえながら歩くほどの暖かさだった。
完全退職までの日数も、あとわずかとなった。しかし重大な問題を残したままになっていた。それは、私物の整理ということなのである。
去年3月の退職時にも、整理はしたのである。必要なものは車で家に運び、不必要なものは処分した。だがそれは全体量の半分程度だった。残りの半分は、一年かけて整理するつもりだった。しかしすぐ夏が来て、短い夏が過ぎれば、秋が顔を出し、少し遅れて冬もその後に続き、寒さの中で春を待っているうちに、とうとう再び3月を迎えてしまった。
その間私物の整理は気には掛かっていたのだが、その気持ちが熟する速さより、季節の変化の方が速かった。いろいろなことに心を奪われている間に、時間は短距離選手のスピードで走り去ってしまった。
時間というものは、一定の速さで流れていくはずなのだが、心の在り方によって、実際に感じられる速さは異なってくる。物事に没頭していれば、時間はまたたく間に過ぎ去ってしまったように感じられ、ヒマを持て余していれば、時は歩みを止めたように感じられる。
そういうことなのだから、限りある一生を無限大に引き延ばす方法は、退屈で退屈で仕方がない状態に身を置けばよいということになる。4月からは、そういう状態をすこし取り戻して、ゆったりと流れていく時間をかみしめてみたいものである。
ただ、今はまだそんなことを思っている余裕はない。ともかく残った私物を、残されたわずかな日数でどうにかしなければならない。時の流れが遅くなるように仕向けるのは、それが終わってからということになる。
はれ。街行く人が、コートをぬいで、腕にかかえながら歩くほどの暖かさだった。
完全退職までの日数も、あとわずかとなった。しかし重大な問題を残したままになっていた。それは、私物の整理ということなのである。
去年3月の退職時にも、整理はしたのである。必要なものは車で家に運び、不必要なものは処分した。だがそれは全体量の半分程度だった。残りの半分は、一年かけて整理するつもりだった。しかしすぐ夏が来て、短い夏が過ぎれば、秋が顔を出し、少し遅れて冬もその後に続き、寒さの中で春を待っているうちに、とうとう再び3月を迎えてしまった。
その間私物の整理は気には掛かっていたのだが、その気持ちが熟する速さより、季節の変化の方が速かった。いろいろなことに心を奪われている間に、時間は短距離選手のスピードで走り去ってしまった。
時間というものは、一定の速さで流れていくはずなのだが、心の在り方によって、実際に感じられる速さは異なってくる。物事に没頭していれば、時間はまたたく間に過ぎ去ってしまったように感じられ、ヒマを持て余していれば、時は歩みを止めたように感じられる。
そういうことなのだから、限りある一生を無限大に引き延ばす方法は、退屈で退屈で仕方がない状態に身を置けばよいということになる。4月からは、そういう状態をすこし取り戻して、ゆったりと流れていく時間をかみしめてみたいものである。
ただ、今はまだそんなことを思っている余裕はない。ともかく残った私物を、残されたわずかな日数でどうにかしなければならない。時の流れが遅くなるように仕向けるのは、それが終わってからということになる。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月10日
『明日への遺言』という「美しい物語」
旧暦:2月3日
雨・くもり・晴れ
久しぶりで雨が降った。しかし、午後にはあがり、十分なお湿りとなったとは言い難い。これから一雨一雨ごとに春が近づいてくるのだろう。
さて、映画『明日への遺言』の岡田資中将は、非の打ち所のないほどの高潔な人物として描かれる。部下たちに慕われ、その部下たちを救うために、彼一人が罪をかぶるのである。裁判を経て、絞首台に向かう時まで、心を乱すことなく、平静を保ち続けるのである。
俗人としては、生と死との葛藤はあったに違いないと思いたいのであるが、映画ではそういう場面は描かれない。ただ、座禅をくむ場面あるいは読経の場面から、かろうじて心の葛藤を読みとろうと思えばできないことはないのかもしれないが、しかし結果としてそういう場面も、中将の立派さを印象づけることになる。実際、立派な人物であったのかもしれないが、それを無批判で受け入れるための材料を持ち合わせていない。
揺らぎない信念を持ち、澄み切った心のまま刑場に向かう場面は、「美しい物語」の極みであろう。月光を背中に受けて、地面に落ちた自らの影を踏みながら絞首台へと向かって行く。上空に浮かぶ澄み切った満月が、中将の曇りのない心境を暗示している。しかしこのありふれた比喩は、かえって逆効果となってしまったが…。
このように描かれた人物は、その立派さ故に、人間としての存在感が希薄となってしまうのであるが、藤田まことの演技の重みが、中将を現実の世界につなぎ止めていると言ってもよいだろう。さもなければ、岡田中将に感情移入することもできず、後部座席のエルダー世代と思われる男性から、嗚咽が漏れてくるということもなかったであろう。
それにしても、こういった「美しい物語」に警戒心を抱くのは、生来の心性なのだろうか、見終わった時、そんなことが頭をよぎった。その点については、そう心性というものは、生まれつき備わっているものではない、と考えた方がよいにちがいない。今まで生きてくる過程で、心に染み込むように形作られてきたものだろう。さらに限定するならば、そういった警戒心が意識下に沈んでいて、場面に応じて心の底からわき起こってくるところをみると、青年期までの時期とするのも許されるかもしれない。
そして、そういう心性の形成は、さまざまな機会を通して、意図的に行われたこともあったのだろう。断定的に言い切るだけの根拠を持ち合わせていないが、直感的にそんなふうに思われてならない。しかしもしそうだとしても、「美しい物語」に対する警戒心の存在を否定しようとする気にはならず、かえってそういう心性が備わっていることをありがたいことと思うのである。
雨・くもり・晴れ
久しぶりで雨が降った。しかし、午後にはあがり、十分なお湿りとなったとは言い難い。これから一雨一雨ごとに春が近づいてくるのだろう。
さて、映画『明日への遺言』の岡田資中将は、非の打ち所のないほどの高潔な人物として描かれる。部下たちに慕われ、その部下たちを救うために、彼一人が罪をかぶるのである。裁判を経て、絞首台に向かう時まで、心を乱すことなく、平静を保ち続けるのである。
俗人としては、生と死との葛藤はあったに違いないと思いたいのであるが、映画ではそういう場面は描かれない。ただ、座禅をくむ場面あるいは読経の場面から、かろうじて心の葛藤を読みとろうと思えばできないことはないのかもしれないが、しかし結果としてそういう場面も、中将の立派さを印象づけることになる。実際、立派な人物であったのかもしれないが、それを無批判で受け入れるための材料を持ち合わせていない。
揺らぎない信念を持ち、澄み切った心のまま刑場に向かう場面は、「美しい物語」の極みであろう。月光を背中に受けて、地面に落ちた自らの影を踏みながら絞首台へと向かって行く。上空に浮かぶ澄み切った満月が、中将の曇りのない心境を暗示している。しかしこのありふれた比喩は、かえって逆効果となってしまったが…。
このように描かれた人物は、その立派さ故に、人間としての存在感が希薄となってしまうのであるが、藤田まことの演技の重みが、中将を現実の世界につなぎ止めていると言ってもよいだろう。さもなければ、岡田中将に感情移入することもできず、後部座席のエルダー世代と思われる男性から、嗚咽が漏れてくるということもなかったであろう。
それにしても、こういった「美しい物語」に警戒心を抱くのは、生来の心性なのだろうか、見終わった時、そんなことが頭をよぎった。その点については、そう心性というものは、生まれつき備わっているものではない、と考えた方がよいにちがいない。今まで生きてくる過程で、心に染み込むように形作られてきたものだろう。さらに限定するならば、そういった警戒心が意識下に沈んでいて、場面に応じて心の底からわき起こってくるところをみると、青年期までの時期とするのも許されるかもしれない。
そして、そういう心性の形成は、さまざまな機会を通して、意図的に行われたこともあったのだろう。断定的に言い切るだけの根拠を持ち合わせていないが、直感的にそんなふうに思われてならない。しかしもしそうだとしても、「美しい物語」に対する警戒心の存在を否定しようとする気にはならず、かえってそういう心性が備わっていることをありがたいことと思うのである。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月09日
アドレス変更
旧暦:2月2日
晴れ。
かなり前からスパムメールが多くなり、プロバイダーのスパムブロック、メーラーの迷惑メールの処理設定をして対処していたが、思い切ってメインで使っていたメールアドレスを変更することにした。
そのアドレスには、銀行とかクレジット会社からのメールも届く。アドレスを変更するには、そういったところにも連絡しなければならない。それがかなり面倒なことになるだろうことはある程度予想できた。だから今まで、思い切って変更することにはためらいがあった。
変更するためには、ユーザーIDとパスワードが必要になる。それらをきちんとまとめてあればいいのだが、ノート・手帳などのそこかしこに書き込んである。あるいは郵送されてきた書類の中に記載されているものもある。
特に郵送されてきたものは、その郵送物自体が見つからない可能性もある。見つけるためには、部屋のあちことに積み重ねられた書類の山を、ひっくり返さなければならない。ひっくり返すためには、そのためのスペースが必要になる。そこで部屋を整理して、そのためのスペースを生み出さなければならない。
ということで、ID・パスワードをさがし出すためには、部屋の整理をしなければならないという結論に到るのである。こういうわけだから、メールアドレスを変更するのが億劫になるのは、当たり前のことなのである。
部屋の整理は、今その端緒についたばかりである。メールアドレスの変更連絡が終わるまでは、もうしばらくかかりそうだ。それまでは、複数のメールアドレスを使い分けていくことになるだろう。
晴れ。
かなり前からスパムメールが多くなり、プロバイダーのスパムブロック、メーラーの迷惑メールの処理設定をして対処していたが、思い切ってメインで使っていたメールアドレスを変更することにした。
そのアドレスには、銀行とかクレジット会社からのメールも届く。アドレスを変更するには、そういったところにも連絡しなければならない。それがかなり面倒なことになるだろうことはある程度予想できた。だから今まで、思い切って変更することにはためらいがあった。
変更するためには、ユーザーIDとパスワードが必要になる。それらをきちんとまとめてあればいいのだが、ノート・手帳などのそこかしこに書き込んである。あるいは郵送されてきた書類の中に記載されているものもある。
特に郵送されてきたものは、その郵送物自体が見つからない可能性もある。見つけるためには、部屋のあちことに積み重ねられた書類の山を、ひっくり返さなければならない。ひっくり返すためには、そのためのスペースが必要になる。そこで部屋を整理して、そのためのスペースを生み出さなければならない。
ということで、ID・パスワードをさがし出すためには、部屋の整理をしなければならないという結論に到るのである。こういうわけだから、メールアドレスを変更するのが億劫になるのは、当たり前のことなのである。
部屋の整理は、今その端緒についたばかりである。メールアドレスの変更連絡が終わるまでは、もうしばらくかかりそうだ。それまでは、複数のメールアドレスを使い分けていくことになるだろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月08日
佐倉学歴史講演会
旧暦:2月2日
晴れ。
佐倉学歴史講演会を聴いてきた。
講師:阿部芳郎教授(明治大学)
http://www.meiji.ac.jp/bungaku/teachingstaff/teacher_a/abe.html
テーマ:印旛沼南岸地域における縄文時代後晩期の地域史
時間:午後1時30分〜
場所:佐倉市立美術館 4階ホール
http://www.city.sakura.lg.jp/museum/facilities/4f.htm
市立美術館近くの無料駐車場に車をとめた。以前来た時の、駐車場が狭いという記憶が残っていたが、拡張されたのだろうか、かなり広かった。4階のホールには初めて入ったが、席数100程度のこじんまりとしたホールだった。席はほとんど埋まり、聴衆は高齢者が多かったが、学生らしい若い人も数人混じっていた。
前半は、配付された資料に基づき、「印旛沼沿岸地域の調査研究史」について、後半は、発掘現場の写真を映写しながら、「佐倉市曲輪ノ内貝塚」「佐倉市遠部台遺跡「四街道市千代田遺跡(八木原貝塚)」の話、そして最後は「井野長割遺跡」の重要性についての説明があった。
晴れ。
佐倉学歴史講演会を聴いてきた。
講師:阿部芳郎教授(明治大学)
http://www.meiji.ac.jp/bungaku/teachingstaff/teacher_a/abe.html
テーマ:印旛沼南岸地域における縄文時代後晩期の地域史
時間:午後1時30分〜
場所:佐倉市立美術館 4階ホール
http://www.city.sakura.lg.jp/museum/facilities/4f.htm
市立美術館近くの無料駐車場に車をとめた。以前来た時の、駐車場が狭いという記憶が残っていたが、拡張されたのだろうか、かなり広かった。4階のホールには初めて入ったが、席数100程度のこじんまりとしたホールだった。席はほとんど埋まり、聴衆は高齢者が多かったが、学生らしい若い人も数人混じっていた。
前半は、配付された資料に基づき、「印旛沼沿岸地域の調査研究史」について、後半は、発掘現場の写真を映写しながら、「佐倉市曲輪ノ内貝塚」「佐倉市遠部台遺跡「四街道市千代田遺跡(八木原貝塚)」の話、そして最後は「井野長割遺跡」の重要性についての説明があった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月07日
あと3回
旧暦:2月1日
晴れ。
3月に入り、いよいよ嘱託としての勤めも、あと3回ということになった。ほんとうのところは、3月末までの契約であるが、週二回だけの勤めでも、年間二日の有給休暇が取れるので、以前から最後にその二日分を消化しようと思って予定していた。
いつのまにか机まわりが、足の踏み場もない状態になっていた。市民大学も卒業したので、使用した資料、あるいは作成した文書等を、とりあえず整理しておく必要もある。完全退職してから、あらたな気持ちで出発するためには、いつも身を置く場所を一新させて、今までの生活とは違うのだということを、我が身に実感として分からせなければならない。
そこでまづ手始めに、机まわりに乱雑に積み重ねられていた書籍、ファイルの類を整理することにした。夕方頃には、やっと幅60センチほどの居間に通じる道ができた。
晴れ。
3月に入り、いよいよ嘱託としての勤めも、あと3回ということになった。ほんとうのところは、3月末までの契約であるが、週二回だけの勤めでも、年間二日の有給休暇が取れるので、以前から最後にその二日分を消化しようと思って予定していた。
いつのまにか机まわりが、足の踏み場もない状態になっていた。市民大学も卒業したので、使用した資料、あるいは作成した文書等を、とりあえず整理しておく必要もある。完全退職してから、あらたな気持ちで出発するためには、いつも身を置く場所を一新させて、今までの生活とは違うのだということを、我が身に実感として分からせなければならない。
そこでまづ手始めに、机まわりに乱雑に積み重ねられていた書籍、ファイルの類を整理することにした。夕方頃には、やっと幅60センチほどの居間に通じる道ができた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月06日
『明日への遺言』の岡田資中将
旧暦:1月29日
晴れ。
映画『明日への遺言』は、実在の人物「岡田資(たすく)中将」を描いた作品である。まづ彼に関する、客観的事実を確認しておこう。
○略歴
明治23年4月14日 生
昭和16年3月1日 陸軍中将
昭和20年2月1日 第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官
昭和20年12月1日 東海復員監
昭和20年12月21日 免
昭和21年9月 巣鴨入所
昭和24年9月17日 巣鴨拘置所で法務死(絞首)
○関連書籍
『岡田資遺稿・毒箭』(刊行会、昭和29年)
『ながい旅』(大岡昇平、新潮社、昭和57年)
○出身
鳥取県
以上の出典:軍人データベース サクラタロウDB
http://purunus.main.jp/dnum/652
映画「明日への遺言」に関わる部分を簡単にまとめてみると、「第二次世界大戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)の罪でB級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判(横浜法廷)に掛けられ、有罪の判決が下された後、絞首刑により刑死した」、このようなことになる。
『1945年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した』(出典:Wikipedia)、このことが捕虜虐待罪に相当するというのである。軍事法廷ではこの点が重要な論点となり、弁護側は、米軍による名古屋空襲は、一般市民を巻き込んだ無差別爆撃であり、それ故、それを実行し捕虜となった米兵を処刑したことは、捕虜虐待罪には当たらないと主張する。
さて、映画『明日への遺言』は、このような事実に基づいているのだが、実在した人物をモデルとしている作品には、やっかいな問題がある。それは、作品で描かれている人物を、モデルとなった実在の人物と同一視してしまいがちである、という問題である。
どんなに史実に忠実であろうとしても、それを一つの作品として仕上げていく過程で、どうしても虚構性というものが入り込んでくる。特にこの作品は、小泉堯史監督が十数年あたためてきたものだということなので、監督自身の思い入れもそうとうなものがであると思われる。思い入れが強ければ強いほど、制作者の気持ちは作品中の人物に投影され、その結果、モデルとなった実在の人物とは乖離していってしまう。
このことは、創作物には避けて通れないことなのである。だから、作品を享受する側がこの点をしっかり理解しておかないと、モデルとなった実在の人物と作品中の人物とを同一視してしまうという誤りを犯してしまう。
作品中の人物は、モデルとなった人物とは同一ではなく、作品の中だけで存在している、作者によって創られた人物なのである。なぜこのようなことをわざわざことわっているのかというと、映画の中の岡田資中将についてふれると、実在した岡田資中将について述べているものと、混同されてしまうおそれがあるからなのだ。
私は実在した岡田資中将と接したことはないのだから、感想を述べることができるのは、あくまでも映画『明日への遺言』の主人公である岡田資中将なのである。そして彼は、実在した岡田資中将とは別の人物なのである。(つづく)
晴れ。
映画『明日への遺言』は、実在の人物「岡田資(たすく)中将」を描いた作品である。まづ彼に関する、客観的事実を確認しておこう。
○略歴
明治23年4月14日 生
昭和16年3月1日 陸軍中将
昭和20年2月1日 第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官
昭和20年12月1日 東海復員監
昭和20年12月21日 免
昭和21年9月 巣鴨入所
昭和24年9月17日 巣鴨拘置所で法務死(絞首)
○関連書籍
『岡田資遺稿・毒箭』(刊行会、昭和29年)
『ながい旅』(大岡昇平、新潮社、昭和57年)
○出身
鳥取県
以上の出典:軍人データベース サクラタロウDB
http://purunus.main.jp/dnum/652
映画「明日への遺言」に関わる部分を簡単にまとめてみると、「第二次世界大戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)の罪でB級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判(横浜法廷)に掛けられ、有罪の判決が下された後、絞首刑により刑死した」、このようなことになる。
『1945年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した』(出典:Wikipedia)、このことが捕虜虐待罪に相当するというのである。軍事法廷ではこの点が重要な論点となり、弁護側は、米軍による名古屋空襲は、一般市民を巻き込んだ無差別爆撃であり、それ故、それを実行し捕虜となった米兵を処刑したことは、捕虜虐待罪には当たらないと主張する。
さて、映画『明日への遺言』は、このような事実に基づいているのだが、実在した人物をモデルとしている作品には、やっかいな問題がある。それは、作品で描かれている人物を、モデルとなった実在の人物と同一視してしまいがちである、という問題である。
どんなに史実に忠実であろうとしても、それを一つの作品として仕上げていく過程で、どうしても虚構性というものが入り込んでくる。特にこの作品は、小泉堯史監督が十数年あたためてきたものだということなので、監督自身の思い入れもそうとうなものがであると思われる。思い入れが強ければ強いほど、制作者の気持ちは作品中の人物に投影され、その結果、モデルとなった実在の人物とは乖離していってしまう。
このことは、創作物には避けて通れないことなのである。だから、作品を享受する側がこの点をしっかり理解しておかないと、モデルとなった実在の人物と作品中の人物とを同一視してしまうという誤りを犯してしまう。
作品中の人物は、モデルとなった人物とは同一ではなく、作品の中だけで存在している、作者によって創られた人物なのである。なぜこのようなことをわざわざことわっているのかというと、映画の中の岡田資中将についてふれると、実在した岡田資中将について述べているものと、混同されてしまうおそれがあるからなのだ。
私は実在した岡田資中将と接したことはないのだから、感想を述べることができるのは、あくまでも映画『明日への遺言』の主人公である岡田資中将なのである。そして彼は、実在した岡田資中将とは別の人物なのである。(つづく)
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月05日
幕張の街で心のリセット
旧暦:1月28日
晴れ。
海浜幕張駅の北口広場には、とてもゆったりとした空間が広がっている。顔を上げれば、ひろびろとした空がとぎれなく続いているのが見える。今まで何度となく幕張に来たことはあるのだが、空の広さをしみじみと感じたのは初めてのことだ。電柱がないのも、この広さを実感させることに貢献している。
海浜幕張周辺は、埋立地に造成された人工的な街である。周到な土地計画に従って、無の状態から築かれた街は、どことなく素っ気ない感じがして、おもしろみがないと思っていた。確かに都心の盛り場が有する混沌とした雰囲気は希薄で、散策するにしても、露地という迷路に入り込んでしまうようなことはない。意外性に乏しいということは、街歩きの魅力に欠けているということにもつながる。
しかし、人波があふれる雑然とした街並みに疲れを感じたとき、理性的にととのえられた街並みに身を置くと、気持ちまでも整然とした状態にリセットされる感じがする。幕張の街は、そういった効果をもたらしてくれる。時々幕張に行ってみたくなるのは、無意識的にそういうことを求めていたのかもしれない。
ただそういう幕張の街にも、残念に思うことがある。歩道を広く確保してあるのは良いのだが、反対側に渡るには広い車道にかかる歩道橋を使わざるを得ない。人間が歩きやす環境を整えることより、やはり車の通行ということを第一に考えた結果であろう。
計画段階で、車道はすべて地下を通すという発想はなかったのだろうか。そのために工事費がどの程度ふくれあがるのかは、門外漢には分からない。しかし、せっかく新しい街を作るのであれば、人が存在して初めて街が形成されるのだから、まづ第一に考えるべきことは、そこに住む人・仕事をする人、そして訪れる人が行き来しやすい環境を整えるということなのである。少なくとも駅周辺は、そのようにするべきであった。
「シネプレックス幕張」は、幕張の街と同じようにゆったりサイズの映画館である。いままでいろいろな映画館に行ったが、一番ゆったりと腰を落として映画を見ることができた。どの映画館でも、前列の座席の背もたれに膝がぶつかってしまうのだが、ここは座席の間隔が広くとられていて、膝があたることはない。観客への配慮か感じられ、気持ちよく映画を見ることができる。
入場券売り場には、行列ができていた。2時半からはじまる映画は、「明日への遺言」のほかに、「ライラの冒険」があったので、そちらの鑑賞券を求める人も混じっていたとしても、平日にしては珍しいことだった。
入場者は40〜50人前後はいた。多いのはシニア世代、多くはないが若い人もチラホラ混じっていた。やはり平日午後の映画館は、シニア世代が支えている。
晴れ。
海浜幕張駅の北口広場には、とてもゆったりとした空間が広がっている。顔を上げれば、ひろびろとした空がとぎれなく続いているのが見える。今まで何度となく幕張に来たことはあるのだが、空の広さをしみじみと感じたのは初めてのことだ。電柱がないのも、この広さを実感させることに貢献している。
海浜幕張周辺は、埋立地に造成された人工的な街である。周到な土地計画に従って、無の状態から築かれた街は、どことなく素っ気ない感じがして、おもしろみがないと思っていた。確かに都心の盛り場が有する混沌とした雰囲気は希薄で、散策するにしても、露地という迷路に入り込んでしまうようなことはない。意外性に乏しいということは、街歩きの魅力に欠けているということにもつながる。
しかし、人波があふれる雑然とした街並みに疲れを感じたとき、理性的にととのえられた街並みに身を置くと、気持ちまでも整然とした状態にリセットされる感じがする。幕張の街は、そういった効果をもたらしてくれる。時々幕張に行ってみたくなるのは、無意識的にそういうことを求めていたのかもしれない。
ただそういう幕張の街にも、残念に思うことがある。歩道を広く確保してあるのは良いのだが、反対側に渡るには広い車道にかかる歩道橋を使わざるを得ない。人間が歩きやす環境を整えることより、やはり車の通行ということを第一に考えた結果であろう。
計画段階で、車道はすべて地下を通すという発想はなかったのだろうか。そのために工事費がどの程度ふくれあがるのかは、門外漢には分からない。しかし、せっかく新しい街を作るのであれば、人が存在して初めて街が形成されるのだから、まづ第一に考えるべきことは、そこに住む人・仕事をする人、そして訪れる人が行き来しやすい環境を整えるということなのである。少なくとも駅周辺は、そのようにするべきであった。
「シネプレックス幕張」は、幕張の街と同じようにゆったりサイズの映画館である。いままでいろいろな映画館に行ったが、一番ゆったりと腰を落として映画を見ることができた。どの映画館でも、前列の座席の背もたれに膝がぶつかってしまうのだが、ここは座席の間隔が広くとられていて、膝があたることはない。観客への配慮か感じられ、気持ちよく映画を見ることができる。
入場券売り場には、行列ができていた。2時半からはじまる映画は、「明日への遺言」のほかに、「ライラの冒険」があったので、そちらの鑑賞券を求める人も混じっていたとしても、平日にしては珍しいことだった。
入場者は40〜50人前後はいた。多いのはシニア世代、多くはないが若い人もチラホラ混じっていた。やはり平日午後の映画館は、シニア世代が支えている。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月04日
幕張再訪
旧暦:1月27日
晴れ。
目にかゆみを感じるようになってきた。これで花粉症であることがはっきりした。朝出勤時に、今季初めて花粉症用のマスクをつけた。こんな状態だから、今日は勤め帰りの散策はやめにして、映画をみることにした。
いくつかの映画館の上映開始時間を調べてみたが、やはり2時台後半開始の映画は少ない。「シネプレックス幕張」で上映中の「明日への遺言」が、2時30分開始だった。先日この映画館で「チーム・バチスタの栄光」をみたが、その時も2時半開始で、映画館に着いたのは、2時半をまわっていた。
そういうことがあったので、そこは避けた方がいいかなとも思ったが、電車が1本早ければ十分間に合うはずだと思い直して、幕張に行くことに決めた。
前回の轍を踏まないように、1時5分過ぎに職場を出た。この時間なら、1時26分の電車には十分間に合うはずだ。そうはいうものの、駅に着くまでに何が起こるか分からない。急ぎ足で駅に向かった。
駅の改札を抜けると、
「2番線に、電車がまいります」
というアナウンスが聞こえた。あんなに早足で歩いてきたのに、ギリギリで間に合ったのかと思いながら、ホームに止まっていた電車に飛び乗った。車内はガラガラだった。座席に腰をおろし時計を見ると、1時18分だった。乗る予定だった電車より、さらにもう一本早い電車だった。
(特急に乗り換え)
13:25 京成八幡
(京成千葉線に乗り換え)
13:39 京成津田沼
…実際には、39分30秒にドアが閉まった。予定の発車時刻より30秒遅れである。この前も、30秒の余裕があれば間に合ったのに…
(バス乗車)
13:45 幕張本郷
13:57 海浜幕張着
今日は最初から、すべてがうまくいった。乗り換えのための待ち時間もほとんどなかった。上映開始時間のほぼ30分前に着くことができた。この前は、最初の電車に乗り遅れたことで、その後すべての歯車が狂い、遅れを取り戻すことができなかった。
人生にも、これと同じようなことがありそうな気がする。なにか一つ失敗をしてしまう。たいした失敗ではないから、それによって失ったものはすぐに取り戻せる、と高をくくっている。しかしそれからというもの、すべての歯車が狂い始め、思いもかけない方向へと向かって行ってしまう。これは大変だと慌て始めたころには、まったく別の道に入り込んでしまっていて、もう引き返すこともできなくなっている。
そのようになってしまったら、その状況を受け入れてそのまま進んでいくか、あるいは10年・20年さらにもっと長い年月をかけて、少しずつ元の道に戻っていくしかない。さて、どちらの方が実り多い人生となるのだろうか。
晴れ。
目にかゆみを感じるようになってきた。これで花粉症であることがはっきりした。朝出勤時に、今季初めて花粉症用のマスクをつけた。こんな状態だから、今日は勤め帰りの散策はやめにして、映画をみることにした。
いくつかの映画館の上映開始時間を調べてみたが、やはり2時台後半開始の映画は少ない。「シネプレックス幕張」で上映中の「明日への遺言」が、2時30分開始だった。先日この映画館で「チーム・バチスタの栄光」をみたが、その時も2時半開始で、映画館に着いたのは、2時半をまわっていた。
そういうことがあったので、そこは避けた方がいいかなとも思ったが、電車が1本早ければ十分間に合うはずだと思い直して、幕張に行くことに決めた。
前回の轍を踏まないように、1時5分過ぎに職場を出た。この時間なら、1時26分の電車には十分間に合うはずだ。そうはいうものの、駅に着くまでに何が起こるか分からない。急ぎ足で駅に向かった。
駅の改札を抜けると、
「2番線に、電車がまいります」
というアナウンスが聞こえた。あんなに早足で歩いてきたのに、ギリギリで間に合ったのかと思いながら、ホームに止まっていた電車に飛び乗った。車内はガラガラだった。座席に腰をおろし時計を見ると、1時18分だった。乗る予定だった電車より、さらにもう一本早い電車だった。
(特急に乗り換え)
13:25 京成八幡
(京成千葉線に乗り換え)
13:39 京成津田沼
…実際には、39分30秒にドアが閉まった。予定の発車時刻より30秒遅れである。この前も、30秒の余裕があれば間に合ったのに…
(バス乗車)
13:45 幕張本郷
13:57 海浜幕張着
今日は最初から、すべてがうまくいった。乗り換えのための待ち時間もほとんどなかった。上映開始時間のほぼ30分前に着くことができた。この前は、最初の電車に乗り遅れたことで、その後すべての歯車が狂い、遅れを取り戻すことができなかった。
人生にも、これと同じようなことがありそうな気がする。なにか一つ失敗をしてしまう。たいした失敗ではないから、それによって失ったものはすぐに取り戻せる、と高をくくっている。しかしそれからというもの、すべての歯車が狂い始め、思いもかけない方向へと向かって行ってしまう。これは大変だと慌て始めたころには、まったく別の道に入り込んでしまっていて、もう引き返すこともできなくなっている。
そのようになってしまったら、その状況を受け入れてそのまま進んでいくか、あるいは10年・20年さらにもっと長い年月をかけて、少しずつ元の道に戻っていくしかない。さて、どちらの方が実り多い人生となるのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月03日
火災警報機
旧暦:1月25日
晴れ。
11時過ぎに、火災・ガス漏れ複合型警報機を取り付けに来てくれた。警報機を壁の上の方に取り付け、電源プラグをコンセントに差し込むだけだから、5分ほどで作業はあっけなく終わってしまった。そのあとテストを行い、警報音と女性の声で警告メッセージが聞こえてきた。かなり音量が大きく、また大きくなければ用をなさないのだが、予想以上の大きさだったのでいささか驚いた。
火災警報機の設置が義務化されたことは、受講した市民大学「消費者としての心構え」で説明があった。平成18年6月1日以降の新築住宅は、すべて設置しなければならなくなったこと、また既存の住宅は各市町村条例により適用時期が定められるということだった。ちなみに佐倉市は、平成20年6月から設置が義務化されるということだった。
晴れ。
11時過ぎに、火災・ガス漏れ複合型警報機を取り付けに来てくれた。警報機を壁の上の方に取り付け、電源プラグをコンセントに差し込むだけだから、5分ほどで作業はあっけなく終わってしまった。そのあとテストを行い、警報音と女性の声で警告メッセージが聞こえてきた。かなり音量が大きく、また大きくなければ用をなさないのだが、予想以上の大きさだったのでいささか驚いた。
火災警報機の設置が義務化されたことは、受講した市民大学「消費者としての心構え」で説明があった。平成18年6月1日以降の新築住宅は、すべて設置しなければならなくなったこと、また既存の住宅は各市町村条例により適用時期が定められるということだった。ちなみに佐倉市は、平成20年6月から設置が義務化されるということだった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月02日
難関校「佐倉市民カレッジ」
旧暦:1月25日
晴れ。
午後、幼い子を引き連れて、臼井の七井戸公園に行く。風が冷たく、家に帰ってから鼻水が止まらなくなった。花粉症の症状が悪化したのか、それとも風邪を引き込んだのか定かではない。
新聞に折り込まれて届く「こうほう佐倉」の「情報ナビ」には、佐倉市発信のいろいろなお知らせが載っている。今年度も、この3月で終わりとなるので、来年度の事業に関するお知らせもチラホラと載り始めている。
今年度は市民大学を受講し、先日閉校式が行われたことはすでにここにも書いた。それとは別に、「佐倉市民カレッジ」というものが行われている。こちらは、かなり本格的で、卒業までに4年を要し、年36回ほど授業がある。定員は、40歳〜59歳が20名、60歳以上が80人である。
先日の閉講式後のレセプションで、ある人と話をしていたとき、「佐倉市民カレッジ」のことが話題になった。私より一歳年上のその人は、2年続けて申し込んだが、2回とも落選してしまったということだった。
カレッジと名付けられてはいるが、もちろん入学試験などはなく、抽選で合否が決まる。申し込んだ人は、抽選会場に行かなければならないそうだ。時間を費やしてわざわざ足を運んで、当選者の番号がよみ上げられるのを待たなければならない。よみ上げられれば良いのだが、自分の番号が飛ばされてしまったときは、まったく無駄足になってしまう。その人は、どうしてこんな形式の抽選会をするのだろう、市民大学のように、往復ハガキで申し込んで、合否はハガキで返信してくれればよいのに、と憤慨していた。
私自身は、今のところは、いろいろとしたいことがありすぎる状態だから、4年間も身を縛られてしまうのは困る。しばらくは自分でカリキュラムを作って、自分一人だけが受講生の市民大学に入学することにしよう。
晴れ。
午後、幼い子を引き連れて、臼井の七井戸公園に行く。風が冷たく、家に帰ってから鼻水が止まらなくなった。花粉症の症状が悪化したのか、それとも風邪を引き込んだのか定かではない。
新聞に折り込まれて届く「こうほう佐倉」の「情報ナビ」には、佐倉市発信のいろいろなお知らせが載っている。今年度も、この3月で終わりとなるので、来年度の事業に関するお知らせもチラホラと載り始めている。
今年度は市民大学を受講し、先日閉校式が行われたことはすでにここにも書いた。それとは別に、「佐倉市民カレッジ」というものが行われている。こちらは、かなり本格的で、卒業までに4年を要し、年36回ほど授業がある。定員は、40歳〜59歳が20名、60歳以上が80人である。
先日の閉講式後のレセプションで、ある人と話をしていたとき、「佐倉市民カレッジ」のことが話題になった。私より一歳年上のその人は、2年続けて申し込んだが、2回とも落選してしまったということだった。
カレッジと名付けられてはいるが、もちろん入学試験などはなく、抽選で合否が決まる。申し込んだ人は、抽選会場に行かなければならないそうだ。時間を費やしてわざわざ足を運んで、当選者の番号がよみ上げられるのを待たなければならない。よみ上げられれば良いのだが、自分の番号が飛ばされてしまったときは、まったく無駄足になってしまう。その人は、どうしてこんな形式の抽選会をするのだろう、市民大学のように、往復ハガキで申し込んで、合否はハガキで返信してくれればよいのに、と憤慨していた。
私自身は、今のところは、いろいろとしたいことがありすぎる状態だから、4年間も身を縛られてしまうのは困る。しばらくは自分でカリキュラムを作って、自分一人だけが受講生の市民大学に入学することにしよう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2008年03月01日
ジャンボフレーム
旧暦:1月24日
晴れ、のち曇り。午後になって、風が強く吹く。
家居。
ネットワークディスクへのデータ転送に、時間がかかる理由が分かった。イーサーネットでは、データをフレームと呼ばれる単位に分割して送受信するそうである。そのフレームのサイズは1,518バイトと定められているため、転送効率が悪く、これがボトルネックとなって速度低下をもたらすらしい。
この問題を解決するためには、フレームサイズを大きくすれば良いわけで、そこで考えられたのが、最大10倍程度の大きさの「ジャンボフレーム」である。ただし、これが利用できるのは、ネットワークを構成する機器がすべてジャンボフレームに対応していなければならない。
自宅の家庭内LANの環境では、ジャンボフレームを利用することができない。そこで、こういう方法を考えた。ネットワーク対応ハードディスク「LinkStation」には、USB接続のハードディスクをつなぐことができる。そこで、まずパソコンのデータを外付けのハードディスクに転送し、次に、そのハードディスクをパソコンからLinkStationにつなぎ替え、今度は両者間でデータを転送するという方法である。
晴れ、のち曇り。午後になって、風が強く吹く。
家居。
ネットワークディスクへのデータ転送に、時間がかかる理由が分かった。イーサーネットでは、データをフレームと呼ばれる単位に分割して送受信するそうである。そのフレームのサイズは1,518バイトと定められているため、転送効率が悪く、これがボトルネックとなって速度低下をもたらすらしい。
この問題を解決するためには、フレームサイズを大きくすれば良いわけで、そこで考えられたのが、最大10倍程度の大きさの「ジャンボフレーム」である。ただし、これが利用できるのは、ネットワークを構成する機器がすべてジャンボフレームに対応していなければならない。
自宅の家庭内LANの環境では、ジャンボフレームを利用することができない。そこで、こういう方法を考えた。ネットワーク対応ハードディスク「LinkStation」には、USB接続のハードディスクをつなぐことができる。そこで、まずパソコンのデータを外付けのハードディスクに転送し、次に、そのハードディスクをパソコンからLinkStationにつなぎ替え、今度は両者間でデータを転送するという方法である。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗