2008年05月30日

裏山の神社

旧暦;4月26日
くもり

一日かけて、旅行中の写真の整理をした。その写真の中には、Aさん宅の裏山の神社を撮影したものも含まれている。一回目は一人で、二回目はAさんと共に行き、撮影したものだった。Aさんと一緒に行ったときは、内部の撮影もすることができた。

市民大学では必要に迫られて、地元に点在する神社を見て回ったことがあったが、古くから人が住み着いていた地区には、必ず小さな神社があった。この裏山の神社も、古くから集落の人びと同じ時間を共有して、鎮守様として集落の人びとの生活を守ってきたのだろう。

その神社はかなり老朽化していて、周囲を鉄パイプで覆って保護してあった。神社の前面の左右に二つ並んだ石灯籠には、次のような文字が刻まれていた。それがこの神社の創建された年なのだろうか。

 文久元
   酉年

(参考)文久元年(1861年)
・アメリカ南北戦争始まる
・内村鑑三誕生

拝殿入口上部の額には次のように記されていた。

     八幡宮
 謹請  神明宮
     疱瘡神

もとは分散していた社を、一つにまとめたのかもしれない。
◇神明宮
・新田開発のさいに創建することが多い
・天照皇大神、天照大御神、豊受大神を祀る
(食物神、農業神)
◇八幡宮
・八幡神を祀る(仏教保護、護国の神)
・大分県宇佐八幡宮が総本社
◇疱瘡神
・疱瘡(天然痘)を擬神化した疫病神
・疱瘡の平癒、苦しみの軽減を願うために祀る

佐倉の鷲神社にも疱瘡神が祀られているが、小さな長方形の石に、ただ疱瘡神と刻まれただけのものである。しかしこの神社では、「八幡宮・神明宮」と同列に並べられている。疱瘡神は疫病神で忌み嫌われるものなのに、これは破格の扱いというものであろう。

拝殿の内部には、「奉納俳諧」と題された額がいくつも掛けられていた。一番古いものは、弘化3年と記されていた。Aさん宅が建てられたと考えられるのが弘化4年であるから、その1年前である。

その「奉納俳諧」の板には、一行ごとに「句・土地の名称・作者名」が記されていて、長い額だとかなりの句数になる。先ほども取り上げた佐倉の鷲神社にも、同じような額があるが、こちらは拝殿外に掛けられている。市民大学の講師の先生の説明によれば、この「奉納俳諧」の額があることを根拠に、佐倉には俳諧をたしなむ人が多く、文化の程度も高かったというようなことであった。

江戸からみて、佐倉よりはるかに遠い新潟の小さな集落でも同じように俳諧が奉納され、そしてその数が佐倉より多いということは、「奉納俳諧」の額の有無だけで文化の程度を判断することはできないということだろう。江戸時代には全国津々浦々、庶民の間であまねく俳諧をたしなむということが流行したと捉えたほうがいいのではないだろうか。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月29日

ねんきん特別便

旧暦;4月24日


車検のため、今日・明日は車が使えない。
社会保険庁から、年金特別便が送られてきた。

『「ねんきん特別便」です。
あなた様の年金加入記録をお届けします。
「もれ」や「間違い」があるかもしれません。
十分お確かめいただいた上で、
必ず、ご回答をお願いいたします。』

よく確かめたが、「もれ」や「間違い」はなかった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月28日

家を守る

旧暦;4月24日
はれ、くもり

旅行中、新潟で満タンにしたガソリンが残り少なくなったので、午後いつものガソリンスタンドに行った。新潟はリッターあたり155円だった。こちらは152円(現金会員は150円)で、旅行前と同じだった。6月からはまた値上がりするということが伝えられている。今日は5000円分だけ入れて、31日に満タンにしておくことにしよう。

ちょうど去年の今ごろ、新潟県の胎内でコノハズクの鳴き声を聞いたのだった。今年もコノハズクの声を聞く会のお誘いを受けたが、そちらは辞退して、夫人の親戚筋にあたるAさんという方が、たった一人で守っている旧家を訪ねることになった。4泊の内、3泊はAさん宅、最後は昨年同様「胎内パークホテル」に宿泊した。

Aさんは、昨年ご主人と舅を続けて亡くし、三人の息子さんは離れて暮らしているため、広い家にたった一人取り残されてしまった。江戸時代末期の弘化四年に建てられたという古民家は、ともかく広い。玄関が三つもあり、囲炉裏が二つ切られ(現在は一つだけが残る)、八つの広い和室の周囲をまわり廊下が囲んでいる。さらに離れ座敷、大きなコイの泳ぐ池もある。Aさん所有の裏山を少し登ると、りっぱな神社まである。

所有する土地はこれだけではなく、家の周囲に広がる田畑、それを取り巻く山林も所有している大地主なのである。Aさんと一緒に散歩したとき、遙かかなたの山を指さし、
「あの山も、うちのもの」
という言葉を何度も聞いた。

これだけの家屋・田畑・山林を所有していても、現在はたった一人で、一匹のイヌと暮らしているのである。というわけで、われわれ二人の訪問はAさんに歓迎され、厚いもてなし受けることとなった。しかし、われわれ二人がその家の一時的な住人として加わっても、その静謐な大きな空間を賑わいで満たすことはできず、かえって私も夫人もその家の寂しさに呑み込まれてしまった。

今日もAさんはあの家で過ごし、夕食を一人でとり、9時過ぎには床についたのだろう。私たちが去ったあと、また一人になってむかえる夜の闇の密度は、今までよりいっそう深まったかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月27日

4泊五日の旅行

旧暦;4月23日
晴れ

先週の金曜日に出発して、今日帰宅した。4泊五日の旅行だった。旅行中インターネットを利用できない環境に身を置いたので、この「日乗」も四日間の留守となってしまった。

出発した金曜日は天気がよく、暑いぐらいだった。ところが次の日から天気に恵まれず、昨日まで寒さすら感じる日が続いた。ところが、今日は金曜日と同じような上天気となった。お天気の神様にみはなされた4日間だった。

天気には恵まれなかったが、いろいろと収穫の多い旅行だった。それらのことについては、今後少しずつ書いていくことにする。

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2008年05月22日

横たわる老犬

旧暦;4月16日
晴れ

お昼前に、南側の家で飼っているイヌが倒れていることを、夫人が知らせてくれた。居間から覗いてみると、たしかに年老いた柴犬が横たわっていた。

そのイヌはかなり高齢で、人間の年齢に換算すると、100歳ぐらいにはなるということだ。かなり前から目が不自由になり、今はもうほとんど見えないらしい。庭をヨロヨロと行ったり来たりしていると、通りかかった人が柵越しに声を掛けていく。

昼間吠えることはないのだが、深夜になると、ときおり一声吠え、しばらくしてからまた一声吠えることを繰り返した。いまにも命が尽きてしまいそうな状態ではあったが、毎日庭の周囲を時間をかけてゆっくりと歩き回っていた。

今まで、地面に倒れ込んでいる姿は見たことはなかった。横になったまま、微動だにしない。いよいよ天寿を全うする時がきたのかなと思いながら目を凝らして見ると、オシリに白い布が掛けてあった。目は閉じていた。実におだやかな幸せそうな表情だった。

飼い主は気づいているのだろうか、倒れていることを教えてあげた方がいいのだろうか、そんなことを考えてみたが、そういう顔を見ると、はたして死んでしまったものかどうか分からなくなり、しばらく様子を見ることにした。

イヌのことは気に掛かっていたのだが、パソコンを使っているうちにすっかり忘れてしまった。午後もだいぶ経ってから、そのことを思い出し窓からのぞいてみたところ、横たわっていたイヌの姿は消えていた。しかし、しばらくして庭木の影から、いつも通りヨロヨロとあの老犬が現れた。
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2008年05月21日

「巨人が勝てば家庭は平和」という時代

旧暦;4月15日
晴れ

いつもなら自由席の場所が指定席となったのはなぜだろうと、昨夜の負け試合が尾を引いてモヤモヤする頭で考えているとき、昔父親が巨人ファンだったことを思い出した。

父親は「房総万葉地理」の研究をしていたが、その父親がどうして野球に興味を持って巨人ファンになったのか、それがいまだに分からない。直接父親から巨人のファンであることを聞いたことはない。それでは、なぜそのことが分かったのかというと、巨人が負けたあと、急激に不機嫌になるからだった。

テレビは掘りごたつが切ってある居間に置いてあった。野球中継が始まると、自分専用の席に座り込み、一言も発せずテレビの画面に見入る。巨人の形勢が悪くなると、徐々に顔が険しくなり、押し黙ったままの時間が続く。家族は雰囲気を察して、もう居間に足を踏み入れようとしなくなる。巨人が負ければ、一刻も早く、仕事場としている二階にのぼってくれることを祈るのみであった。そういう次第だから、たとえ巨人ファンでなくても、家族は皆、巨人が勝つのを願うより仕方がなかった。

野球の勝敗が家庭の平和を左右することを、プロ野球選手、特にロッテの選手は分かっているのだろうか。その当時の巨人は強かったから、父親が機嫌を損ねるのはあまり多くなく、その点では助かった。もしその当時の巨人が、今のマリーンズのように負けが込んだとしたら、私の家庭は崩壊していたにちがいない。
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2008年05月20日

シニアデーの野球観戦

旧暦;4月14日
雨・くもり・晴れ

台風並みの強風と雨量だった。台風4号が近づいたのではなく、低気圧が近づいたのがその原因だった。

今日からパ・セ両リーグの交流戦が始まった。マリーンズの相手は巨人、共になかなか調子のでないチーム同士の対戦となった。そして火曜日は「シニアデー」、いつもなら2300円の内野自由席が1000円となる。ただし今日の巨人戦は、マリーンズのウェブページで調べると、シニア用の席は内野指定席となるということだった。

そういうありがたい日なので、夫人に留守を託して一人で野球見物に出かけた。電車とバスとを利用してマリンスタジアムまで行くのは初めてのことだ。球場について初めて分かったことなのだが、今日はすべての席が指定席となっていて、自由席はなかった。だからシニア用の席が内野指定席となっていても、入場券に記載されていた席の番号は、いつも座っている内野自由席の近くだった。

どうして今日に限って全席が指定席となったのか、その疑問は、家でバレーと野球とを交互に見ていた夫人から、テレビ東京の中継画面の印象を聞いたことで解決した。夫人の言によれば、球場は満員で、人で埋まっていたというのだ。しかし実際には、2階席の両端はあいている席の方が多く、とくに一塁側は閑散としていた。

ネット裏を中心としてその両側は、空いている席もなくギッシリと人で埋まっていた。その中にはシニアたちの姿も多く見受けられた。たぶんテレビ中継があるからなのだろう。全席指定席にしたのは、2階席の中央部分に人を集めたかったからにちがいない。そのせいで、右側には大柄な若い男性、左側には中年の女性という具合に両側をはさまれて、窮屈な思いをしながら4時間にも及ぶ長い試合を観戦するハメになった。

試合は追いつ追われつの展開だった。このように言えば、白熱したいい試合を想像する人が多いだろうが、事実はまったく逆で、メリハリのない、いかにも両チームの現状を象徴する試合内容だった。出てくる投手が次々と打ち込まれ、それ故に逆転につぐ逆転ということになっただけのことだ。試合を決めたのは、クローザーがいるかいないかの違いだった。

今日負けたことで、ロッテはついに最下位となってしまった。しかし今日のような試合内容で勝つよりは、むしろ負けたほうがよかったのかもしれない。今の中継ぎ・押さえ投手不在の状態を、なんとかするための決断を下すには、落ちるところまで落ちなければならなかったということなのだろう。
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2008年05月19日

フクロウ作品展

 旧暦;4月13日
晴・くもり・雨。
夜に入って台風が近づき、雨風が強くなった。5月に入ってから、もう三つ目の台風になる。

夫人のフクロウ作品が展示されているお店に行ってみた。主としてお弁当の配達をしているお店らしいが、昼時には店内で食事をすることもできる。ただ店内での飲食サービスにはあまり力を入れている感じではなく、テーブルが4卓ほど設置されているだけで、14・5人程度で満員になりそうだった。

店の南側壁面のすべてが、展示用スペースになっていた。天井には三つのスポットライトが設けられ、展示用壁面に灯りを投げかけていた。

店に入ったときは、夫人がフクロウたちの作者ということが分からなかったようだったが、しばらくして事情を理解して、
「母もフクロウが好きなんですよ、ここによんで見せてあげたいな、なんて思っているんですよ」
と思いがけないことを口にした。
「どちらにお住まいなんですか」
「松本なんです」

そんなことを言ってくれる人がいるだけでも、ここで作品を展示した甲斐があるというものだろう。お弁当は700円、メニューは以下の通りだった。

・親子煮(これをどんぶり飯の上にのせれば、親子丼になる)
・サツマイモのかきあげ
・ひじきの酢の物
・お新香
・味噌汁
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2008年05月18日

ETC初使用

旧暦;4月12日
晴。中国四川省の大地震による死者は、3万人をこえたそうだ。

高速道路のETCレーンが次第に増えて、大きく車線変更することもなく自然な流れで通過する車を苦々しく見ていた。いつだったか遠出からの帰りに、誤ってETCレーンに入りそうになってしまったことがあった。それ以来料金所を通るときには、レーンを見誤らないようにするため、今まで以上に神経をすり減らすようになった。

しかしレーンを見極めることに気を取られ、追突事故でも起こしてしまうのではつまらない。そういうこともあって、我慢することにも限界を感じはじめ、先日ETC車載器をつけてもらった。車載器本体・アンテナそして取り付け費用を合わせると、2万円強の出費となった。

午後、ETCを試してみるため、特にあてはないのだが高速を走ってみることにした。ガソリンの無駄遣いはしたくないので、四街道・佐倉の一区間だけを走ってみた。入口料金所を通過するときは、はたして開閉バーがあがるかどうか、というようなことまでが心配となったが、そんな取り越し苦労は必要ないよと言わんばかりに、気持ちよくバーが跳ね上がり無事通過することができた。出口料金所では、「300円です」と料金を音声で知らせてくれた。

帰る途中、新緑におおわれた佐倉城址公園に立ち寄り、「姥が池」にたくさんいる亀を見たり、周囲に群生するカキツバタを眺めてきた。この季節の城址公園もなかなかよい。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月17日

吉祥寺の思い出

旧暦;4月11日
晴。
紫と黄色の花びらが混在したジャーマンアイリスが咲いた。ある人から贈られたとき、その人がジャーマンアイリスだと言っていたそうだ。(夫人の言)

珍しいことに、今朝は6時過ぎに目が覚めてしまった。昨日久しぶりで遠出して、遠出と言ってもせいぜい吉祥寺から数駅先の所に行き、帰りに吉祥寺で途中下車しただけなのだが、どういうわけか家に帰ってから疲れが出て、早めに床に入ったからだろう。

吉祥寺には、生まれてからほぼ20年の間暮らしていた。そのころはまだ高架とはなっておらず、調布の方に転居したあとで本格的な工事が始まった。だから吉祥寺が徐々に変貌していく様子を、目撃することはなかった。記憶の中の吉祥寺の街は、40年前でその変化は止まっている。

機関車がとまっていた吉祥寺駅の光景、鉱石ラジオの組み立てキットを買い求めた模型屋さん、行くのがイヤでたまらなかった床屋さん、八幡さまのお祭りの日に買った地球ゴマ、毎月「少年」を届けてくれた本屋さん、人気ない早朝の「ダイヤ街」を通って駅に向かった高校時代のこと、学校帰りに友だちと立ち寄って食べた35円のソース焼きそば。

吉祥寺の街の変貌ぶりは耳にしていたが、訪ねてみようという積極的な気持ちを持つことなく過ごしてきたのは、記憶の断片を少しづつ呼び戻し、今まであまり振り返ることのなかった吉祥寺で過ごした時代の思い出を反芻して確かなものとしてから、新しい街の光景に入っていこうと思っていたのかもしれない。

吉祥寺の駅前は、平日の午後なのに、まるで繁華街のようにひどい混雑だった。今は繁華街そのものなのだから、こういう言い方はおかしいのだが、40年前から不意に人混みの中に投げ出されたのだから、「繁華街のように」というのが実感だった。

人波をぬって歩くだけで、記憶と現実との食い違いを修正する余裕など持てるはずもなく、また心のどこかに、正すことを拒もうとする気持ちもあって、ただあてもなくグルグルと歩き回っているというような状態だった。思いがけない疲れの原因は、こういう中途半端な気持ちを抱えながら歩き回ったことにも因るのだろう。

吉祥寺を訪ねるのは、まだ早かったのかもしれない。もしまた行く機会があるならば、もう少し思い出を確かなものとしてから行くことにしよう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月15日

人間重量税

旧暦;4月9日
久しぶりの快晴、気温も平年並みに戻った。

車検の見積もりをしてもらうために、ホンダの営業所に行く。見積もりをしておくことで、必要となる部品がわかり、それをあらかじめ発注しておけば、車検にかかる日数を短縮することができるということだ。

見積金額の三分の一近くが自動車重量税だった。日本列島改造論をぶち上げた田中角栄元首相発案の税らしいが、いったい「重さ」というものに税を掛ける妥当性はどこにあるのだろうか。暫定税率が問題になってから、今まであまり気をに掛けていなかったこの「重量税」というものをあらためて考えてみると、摩訶不思議な税だという気がしてならない。

そのうち人間の体重にも税が掛けられる時代が来るかもしれない。バスとか電車とか、そういう乗り物はやせている人と太っている人とで料金が変わることはない。しかし当然のこと、体重の違いは車両に掛かる負担にも影響する。太っている人がたくさん乗れば、車輪の摩耗は早くすすみ、ブレーキもすり減る度合いが高くなる。

だからやせている人と太っている人とが同じ料金であるのは、不合理この上ないことなのだ。ただ、乗車のたびに体重計に乗り運賃をはじき出すのでは、手間と時間が掛かりすぎて現実的な方法とはなり得ない。そこで「人間重量税」なるものを創設して、1年ごとに体重に応じて税を課すのである。

税金の決め方は、以下の通りとする。
・誕生日をはさむ前後一週間の間に税務署に行き体重をはかる。
・体重に応じて、次の誕生日までの税額を算出する。
・大柄な人が不利とならないように配慮する。

おおざっぱではあるが、「人間重量税」の基本的な考え方は以上の通りである。税金を安くするために、人びとは自分の食事に気を配り、運動不足による太りすぎにならないように、適度な運動をするようになるだろう。国民に健康的な生活を送らせる方法としては、メタボ検診などよりはずっと効果があがることだろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月14日

根岸のノラネコ

旧暦;4月8日
くもり、ほんの一瞬陽がさした。

朝日新聞の「ひと」欄に、『ノラネコの写真で平和を問いかける元戦場カメラマン』として、中川こうじさんという方が取り上げられていた。公園でカメラを向けたノラネコの目が、戦場の子どもの目とそっくりだった。それ以来ノラネコを撮り続け、「のらねこ」の写真集を2冊出版した。こんなことが紹介されていた。

この記事を読んだとき、つい最近、小石川植物園に行く途中の、お寺の向かいの家の戸口に貼られていたポスターのことを思い出した。それは捨て猫の写真展を案内するものだった。もしかすると、「ひと」欄で紹介されたカメラマン中川さんの写真展だったかもしれないと思い、撮影しておいたそのポスターの写真を探しだして確かめてみた。しかし、ポスターに載っていた写真家の名前は違っていた。

捨猫写真展
 写真/溝渕和人 写真集発行/静岡新聞社
 会期 平成20年4月26日〜5月25日
    10:00〜18:00 
 会場 路地ギャラリー 夢の通りみち
    (本郷菊坂まちのえき)
 東京都文京区本郷4−33−11 倉島ビル
 主催:文京動物環境支援協会 山猫庵
 http://yamkenji.hp.infoseek.co.jp/syasinnten.htm

写真集「捨猫」は、上記ウェブページで紹介されている。それによれば、溝渕和人氏は、動物ボランティア「キャット28(ニャーとよむらしい)」の代表を務め、浜松で捨て猫の救済活動をしているそうだ。

先日根岸の子規庵を訪ねた帰り道、「羽二重団子」の建物脇の細い露地の奥にネコがいるのを見つけた。写真を撮るために近づいたのだが、そのネコはすぐに逃げる体勢をとり、こちらが笑顔を浮かべ敵意がないことを示しても、警戒心を解くことはなかった。

体はやせ細り、顔は傷だらけ、厳しい環境で生きているノラネコであることは一目で分かった。近頃これほどノラネコ然としているネコを見ることはあまりない。逃げようとするところを、なんとかとどめて撮った写真を、「里ふくろうフォト」に載せておいた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月12日

「徹子の部屋」のマンボウ氏

旧暦;4月7日
くもり、寒い日がつづく。
台風第2号が発生して、明日の夜には関東の東の海上へ進むらしい。

北杜夫氏が、娘の由香さんと一緒に「徹子の部屋」に出演した。ドクトルマンボウ氏といえば、躁鬱病であることを自ら認め、それを話のタネにエッセイを書くものだから、世間に知れ渡ることとなった。幸い今のところは、鬱期ではないゆえ、テレビ出演が可能となったということだった。

少なからず言語不明瞭な点があるのは、これはもう仕方ないことである。聞き取りにくい場合は、娘の由香さんや徹子女史が聞き直したり、マンボウ氏にかわってあらためて繰り返して言ってくれた。

かつてマンボウ氏が「徹子の部屋」に出演したときのビデオ、あるいはご母堂の斉藤輝子茂吉夫人のビデオも流されたが、内容が盛りだくさんになりすぎて、誰に焦点を当てているのか分からなくなってしまった。老齢を押してせっかくマンボウ氏御当人が出演したのだから、たとえ不明瞭であっても、マンボウ氏が語る場面を多く設け、我慢強く話を聞くことに徹した方が良かったのではないだろうか。

ただ、マンボウ氏の今を聞きたいと思っても、それを語るのは体力的にもう厳しいのかもしれない。ソファの縁に両手を置き、体を支えるようなしぐさを何回も繰り返していた。座っていることすら辛そうに見えた。そういう姿は、見るに忍びない。読者サービスのことなど思わずに、もうテレビに出演などしない方がいいのだろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月11日

「ぐうたら交友録」のマンボウ氏

旧暦;4月7日
雨、今日も寒い一日だった。

ときどきインターネットにつながらなくなる。そういう時は、ルーターの調子が悪いのだ。居間の本棚の上に置いてあるルーターをリセットすれば、復旧することはもう分かっている。リセットといっても大げさな操作をするのではなく、電源をいったん切ってから、もう一度入れ直すだけのことだ。

ルーターをリセットしてから、その横に積み重ねられていた本に何気なく目をやると、その一番上のものが、「ぐうたら交友録」だった。なにしろ本棚の上に長年置かれていたものだから、ホコリがうずたかく積もっている。ホコリが飛び散らないように、そっと手にとって目次を見ると、最初の項目が「北杜夫氏の巻」となっていた。

明日、北杜夫氏がテレビ出演するという時に、ホコリをかぶった本の中に、氏に関する文章を見つけたのである。不思議なことである。こういう出会い(再会)は、大切にしなければならない。

「ぐうたら交友録」の著者は、すでに鬼籍に入ってしまった弧狸庵こと遠藤周作氏、昭和48年に講談社から出版(290円)されたものだった。昭和48年といえば私もまだ20代、若い時から「ぐうたらもの」を読み、ぐうたら生活にあこがれているようでは、将来もたかがしれている。

積もりに積もったホコリを払って読み始めれば、脳の裡を占めるホコリの底から、昔たどった話の筋が頭をもたげてくる。

マンボウ氏は船医として航海をしていた途次、ハンブルグに上陸する。弧狸庵先生は、その時のことが、「ドクトルマンボウ航海記」では曖昧に書かれていることに疑問を感じ、「ぐうたら」とは程遠い執着心をもって、その謎を解いていく。そしてマンボウ氏には気の毒ではあるが、すべての謎が白日の下にさらされてしまう。

「ぐうたら」は、「ぐうたら」のままでいれば人に害を及ぼすこともないのだが、時として思いがけないひらめきと執着心を見せる。マンボウ氏もその餌食になって、夫人との馴れ初めを暴露されることとなってしまった。

なお、この「ぐうたら交友録」は、今はネット書店で電子書籍として販売している。弧狸庵先生も、自分の著作が電子書籍という形で読まれるなどということは、夢にも思わなかったであろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月10日

リンクの条件

旧暦;4月6日
雨。居間でガスストーブをたかなければならないほどの寒さだった。

「里ふくろうコム」の「情報ポータル」を、カテゴリー別に整理するためその準備をした。各新聞社が運営するニュースサイトへのリンクも設けようと思ったのだが、リンクを張る際には連絡することを条件としているところもあり、そこへのリンクはとりあえず見送ることにした。

一昔前には、リンクを張らせていただく際、相手方に連絡した方がいいのか、それともそういう連絡をすること自体、相手に煩わしいと思いをさせてしまうかもしれないからやめたほうがいいのか、という具合にいろいろと気を使うことが多かった。

しかし今では、相手に無断でリンクを張ることは、相手の権利を侵害する行為には当たらないという考え方が一般的となり(フレーム形式は避けるべきだが)、以前よりは気を使う必要がなくなった。もちろん営利を目的としない場合のことである。

毎日新聞社が運営する「毎日jp」は、リンクを張る際の連絡を必要としなかったので、こちらにはリンクをはらせていただいた。リンクを張る際の条件は、以下の4点だけだった。

<リンクの条件>
・営利目的でないこと
・毎日jpからのリンクであることを明記すること
・いわゆるフレームリンクなど、毎日jpの内容がリンク元のサイトの一部であると誤認される表示形式になっていないこと
・記事本来の編集意図を逸脱しないこと
(出典:http://mainichi.jp/info/etc/link.html
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月09日

最後のテレビ出演か?

旧暦;4月5日
くもり

北杜夫氏が、「徹子の部屋」に出演するそうだ。「アカイヌ王国」が、メールでそのことを知らせてきてくれた。

ドクトルマンボウ氏も御年81歳で、『ヨタヨタで後期高齢者というより末期高齢者』の状態らしいが、父上の齋藤茂吉氏よりは、もう10年ほど長生きしている。毎日どのようにお過ごしなのだろうか。いまのところ、阪神の調子がよくて、毎日の生活にも張りがあるのではないかと思われる。

今回の出演についても、最初は周囲の反対があったそうである。そういういきさつがあったことを思うと、ヒョッとして今回を限りとして、テレビ出演はもう望めないかもしれない。録画して永久保存版として残しておくことにしよう。
 「徹子の部屋」 5月12日(月)PM.1:20〜1:55
posted by 里実福太朗 at 23:41| 里ふくろうの日乗

2008年05月08日

地震

旧暦;4月4日
くもり

昨夜、と言ってももう今日になっていたが、2時前にかなり大きな地震があった。まづ、ドスンという感じがあり、地震が来るなと思っていると、案の定ユラリユラリと揺れ始めた。しばらく揺れの大きさをはかりながらそのまま座っていたところ、じきにおさまった。

しばらくしてまた揺れが始まった。同じように座り続けていたが、今度はどんどん揺れが大きくなり、さすがにこのまま座っていたのでは、二階が崩れて落ちてきて、押しつぶされるかもしれないという恐怖感に襲われ、慌てて席を立ち、階段下で様子をうかがっていると、揺れは次第におさまってきた。

テレビの速報では、千葉県北西部は震度4と報じていた。震度4ともなると、やはり悠長に机の前に座ってはいられなくなる。ただ、不安定な状態で乱雑に積み重ねられていた本は、不思議なことに崩れることはまったくなかった。

昨日内田百閧フ『忙中謝客』(筑摩文庫)を読んでいたら、その中の「入道雲」に、次のような一節があった。
『その朝は雲脚の速い空が段段に暗くなって、叩きつける様な雨が降り出した。降っている間に空が明るくなったり、又かぶさったりした後、まだ降っている儘にその雲が何処かへ行ってしまったと思われるような霽れ方で、急に青空が輝いて、すがすがしい風が吹き渡った。』

この後、百鬼園先生は俥で外出するのであるが、途中で地震に襲われる。
『左手の石垣が段段高くなる所まで来ると、突然後の方から非常に騒騒しい貨物自動車が追っかけて来る様であった。地響きをたてて私の俥に迫るのかと思いかけた途端に、乗っている俥をひどい力で横にゆすぶられる様な気がして、轟轟と云うものすごい響きが前後左右からかぶさって来た。
「地震だ。大地震だ」と咄嗟に考えた。
 俥屋が立ち竦んでいる地面から、どんどん突き上げて来るものがある様で、俥の上にじっとしていられない。
「降ろしてくれ、大地震だ」と私が云った。』

百鬼園先生がこのように描いた地震が、関東大地震だった。たぶん百鬼園先生は、地震発生前の空の様子を、地震との因果関係を意識しながら書いたのではないだろう。しかし引用した部分に描かれた不安定な空模様は、はからずも地震発生直前の様子を伝えていておもしろい。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月07日

イチハツが咲かないなんて

旧暦;4月3日
快晴

小石川植物園に行ったのは、早いもので一週間前になる。あの日も今日のように陽差しの強い日だった。前回は帰りにバスを利用して、バス停「上野公園」で下車した。今回は往きもバスを利用する計画で、京成上野駅で降りて大塚駅前行(上60)のバス停をさがした。

反対方向へ行くバスの乗車場所は、普通は道路の反対側にあるのだが、横断歩道を渡って、バス停があるだろうと見当をつけたところを何回も行ったり来たりしても、他の路線のバス停はあるのだが、大塚駅前行のバス停が見つからない。「もしかして…」と思い、引き返して前回降車したバス停に行って見ると、そこが降車場所であり、乗車場所でもあった。

イチハツが見られる場所は分かっている。受付から脇目も振らず、その場所に向かった。薬草保存園に足を踏み入れた時から、心の中には、花を開いたイチハツのイメージがおぼろげに浮かんでいた。園内の片隅に目を向けると、遠くの方に紫色の小さな塊がいくつも見えた。再び訪れたことが無駄足とはならないことを確信した。

もう急いでいく必要はない。ゆっくり近づくに従って、紫色の塊は少しずつ拡散して、それぞれが独立した一つの花になっていく。そしてかなり近づいたとき、家のニオイイリスから思い描いていたイチハツの姿を少し修正する必要を感じた。

イチハツの花は、思いがけなく控えめな花だった。ニオイイリスより一回り小さく、花をつける茎も長くはなく、華麗さからは離れたところにある繊細さを感じさせるたたずまいだった。周囲に強烈な生命力をまき散らすことはなく、その一画だけがはかなさを感じさせる雰囲気をただよわせていた。

こういったイチハツの花の在り方が、正岡子規の心に響いたのかもしれない。さくら花よりもなおいっそう短い命を、控えめに灯して消えていくイチハツが、「我目には今年ばかりの春」と詠わせたのかもしれない。華やかさがつきまとうさくら花では、決してこの歌に詠われた心境は生まれてこないに違いない。

あと1箇所、訪れなければならない場所がある。時刻は3時に近い。イチハツの花を見れば、そこに長居する理由はない。早々に立ち去った方が良い。バスの所要時間は、予想を大きくはずれることがある。とっさに判断して、地下鉄を乗り継いで行くことにした。

JR鶯谷駅をおり、線路伝いに歩けばすぐ「子規庵」に行き着けるものと思っていたが、ホテル街に迷い込んでしまい、人目を気にする必要などないのに、どうしても早足になって歩き回っているうちに、住宅表示が根岸ではなくなってしまった。もう一度振り出しに戻り、地図を頼りに歩き始めたら、今度はすぐに見つかった。

公開時間は4時まで、時計は3時45分を指していた。15分しか見学することはできないが、どうしても確かめておきたいことがあったので、迷わず入場券を求めた。もう見学者は誰もいなかった。

庭に面した六畳の病間には、子規が生前愛用した座り机が置かれていた。病魔に冒された子規の左足は曲げることができなくなり、机の一部をくりぬき、そこに膝を入れて使ったという。確かに机の手前の一部はくりぬかれていた。その机の前に座布団が置かれていた。そこに座り、しばらく庭を眺めていた。子規もこんなふうにして庭を眺めたのだろうか。

その位置からは、イチハツは見えなかった。その部屋からもう少し庭を眺めていたかったが、時間も残り少ないので、いったん外に出て庭の方にまわった。狭い庭だから、一目見てイチハツは咲いていないことは分かった。受付にいた人に、
「イチハツはまだ咲いていないのですか」
と訊ねてみた。
「イチハツはなくなってしまったんですよ。鳥がいろいろな植物を運んできて、子規の頃とは、庭の様子もすっかり変わってしまいまして」
こんな答えが返ってきた。

子規が亡くなってから一世紀が経ってしまい、その間戦災にもあったのだから、仕方がない気もするが、しかしイチハツの咲かない子規庵は、訪れる人に何をもたらしてくれるのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月06日

名実ともに立夏

旧暦;4月2日
久しぶりの快晴

昨日立夏を迎え、昔の暦通りの初夏そのものの一日だった。連休の最後の日に、やっと好天に恵まれたが、高速道路の渋滞で車のなかにとじこめられた人びとにとっては、かえって曇天の方が良かったに違いない。気象予報士泣かせの連休の天気だった。

子どもたちが、まだ親と一緒に旅行に行くことを厭わなかった頃には、渋滞に巻き込まれるのは覚悟のうえで、泊まりがけの遠出をすることもあった。渋滞の列に仲間入りしていることで、ゴールデンウィークの雰囲気を味わっているようなところもあった。

ガソリンが再値上げされたばかりゆえ、遠出をひかえる人が多いのではないかと思っていたが、なんのなんの今日の上りの高速道路は数十qの渋滞だったらしい。むかしも今も、連休の過ごし方はあまり変わっていないということか。

体調がすぐれなかったこともあるが、連休中は遠出をひかえ、自宅近辺を少し歩いただけだった。おかげで体調もほぼ元に戻り、若葉の季節が始まり、アオバズクもそろそろ渡ってくる頃となった。
posted by 里実福太朗 at 23:40| 里ふくろうの日乗

2008年05月04日

尻かくして頭かくさず

旧暦;3月29日
くもり・雨・薄日

降ったりやんだりのはっきりしない天気だった。午後薄日がさしてきた頃を見はからって、またカワセミをさがしに行った。場所は前回に同じく、谷津を縦断するように流れる細い川。

今回は残念ながら、出会うことはなかった。そのかわり、田植えのすんだ谷津田でいろいろな鳥を見かけた。なかでも、キジがいたのにはビックリした。キジは、ケーンケーンと鳴くと言われるが、実際に耳にした声は、調子の悪いスピーカーのように、ひび割れていた。

そんな特徴のある鳴き声だから、草むらに隠れていても、鳴けばその存在を知られてしまう。だから、悲しい昔話にあるように、「キジも鳴かずば撃たれまいに」と言われるのだろう。

しかし、草むらの中であれば、鳴き声でキジがいることは分かっても、さがし出すのはなかなかむずかしい。ところが、体の大部分を草むらの中に隠していても、草むらの上に鮮やかな赤い色、頭部の赤い肉腫がちょこんと現れていれば、そこに潜んでいることがすぐバレてしまうのだ。

「頭かくして尻かくさず」ということわざは、キジの習性に由来するらしいが、キジが草むらに隠れた実際の様子を見ると、「尻かくして頭かくさず」と、逆にした方がいいような気がする。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月03日

紫色の花が咲いた

旧暦;3月28日
くもり・雨
・ガソリン価格(会員):151円/L、佐倉市セルフスタンド
・マリーンズ唐川投手、連敗阻止、2勝目。投手陣が総崩れの中、高校を出たばかりの新人が連敗をとめるのだからたいしたものだ。

「さくらのブログ」のサーバがダウンして二日目、復旧は明日になりそうだ。サーバは交換すればよいのだが、データの復旧に手間が掛かるのだろう。転ばぬ先の杖は用意していなかったのだろうか。

二日間というものまったく外に出なかったが、足慣らしをかねて車で買い物に出かけた。車の運転はまったく問題がなかったが、車からおりて歩きだすと、フワフワと空中を浮くような感じがして、地にしっかりと足を踏ん張れない。こういう感覚を味わうのは久しぶりのことだった。

子どものころ、ときどき扁桃腺が腫れて高熱を発することがあった。そういうときは、朝は熱が下がるのだが、夕方になるとまた上がるということの繰り返しが何日も続き、やっと平熱に戻っていつもの生活に戻れるのは、ほぼ一週間後、ということも多かった。熱が下がって初めて外出するときに味わったのが、この浮遊感だった。

今朝白色のニオイイリスによく似た紫色の花が咲いた。ヒョッとしてイチハツかもしれないと思ったが、写真におさめて小石川植物園で撮ったイチハツの花と比べてみたら、違いがかなり際だっていた。紫色といっても、イチハツの紫は青みが勝ち、今朝咲いた花は赤みが強かった。夫人の言うとおり、白のニオイイリスと同じ種類だろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2008年05月02日

天の配慮

旧暦;3月27日
はれ

体調不良のため、二日間「日乗」をお休みした。二日前の水曜日、小石川植物園に行きイチハツの開花を確かめ帰宅したあと、喉・目、加えて体の節々の痛みに襲われた。それが熱の出る前兆だった。

珍しく11時頃床に入ったが、一晩中ウツラウツラの繰り返しで、徐々に体の内側から熱がわき出てくるのが分かった。朝方には目の奥の痛み(喉の痛みでもあったか)のため、寝ているのもつらくなってきた。横になっていると、痛みの発生する箇所に神経が集中して、よりいっそう痛みが増すように感じられるからだろう。

昨日はこんな状態が一日中続き、パソコンに向かう気力などまったくおきてこなかった。今日の昼頃になって、やっと痛みも少しづつひき始め、夕方になってパソコンの電源を入れた。パソコンを遠ざけたのはわずか二日ばかりだったけれど、パソコンの前に座ったとき、頭の中のよどんだ空気が払拭されて、熱が引いたあとの心地よさを感じた。

パソコン漬けの日々が続くと、体のいろいろな面にひずみが蓄積されていく。それが限界に達したときに、今回のような状態をむかえるのだろう。体の所有者が何も手を打たず放っておくと、体の方がギブアップして休むことを強制的にうながす。そういうことだったのだろう。しかしそういう天の配慮にばかり頼っていては、そのうち天から見放されてしまうかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗