昨日とは打って変わって、涼しい朝を迎えた。午後になって陽差しが戻ってきたが、大気はヒンヤリとした状態が続き、短パンで過ごしているとときどきクシャミが出るほどで、とうとう我慢できず長いものに着替えた。
気温が下がると、とたんに蝉の鳴き声が聞こえなくなる。こんなふうに気温の上下がエレベーター状態を繰り返すのでは、暗黒の地下から地上に出てきて、羽根をのばして大空高く舞い上がり、思いっきり大きな声で歌い、セカンドステージを満喫しようとしていたセミにとっても、予想外の厳しいに夏になってしまうのかもしれない。
八ヶ岳南麓の小淵沢でも、もちろんセミの声は聞こえた。ダイニングレストラン「tomato」で夕食をとっている時には、窓の外からヒグラシの声が聞こえてきた。「tomato」は、比較的交通量の多い道路を曲がって少し入ったところにある。周囲には人家もなく、道の両側には手を加えられていない森が続く。そんな所に「tomato」の灯がポツンと点っていて、その明かりのとどかない森の中からカナカナという物悲しい響きが聞こえてきた。
以前、ヒグラシの鳴き声がほかのセミに比べて、あまりにも物悲しい響きをもっていることから、ヒグラシ族というセミの一族は、なにかしらとても悲しい歴史を背負っているのかもしれない、などと思ったこともあった。食後のコーヒーを飲みながらヒグラシの声に耳を傾けていると、そんなことも思い起こされ、なおいっそうのこと物悲しく聞こえてくるのだった。
そんな時、一緒に食事をしていた山荘の主がポツリと話し出した。だいたいのところ、次のような話だった。
彼は山陰地方の日本海側の土地で生まれ育った。陽が落ちてあたりがうす暗くなってくるころ、墓地に行き、灯籠に明かりを点すのは小さな子どもの役割だった。今のように区画整理され整然と墓石が並ぶ墓地ではなく、当時はまだ土葬が行われていて、死霊が一面に充ち充ちていそうな墓場と言った方がよさそうな場所だった。恐怖心というものは、いったんそれを意識すると、際限もなく膨れあがってきてしまうものだ。死霊たちが、子どものちっぽけな心を、恐怖心であふれさせてしまうことなどわけもないことなのだ。おまけに、薄暗闇を好むヒグラシが鳴き始めれば、恐怖の底に突き落とすための舞台装置はすべて整ってしまったも同然なのである。怖くて怖くてしかたなかったが、それでも灯籠に火を点しに行かなければならなかった。今でもヒグラシの鳴き声を聞くと、その時の恐怖心が蘇ってくる。
ヒグラシの鳴く薄暗闇の中、墓場の灯籠に火を点しに行くなどということは、想像しただけでも身の毛がよだつことだ。しかし考えようによっては、ヒグラシが鳴く場所は、墓場が最もふさわしいと言えるかもしれない。とぎれとぎれに響くヒグラシの悲しい声は、先祖の霊を呼び覚まし、灯籠の明かりのともる現世へといざなってくれるのだ。
2009年07月29日
八ヶ岳山麓の夕食事情
今日も不安定な天気だった。曇っていると思えば、急にカッと陽がさしてきたりという具合に、そういう急激な変化の繰り返しだった。さらに不快指数で言えば、全員不快を感じるレベルで、午後にはついに今年初めてクーラーを入れた。
今頃になって、右足がなんとなく重く、だるさも感じるようになってきた。法事のために山梨に出かけた際、長時間にわたって車を運転したことの影響にちがいない。昔から長時間の運転はあまり苦にならないのだが、帰路中央道で、どうしても避けられない渋滞にまきこまれ、ノロノロ運転を長時間続けたせいなのだろう。
往路は新しいルートで走ったおかげで、激しい渋滞に巻き込まれることなく、11時前には「甲府・昭和インターチェンジ」に着いた。中央道を下りてからは411号線に入り、山梨学院大学を過ぎたところにあるファミリーレストランで、ゆったりとした気分で昼食をとることができた。
近頃ファミリーレストランは苦しい状況にあるそうだが、甲府の中心地を少し外れたところにあるそのファミリーレストランは、11時を過ぎる頃にはお客さんの数が増えてきた。ただ奇異に感じたことがあった。それは、その中に高校生が多く含まれていたことだ。みな制服を着ているところからすると、クラブ活動などの帰りなのだろう。
ファミリーレストランなら、比較的低料金で腹一杯食べられるから、彼らが利用することにも納得がいくが、子どもたちが大ききなった今では、ファミリーレストランをあまり利用しないので、この現象が全国的に広がっているのか、あるいは地方都市に顕著に見られる光景なのか、その点についてはよく分からない。
ファミリーレストランといえば、知人の山荘のある小淵沢周辺ではあまり見掛けることがない。八ヶ岳山麓にはペンションが多く、夕食は宿でとればよいのだから、わざわざ食事のために外出する必要はない。わざわざ八ヶ岳まで来て、ファミリーレストランを利用するのもバカらしいと思う人もいるにちがいない。こういうことが、ファミリーレストランを必要としないことの理由なのだろう。
ただ、ペンションを利用せず知人の山荘を使わせていただく場合には、夕食をとる場所で頭を悩ますことになる。もちろん山荘のキッチンで料理することもできるのだが、せっかく避暑地に来たのだから、予約などせずに手軽においしい料理を楽しみたいと思うのが人情というものだ。ところが小淵沢周辺にはそういうお店があまり多くないのだ。
どこかに適当な店がないものかと、車を走らせて探し回るのだが、見つけることができずに、結局今までに利用したことのある「道の駅」のレストランに落ち着くということになってしまうのだ。ところがたどり着いたとしても、なにしろ数少ないレストランゆえ、無事食事をとることができるかどうかは約束されてはいない。
去年などは、空きっ腹を抱えながらやっとたどり着いたそのレストランで、やれやれこれでやっと夕食にあるつけると思ったのもつかの間、席はいかつい体格の青年たちで埋め尽くされていた。からだ格好から見ると、柔道の合宿に参加している高校生のようだった。
彼らの食事が終わったあと、やっと席に案内されてメニューを見ていると、店の人が来て注文可能な料理を教えてくれた。ライスは彼らが食べ尽くして、もうメン類しか残っていなかった。しかたなくソバを注文してどうにか腹を満たしたのだった。こんなことだってあるのだから、夕食をとることさえもなかなかむずかしいのだ。
法事の終わったあとは、八ヶ岳山麓の山荘に一泊させていただくことになっていた。今までのことがあるので、今回はあらかじめネットで調べて、「TOMATO」という家庭的な雰囲気のレストランをさがし出し、電話で予約しておいた。
今頃になって、右足がなんとなく重く、だるさも感じるようになってきた。法事のために山梨に出かけた際、長時間にわたって車を運転したことの影響にちがいない。昔から長時間の運転はあまり苦にならないのだが、帰路中央道で、どうしても避けられない渋滞にまきこまれ、ノロノロ運転を長時間続けたせいなのだろう。
往路は新しいルートで走ったおかげで、激しい渋滞に巻き込まれることなく、11時前には「甲府・昭和インターチェンジ」に着いた。中央道を下りてからは411号線に入り、山梨学院大学を過ぎたところにあるファミリーレストランで、ゆったりとした気分で昼食をとることができた。
近頃ファミリーレストランは苦しい状況にあるそうだが、甲府の中心地を少し外れたところにあるそのファミリーレストランは、11時を過ぎる頃にはお客さんの数が増えてきた。ただ奇異に感じたことがあった。それは、その中に高校生が多く含まれていたことだ。みな制服を着ているところからすると、クラブ活動などの帰りなのだろう。
ファミリーレストランなら、比較的低料金で腹一杯食べられるから、彼らが利用することにも納得がいくが、子どもたちが大ききなった今では、ファミリーレストランをあまり利用しないので、この現象が全国的に広がっているのか、あるいは地方都市に顕著に見られる光景なのか、その点についてはよく分からない。
ファミリーレストランといえば、知人の山荘のある小淵沢周辺ではあまり見掛けることがない。八ヶ岳山麓にはペンションが多く、夕食は宿でとればよいのだから、わざわざ食事のために外出する必要はない。わざわざ八ヶ岳まで来て、ファミリーレストランを利用するのもバカらしいと思う人もいるにちがいない。こういうことが、ファミリーレストランを必要としないことの理由なのだろう。
ただ、ペンションを利用せず知人の山荘を使わせていただく場合には、夕食をとる場所で頭を悩ますことになる。もちろん山荘のキッチンで料理することもできるのだが、せっかく避暑地に来たのだから、予約などせずに手軽においしい料理を楽しみたいと思うのが人情というものだ。ところが小淵沢周辺にはそういうお店があまり多くないのだ。
どこかに適当な店がないものかと、車を走らせて探し回るのだが、見つけることができずに、結局今までに利用したことのある「道の駅」のレストランに落ち着くということになってしまうのだ。ところがたどり着いたとしても、なにしろ数少ないレストランゆえ、無事食事をとることができるかどうかは約束されてはいない。
去年などは、空きっ腹を抱えながらやっとたどり着いたそのレストランで、やれやれこれでやっと夕食にあるつけると思ったのもつかの間、席はいかつい体格の青年たちで埋め尽くされていた。からだ格好から見ると、柔道の合宿に参加している高校生のようだった。
彼らの食事が終わったあと、やっと席に案内されてメニューを見ていると、店の人が来て注文可能な料理を教えてくれた。ライスは彼らが食べ尽くして、もうメン類しか残っていなかった。しかたなくソバを注文してどうにか腹を満たしたのだった。こんなことだってあるのだから、夕食をとることさえもなかなかむずかしいのだ。
法事の終わったあとは、八ヶ岳山麓の山荘に一泊させていただくことになっていた。今までのことがあるので、今回はあらかじめネットで調べて、「TOMATO」という家庭的な雰囲気のレストランをさがし出し、電話で予約しておいた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月27日
甲府までの新ルート
母親の13回忌の法事のため、土・日にかけて一泊で山梨に行ってきた。宿泊はアカイヌ王国の山荘を利用させていただいた。土・日は、例の高速道路料金の休日割引の適用日で、極端な渋滞が予想されたが、法事の日取りというものは、遅れるよりは早めに行っておく方が良いとも聞くので、命日の直近の土・日に決めたのだった。
土曜日の朝に千葉を出発して、法事が始まる時間に間に合うようにしなければならない。朝、何時に出発したらよいのか、そういう難しい問題を解決しなければならず、いろいろ調べた結果導き出された結論は、早朝の5時に家を出発するというものだった。
甲府に行く際、今までは首都高を利用していた。そのコースでを利用した場合の所要時間を、高速道路情報サイト「ドラぷら」(http://www.driveplaza.com/)で調べてみると以下のことが分かった。
06:00 千葉北
↓2分[2.1km]東関東自動車道
06:02 宮野木JCT
↓3分[3.4km]京葉道路
06:05 武石
↓18分[16.5km]京葉道路
06:23 京葉口
↓13分[10.4km]首都高速7号小松川線
06:36 両国JCT
↓3分[2.5km]首都高速6号向島線
06:39 江戸橋JCT
↓8分[4.2km]首都高速都心環状線
06:47 三宅坂JCT
↓17分[12.8km]首都高速4号新宿線
07:04 高井戸
↓渋滞23分(通常6分)[7.7km]中央自動車道
07:27 調布
↓渋滞55分(通常10分)[18.1km]
08:22 八王子(本線)
↓渋滞78分(通常35分)[45.6km]
09:40 大月JCT
↓32分[41.8km]
10:12 甲府昭和周辺地図
所要時間:3時間50分( 距離:170.1km )
朝6時に「千葉北」から高速道路にのっても、渋滞に巻き込まれることは避けられず、途中まったく休憩を取らずに走り続けても、3時間50分かかる。途中休憩をとれば、5時間ほどはかかってしまう。
次に、かなり大回りとなってしまうが、「首都高」を使わずに「外環道」を利用するコースの所要時間を調べてみた。
06:00 柏
↓7分[10.8km]常磐自動車道
06:07 三郷JCT
↓26分[29.6km]東京外環自動車道
06:33 大泉JCT
↓16分[27.0km]関越自動車道
06:49 鶴ケ島JCT
↓31分[40.1km]圏央道
07:20 八王子JCT
↓渋滞48分(通常27分)[35.4km]中央自動車道
08:08 大月JCT
↓32分[41.8km]
08:40 甲府昭和
渋滞に巻き込まれる区間は一箇所だけで、通常27分のところ48分かかり、総所要時間は以下のようになる。
所要時間:2時間40分( 距離:184.7km )
「首都高」を利用する場合に比べて、走行距離は25qほど長くなるが、所要時間は、逆に1時間10分ほどの短縮となる。
そこで今回は、「常磐道」→「外環道」→「関越道」→「圏央道」→「中央道」と乗り継ぐコースを走ってみた。ほぼ上にあげた所要時間通りに走ることができ、それではあまりにも早く到着してしまうので、途中何回もSA・PAで休憩した。それでもかなり早く甲府に到着した。
もう少し遅い時間に出発しても良かったかもしれないが、事故という不測の事態によって、予想外の渋滞が発生するかもしれないことを思えば、今回の走行計画は正解だったと言っても良いのだろう。
土曜日の朝に千葉を出発して、法事が始まる時間に間に合うようにしなければならない。朝、何時に出発したらよいのか、そういう難しい問題を解決しなければならず、いろいろ調べた結果導き出された結論は、早朝の5時に家を出発するというものだった。
甲府に行く際、今までは首都高を利用していた。そのコースでを利用した場合の所要時間を、高速道路情報サイト「ドラぷら」(http://www.driveplaza.com/)で調べてみると以下のことが分かった。
06:00 千葉北
↓2分[2.1km]東関東自動車道
06:02 宮野木JCT
↓3分[3.4km]京葉道路
06:05 武石
↓18分[16.5km]京葉道路
06:23 京葉口
↓13分[10.4km]首都高速7号小松川線
06:36 両国JCT
↓3分[2.5km]首都高速6号向島線
06:39 江戸橋JCT
↓8分[4.2km]首都高速都心環状線
06:47 三宅坂JCT
↓17分[12.8km]首都高速4号新宿線
07:04 高井戸
↓渋滞23分(通常6分)[7.7km]中央自動車道
07:27 調布
↓渋滞55分(通常10分)[18.1km]
08:22 八王子(本線)
↓渋滞78分(通常35分)[45.6km]
09:40 大月JCT
↓32分[41.8km]
10:12 甲府昭和周辺地図
所要時間:3時間50分( 距離:170.1km )
朝6時に「千葉北」から高速道路にのっても、渋滞に巻き込まれることは避けられず、途中まったく休憩を取らずに走り続けても、3時間50分かかる。途中休憩をとれば、5時間ほどはかかってしまう。
次に、かなり大回りとなってしまうが、「首都高」を使わずに「外環道」を利用するコースの所要時間を調べてみた。
06:00 柏
↓7分[10.8km]常磐自動車道
06:07 三郷JCT
↓26分[29.6km]東京外環自動車道
06:33 大泉JCT
↓16分[27.0km]関越自動車道
06:49 鶴ケ島JCT
↓31分[40.1km]圏央道
07:20 八王子JCT
↓渋滞48分(通常27分)[35.4km]中央自動車道
08:08 大月JCT
↓32分[41.8km]
08:40 甲府昭和
渋滞に巻き込まれる区間は一箇所だけで、通常27分のところ48分かかり、総所要時間は以下のようになる。
所要時間:2時間40分( 距離:184.7km )
「首都高」を利用する場合に比べて、走行距離は25qほど長くなるが、所要時間は、逆に1時間10分ほどの短縮となる。
そこで今回は、「常磐道」→「外環道」→「関越道」→「圏央道」→「中央道」と乗り継ぐコースを走ってみた。ほぼ上にあげた所要時間通りに走ることができ、それではあまりにも早く到着してしまうので、途中何回もSA・PAで休憩した。それでもかなり早く甲府に到着した。
もう少し遅い時間に出発しても良かったかもしれないが、事故という不測の事態によって、予想外の渋滞が発生するかもしれないことを思えば、今回の走行計画は正解だったと言っても良いのだろう。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月22日
かつそば
梅雨前線が復活して、日本列島の南側に居座っている。そのためここ数日、梅雨模様の天気が続いている。昨日その雨の合間をぬって、例の解体作業が終わって更地になっている宅地前に、電気工事の車両がやって来て、庭にポールを立て、近くの電信柱から電線を引き込んでいた。

皆既日食が一番長く見られるという鹿児島県悪石島には、見物客が大挙して押しかけていたらしい。ところが皆既日食が起きる当日の今日、あいにく荒れ模様の天気になり、おまけにカミナリまで鳴り出して、みな近くの建物の中に避難しなければならなかったということだ。なんとも気の毒な話だが、それでも皆既日食が始まる午前10時53分には、周囲が闇に閉ざされ、6分あまりの間は皆既日食の雰囲気を味わえたそうだ。
先週の土曜日、夕食を翁庵でとったことはすでに書いた。このお蕎麦屋さんの名物は、「かつそば」だ。温かいソバの上に天ぷらがのっていれば天ぷらソバで、これは別に珍しくもない。しかし、天ぷらのかわりにトンカツがのっていると、これは話は別で、あまり見掛けたことがないが、それがまさしく「かつそば」なるものなのだ。

天ぷらソバに対して天丼がある。そういうことならばカツ丼に対しても、カツソバがあってもよさそうなものだが、それがない。トンカツとソバとの相性が悪いのがその理由なのかなと思ったりもするが、実際に口にしてみてもあまり違和感は感じられなかった。ところが多くのお蕎麦屋さんのお品書きでは、カツソバを見iいだすことはできない。
学生時代、懐があたたかい時は、翁庵でかつそばを食べることもあった。余裕のない時は、「たぬきソバに半ライスが」お昼の定番だった。ソバとライスが重なることは、おかしいといえばおかしいのだが、そう感じるのも最初のうちだけで、なれてしまえば別にどうということはない。
40年ぶりで翁庵ののれんをくぐり、迷わず「かつそば」を注文した。注文の品が運ばれてくるまでの間、40年前の「かつそば」の味を思い出そうとしたが、味というものは記憶するのがむずかしいものかもしれない、その味が舌に蘇ってくることはなかった。
さて、「かつそば」が目の前に運ばれてきた。冷や奴が添えられていた。そして40年ぶりの「かつそば」を口に運んだ時、おもいがけず「この味だ」という言葉が心に浮かんだのだった。思い出そうとしても思い出せなかった味が、そばを一口食べただけで蘇ってきたのだ。

しかし今その時のことを思い返してみると、やはり40年前の味など覚えているはずもなく、あの懐かしい「かつそば」だ、と思いながら食べたことが招いた錯覚だったような気もする。

皆既日食が一番長く見られるという鹿児島県悪石島には、見物客が大挙して押しかけていたらしい。ところが皆既日食が起きる当日の今日、あいにく荒れ模様の天気になり、おまけにカミナリまで鳴り出して、みな近くの建物の中に避難しなければならなかったということだ。なんとも気の毒な話だが、それでも皆既日食が始まる午前10時53分には、周囲が闇に閉ざされ、6分あまりの間は皆既日食の雰囲気を味わえたそうだ。
先週の土曜日、夕食を翁庵でとったことはすでに書いた。このお蕎麦屋さんの名物は、「かつそば」だ。温かいソバの上に天ぷらがのっていれば天ぷらソバで、これは別に珍しくもない。しかし、天ぷらのかわりにトンカツがのっていると、これは話は別で、あまり見掛けたことがないが、それがまさしく「かつそば」なるものなのだ。


天ぷらソバに対して天丼がある。そういうことならばカツ丼に対しても、カツソバがあってもよさそうなものだが、それがない。トンカツとソバとの相性が悪いのがその理由なのかなと思ったりもするが、実際に口にしてみてもあまり違和感は感じられなかった。ところが多くのお蕎麦屋さんのお品書きでは、カツソバを見iいだすことはできない。
学生時代、懐があたたかい時は、翁庵でかつそばを食べることもあった。余裕のない時は、「たぬきソバに半ライスが」お昼の定番だった。ソバとライスが重なることは、おかしいといえばおかしいのだが、そう感じるのも最初のうちだけで、なれてしまえば別にどうということはない。
40年ぶりで翁庵ののれんをくぐり、迷わず「かつそば」を注文した。注文の品が運ばれてくるまでの間、40年前の「かつそば」の味を思い出そうとしたが、味というものは記憶するのがむずかしいものかもしれない、その味が舌に蘇ってくることはなかった。
さて、「かつそば」が目の前に運ばれてきた。冷や奴が添えられていた。そして40年ぶりの「かつそば」を口に運んだ時、おもいがけず「この味だ」という言葉が心に浮かんだのだった。思い出そうとしても思い出せなかった味が、そばを一口食べただけで蘇ってきたのだ。

しかし今その時のことを思い返してみると、やはり40年前の味など覚えているはずもなく、あの懐かしい「かつそば」だ、と思いながら食べたことが招いた錯覚だったような気もする。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月21日
第3回写真塾
先週の土曜日は、3回目の写真塾だった。夕刻の光の中でベリーダンスを撮るという企画は、写真塾の講座として初めての内容だったらしい。年間予定では花火を撮ることになっていた。花火の撮影となると三脚は必需品だから、この際軽いものを購入しようと思っていたが、その必要がなくなった。
ギャラリーの中庭には、まだ木の香りが漂ってきそうな木材で、舞台がしつらえられていた。講師の大橋先生が舞台周りの最後のチェックをしていた。地面をしきりに眺めてから、近くの人にホウキで掃くように声をかけた。言われた人は、目につくゴミを庭の隅の方に掃き寄せ、それで終わりにした。ところが先生はそれだけでは満足せず、今度は自らホウキを手にして、地面をなで始めた。先生が気に掛かっていたのは、地面に残されていた足あとだった。
今回の企画は、なにしろ初めてのことだから、大橋先生はいろいろと心配して、午前中から準備に追われたそうだ。舞台にかかっている木の枝を、撮影の邪魔にならないように、ガムテープでとめて向きを変えるようなこともしたらしい。先生が身につけていた黒のシャツには、汗がにじみ出ていた。ご高齢ではあるが、痩身の体躯はまだまだ衰えていないように見受けられた。
写真塾のホームページには、塾長の紹介文が載っている。そこには、次のような略歴が記されている。
『土門拳、林忠彦に師事。1960年以後、フリーのカメラマンとして活躍する建築写真家。』
生年は記されていないが、ご自身で末期高齢者いや後期高齢者だとおっしゃっていたので、70歳代後半というところだろう。建築写真の第一人者と評価されているそうだが、塾生にはいつも自然体で接してくれる。
撮影現場では、その場に応じて参考となるアドバイスを出してくれる。その日も撮影前に、被写体が激しく動くのでシャッタースピードを上げるため、ISOを高くしておいた方が良いでしょうという助言があった。また撮影途中では、塾生たちが遠巻きで撮影していると、「もっと近づいて撮りましょう」と声をかけてくれた。
写真塾の撮影会の終了後、午後7時からは一般の人向けの公演があるということを大橋先生が教えてくれたので、開始時間まで撮影しながら神楽坂をブラブラと下り、夕食は学生時代に利用したことのある蕎麦屋さん「翁庵」でとった。
ベリーダンスの一般公演は、予定より少し遅れて7時過ぎから、ギャラリー内で始まった。ただし、あらかじめ申し込んだ人だけが入場できる。先生もそのことは知らず、中庭で行われると思っていたようだった。仕方なく先生と私は、ギャラリーの出窓の外側から中の様子を撮影した。他の塾生たちはいなかった。
ガラス越しの撮影は難しい。夜の撮影はなおさら難しい。先生はどんな場面でシャッターをきるのだろうと、闇の中で耳を澄まし、先生のカメラのシャッター音を追いかけた。そして、撮影している姿勢も参考になるだろうと思い先生の方を見ると、イスを踏み台代わりに使い、塀によじ登り、その上に腰掛けてカメラを構えていた。
ギャラリーの中庭には、まだ木の香りが漂ってきそうな木材で、舞台がしつらえられていた。講師の大橋先生が舞台周りの最後のチェックをしていた。地面をしきりに眺めてから、近くの人にホウキで掃くように声をかけた。言われた人は、目につくゴミを庭の隅の方に掃き寄せ、それで終わりにした。ところが先生はそれだけでは満足せず、今度は自らホウキを手にして、地面をなで始めた。先生が気に掛かっていたのは、地面に残されていた足あとだった。
今回の企画は、なにしろ初めてのことだから、大橋先生はいろいろと心配して、午前中から準備に追われたそうだ。舞台にかかっている木の枝を、撮影の邪魔にならないように、ガムテープでとめて向きを変えるようなこともしたらしい。先生が身につけていた黒のシャツには、汗がにじみ出ていた。ご高齢ではあるが、痩身の体躯はまだまだ衰えていないように見受けられた。
写真塾のホームページには、塾長の紹介文が載っている。そこには、次のような略歴が記されている。
『土門拳、林忠彦に師事。1960年以後、フリーのカメラマンとして活躍する建築写真家。』
生年は記されていないが、ご自身で末期高齢者いや後期高齢者だとおっしゃっていたので、70歳代後半というところだろう。建築写真の第一人者と評価されているそうだが、塾生にはいつも自然体で接してくれる。
撮影現場では、その場に応じて参考となるアドバイスを出してくれる。その日も撮影前に、被写体が激しく動くのでシャッタースピードを上げるため、ISOを高くしておいた方が良いでしょうという助言があった。また撮影途中では、塾生たちが遠巻きで撮影していると、「もっと近づいて撮りましょう」と声をかけてくれた。
写真塾の撮影会の終了後、午後7時からは一般の人向けの公演があるということを大橋先生が教えてくれたので、開始時間まで撮影しながら神楽坂をブラブラと下り、夕食は学生時代に利用したことのある蕎麦屋さん「翁庵」でとった。
ベリーダンスの一般公演は、予定より少し遅れて7時過ぎから、ギャラリー内で始まった。ただし、あらかじめ申し込んだ人だけが入場できる。先生もそのことは知らず、中庭で行われると思っていたようだった。仕方なく先生と私は、ギャラリーの出窓の外側から中の様子を撮影した。他の塾生たちはいなかった。
ガラス越しの撮影は難しい。夜の撮影はなおさら難しい。先生はどんな場面でシャッターをきるのだろうと、闇の中で耳を澄まし、先生のカメラのシャッター音を追いかけた。そして、撮影している姿勢も参考になるだろうと思い先生の方を見ると、イスを踏み台代わりに使い、塀によじ登り、その上に腰掛けてカメラを構えていた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 写真
2009年07月20日
地鎮祭・セミ・ミカン
朝、手を二度続けて打つ音と、独特の調子の張りのある声が何回も聞こえてきた。窓からそっとのぞいてみると、解体作業が終わり更地になった例の土地で、地鎮祭が行われていた。すでに解体作業が終わり平らに整えられた地面に4本の竹が立てられ、それらの間がしめ縄で結ばれていた。中に祭壇が設けられ、それに向かって正装した神主さん、施主と建築を請け負った業者の男性社員が立っていた。

夕刻、一輪だけ咲いたカサブランカの花を撮るために庭に出た。すると花の近くにあるの木の地面近くから、アブラゼミが飛び立ち逃げていった。アブラゼミの姿を見るのは、例年より早い。また、家の周辺ではニイニイゼミの鳴き声が聞こえなくなっていたのに、何日か前に、同じ木でニイニイゼミも鳴いていた。今年の夏は、ここ何年間とは違った夏になるのかもしれない。

庭に出たついでに、ミカンの実の状態も確かめてみた。三つあったはずの実は、二つしか見つからず、そのうちの一つは茶色になっていた。


夕刻、一輪だけ咲いたカサブランカの花を撮るために庭に出た。すると花の近くにあるの木の地面近くから、アブラゼミが飛び立ち逃げていった。アブラゼミの姿を見るのは、例年より早い。また、家の周辺ではニイニイゼミの鳴き声が聞こえなくなっていたのに、何日か前に、同じ木でニイニイゼミも鳴いていた。今年の夏は、ここ何年間とは違った夏になるのかもしれない。


庭に出たついでに、ミカンの実の状態も確かめてみた。三つあったはずの実は、二つしか見つからず、そのうちの一つは茶色になっていた。

posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月17日
世界報道写真展とジョルジュ・ビゴー展
昨日は久しぶりで東京都写真美術館に行ってきた。以前、アンリ・カルティエ=ブレッソンの記録映画を観に行ったことがあるが、それ以来だ。目的は「世界報道写真展2009」を見ることだったが、二階展示室で「ジョルジュ・ビゴー展」が開催されていたので、そちらも観覧してきた。
「世界報道写真展」については、「ジョルジュ・ビゴー展」の方は、副題が「碧眼の浮世絵師が斬る明治」となっていることから、その内容はある程度察しがつく。フランス人画家のビゴーが、明治維新後の混乱期の日本にわざわざやって来て、明治の文明開化期の世相を切り取り、多くの作品に描いた。彼が描いた近代日本の姿は、その当時の世相を知る上でも貴重な資料なのだった。
前回は写真美術館に着くまで大分苦労した。迷いに迷った末やっとたどり着いた時は、初めて訪れる人工的な街は、人を方向音痴にさせるものだ、などと思ったこともあった。ところが今回、JR恵比寿駅を出てから「スカイウォーク」と呼ばれる動く歩道を乗り継いで、「恵比寿ガーデンプレイス」の前に出て前方に目を向けると、なんのことはない右側の奥の方に、東京都写真美術館の建物が見えた。

「世界報道写真展」については、「ジョルジュ・ビゴー展」の方は、副題が「碧眼の浮世絵師が斬る明治」となっていることから、その内容はある程度察しがつく。フランス人画家のビゴーが、明治維新後の混乱期の日本にわざわざやって来て、明治の文明開化期の世相を切り取り、多くの作品に描いた。彼が描いた近代日本の姿は、その当時の世相を知る上でも貴重な資料なのだった。
前回は写真美術館に着くまで大分苦労した。迷いに迷った末やっとたどり着いた時は、初めて訪れる人工的な街は、人を方向音痴にさせるものだ、などと思ったこともあった。ところが今回、JR恵比寿駅を出てから「スカイウォーク」と呼ばれる動く歩道を乗り継いで、「恵比寿ガーデンプレイス」の前に出て前方に目を向けると、なんのことはない右側の奥の方に、東京都写真美術館の建物が見えた。



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2009年07月15日
ヒグラシの初鳴き
朝から強い陽差しが照りつけ、梅雨模様を一掃して夏の到来を実感させる天気だった。東向きの部屋で眠りを貪っていると、室内の蒸し暑さに耐えきれなくなり、今までより早く目が覚めてしまった。おまけに例の解体作業が8時前から始まり、音と地震を思わせる振動とが協力して、起床を強く促すのだった。
毎日が日曜日の生活に入って一番うれしいことは、前の夜に目覚まし時計をセットする必要もなく、次の日には自然に目が覚めて朝を迎えることができることだ。さいわいまだ老人性早起き症に陥ることなく、惰眠を貪ることが体調維持に貢献してくれているようだった。
内田百闔≠焉A「一病息災」の中でこうおっしゃっている。
『腹をへらして、寝くたびれる迄眠って、さうして頭を分けて歩いていると(筆者注:たぶん身なりを整えてという意味だろう)大変に身体の調子はいい。』
このところ毎朝、騒音と振動のために今までよりは早く目覚め、日中は頭がはっきりしないこともあった。今日もそういう一日になるのかなと思っていたところ、午後二時過ぎになったところで、騒音も振動もピタッと止んだ。そして二台のトラックも消えていた。
夕方、整地された土地の様子を撮っていると、西に遠く離れた林の方からヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。


毎日が日曜日の生活に入って一番うれしいことは、前の夜に目覚まし時計をセットする必要もなく、次の日には自然に目が覚めて朝を迎えることができることだ。さいわいまだ老人性早起き症に陥ることなく、惰眠を貪ることが体調維持に貢献してくれているようだった。
内田百闔≠焉A「一病息災」の中でこうおっしゃっている。
『腹をへらして、寝くたびれる迄眠って、さうして頭を分けて歩いていると(筆者注:たぶん身なりを整えてという意味だろう)大変に身体の調子はいい。』
このところ毎朝、騒音と振動のために今までよりは早く目覚め、日中は頭がはっきりしないこともあった。今日もそういう一日になるのかなと思っていたところ、午後二時過ぎになったところで、騒音も振動もピタッと止んだ。そして二台のトラックも消えていた。
夕方、整地された土地の様子を撮っていると、西に遠く離れた林の方からヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。


posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月14日
梅雨明け
気象庁は今日、例年通りの表現で、『関東甲信地方は梅雨明けしたとみられます』と発表した。気象予報士さんは、昨日の時点では、梅雨明けはもう少し先と説明していたが、その予報はみごとにはずれ今日の発表となった。
今回初めて、気象庁のウェブサイトで発表の全文を確かめてみた。「梅雨の時期に関する関東甲信地方気象情報 第2号」と題されたウェブページに、梅雨明けに関することが記載されていた。発表時間は、午前11時だった。
さて、梅雨が明けたと判断した根拠は、「本文」に次のように記されている。
『関東甲信地方は、高気圧におおわれ概ね晴れています。向こう一週間、北部を中心に一時雨や雷雨となるところがありますが、高気圧に覆われて晴れる日が多い見込みです。』
そしてこれを基にして、『7月14日ごろ梅雨明けしたとみられます』と結論づけるのである。
「今日」梅雨が明けたということになっているが、これを見ると『7月14日ごろ』となっているのだから、梅雨が明けた日を、「今日」と限定しているわけではないのだ。なんだかイイカゲンな感じだナーとは思うけれど、こんな言い方しかできないのだろう。
近隣の家の建て替え工事は、解体作業はすでに終了して、地ならしの作業に入った。1軒の家が消えてなくなると、周辺の風景がまったく変わってしまう感じがする。

夕方、閉店した臼井のイトーヨーカドーの近くに用事があって行くと、そこも解体作業の真っ最中だった。不景気な世の中だから、建物だけは残して、内部のレイアウトを変更して再利用するのかと思っていたが、意外なことだった。もったいない感じがする。

今回初めて、気象庁のウェブサイトで発表の全文を確かめてみた。「梅雨の時期に関する関東甲信地方気象情報 第2号」と題されたウェブページに、梅雨明けに関することが記載されていた。発表時間は、午前11時だった。
さて、梅雨が明けたと判断した根拠は、「本文」に次のように記されている。
『関東甲信地方は、高気圧におおわれ概ね晴れています。向こう一週間、北部を中心に一時雨や雷雨となるところがありますが、高気圧に覆われて晴れる日が多い見込みです。』
そしてこれを基にして、『7月14日ごろ梅雨明けしたとみられます』と結論づけるのである。
「今日」梅雨が明けたということになっているが、これを見ると『7月14日ごろ』となっているのだから、梅雨が明けた日を、「今日」と限定しているわけではないのだ。なんだかイイカゲンな感じだナーとは思うけれど、こんな言い方しかできないのだろう。
近隣の家の建て替え工事は、解体作業はすでに終了して、地ならしの作業に入った。1軒の家が消えてなくなると、周辺の風景がまったく変わってしまう感じがする。

夕方、閉店した臼井のイトーヨーカドーの近くに用事があって行くと、そこも解体作業の真っ最中だった。不景気な世の中だから、建物だけは残して、内部のレイアウトを変更して再利用するのかと思っていたが、意外なことだった。もったいない感じがする。

posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月12日
サイモンとガーファンクル(2)
「サイモンとガーファンクル」の曲を追加しておきます。
◆オールドフレンズ
Simon and Garfunkel - Old Friends
http://www.youtube.com/watch?v=DSw-DrxAhEU
◆アイ・アム・ア・ロック
http://www.youtube.com/watch?v=9-iNViFJNjE
http://www.youtube.com/watch?v=7EUl3CWHltw
◆冬の散歩道
http://www.youtube.com/watch?v=rQX6FH_ipU8
◆Paul Simon - American Tune (1975)
http://www.youtube.com/watch?v=AE3kKUEY5WU
◆明日に架ける橋
Simon and Garfunkel - Bridge Over Troubled Water (Live 1969)
http://www.youtube.com/watch?v=GYKJuDxYr3I
◆オールドフレンズ
Simon and Garfunkel - Old Friends
http://www.youtube.com/watch?v=DSw-DrxAhEU
◆アイ・アム・ア・ロック
http://www.youtube.com/watch?v=9-iNViFJNjE
http://www.youtube.com/watch?v=7EUl3CWHltw
◆冬の散歩道
http://www.youtube.com/watch?v=rQX6FH_ipU8
◆Paul Simon - American Tune (1975)
http://www.youtube.com/watch?v=AE3kKUEY5WU
◆明日に架ける橋
Simon and Garfunkel - Bridge Over Troubled Water (Live 1969)
http://www.youtube.com/watch?v=GYKJuDxYr3I
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2009年07月11日
東京ドーム「サイモンとガーファンクル」コンサート
京成上野駅から都バスを利用して、東京ドーム近くのバス停「春日駅前」には、4時半頃に着いた。「サイモンとガーファンクル」のコンサートは5時半開場だから、1時間ほど早く着いた。時間はたっぷりある。そこからはブラブラと見物しながら歩いてドームに向かった。
地下鉄「後楽園駅」
地下鉄がビルの中から出て来る光景は、とても不思議な感じがする。

ジェットコースター
「キャーキャー」という叫び声が、ビルの谷間にこだまする。叫び声をあげるぐらいなら、乗らなければいいのにと思う。そういう人の気持ちは、どうしても理解できないのだ。

入場ゲート「23」は、春日駅前から歩いてくるとちょうど反対側の位置になり、JR水道橋駅を利用した方が近い。ただ、JR地下鉄は混雑が予想されるのでバスを利用したのだった。ちょうど写真教室に行く時に利用する路線だった。

ドーム周辺には、若者たちの姿はあまりなく、それらしい年配の人たちが集まり始めていた。いずれも青春時代に彼らの歌を聴き、映画「卒業」見たとおぼしき人たちだった。開場時間まで余裕があったので、夕食を求めてドーム周辺を歩き回った。ドーム内は撮影禁止なので、歩き回りながら写真も撮っておいた。カメラ機能付き携帯電話での撮影もできないのだが、何列か前のおばちゃんが、堂々と席を立って「カシャリ」と撮っていた。

そうこうしている間に時間はどんどん過ぎ去り、再び「ゲート23」近くに戻ってきた時には、入場列までできていた。全席指定なのだから、行列を作って並ばなくてもよさそうなものだが、どうして日本人は並ぶのが好きなのだろうか。

実はかく言う私たちも、並んだのだった。開場は5時半だからその直前に行ったのだが、リハーサルが延びているということで、実際に入場が始まったのは、5時40分頃だった。その間蒸し暑さを我慢しながら並んでいた。
コンサートの雰囲気は、夫人のブログ「さらさら日記」に譲ることにして、以下に「You Tube」に投稿された「サイモンとガーファンクル」の動画へのリンクを載せておくことにする。もちろん「YouTube」で検索すればすぐに探し当てることはできる。
なお検索している途中で、「サイモンとガーファンクル」のコンサートの映像が見つかった。それがなんと6月に行われたものだった。動画の標題には「メルボルン」という都市名も入っているから、オーストラリアで行われたコンサートの模様を撮影したものだろう。
外国であっても、当然のことながらビデオ撮影も禁止となっているにちがいない。チェックの目をかいくぐり、こっそり撮影したものと思われる。動画に対して寄せられたコメントには、次のようなものもあった。英語が得意でない故、訳が正確さを欠いているかもしれないことをお断りしておく。
『ワーオ、アップロードしてくださって、ありがとうございます!』
『あなたはりっぱにやりました、相棒!』
それらの動画へのリンクは簡単に張ることはできるのだが、さすがにそれはためらわれるので省くことにする。見たいと思う人は、ご自分で検索してさがしてみて下さい。ただしそのうち削除されて、見つからなくなるかもしれません。
-------------------------
サイモンとガーファンクル
Simon and Garfunkel
-------------------------
(YouTubeより)
昨日の朝日新聞の夕刊に、湯浅学氏による「サイモンとガーファンクル」の名古屋コンサートの記事が載っていた。それによると、日本コンサートは16年ぶりということだ。68歳という年齢を思えば、今回が最後となる可能性が高いのだろう。『ガーファンクルの歌唱力にわずかな変化』が見られたと書かれていたが、表現の仕方にかなり気を使ったのだろう。実際に聴いた印象では、歌唱力には円熟味が増したのだろうが、残念ながら若い頃の、あの高音の透きとおった響きが失われていた。サイモンの方が、かえって張りのあるよく通る声を保っていた。ただ、年齢のことを考えれば仕方ないことだろう。
昨日のコンサートの二人の姿・声に一番近いのは、2003年に行われたライブの映像だろう。「卒業」で主役の学生を演じたダスティン・ホフマンの紹介で、二人が登場する。
■Sound Of Silence
◆The Sound of Silence(Live) - 2003
http://www.youtube.com/watch?v=kdD52DAaFRs
インタビューの後「BOXER」を歌う二人は、さらに今の姿に近い。二人とも、とてもいい歳のとり方をしていて、しっとりと聴かせてくれる。歳をとることも悪くはないと思わせてくれる。
◆SIMON @GARFUNKEL..BOXER
http://www.youtube.com/watch?v=Rr-5zaSjfmA
【若い頃の歌声】
◆Sound Of Silence - Simon & Garfunkel (live sound)
http://www.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ
◆sound of silence
http://www.youtube.com/watch?v=9hUy9ePyo6Q
◆Simon & Garfunkel Sound Of Silence Legendado
http://www.youtube.com/watch?v=VflKiZzb4h4
【映画「卒業」の映像と共に】
◆The Sound of Silence en The Graduate
http://www.youtube.com/watch?v=UxWkCHt8owc
【サイモンとボブディラン】
◆Bob Dylan & Paul Simon - The Sound Of Silence Live
http://www.youtube.com/watch?v=5UagMMG_vpE
番外編【ボブディランの「風に吹かれて」】
*Bob Dylan Blowin' In the Wind
http://www.youtube.com/watch?v=ced8o50G9kg
*BOB DYLAN - Blowing in the wind (Madison Square Garden NY 1971)
http://www.youtube.com/watch?v=A4nPJ-YYHBc
■映画「卒業」(1967年)より
●卒業 オリジナル
http://www.youtube.com/watch?v=lcMzg_bpD7k
【「Scarborough Fair」の曲にのせて、「卒業」のいろいろなシーンが流れていきます。】
●Simon and Garfunkel - Are you going to Scarborough Fair
http://www.youtube.com/watch?v=nIoGOgqs_20
【Mrs. Robinson】
●6. Mrs. Robinson
http://www.youtube.com/watch?v=xKwbEsXBmKA
【ラストシーン〔教会からバスへ〕】
あり得ないことと思いつつも、つい引き込まれてしまいます。
●Graduate end scene
http://www.youtube.com/watch?v=i9eIXN6Sp40
■Scarborough Fair
●Simon & Garfunkel Scarborough Fair
http://www.youtube.com/watch?v=BYQaD2CAi9A
●Scarborough Fair
http://www.youtube.com/watch?v=XEhAXQ5QQzs
●スカボローフェア(訳詞付) - Celtic Woman
歌詞の内容が分かります。
http://www.youtube.com/watch?v=Wtryvmt2BNo
■Mrs Robinson
●Mrs Robinson - Simon & Garfunkel tribute
http://www.youtube.com/watch?v=Ubcyn0_5GNc
●Simon & Garfunkel - Mrs.Robinson
なぜビートルズの写真が使われているのだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=O6aNYkWKxfU
地下鉄「後楽園駅」
地下鉄がビルの中から出て来る光景は、とても不思議な感じがする。


ジェットコースター
「キャーキャー」という叫び声が、ビルの谷間にこだまする。叫び声をあげるぐらいなら、乗らなければいいのにと思う。そういう人の気持ちは、どうしても理解できないのだ。


入場ゲート「23」は、春日駅前から歩いてくるとちょうど反対側の位置になり、JR水道橋駅を利用した方が近い。ただ、JR地下鉄は混雑が予想されるのでバスを利用したのだった。ちょうど写真教室に行く時に利用する路線だった。

ドーム周辺には、若者たちの姿はあまりなく、それらしい年配の人たちが集まり始めていた。いずれも青春時代に彼らの歌を聴き、映画「卒業」見たとおぼしき人たちだった。開場時間まで余裕があったので、夕食を求めてドーム周辺を歩き回った。ドーム内は撮影禁止なので、歩き回りながら写真も撮っておいた。カメラ機能付き携帯電話での撮影もできないのだが、何列か前のおばちゃんが、堂々と席を立って「カシャリ」と撮っていた。


そうこうしている間に時間はどんどん過ぎ去り、再び「ゲート23」近くに戻ってきた時には、入場列までできていた。全席指定なのだから、行列を作って並ばなくてもよさそうなものだが、どうして日本人は並ぶのが好きなのだろうか。

実はかく言う私たちも、並んだのだった。開場は5時半だからその直前に行ったのだが、リハーサルが延びているということで、実際に入場が始まったのは、5時40分頃だった。その間蒸し暑さを我慢しながら並んでいた。
コンサートの雰囲気は、夫人のブログ「さらさら日記」に譲ることにして、以下に「You Tube」に投稿された「サイモンとガーファンクル」の動画へのリンクを載せておくことにする。もちろん「YouTube」で検索すればすぐに探し当てることはできる。
なお検索している途中で、「サイモンとガーファンクル」のコンサートの映像が見つかった。それがなんと6月に行われたものだった。動画の標題には「メルボルン」という都市名も入っているから、オーストラリアで行われたコンサートの模様を撮影したものだろう。
外国であっても、当然のことながらビデオ撮影も禁止となっているにちがいない。チェックの目をかいくぐり、こっそり撮影したものと思われる。動画に対して寄せられたコメントには、次のようなものもあった。英語が得意でない故、訳が正確さを欠いているかもしれないことをお断りしておく。
『ワーオ、アップロードしてくださって、ありがとうございます!』
『あなたはりっぱにやりました、相棒!』
それらの動画へのリンクは簡単に張ることはできるのだが、さすがにそれはためらわれるので省くことにする。見たいと思う人は、ご自分で検索してさがしてみて下さい。ただしそのうち削除されて、見つからなくなるかもしれません。
-------------------------
サイモンとガーファンクル
Simon and Garfunkel
-------------------------
(YouTubeより)
昨日の朝日新聞の夕刊に、湯浅学氏による「サイモンとガーファンクル」の名古屋コンサートの記事が載っていた。それによると、日本コンサートは16年ぶりということだ。68歳という年齢を思えば、今回が最後となる可能性が高いのだろう。『ガーファンクルの歌唱力にわずかな変化』が見られたと書かれていたが、表現の仕方にかなり気を使ったのだろう。実際に聴いた印象では、歌唱力には円熟味が増したのだろうが、残念ながら若い頃の、あの高音の透きとおった響きが失われていた。サイモンの方が、かえって張りのあるよく通る声を保っていた。ただ、年齢のことを考えれば仕方ないことだろう。
昨日のコンサートの二人の姿・声に一番近いのは、2003年に行われたライブの映像だろう。「卒業」で主役の学生を演じたダスティン・ホフマンの紹介で、二人が登場する。
■Sound Of Silence
◆The Sound of Silence(Live) - 2003
http://www.youtube.com/watch?v=kdD52DAaFRs
インタビューの後「BOXER」を歌う二人は、さらに今の姿に近い。二人とも、とてもいい歳のとり方をしていて、しっとりと聴かせてくれる。歳をとることも悪くはないと思わせてくれる。
◆SIMON @GARFUNKEL..BOXER
http://www.youtube.com/watch?v=Rr-5zaSjfmA
【若い頃の歌声】
◆Sound Of Silence - Simon & Garfunkel (live sound)
http://www.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ
◆sound of silence
http://www.youtube.com/watch?v=9hUy9ePyo6Q
◆Simon & Garfunkel Sound Of Silence Legendado
http://www.youtube.com/watch?v=VflKiZzb4h4
【映画「卒業」の映像と共に】
◆The Sound of Silence en The Graduate
http://www.youtube.com/watch?v=UxWkCHt8owc
【サイモンとボブディラン】
◆Bob Dylan & Paul Simon - The Sound Of Silence Live
http://www.youtube.com/watch?v=5UagMMG_vpE
番外編【ボブディランの「風に吹かれて」】
*Bob Dylan Blowin' In the Wind
http://www.youtube.com/watch?v=ced8o50G9kg
*BOB DYLAN - Blowing in the wind (Madison Square Garden NY 1971)
http://www.youtube.com/watch?v=A4nPJ-YYHBc
■映画「卒業」(1967年)より
●卒業 オリジナル
http://www.youtube.com/watch?v=lcMzg_bpD7k
【「Scarborough Fair」の曲にのせて、「卒業」のいろいろなシーンが流れていきます。】
●Simon and Garfunkel - Are you going to Scarborough Fair
http://www.youtube.com/watch?v=nIoGOgqs_20
【Mrs. Robinson】
●6. Mrs. Robinson
http://www.youtube.com/watch?v=xKwbEsXBmKA
【ラストシーン〔教会からバスへ〕】
あり得ないことと思いつつも、つい引き込まれてしまいます。
●Graduate end scene
http://www.youtube.com/watch?v=i9eIXN6Sp40
■Scarborough Fair
●Simon & Garfunkel Scarborough Fair
http://www.youtube.com/watch?v=BYQaD2CAi9A
●Scarborough Fair
http://www.youtube.com/watch?v=XEhAXQ5QQzs
●スカボローフェア(訳詞付) - Celtic Woman
歌詞の内容が分かります。
http://www.youtube.com/watch?v=Wtryvmt2BNo
■Mrs Robinson
●Mrs Robinson - Simon & Garfunkel tribute
http://www.youtube.com/watch?v=Ubcyn0_5GNc
●Simon & Garfunkel - Mrs.Robinson
なぜビートルズの写真が使われているのだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=O6aNYkWKxfU
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月09日
2009年07月08日
たなばたさま
去年の七夕の日に、「たなばたさま」の作詞者・権藤はなよについて書こうと思ったのだが、結局書かず仕舞いで終わってしまった。今年も7月7日は過ぎ、昨年と同じことになるおそれがある。というよりは、すでにそうなってしまったと言った方が良い。
毎年七夕の日が近づくと、短冊に願い事を書いて、笹の葉に結びつけている子どもたちの姿を見掛けることが多くなる。そういう習わしは、たぶんこれからもずっと続けられていくのだろう。そういうことを思えば、一日遅れとはなるが、「たなばたさま」の作詞者である権藤はなよにかかわる思い出を書いておくことも無駄ではないだろう。
権藤はなよは、山梨県で生まれ旧姓を伊藤という。私の母方の祖父である歌人の伊藤生更の妹である。伊藤生更は、「アララギ」に入会して齋藤茂吉に師事し、のちに歌誌「美知思波」を主宰した。
宮崎県出身の声楽家・権藤円立と山梨県出身の伊藤はなよが、どのような経緯で結婚に至ったのか、その間のいきさつについては分からない。ただ、権藤氏が山梨師範学校に赴任して音楽教育に携わったこと、伊藤生更が山梨師範学校を卒業して、一時期師範学校の教壇にも立ったことがあることなどを重ね合わせれば、ある程度想像することはできる。
権藤円立・はなよ夫妻は吉祥寺に居を構えた。私の父母は、権藤夫妻が住まいとしていた富士見通(現在は本町四丁目)の家を借り受け、権藤夫妻は五日市街道を北に越えたところにある広い庭の家に転居した。
その後、14歳で亡くなった姉の命日には、権藤氏がやって来て、仏壇の前で御詠歌をうたってくれることがよくあった。子どもにとっはその有り難みが分からず、退屈な時間に過ぎなかったが、かつて声楽家として活躍しただけあって、子供心にもその声の魅力は感じられた。
はなよ夫人に先立たれた後、権藤氏は後妻を迎え、吉祥寺の家を処分しアパートの家主として老後の生計を維持した。
私の母親にとって、権藤はなよは確かに叔母さんにあたるのだから、「ゴンドウおばさん」と呼ぶのは当たり前のことなのだが、子どものころの私はそれをまねて、「ゴンドバサン」と呼んでいた。「ゴンドバサン」が、正しくは「権藤叔母さん」であることを知るのは、少し大きくなってからだった。「ゴンドバサン」の存命中に、かつて童謡の作詞家として活躍した時代があったことを聞く機会がなかったことは、今となってはとても残念に思えてならない。
毎年七夕の日が近づくと、短冊に願い事を書いて、笹の葉に結びつけている子どもたちの姿を見掛けることが多くなる。そういう習わしは、たぶんこれからもずっと続けられていくのだろう。そういうことを思えば、一日遅れとはなるが、「たなばたさま」の作詞者である権藤はなよにかかわる思い出を書いておくことも無駄ではないだろう。
権藤はなよは、山梨県で生まれ旧姓を伊藤という。私の母方の祖父である歌人の伊藤生更の妹である。伊藤生更は、「アララギ」に入会して齋藤茂吉に師事し、のちに歌誌「美知思波」を主宰した。
宮崎県出身の声楽家・権藤円立と山梨県出身の伊藤はなよが、どのような経緯で結婚に至ったのか、その間のいきさつについては分からない。ただ、権藤氏が山梨師範学校に赴任して音楽教育に携わったこと、伊藤生更が山梨師範学校を卒業して、一時期師範学校の教壇にも立ったことがあることなどを重ね合わせれば、ある程度想像することはできる。
権藤円立・はなよ夫妻は吉祥寺に居を構えた。私の父母は、権藤夫妻が住まいとしていた富士見通(現在は本町四丁目)の家を借り受け、権藤夫妻は五日市街道を北に越えたところにある広い庭の家に転居した。
その後、14歳で亡くなった姉の命日には、権藤氏がやって来て、仏壇の前で御詠歌をうたってくれることがよくあった。子どもにとっはその有り難みが分からず、退屈な時間に過ぎなかったが、かつて声楽家として活躍しただけあって、子供心にもその声の魅力は感じられた。
はなよ夫人に先立たれた後、権藤氏は後妻を迎え、吉祥寺の家を処分しアパートの家主として老後の生計を維持した。
私の母親にとって、権藤はなよは確かに叔母さんにあたるのだから、「ゴンドウおばさん」と呼ぶのは当たり前のことなのだが、子どものころの私はそれをまねて、「ゴンドバサン」と呼んでいた。「ゴンドバサン」が、正しくは「権藤叔母さん」であることを知るのは、少し大きくなってからだった。「ゴンドバサン」の存命中に、かつて童謡の作詞家として活躍した時代があったことを聞く機会がなかったことは、今となってはとても残念に思えてならない。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗
2009年07月07日
2009年07月06日
建て替え
今朝から近所の家の建て替え作業が、いよいよ始まった。まず2週間ほどかけて、今建っている家を取り壊すそうだ。その家の外観は、我が家よりはずっと立派で取り壊すのはほんとうにもったい感じなのだ。近所の人もその家の前を通ると、
「もったいないわねー」
とひそひそ話をする。なぜ取り壊すのか、その点についてはまだ明らかになっていない。
午後外出先から帰った時、取り壊しの準備作業がちょうど終わったところだった。家の周囲を、組み立てられた金属製の棒が囲んでいた。

取り壊すと言えば、東銀座の歌舞伎座も、あと一年足らずで立て替えとなる。現在の建物の一部は再利用されるそうだが、建物の全景を見ることができるのもあと残りわずかとなった。
タイヤ交換のため、車をホンダの営業所に届けた後、その足で銀座に出た。ITOYAで必要な文房具を購入するためだ。地下鉄の東銀座でおりて、地上に出ればすぐ目の前に歌舞伎座がそびえている。ときおり小雨が降るあいにくの天気だったが、ビルの軒先などを借りて雨をしのぎ、やがて姿を消す建物をカメラにおさめておいた。
あと299日


撮影していると、鳥(ハト?)が高見の見物にやってきた。鳥という人種?は、ほんとうに物見高い。
「もったいないわねー」
とひそひそ話をする。なぜ取り壊すのか、その点についてはまだ明らかになっていない。
午後外出先から帰った時、取り壊しの準備作業がちょうど終わったところだった。家の周囲を、組み立てられた金属製の棒が囲んでいた。

取り壊すと言えば、東銀座の歌舞伎座も、あと一年足らずで立て替えとなる。現在の建物の一部は再利用されるそうだが、建物の全景を見ることができるのもあと残りわずかとなった。
タイヤ交換のため、車をホンダの営業所に届けた後、その足で銀座に出た。ITOYAで必要な文房具を購入するためだ。地下鉄の東銀座でおりて、地上に出ればすぐ目の前に歌舞伎座がそびえている。ときおり小雨が降るあいにくの天気だったが、ビルの軒先などを借りて雨をしのぎ、やがて姿を消す建物をカメラにおさめておいた。
あと299日




撮影していると、鳥(ハト?)が高見の見物にやってきた。鳥という人種?は、ほんとうに物見高い。


posted by 里実福太朗 at 22:55| 里ふくろうの日乗
2009年07月05日
2009年07月03日
写真教室の懇親会
「あやしいな〜」
と言いながら夫人が部屋に入ってきて、ハガキを手渡してくれた。写真塾の7月の講座の案内だった。7月は予定では花火大会の撮影となっていたが、ハガキには別の内容が記されていた。変更された講座内容を見て、あやしいと言ったのだった。今までにカメラを向けたことのない種類の被写体なのだけれど、ただ調べてみると、その世界では名の通った人のようで、どうやら怪しいことはなさそうだ。
写真塾は次回で3回目だが、写真教室の方は今週の火曜日が最後の講義だった。全10回の講義を一度も欠席することはなかった。残念ながら、皆勤賞はいただけなかったが、修得単位数は2単位となる。
最終講義が終わったあとで懇親会があった。エクステンションセンター近くのビルの15階にある「西北の風」という展望レストランが、その会場だった。講座の在籍数は31名で、その中の28名が参加したのだから、出席率はかなりのものだ。その会の途中で、参加者全員が講座の感想を一言ずつ話したのだが、特に女性の参加者は、口々に講師の先生が優しく教えてくれたことに感謝の気持ちを述べた。懇親会への参加者が多かったのも、そういう先生の人柄によるものだろう。
仕事の途中で抜け出して来たあの人も、参加した。ただ職場を抜け出すためにだいぶ苦労したようで、秋に開講されるステップアップ講座には参加せず、ほとぼりを冷ましてからまた来年参加したいと言っていた。またある人は、何かの都合で講義の方は欠席せざるを得なかったそうだが、懇親会の方だけでも参加したくて駆けつけたと言っていた。
お酒も入り座があたたまったところで、いつも持ち歩いている小型のデジカメで、懇親会の模様を撮影しておいた。講師の先生も撮らせていただいた。その時は勢いでカメラを向けてしまったが、プロの写真家を撮るなどという大それたことがよくできたものだ、と後で思ったのだった。
ただ、さすがに一眼レフを使う勇気はなかった。そこで、
「バカチョンカメラですみません」
とか言ってハードルを低くして、カメラを向けたのだった。
と言いながら夫人が部屋に入ってきて、ハガキを手渡してくれた。写真塾の7月の講座の案内だった。7月は予定では花火大会の撮影となっていたが、ハガキには別の内容が記されていた。変更された講座内容を見て、あやしいと言ったのだった。今までにカメラを向けたことのない種類の被写体なのだけれど、ただ調べてみると、その世界では名の通った人のようで、どうやら怪しいことはなさそうだ。
写真塾は次回で3回目だが、写真教室の方は今週の火曜日が最後の講義だった。全10回の講義を一度も欠席することはなかった。残念ながら、皆勤賞はいただけなかったが、修得単位数は2単位となる。
最終講義が終わったあとで懇親会があった。エクステンションセンター近くのビルの15階にある「西北の風」という展望レストランが、その会場だった。講座の在籍数は31名で、その中の28名が参加したのだから、出席率はかなりのものだ。その会の途中で、参加者全員が講座の感想を一言ずつ話したのだが、特に女性の参加者は、口々に講師の先生が優しく教えてくれたことに感謝の気持ちを述べた。懇親会への参加者が多かったのも、そういう先生の人柄によるものだろう。
仕事の途中で抜け出して来たあの人も、参加した。ただ職場を抜け出すためにだいぶ苦労したようで、秋に開講されるステップアップ講座には参加せず、ほとぼりを冷ましてからまた来年参加したいと言っていた。またある人は、何かの都合で講義の方は欠席せざるを得なかったそうだが、懇親会の方だけでも参加したくて駆けつけたと言っていた。
お酒も入り座があたたまったところで、いつも持ち歩いている小型のデジカメで、懇親会の模様を撮影しておいた。講師の先生も撮らせていただいた。その時は勢いでカメラを向けてしまったが、プロの写真家を撮るなどという大それたことがよくできたものだ、と後で思ったのだった。
ただ、さすがに一眼レフを使う勇気はなかった。そこで、
「バカチョンカメラですみません」
とか言ってハードルを低くして、カメラを向けたのだった。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 写真
2009年07月01日
イチハツが来た
今日から7月、気を取り直してブログを書くことにする。6月を振り返ってみれば、いろいろとゴタゴタがあったとしても、8日分しか書かなかったのは我ながら情けない。ちょっとサボりすぎた。
先週は梅雨明けを思わせるほどに青空が広がった日もあったが、昨日今日と梅雨空が戻った。九州地方には大雨が降ったらしいが、その雨雲が関東地方に近づいて来ているらしい。
夕方夫人が、外出先からイチハツを車に積んで帰って来た。例のUさんから株を分けていただいたそうだ。うまく根付いてくれれば、来年はこの庭でイチハツの花を見ることができるようになる。根岸の子規庵にはすでにイチハツがないけれど、我が家の庭ではイチハツが咲くのだ。夫人のおかげではあるが、私までちょっぴり鼻が高くなった気がする。

イチハツの写真を撮っている時に、しばらくその存在を忘れていたミカンの木に目が止まった。春の頃を思い出してみれば、白い花がたくさん咲いたのだった。今年はミカンの豊作の年になるだろうと思い、実りの秋を迎えるのが楽しみだった。しかし今日確かめてみると、細い枝にしがみついている実はわずかに三つだった。せめてこの三つだけは、このまま枝にしがみついていて欲しいとは思うが、秋まではまだまだ厳しい道のりが続く。
先週は梅雨明けを思わせるほどに青空が広がった日もあったが、昨日今日と梅雨空が戻った。九州地方には大雨が降ったらしいが、その雨雲が関東地方に近づいて来ているらしい。
夕方夫人が、外出先からイチハツを車に積んで帰って来た。例のUさんから株を分けていただいたそうだ。うまく根付いてくれれば、来年はこの庭でイチハツの花を見ることができるようになる。根岸の子規庵にはすでにイチハツがないけれど、我が家の庭ではイチハツが咲くのだ。夫人のおかげではあるが、私までちょっぴり鼻が高くなった気がする。


イチハツの写真を撮っている時に、しばらくその存在を忘れていたミカンの木に目が止まった。春の頃を思い出してみれば、白い花がたくさん咲いたのだった。今年はミカンの豊作の年になるだろうと思い、実りの秋を迎えるのが楽しみだった。しかし今日確かめてみると、細い枝にしがみついている実はわずかに三つだった。せめてこの三つだけは、このまま枝にしがみついていて欲しいとは思うが、秋まではまだまだ厳しい道のりが続く。


posted by 里実福太朗 at 23:37| 里ふくろうの日乗