2009年02月27日

確定申告の実際(2)

準備から申告データの送信までの流れを確認しておこう。
【準備】
1.利用環境の確認
2.電子証明書の取得
3.ICカードリードライターの用意
4.利用者クライアントソフトのダウンロード・インストール
5.開始届出書の提出
6.利用者識別番号等の取得

7.作成コーナー事前準備
(1)信頼済みサイトの登録及びレジストリ情報の更新
(2)ルート証明書のインストール
(3)署名送信モジュールのインストール
(4)JPKI 利用者クライアントソフトのインストール
*.7(4)は、4で行っていれば省略可
*.「作成コーナー事前準備セットアップ」ツールを利用すれば、(1)〜(4)をまとめて行うことができる。

8.ブラウザ(インターネットエクスプローラー)の設定
(1)ActiveXの利用可能設定
(2)ポップアップブロックの解除

【作成開始】
https://www.keisan.nta.go.jp/h20/ta_top.htm

1.初期登録
(1)作成コーナー・税務署への提出方法の選択
 1a.利用する作成コーナーの選択
  →所得税の確定申告書  
 1b.作成した申告書等の提出方法の選択
  →電子申告(e-Tax)により提出  
(2)電子申告を行う際の確認事項(準備編)
(3)電子申告を行う際の確認事項(登録編)
(4)住所等入力

2.作成開始
初めて作成する場合は、このまま進めていく。私の場合は、去年この「作成コーナー」を利用して申告書を作成し、それを印刷して郵送した。その時のデータを保存しておいたので、それを利用して作成することができる。その場合は、「作成再開」ということになる。

この後は、源泉徴収票等に基づいてデータを入力する。すべてのデータを入力したあと、入力内容を確認してから申告データを送信する。最後に「ご利用ありがとうございました」と表示されたら、「終了」ボタンをクリックしてやっと完了ということになる。なお念のため、ステップごとにデーターを保存しておいた方がいいだろう。送信したデータも、もちろん来年のためにも保存しておく。
posted by 里実福太朗 at 23:13| 里ふくろうの日乗

2009年02月26日

確定申告の実際(1)

しばらく前のテレビニュースで、あの石川遼クンがe−taxの普及活動に担ぎだされている様子を伝えている場面があった。パソコンの前に座って何やら操作して、電子申告が簡単にできるようなかんじのことを言っていた。

電子申告は、気持ちがなかなかそちらの方向に向かわず、準備の途中で中断していた。昨日気持ちを引き締め集中力を高めて、やっと残りの準備作業を行い、申告データの送信を完了させることができた。準備の段階から申告データの送信までを振り返って見ると、遼クンがチョコチョコとしてできたようにはいかなかった。

準備段階のことについては、以前3回に分けて書いておいた。
〔確定申告の季節がやってきた〕
(1)http://fukulog.sato296.com/article/25550217.html
(2)http://fukulog.sato296.com/article/25611829.html
(3)http://fukulog.sato296.com/article/25676778.html

3回目の最後は、次のような言葉で終わっていた。
『(ここまでかかった費用の)合計は2890円となる。「e-Tax」を利用したことで控除される金額が、これ以上であればいいのだが、さてどうなることだろうか。』

昨日データを入力して、「納める税金」の額はすでにもとめられている。「電子証明書等特別控除」の額も、申告内容確認票Aに示されている。結果を先に示してしまうと、控除を受けられるほどの収入はなかったということだった。結局、電子申告をするためにかかった費用を取り戻すことはできなかったということになる。

電子申告をするために余計な出費を被り、準備の時間もかなり掛かりいいことは何もなかった。しいて言うならば、申告書を提出する手間が省けたということだ。ただ、来年は準備に費やす時間はなくなるはずだから、たぶん電子申請の利点を享受できるようになるのだろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月24日

エプソンの互換カートリッジ

新しく購入したプリンターを使い始めてから2週間ほど経つ。今まで使っていたキャノンのプリンターは、ウェブページやモノクロ文書などの印刷に利用することにして、新しいエプソンのプリンターは写真印刷専用として使うことにした。

エプソンのEP-301というプリンターは印刷スピードも速く、出来上がり具合も満足できるレベルには達している。そういうプリンターが、1万円を少し越える価格で購入できるのだからこれは驚くべきことだ、と購入当初はそう思った。しかし使っていくうちに喜んでばかりいられない事態になり、今では評価をだいぶ下げてしまった。

評価を下げた最大の要因は、印刷コストの悪さに尽きる。購入する前に、価格COMのユーザーレビューを見て、印刷コストの評価が低いことは分かっていたが、実際に使ってみると予想以上の悪さだった。

スイスイと気持ちよく印刷できるものだから、調子に乗って2L版で写真をどんどん印刷したら、すぐインクがなくなってしまった。インクタンクが小さいから早くなくなるのは仕方がない。ただ交換用のインクカートリッジが非常に高価なのだ。

純正品の6色パックは、なんと6000円近くするのだ。この価格だと、2パック買えばEP-301をもう1台買うことができる。プリンターの本体と消耗品との価格の違いは、これはもう常軌を逸していると言うべきだろう。

どうしてこのような価格設定を行うのか、その答えはすぐに推察できる。プリンター本体を買い換えることはあまりないが、消耗品は継続的に必要となる。となれば、本体の価格を低く抑えて買いやすくして、消耗品の価格を高くした方がメーカーにとっては安定した収益が見込まれるということなのだ。

メーカーは純正のカートリッジを使うよう勧めるが、高すぎて高すぎて到底買おうという気持ちにはなれない。そういうわけだから自ずと互換品を買うことになる。量販店に行けば、いくつか互換製品が並んでいる。ただ、EP-301は昨年末に発売された製品なので、まだ互換カートリッジの適合機種に含まれていないことの方が多い。

G&G製の互換カートリッジの陳列棚には、わざわざ「EP-301には対応していない」という貼り紙がしてあった。OHMの製品には、そういう貼り紙はなかったが、IC50互換(EP-301のインクカートリッジはIC50シリーズを使う)の6色パックの箱に記載されている適合機種のリストには、EP-301が含まれていなかった。

ただ適合機種リストの中には、純正品のIC50シリーズの対応機種も載っていたので、利用できる可能性も残されている。店の人に尋ねても、対応機種のリストに含まれていないのだから、答えは自明である。あとは、互換製品でも4000円近くするものを購入して、自分でためしてみるより仕方がない(1色だけ購入して試してみる方法があったが、その時は6色パックを買ってしまった)。

さて、OHMのIC50互換カートリッジはエプソンのEP-301に適合したのかどうかということだが、さいわいにして4000円を無駄にすることにはならなかった。純正品で印刷した写真を、純正・互換品が混在する状態で印刷して比較してみたところ、私の肉眼ではその差を認めることはできなかった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月22日

「診」ると「見」る

昨日は私にしては早起きして入院している人を見舞い、約7時間も病院にいた。今日も私にしては早起きして、夫人のアッシー君をつとめた。夕食後は、今度は息子に付き合って車で市川まで行き、友人宅で不要となった大きなテレビを積み込み家に運んだ。久しぶりで早起きの二日間を過ごした。

病院では、昼食をとるために病室を出た時以外は、ほぼ入院している人に付き添っていた。夜はやはり眠れないのだろう。夜の分の睡眠時間を、昼間に取り戻す。眠りに落ちている時の息づかいは、以前に比べてみれば落ち着きを取り戻し、ゆったりと静かに繰り返されていた。

手術後は、ICU→CCU→準CCUという具合に順序立てて移ってきた。部屋が一つ変わるごとに、一段ずつ普通の生活ができる段階へとのぼっているのだろう。そういう息づかいを聴いていると、そのことが実感として分かってくるような気がする。

部屋の隅の上部には、休んでいる人の心肺などの状態を示すモニターが設置されている。眠りに入っている時でも、そこに映し出される数値は、微妙に変化している。たまにモニター上部のランプが点灯して、丸みを帯びたチャイムのような音を発することもある。何らかの注意をうながすためのものなのだろうが、そのまま数値の推移を見守っているうちにきえてしまう。

以前はランプが点灯し続け、音も急を告げるように鳴り続けることがあった。その時は、確かに数値の急激な変化があった。しかしそういう急激な変化がなくても、ランプが点きチャイムが鳴ることがあるのだ。そういう時でも、反射的にモニターの方に顔を向けてしまい、眠る人とモニターとを交互に注視する。そしてそのうちにランプは消えてしまうが、その間、寝ている人の顔は苦痛にゆがむことなどなく、安らかな眠りを続けている。モニターに映し出される数値より、その表情の方が安定している状態であることを教えてくれるような気もする。

近頃の近代的な病院の設備には、コンピュータが不可欠のようだ。患者の身体の状態はすべて数値化され、コンピューターで処理される。医師・看護師はそういう数値を見て患者の状態を把握しようとする。付き添いの人間も、初めのうちはモニターに映し出される数値を見て、病人の状態を見極めようとするのだが、素人には数値の変化が意味することなど分かりようもなく、次第にモニターの数値より、表情とか息づかいをみていた方がいいのではないかと思い始める。

現代の医学では、人間の身体的な状態をすべてデータ化して、そのデータを「見」て治療方針をたてているのだろう。きっと患者の状態を直接「診」る時間は減り、データをコンピュータで分析する時間の方が増えていることだろう。ベッドの脇のイスに座り続けて、寝顔をみているうちにそんなことを思い始めていた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月18日

花粉症なのか?

今年はスギ花粉が飛散する時期が早くやってきたそうだ。例年なら3月に入ってから飛散量が最高の状態になるらしいのだが、今年はまだ二月だというのに、すでに例年並みの飛散量になったらしい。花粉症の症状が重い人は、さぞかし辛い思いをしていることだろう。

私も2・3年前ほどから、突然何の前ぶれもなく花粉症にみまわれた。まず目のかゆみから始まり、そしてクシャミ・鼻水に悩まされた。いっぱしの花粉症患者となってしまっていたのだ。ところが、先週あたりから大気中に花粉が充満しているというのに、今年はまだ目にかゆみを感じない。

先週の金曜日には佐倉の城址公園に梅を見に行き、土曜日には調布に出かけ、さらに浅草にも出没するという具合に、戸外で過ごす時間が多かったのに、花粉症の症状がまったく出なかった。突然やってきたのだから、去る時も突然訪れてくるのかもしれないと独り決めしていたのだった。

日曜日にはカワセミを探しに出かけ、川沿いの小道を1時間ほど歩いた。そのあと車に戻ってからがいけなかった。クシャミを連発して鼻水が止まらない状態になってしまったのだ。いよいよ花粉症が始まったのかもしれなかった。家に戻ってからもそういう状態が続き、夜になってもいっこうに治らなかった。深夜ブログを書いている時は、両方の鼻の穴にティッシュを詰め込んで、文字通り水のような鼻水がたれて落ちないようにしておかなければならなかった。しかし風邪という可能性も捨てきれず、念のため風呂に入らず、寝る前に風邪薬を飲んでおいた。

次の日、起きた時には鼻水はピタリと止まっていた。昨日の症状がウソのように消えていた。もちろん熱などない。ということは風邪ではなく、やはり花粉症が出たということなのだろうか。それを確かめるためには、マスクをせずに外に出て体がどのように反応するか確かめてみればいいのだろうが、鼻水タラタラの状態になるかもしれないことを思うと二の足を踏んでしまう。

ということで、月曜・火曜と外に一歩も出なかった。庭にすら下りなかった。そして今日、必要があって船橋・千葉に行ってきた。ほんとうに花粉症になったのかどうかを確かめるためには、マスクなどしない方がいいのだが、そこまでする気力はなく、家を出る時からマスクをして出かけた。そして今、このブログを書いている時、鼻の穴にティッシュで栓をする必要はない。このようなわけで、いまだに花粉症になったかどうかの判断をつきかねているのである。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月15日

浅草の贈り物

昨日、神谷バーには4時半頃に着いた。「バー」と呼んではいるが、バーというよりは酒場といった方が良い雰囲気の店だった。六人掛けのテーブルが所狭しと並んでいる店内は、すでに満員の盛況だった。携帯電話で彼が教えてくれた通り進んで行くと、突き当たりの壁際に懐かしい顔ぶれが並んでいた。テーブルの上には、電氣ブランと生ビールの大ジョッキが三つづつ並び、すでに大分すすんでいるようだった。

テーブルの端に見慣れないおじさんが一人座っていた。私が近づくと、「それじゃ」と言ってそそくさと立ち去った。彼にそのおじさんのことを訊くと、まったく見ず知らずの人ということだった。彼らが店に入った時、店はすでに満杯状態で、やっと空いている席を見つけたのだが、そのおじさんが先客として座っていた。相席をお願いすると、快く応じてくれたそうだ。私が来たことで、そのおじさんが遠慮して退散したのかもしれなかった。

さっそく彼らのマネをして、電氣ブランと生ビールを注文した。電氣ブランはかなり強いお酒で、口にすると独特の味わいがある。神谷バーのウェブサイトに載っている説明では、
『デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。』
となっている。独特の味わいは、薬草が含まれているからだろう。ただ、薬臭さはまったく感じなかった。

乾杯のあと近況を話してからは、とりとめのない雑多な話題が飛び交い始め、勤めていた時とまったく同じように時間が流れていった。2時間ほど過ごしてから、場所を移すことになり店を出た。店を出て右に少し進んだところに、神谷バーの賣場があるのだが、彼がツカツカとそこに近づき、賣場の人と話し始めた。私たちが近づくと、賣場の人が、背後の棚に並べてあった細長い箱を取り出して、目の前に置き始めた。彼が、
「aさん、そんなことしちゃだめだよ」
とおだやかな口調で制した。しかし、
「来る時は、電話して下さいよ」
と言いながら人数分の箱を並べ終わると、私たちにそれを受け取るようにうながした。電氣ブランをお土産として渡してくれたのだった。

学生時代、彼が神谷バーでアルバイトをしていた時、公私にわたってお世話になった人が、その賣場にいたaさんだった。卒業してから40年近く経つが、今なお彼との縁が続いていて、初対面の私たちにもそんなもてなしをしてくれたのだった。そのお土産は、彼の人柄がもたらしてくれたものであると同時に、aさんが長い間暮らしてきた浅草という町が贈ってくれたような気もする。

〔お土産の電氣ブラン〕
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posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月12日

梅とアフガン

テレビのニュースによると、梅の花は紅梅も白梅も、もう満開のところもあるそうだ。うかうかと日を送っているうちに、花の見ごろが過ぎてしまうかもしれず、そうなってしまうと来年の花の季節を待たなければならなくなる。それではちと困ると思っていたところ、桜の季節を思わせる暖かさで風もほとんどなく、今日を逃せば、本当に梅の花を見られないことになってしまうやもしれず、昼食後すぐに観梅に出かけたのだった。

去年は都心の庭園を巡って、梅の花を見てまわったが、地元の佐倉城址公園にもちょっとした梅園があるゆえ、今回はそこに行ってみることにした。

あせって見に来る必要などはなかった。梅園の梅は、まだ2〜3分咲きだった。ただ小山状になった少し高いところは、日当たりが良いせいか、すでに満開を過ぎ色あせている花もあった。

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小山を下ったところにある梅林は、まだつぼみをつけた枝も多く、場所によって開花状況にかなりの差があった。全体的にみれば、まだ梅見には少し早い感じがした。

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梅園の近くの姥が池では、十羽ほどのカモが浮かんでいた。近くのベンチに座って一休みしていると、見たこともない大きな立派なイヌを連れた二人連れがやってきた。たぶん夫婦なのだろう。大きなイヌのリードは奥さんが持ち、ご主人ははるかに小さなイヌを連れていた。

(りっぱなイヌだなー)
と少し大きな声でつぶやいておいてから、
「写真を撮らせていただけませんか」
と頼んだら、
「どうぞ、どうぞ」
と二つ返事でお許しが出た。

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「何という種類のイヌなんですか」
「アフガンですよ。アフガニスタンの…」

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これだけのイヌになると、連れて歩けば注目の的になるに違いない。奥さんはアフガン君を連れて威風堂々と歩いている。黒に白毛が少し混じった小さなイヌを連れているご主人は、心もちうつむき加減で元気がないように歩いている。せっかく写真を撮らせていただいてこんなことを言うのも何だが、そんな様子を見ていると、なんとなく夫婦間の力関係が想像されてくる。蛇足とは思うがあえて書くと、アフガン君のシモのものを始末していたのは、ご主人だった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月11日

ユルイ関係に乾杯

先日、元職場の同僚から電話があった。彼は一つ下だから、1年前には60歳を迎えているはずだが、まだ退職はしていない。以前聞いたところによると、家のローンが残っていて辞めるわけにはいかないから、65歳までは勤めを続けるということだった。

用件は、かつての飲み仲間が集まるから、久しぶりで会って一杯やらないかというお誘いだった。飲み仲間といっても酒豪が集まったできたグループなどではなかった。何がきっかけで彼を含めた4人が集まるようになったのか、その経緯はあまりはっきりしない。

何かを目的とした功利的なグループというものは、なかなか長続きしないものだ。自然発生的に生まれたユルイ関係で結ばれた人間同士のつながりの方が、意外と長続きするものと思われる。だから、すでに退職した人間にも、声を掛けてくれるのだろう。

再会の場所は、電話をくれた彼が、学生時代にアルバイトをしていた浅草の神谷バーではどうかということだった。4人のうちの一人が、一度行ってみたいと口にしたことから候補にあがったらしい。私も神谷バーのデンキブランという飲み物のことは耳にしたことがあったが、まだ一度も口にしたことがなかったので、二つ返事でそこに決まった。

その後何回か彼の都合が悪くなって、延び延びになっていたところ、今日再び彼から電話があって日時が決まった。また、メンバーの一人が今年の3月で退職するので、その送別の会も兼ねることになった。去年の3月で嘱託を辞めてから一度も顔を合わせる機会がなかった。ほぼ一年ぶりの再会ということになる。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月09日

お見舞いの手土産

先週の土曜日に、一週間ぶりでお見舞いに行った。今までのお見舞いでは、飛田給駅から榊原記念病院まで行くのにバスを利用したが、その日は天気もよく、歩くにはうってつけの暖かい日和だったので歩くことにした。

家に籠もってパソコンのディスプレイを見つづける日が続くと、3日目あたりから目がショボショボとしてきて、脳が弾力を失って重くなり、気持ちが内へ内へと入り込んでいく。そうなってくると、自分では集中して作業をしているつもりでも、極端に効率が悪くなっているのだ。

そういう状態を解消するためには、パソコンの前から離れて少し体を動かしただけではダメで、思い切って違った環境に身を置かなければならない。金曜日には映画館に行き、土曜日には電車に揺られ、そして歩いて病院に見舞いに行き、日曜日は買い物に行くという具合に過ごしたおかげで、今朝は心も頭もスッキリと軽くなっていた。

外には見知らぬ他人がいたり、車が走っていたり、雨が降ってきたりで、自分の内に目を向けている余裕なんてなくなってしまう。外に出るということで、内に向かっていた視線をは否応なしに外部に向けざるを得なくなり、そのことが凝り固まった心と頭を解きほぐしてくれる。

自ら外に出て行くことのできない入院患者にとっては、見舞客を迎えることで、かろうじて外の世界と接する機会を持つことができるのだ。幼いころ熱を出して寝込んでいた時のことを思い出してみれば、外に出られない者にとって、見舞客が持ち込んでくれる外の世界がどれほど貴重なものかということも少しは分かるような気がする。ただ会いに行くということだけ、それだけでも少しは意味があるのだろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月06日

MAMMA MIA! マンマ・ミーア!

今でも時々車の中でAbbaの曲を聴くことがある。かつて大ヒットを記録した懐かしい曲ではあるのだが、繰り返し何回も聞いていると、現在でもヒットを続けている曲のような感じにもなってくる。そのAbbaのCDは、駅ビルで行われていたワゴンセールみたいな所で、1000円程度で購入したと記憶している。その時、たしかカーペンターズのCDもいっしょに買った。

ミュージカル映画は、食わず嫌いのところがあって、見ようという気持ちになかなかなれないのだが、そんなふうにいつも聞いているAbbaの曲が、ふんだんに使われている映画が公開されたというので、さっそく「夫婦50割」を利用して見に行ってきた。

映画「MAMMA MIA!」は、パンフレットによれば1999年にロンドンで上演され、以来全世界170都市、3000万人以上が見たミュージカルを映画化したものだ。ギリシャの小さな島で、時代から取り残された小さなホテルを経営する主人公ドナを、アカデミー賞を2回受賞したことのあるメリル・ストリーブが演じる。

映画の導入部では、Abbaの歌を交えて登場人物を紹介しながら、話のだいたいの設定を教えてくれる。ドナの一人娘ソフィ(アマンダ・セイフライド)は、父親を知らない。母親ドナの日記をこっそり読んでしまったソフィは、ドナが奔放に生きていた若いころ、3人の男性とおつきあいしていた時にもうけた娘だったことを知る。挙式をひかえたソフィは、母親には内緒でその3人に結婚式への招待状を送ってしまう。

会話を交わしながら、突然歌い出すものだから、最初は戸惑ってしまい先が思いやられたが、Abbaの曲を聴きながら、ソフィの父親はいったい誰なんだろうという興味に引きずられていくうちに、いつの間にか違和感など消えていった。

観客は100人には満たなかったが、平日にしては多い方だろう。年齢層はやはり圧倒的にシニア層が多い。それでも何組か若い女の子のグループも混じっていた。かなり高齢の方もいらっしゃったが、大音量で流れるAbbaの曲を、居眠りもせず聞き入っていた。私も最初のころは眠たさを我慢していたのだが、結局、途中で居眠りすることもなく最後まで見通した。

ソフィの父親は誰だったのか、結末はどうなるのか、それは書かない方がいいだろう。ただ、もう一度見ても良いかなと思うぐらいだから、結末を言ってしまっても問題はないとは思うが…。単に昔をなつかしむという懐古主義に陥ることなく、若いソフィを配して、現在から未来へと続く道筋を描いている点も好ましい。おばさん・おじさんに元気を与え、若い人もAbbaの歌を楽しむことができる、そんなミュージカル映画だった。

以下、YouTubeにのっているAbbaの動画とMAMMA MIA!の映像の一部を紹介しておく。

〔テーマ曲 MAMMA MIA!(歌唱のみ)〕
■MAMMA MIA! The Movie: Mamma Mia FULL SONG! (HQ)
http://www.youtube.com/watch?v=k7rCQ1LMJvc

〔本家のAbba〕
■Mamma Mia - Abba
http://www.youtube.com/watch?v=WY57jGNCN8Q

〔ジーンと来る場面がいくつかあったが、次もそういう場面の一つ〕
■Mamma Mia! The Movie - Slipping Through My Fingers (video)
http://www.youtube.com/watch?v=mnelpiOAgI8

〔アマンダ・セイフライドの歌唱〕
■Gimme Gimme Gimme (A Man After Midnight) Mamma Mia The Movie
http://www.youtube.com/watch?v=JVIJU5poFvI

〔5代目ジェームスボンドのピアース・ブロスナンの歌声(歌唱のみ)〕
■S.O.S - Mamma Mia!: The Movie
http://www.youtube.com/watch?v=6hITSFgZTr4

〔歌唱のみ〕
■MAMMA MIA! The Movie: Dancing Queen FULL SONG! (HQ)
http://www.youtube.com/watch?v=q5w1_14o26A
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月04日

立春は恋の解禁日

昼下がりのこと、けたたましく鳴き叫ぶ猫の声が聞こえてきた。低く押し殺した声で鳴いているかとおもえば、いっきに声を張り上げてガラス窓を震わせるほどの声量で鳴いたりする。

平穏な午後のひとときには似つかわしくないネコの喧嘩が始まったとあれば、机の前に座っているわけにはいかない。さっそくスリッパを引っ掛け庭に出て、声が聞こえてくる方角をさぐってみると、隣の家の庭から聞こえてくるのだった。

まさに茶色のネコとと灰色のネコとがにらみ合っている最中だった。茶色のネコが私に気づいて、チラッとこちらを見た。いつもなら逃げ出すところだが、今は取り込み中のことゆえ、私にかまっていることができないようで、すぐケンカ相手の方に向き直ってしまった。その刹那、灰色のネコが飛びかかり、それに応じた茶色のネコと取っ組み合いのケンカとなった。二匹は体を丸く曲げて組み合ったまま、ゴムまりのように転がって行き、そのまま家の陰に隠れて見えなくなった。

あの寒がりのネコが、こんなふうにケンカを始めるようになったということは、春が近づいて来たからだろう。そしていよいよ猫の恋の季節が始まるのだ。その二匹もサカリがついて、恋の争いを繰り広げていたのかもしれない。

俳句に「猫の恋」という季語がある。季節は初春とされている。昔の人も、春先のネコの無気味な変貌を目の当たりにして、強く印象に残ったのだろう。立春を迎え、これからは甘ったるい声で徘徊する猫も増えてくるにちがいない。立春は、ネコにとって恋の解禁日なのかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月03日

今日豆まきの所も

一般の人間社会では、節分の日の今日、豆まきをするらしい。成田山新勝寺で、白鳳や朝青龍などの力士、大河ドラマの出演者たちが豆まきをしている様子を、ニュースが伝えていたことでそのことが分かった。

ふくろう共和国では、何ごとも他より一歩先んじて行うことが、長年の習わしである。そこで節分も一日早く、昨夜のうちに豆まきをしたのだ。さらに恵方巻までも、昨日のうちにいただいたのだった。一晩置いて今日食べたのでは、さぞかし固くなっていたことだろう。

昨日のブログを読んだ人の中には、ふくろう共和国は日にちを一日間違えて、昨日豆まきをしてしまったのだろう、とお思いになった方もいらっしゃったかもしれない。その想像が的外れであったことは、以上書いてきたことでお分かりいただけたと思う。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2009年02月02日

散歩文学

今日は節分ということで、夕食後豆まきをした。しかし隣近所からは、「鬼は外、福は内」の声が聞こえてこない。今はもう豆まきなどする家庭はないのだろうか。恵方巻は、近所のスーパーで試食したから、もうそれで十分だと思っていたが、息子がバイト先で早々と予約しておいたらしい。先ほど3本の恵方巻を携えて帰宅して、日付が変わる直前に、東北東を向いてガブリと噛みついたのだった。

勤めていたころは、二月に入ると体のどこかに痛みが出てくることが多かった。たとえば、腰とか肩とか歯・目という具合に、ふだん酷使している箇所に、春の花々をさしおいてまっ先に顔を出してくれるという義理堅さだった。そして二月が通りすぎていくのを待つ忍従の日々が続くのだった。さて、今年はどうなることだろうか。

新しい年に入ってまだひと月しか経ってないのだから、振り返って見るのもおかしな話だが、それでもなお振り返って見れば、今年に入ってから、一度も都心を逍遙することがなかった。東京に出ることはあったが、それはあくまで経由するだけのことだった。せっかく春立つ日を迎えるのだから、そろそろ腰を上げて活動を再開することにしよう。

今年は、散歩学会なるものを立ち上げ、散歩文学に関して考察を深めていってみようと計画している。物語には物語文学、随筆には随筆文学、日記には日記文学という具合に、学者先生は何にでも「文学」という言葉を付けて、それを学問の対象としてしまうのが得意である。ところが「散歩」というものに、文学という言葉はいまだかつて付けられたためしがない。

古来偉大な哲学者は、散歩しながら思索を深めていった。ルソーなどは「孤独な散歩者の夢想」という著作まで物している。それなのに散歩だけは、学問の世界から冷遇され、いつまでたっても「散歩文学」という研究ジャンルが成立していないのだ。

昨今の散歩ブームを目にするにつけ、「散歩」というものを体系的に研究しようとする学者先生が見当たらない現状に業を煮やし、散歩学の一分野である「散歩文学」について考えてみようと思い立ったのだった。

大言壮語はこのくらいにしておくが、散歩について少し調べてみようと思ったのは本当で、日本の「散歩文学」の代表作とも言うべき永井荷風の「日和下駄」あたりから、手を付けてみようかと思っているところなのである。

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