2010年03月30日

思い出の地

東都書房版の「日和下駄」には、著者・永井荷風の写真が30枚ほど載っている。「日和下駄」に記されている場所、その思い出の地で撮った写真だ。

【日和下駄】
 著者…永井壯吉
 発行所…東都書房
 発行年…昭和32年5月25日

その中の一枚に、浅草で撮った写真がある。地下鉄銀座線・浅草駅の出入り口付近で撮られたものだ。その写真のキャプションは、以下のように記されている。

 浅草(現・台東区)の地下鉄駅付近にて
  昭和三十年十一月

その場所は吾妻橋の西詰めのあたりで、その古い写真を見ると、浅草駅への地下出入り口の建物が、当時とほぼ同じ形状を保ったまま現在も使われていることが分かる。ただ周辺の店は変わっている。その写真には、向かって左側(南側)は「牛肉の店相模屋」、その西隣には「つり具」の看板が写っている。現在のそのあたりは、下の写真で分かるように、「羽ネル屋」という店になっている。

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先日、写真塾の一泊の写真撮影会で三浦半島に行った時のこと、古顔のKさんとこんな話になった。
「明日はどうしますか」
「どうしようかなァ、このあたりをブラブラ歩きながら写真を撮って、そのあとは上大岡にでも行ってみようかな」
「上大岡ですか」
「若い頃、上大岡に住んでたことがあるんですよ。思い出の地を訪ねてみようかな」
「わたしのおじいさんも、亡くなる前にそんなことを言っては、いろんな所に出かけて行きましたよ」
「そうそう、そういう気持ちになるんですよ」
「おじいさんは、1年くらい経ってから亡くなってしまいましたよ」
「………」
「昔のことを振り返るのは、まだ早いですよ。先に向かって進みましょうよ」
「そうですか、1年後に亡くなりましたか」
とつぶやきながら、上大岡で途中下車することは取りやめにしたのだった。

昭和30年11月といえば、荷風は75歳、亡くなる4年前のことだ。晩年にさしかかると、思い出の地を再訪してみたくなるのは人の常なのだろうか。あの荷風も、その例外ではなかったということなのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2010年03月29日

東京スカイツリーが高さ日本一

今日も寒い一日だった。夕刻には雪まで降り始めた。いっとき激しく降ることもあったが、それも一時的なことですぐやんでしまった。

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工事中の東京スカイツリーは、午前十時頃に高さ10メートルほどの鉄骨を積み上げ高さ338メートルとなり、一気に東京タワーを超えたそうだ。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100329k0000e040025000c.html
(毎日jp)
ただその模様を別の新聞社のニュース動画で見ると、積み上げられた鉄骨部分の高さが338メートルになっただけで、全体がその高さになったのではないようだった。そんな状態でも高さ日本一となったとするのだから、かなり強引な感じがしてなんだか釈然としないな。

東京タワーの高さを超えたのを機に、これまでに撮りためておいた写真をまとめてお載せておくことにします。ただ枚数が多くなるので、「里ふくろうコム」の「里ふくろうフォトギャラリー」コーナーのほうにアップすることにします。なお撮影日は以下の通りです。

2010年
 1月16日
 1月29日
 2月25日
 3月18日
 3月27日

とりあえず1月16日と29日分をアップしておきます。
 里ふくろうコム
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2010年03月28日

今年のマリーンズは何かが違う

プロ野球公式戦の無料招待券が手に入り、寒風吹きすさぶ中、またマリンスタジアムに行ってきた。対戦相手は北海道日本ハムファイターズ、マリーンズが苦手とするチームだ。ところが今年は、まだ2試合だけしか戦っていないが、1勝1分けでまだ負けがない。まあ、今後どうなるか分かりませんが…。

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[試合前のダンスショウ]

それにしても、本当に寒かった。観客の多くは、冬のコートを着ていた。去年の秋、ユングフラウヨッホのスフィンクス展望台(3573m)に登った時に着用したダウンジャケットを着込んでいたのだけれど、2階席に長時間座っていると、冷気が体の髄までしみてきた。

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先発投手は、先日観戦したオープン戦と同じく小野投手、寒さのためなのか調子が悪く、1回に3点を失ってしまった。その後も調子はあがらず、失点を重ねた末にマウンドをおりた。西岡選手のホームランなどで、マリーンズも反撃したが、8回終了時点で5対3、得点のチャンスがあってもそれを活かすことができず敗色濃厚と思われた。最終回まで見たとしても、風邪をひくのがオチだと思って球場をあとにした。

去年までのマリーンズなら、その判断は正しかったにちがいない。たぶんそのままあっさりと試合が終わっていただろう。ところが夜のスポーツニュースを見てビックリした。9回に逆転して、サヨナラ勝ちをしたのだ。サヨナラヒットを打ったのは、公式戦が始まってから不振が続いていたキム・テジュン選手だった。

昨日の試合でも、9回の土壇場で同点として引き分けに持ち込み、去年までのロッテにはなかった粘り強さを見せた。ペナントレースが始まったばかりだから、今年のロッテは粘り強くなった、などと軽々に言い切ることはできないが、そうなることをひそかに期待してみることにしよう。
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2010年03月25日

卒業式

卒業式は午前2回・午後2回の計4回に分けて行われ、約1万2千人の学生が卒業していった。息子は午後一回目の式、開始40分前開場の予定となっていた。少し早めの1時間以上前に会場前に着いたのに、すでに長蛇の列ができていた。

冷たい雨が降っている中、30分以上もカサをさしながら開場を待っていた。
「大学に入って、好きなことができたんだからほんとうに良かったわね〜」
近くにいた女性が、連れの人にこんなふうに言っている声が聞こえた。語尾を軽くあげるのは、関東の言い方ではない。関西方面の人だろうか。子どもの卒業式に参列するため、わざわざ地方から上京して来たのだろう。

時々列の横を、着物と袴をまとった女子学生がカサをさして通り過ぎていく。後のことになるが、式典の会場を埋め尽くした女子学生のほとんどが、着物と袴を着用していた。着物と袴のセットが、卒業する女子学生の定番スタイルとして定着したのは、いつごろからなのだろうか。

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まれに定番スタイルではない女子学生の姿も見受けられた。

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一方男子学生と言えば、ほとんどがダークスーツ。息子も、アカイヌ王国ご夫妻から贈られたネクタイが気に入ったらしくて、その真新しいネクタイをさっそく締めて出かけた。学生服に角帽というスタイルの学生はいないものかと探してみたら、かろうじて一人だけ見つかった。

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こんな奇抜な頭の学生もいた。頭の側面に赤い「卒」と言う文字があったり、ダークスーツをビシッと着込んでいたりするから、堅苦しい形式ばった式典に対する「異議申し立て」ではなさそうだ。

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[式次第]
1.開式
2.学位記授与
  卒業証書授与

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3.式辞
4.功労者・祝辞
5.校友会代表幹事挨拶
6.記念賞授与
7.校歌斉唱

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全員起立して、そして拳を突き上げて…

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そしてもう一曲、大学の栄光をたたえるしっとりとし曲調の歌を、隣同士で肩を組みながら合唱した。壇上には応援団長が一人残り、手を振り、大声で皆を鼓舞する。

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8.閉式

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2010年03月24日

寒の戻り

冷たい雨の降る一日だった。「暑さ寒さも彼岸まで」とよく言われるけれど、その言葉とはうらはらに、お彼岸の終わりに、また寒さが戻ってきた。

先週行われた撮影会の記事(三浦半島・松輪間口港まで)
を、3月20日分としてアップした。
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2010年03月23日

新たな出発

今週は、息子の卒業式がある。入学してからもう4年が経ってしまったわけで、月並みな言い方ではあるが、月日の流れる速さに改めて驚かされる。リーマンショックから始まる世界的な経済危機の影響をもろに受けて、卒業予定者の就職率は80%という低さと聞く。そのように厳しかった就職戦線をくぐり抜け、いよいよ4月からは社会人となる。

息子は大学を去るが、その父親は4月からまた大学に通うことを予定している。大学といっても、オープンカレッジであるが。昨年度は、写真撮影術を受講した。今度は、驚くことなかれ、なんとフランス語を受講するのだ。熱しては冷めやすい福太燻≠セから、写真はもうあきらめたのだろう、などと失礼な想像をする人もいるかもしれない。しかし写真の講座には、さらなるレベルアップを図るための講座がないのだから仕方がない。写真の修行は、写真塾の方で継続するつもりだ。

それでは、なぜ、今さらフランス語なのか、こういう疑問の声が聞こえてくる。その声に答えると、写真とは決して無縁ではないということなのだ。そもそも写真は、かのフランスが発祥の地なのだ。そして、ドアノーあるいはアジェ、さらにブレッソンなど、写真史にはフランの写真家が名を連ねる。

また文学の世界に目を転じれば、遠藤周作はフランスに留学して「ルーアンの丘」を記し、さかのぼって永井荷風は、銀行員としてフランスに赴き「ふらんす物語」を残した。彼らが歩いたフランスの街角を辿りつつ、写真におさめてみるのもおもしろいかもしれない。

フランスでも英語が通じないことはない。夫人の言によれば、彼らはきれいな英語を話すそうだ。だから夫人の傍を離れないようにしていれば、英語が話せなくても困ることはない。しかしかの国の日常に身を置くとなれば、多少なりともかの国の言葉を身につけておいた方が良いのは言うまでもない。

かくて、フランス語の勉強をするなどという大それたことを実行に移すことになったのだ。しかしながら心配なことがある。語学は昔から苦手なのだ。単語を覚えるのも苦手なのだ。さらにまずいことに、記憶力の減退がある。これはもうどうすることもできない。しかし、今日受講料を送金してしまった。もう後戻りはできない。
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2010年03月22日

撮影旅行

東京地方の桜は、今日開花したそうだ。平年より6日早く、昨年よりは1日遅いということだ。ここのところかなり暖かい日があり、この分だと桜の開花はかなり早くなるだろうなと思っていたので、これはちょっと意外だった。

先週の土曜日から日曜日にかけて、写真塾主宰の一泊の撮影旅行に参加した。場所は三浦半島先端に建つ剱崎灯台近辺、一年の締めくくりの講座として行われた。天気がよければ朝焼けの中、出航する漁船の姿が見られると聞いていたが、一行の中に、ふだんの行状芳しからぬ人がいたのかもしれない、夜から朝にかけて激しい風雨に見舞われ、さらにカミナリまで鳴り出す始末だった。

その一泊撮影旅行の模様は、土曜・日曜分のブログにさかのぼって書いておくことにする。何日か書くのをサボると、書いておきたいことがどんどん溜まってしまう。ここ何日かのうちに、溜まった材料をなんとか消化することにしよう。そういえば、ヨーロッパ旅行記も、ノイシュバンシュタイン城の手前で遭難してしまった。春になれば雪も解けて、救出に向かうことができるだろうと思っていたが、いまだに果たせない。

さて今日のところは、とりあえず三浦海岸駅までの行程を載せておくことにする。

自宅出発…9時すこし前

青砥 乗り換え
↓ 京成押上線・西馬込行き
泉岳寺 乗り換え
↓ 京浜急行(快特)・三崎口行き

この快特の座席は、すべて進行方向に向いた二人掛けで、背もたれが高く座り心地もよかった。特急料金が必要でないのが不思議なくらいだった。

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YRP野比
…不思議な名前の駅だ。横浜の上大岡にかつて住んだことがあるが、その当時、「野比」という駅はあった。しかし、その頭に「YRP」というアルファベットはついてなかった。

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三浦海岸

数分遅れて、11時半過ぎに三浦海岸駅に着いた。約2時間半の小旅行だった。駅前では、月に一回ひらかれる市が賑わいを見せていた。

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2010年03月20日

三浦半島・松輪間口港まで

集合場所
…三浦海岸駅前の2番バス乗り場
集合時間
…12時30分

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予定では、集合後12時50分発のバスに乗車することになっていたが、すでに集まっていた人たちといっしょに、一つ前のバスに乗ることにした。乗り込んだバスの行き先は「剱崎」、具合がいいことに終点で降りればよい。

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[バス停・とがり(鋒)]

この辺りの地形が、矛先に似ていることからつけら地名だろうか。

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[バス停・剱崎]

ここから松輪間口港までは、ゆっくり歩いて15分程度。しばらく歩くと、遙かかなたに剱崎灯台が小さく見えてきた。あたりには風をさえぎるものがなく、強風がまともに吹きつけてくる。

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この三叉路を左に進み、坂を下った突き当たりが松輪間口港。

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一目で港の全景を見渡すことのできるこじんまりとした漁港だ。

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今夜の宿は、正面に小さく見える民宿、親子三代で漁業を営んでいるそうだ。

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posted by 里実福太朗 at 00:00| フォト漫歩計

2010年03月17日

初春のひと日

庭の土留めがだいぶ朽ちてきて、一部は元の形をとどめていない。もう土留めの役割を十分果たしているとは言い難く、新しいものと交換することにした。昼食後しばらく経ってから、もちろんのことマスクをして庭におりた。

朽ちた土留めを引き抜くと、ダンゴムシがポロポロとこぼれ落ちてきた。

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昨夜雨が降ったことで土が軟らかくなっていて、ゴム製の槌で土留めの頭を打つと、簡単に地面の中に入っていった。交換作業をしていると、バイクの音が近づいてきて、
「郵便でーす」
と、庭仕事をしている小生に声をかけていった。しばらくすると、またバイクの音が近づいてきた。
「夕刊でーす」
こうやって郵便とか新聞とかを毎日配達してくれる人と、短いながらも声を交わすことは、今までにはなかったことだ。

1時間ほどで、作業は終了した。下の写真に写っている藍色の花は、ジャーマンアイリスの一種なのだそうだ。昨日、通りがかりの人に尋ねられ、名前が分からなかった花だ。今日その花の贈り主の人と、夫人がある会合で顔を合わせるというので、プリントアウトしたものを夫人が持参して、見てもらったところ分かったのだった。

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夕刻、図書館に行った帰りのこと、西の空の下がほんのりとサクラ色に色づいて見えた。もう桜が咲きはじめたのだろうか、いや、関東地方は来週あたりに開花するそうだから、まだちょっと早いな、と思いながら確かめに行ってみると、河津桜だった(たぶん)。散ってしまっている樹が多かったが、中にはまだ花の盛りを保っているものもあった。

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2010年03月16日

3月に夏日

関東地方では最高気温が25度をこえて、まだ3月というのに夏日となった。特に千葉県の横芝光町では、最高気温が25.7度を記録したそうだ。ただ家の中にいると、それほどの気温になったという実感はなかった。

花粉もたくさん舞い飛んでいるようで、家の中にいても鼻水・クシャミが止まらず、マスクをかけて過ごした。先週の金曜日に、マリンスタジアムでオープン戦を観戦している時も、かなりひどい状態だった。うどんを食べる時にもクシャミが続き、鼻水をぬぐいながら食べた。ちょっと油断すると、鼻水がたれて器の中に落ちそうになる。仮にそうなっても、調味料代わりになってくれるわけはない。こんな状態が続くのでは、そろそろ観念して花粉症なのだと認めなければならないのかもしれない。

この前の日曜日のこと、買い物に出かけようと車に乗ろうとした時、家の前を年寄りの二人連れがちょうど通りかかった。ダンナさんと思しき人が、庭先に咲く花を見ながら、
「この花の名前は、なんというのですか」
と声をかけてきたが、小生に尋ねられても分かるはずがない。庭を管理する夫人に訊いてみたが、憶えていないと言う。

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3月に入り、庭の花々が次々と咲き始めた。小生にはそれらの花の名前はほとんど分からない。写真だけでも載せておくことにする。

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2010年03月15日

業平橋から吾妻橋

業平橋をあとにして、浅草通りを西に歩いて吾妻橋に向かう。
歩いたルートは以下の通り。

A…業平橋 B…吾妻橋

大きな地図で見る

[本所吾妻橋駅]
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[本所吾妻橋商店会]
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吾妻橋の手前で、アサヒビールのあの奇妙なオブジェの下を通る。その形には特別の意味が込められていると聞くが、俗人には「キントン雲」とか「ウ●コ」と言った方が分かりやすい。

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ここを過ぎれば、吾妻橋の東詰はもう目と鼻の先だ。橋のたもとに、「あつま地蔵尊」が祀られていた。

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[吾妻橋の上から]
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鉄橋を東武電車が渡って行く。
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東京スカイツリーが見えた。あのビールジョッキの泡の高さを超えて見えるのはいつのことだろう。

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2010年03月12日

マリーンズのオープン戦

マリーンズ対ライオンズ戦を見るためにマリーンスタジアムに着いたのは、11時40分頃、球場前の駐車場にはまだ十分な駐車スペースがあった。球場周辺も、屋台の数は少なく人の姿もまばらだった。

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試合は午後1時開始、時間が来るまでお昼を食べたり、今季初となる野球場の雰囲気を味わったりしていた。お弁当の販売もなく、うどんを買い求めて食べている時、なんとセンターうしろの巨大スクリーンに、夫人の姿が映し出されたのだ。少しズームアウトして小生の姿も。待ち時間に観客の姿が映し出されることはこれまでもよくあったが、私たちの姿が映し出される例しはなかった。そして巨大スクリーンに映し出された人の多くがするように、私たちもカメラに向かって手を振ってしまった。

春の暖かい陽差しのせいか、観客席全体にノンビリとした雰囲気が漂っているように感じられた。外野の応援席にも人は少なく、応援団はまだ歌の練習中だった。

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先発は小野投手、四番打者は新加入のキム・テジュン一塁手。かつてオリンピックやWBCなどで、日本の行く手を阻んだあの韓国選手だ。彼が打席に立つと、どうか打たないでくれと願ったものだ。その選手がマリーンズに加わったのだ。味方につけば、これほど心強いことはない、今度は、どんどん打ってもらいたいと願うのだから現金なものだ。今日は、3安打の活躍を見せてくれた。

試合が始まった頃は陽差しが強く、コートはいらないほどの暖かさだったが、試合が進み陽が西に傾くにつれて寒くなり、7回の終了時点で球場をあとにした。その時試合は、9対3でマリーンズが勝っていた。夜のスポーツニュースを見ると、試合結果は同じ点差のままだった。
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2010年03月11日

写真展準備

明日から写真展が始まる。その準備のお手伝いのため、ギャラりーに行ってきた。準備に参加するのは義務ではないのだが、見学がてら小生でも手伝えることがあればと思って顔を出したのだった。

昼食はギャラリー近くのコーヒー店で、サンドウィッチとコーヒーをテイクアウトして、ギャラリーの中庭のベンチに座って食べた。ひと頃の寒さも遠のき、久しぶりの暖かい陽を受けながらの昼食だった。ただ道路をはさんだ西側で建設工事をしていて、その騒音がなければ、平穏なひとときを過ごせたのだろうが…。

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さて準備はカナヅチと釘などを駆使して行い、小生は10点ほどの写真を展示した。準備に参加したのは、塾生の中では小生一人だった。勤めを持っている他の塾生たちは、まさか仕事をサボって来るというわけにもいかないだろう。
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2010年03月10日

「ザ・コーヴ」そして文化多様性条約・テキサスオジさん

第82回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞は、日本のイルカ漁を扱かった「ザ・コーヴ(入り江)」(ルイ・シホヨス監督)が受賞した。この映画について、地元の和歌山県太地町では、虚偽の事実が多いこと、残酷さを強調していること、さらに伝統的な食文化を否定していることなどを問題視して、反発の声が高まっているそうだ。

今さらいうべきことことではないが、世界各地にはさまざまな食文化が存在している。さまざまな気候風土の中で暮らしているのだから、それに応じてさまざまな食文化、更に広く言えば、さまざまな文化が生じてくることは、自明の理なのである。ある地域の人々が食するものを、他の地域の人々が嫌悪して、絶対に口にしないということがある一方で、その逆の場合も、もちろんある。両者が互いの文化を批判するのではなく、それぞれの地域に根付き、伝えられてきた文化を尊重することが大切なのである。

3月8日の共同通信の記事に、「文化多様性条約の締結を ユネスコ国内委が建議」という見出しのものがあった。
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010030801000706.html

それによると、
『日本ユネスコ国内委員会(会長・田村哲夫渋谷教育学園理事長)は8日、多様な文化の保護や、異文化の尊重に向けた国際的な取り組みを政府に課す「文化多様性条約」を早期に締結するよう求める建議を川端達夫文部科学相に提出した。』
とあった。

『多様な文化の保護や、異文化の尊重』に関係する問題は、まさに今回の「ザ・コーヴ」の問題と重なってくる。そこで、「文化多様性条約」について調べてみた。

この条約は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、日本を含む148カ国の賛成を得て2005年10月に採択したものだった。その後今日に至るまでに、107カ国とEUが条約を締結しているが、日本はまだ締結していない、そしてアメリカも。それはなぜなのか。この疑問を解決するためには、「文化多様性条約」の出発点に立ち戻らなければならない。

「文化多様性」について検討することになった経緯は、文化庁の以下のページに載っていた。

文化審議会文化政策部会 文化多様性に関する作業部会
「文化多様性に関する基本的な考え方について(報告)」について
 (平成16年9月)
http://www.bunka.go.jp/1aramasi/10_bunkaseisakubukai_siryou2-1.html

検討の背景として、次の3点が挙げられている。
○ユネスコは、平成13年に「文化多様性に関する世界宣言」を採択したが、法的拘束力がないため、平成15年10月に開催された第32回ユネスコ総会において、文化多様性に関する条約の策定手続きを開始することが決議された。
○フランス等は、自国の映画産業等の保護等の観点から文化的財・サービスは、自由市場原理を重ねるべきでないとする一方、米国は、文化的財・サービスを含めたすべての財・サービスの自由無差別の原則を主張している。
○我が国は、文化多様性の保護、促進を図り、国際社会に積極的に貢献するため、本年6月に文化審議会に作業部会を設置し、文化多様性に関する基本的な考え方について検討を行った。

直接のきっかけとなったのは、第2項目だった。ハリウッドに代表されるアメリカの映画産業が世界の市場を独占して、自国の産業が衰退することを危惧したフランスなどが提案した。当然のこと、アメリカは強固に反対した。日本は賛成したものの、その後締結しなかったのは、アメリカに配慮してのことだったようだ。

このような背景を頭に置いて、今回の「ザ・コーヴ」の受賞を振り返ってみると、そこには売らんかなの商業主義の匂いが漂ってくることに気づく。隠し撮りという手法をとり、センセーショナルな話題を提供することで、多くの耳目を集めようとする意図が見え隠れする。

この件を調べている途中、「YouTube」でテキサスに住むアメリカ人が投稿した動画と出会った。イルカ漁・捕鯨(グリーンピース)、さらに人間が食料とするために命を絶たれる動物などの映像で構成されていた。

最初は「ヘッヘッヘッ」と笑いながら話すオジさんを、なんだかうさんくさいなと思いながら見ていたが、次第に案外まともなことを言ってるぞと思い直し、最後は、知能の優劣や外見のかわいさによって動物を差別することの愚かしさに深く頷いてしまうのだった。ただ、日本のイルカ漁とか捕鯨が批判されるのは、人種差別によるものだと断定的に言われれしまうと、割り切れなさは残るけれど…

さてこのテキサスオジさんの動画は、中身がまったく同じものが違うタイトルで三つのっていた。最後の部分は、人間の腹を満たすために命を絶たれる動物たちの悲しい姿が映し出される。涙もろい人は、その点をふまえてご覧になった方がいいと思います。

アメリカ人が欧米の日本叩きに大反論!
イルカ漁を批判する反日映画 The Cove を論破!
アメリカ人が反捕鯨団体を完全論破!
http://www.youtube.com/watch?v=d-RSpC0Hr7s

テキサスオジさんの動画には、ほかに次のようなものがあった。
テキサス親父 オージーの人種差別を暴く!
http://www.youtube.com/watch?v=qF_84nv9jmc

テキサス親父 緑豆に爆弾発言! ありがとう日本!!
http://www.youtube.com/watch?v=j5vayLd6BTc

カナダ沿岸警備隊、シー・シェパードに体当たり。 (字幕付き)[2008/04/23]
http://www.youtube.com/watch?v=YtI9NtZgwc4
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2010年03月09日

業平橋

大横川親水公園の北の端は、浅草通りに接する。その辺りに業平橋があるはずだが、現在は工事中で公園内からは確認のしようがない。そこで工事現場の間の細い通路を抜けて、北側に出てみた。そして、やっと「業平橋」の文字を探しあてた。業平橋は、埋め立てられる前の大横川を、浅草通りがまたぐところに架けられた橋だった。先ほど浅草通りを西に向かって少し歩いた時、この業平橋を通ったはずだが、その時は見逃してしまったようだ。

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〔業平橋から東京スカイツリーを見る〕
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この業平橋は、今後どのような運命をたどることになるのだろうか。東京の変貌ぶりを思い返してみれば、今の時代に求められていないものは、即座に時代遅れのものとして打ち壊されてしまうのが常であったことに思い当たる。今を生きる人にとって、有用なものにすぐさま取って代わられてしまうのだ。業平橋のこの薄汚れた様を見れば、同じ運命をたどることは容易に想像できる。

都市散歩者のバイブルとも言うべき「日和下駄」で、永井荷風は時代の変化に取り残された建造物を眺めてはこう嘆いている。

『…瓦は落ちたるまゝに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。而して世人の更に之を怪しまざるが如きに至つては、吾等は唯唖然たるより他はない』

業平橋の北側の低地には、船を模した遊戯施設がしつらえられた子どもの遊びがあった。次の写真は、そこに降りて撮ったもの。下から見ると、橋の形状がよく分かる。

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この児童公園からも、東京スカイツリーが見えた。

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螺旋階段を登れば長い滑り台があり、幼い子を伴った若い母親また近所の子どもたちが、登っては滑ることを繰り返していた。

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小生も勇気を振り絞って登ってみたものの、滑り台を伝って地面におりることはかなわなかった。

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2010年03月07日

初めてのお茶席

佐倉城址公園内に、三逕亭という茶室がある。公園内を散策した時にその前を通りかかり、一般向きの茶席がひらかれていると、ちょっと興味が引かれることもあったけれど、すぐにお茶席の作法について無知であることを思い出し、怖じけずいてしまい素通りするばかりだった。

そういう小生が、今日初めてお茶席を体験したのだった。以前ともに机を並べて仕事をしたことのある方が、お茶会の席主をなさるということで、そのご案内をいただいただき、最初はあまり気が進まなかったけれど、お誘いの言葉に「お気軽にお出かけ下さい」とあるのに力づけられ、まァどうにかなるだろうと心を決めたのだった。

しかしどうにかなるだろうと思っても、多少の予備知識は必要だ。ネットで調べてみると、次のような初心者向けのサイトが見つかった。我ながら付け焼き刃だとは思うが、まったく知らないよりは少しはましだろう。

 茶道入門
  http://verdure.tyanoyu.net/index.html

小雨の降る寒い日だった。千葉市の生涯学習センターには、11時過ぎについた。同じ敷地内に図書館が設置され、互いに行き来することができるようになっていて、かなり斬新な構造の施設だった。

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お茶席の和室前には、先客の中年女性が一人、私たち夫婦を含めて三人では、少し心細さを感じさせる人数だ。しかし前の会が終わるのを待っているうちに、次第に人が集まってきて10人を越えた。

列の先頭にいた中年女性が、前の会の終了が近づくにつれそわそわしだした。ブツブツと何やらつぶやいているが、マスクをつけているのでよく分からない。そのうちにマスクを取って、こう話しかけてきた。
「わたしね、一番最初の席はダメなんですよ。替わっていだだけませんか」
「わたしも初めてでしてね、最初はつとまりそうにもありません」
と言って断った。

「茶道入門」によれば、多くの客を集めてもてなす「大寄せ」では、初心者は『正客と末客になってはいけない』、さらに『正客の次に座る次客も避けましょう』と説明されていた。正客は一番上座に座り、亭主と挨拶などを交わす必要があって、茶会に慣れた人でないとつとまらないらしい。次客も末客も同様の理由で避けた方がいいということだ。

予習しておいたおかげで、そのことは分かっていた。だからその中年女性の申し出を、キッパリと断ることができたのだ。断られたその女性は、窮状を席主である私の知人に訴えた。すると席主さんは、すぐさま列の中程で待っていた年配の男性を指名した。
「2年前のことですから、もうわすれてしまったなー」
といったんは断ったが、席主さんから重ねて依頼されると結局承諾して、連れの男性が次客になった。

さてその中年女性は、一番上座に座って主客になることを拒んだということだから、茶会の心得は多少持ち合わせていたということになる。現に茶会が始まると、お菓子のいただき方とか薄茶のいただき方、茶碗の拝見の際、隣席の小生に
「おさきに」
と言ってから、茶碗の姿を子細に拝見するところなど、かなりお茶席の経験を積んだ人だと見受けられた。

正座して足が痺れることが心配な人は、胡座をかくことが許され、小生はというと、最初のうちは正座していたが途中から胡座をかかせていただいた。かなり前になるが、父親の葬式の際、痺れが切れてきたのを我慢して正座を続けていたところ、立ち上がろうとした時、足首がフニャフニャとなっていて、よろけてしまったという苦い思い出がある。その時以来、足をくじいてしまうよりは、失礼を許していただく方を選ぶことにしていた。

お茶席に足を運ぶまでは、足取りが多少重かったけれど、作法に縛られ堅苦しさで凝り固まったお茶会ではなく、またそうでありながらもお茶席の作法の一端を知り得て、楽しく優雅な時間を過ごすことができた。

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2010年03月06日

大横川親水公園のカメ

これが下から見た平川橋。

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橋桁と地面との間隔はかなり狭く、大人が通り抜ける際には、かなり腰を低くしないと頭をぶつけてしまう。

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橋の南側は工事中、その先には小さな池があって、そのほとりにはランドセルが一つポツンと置かれていた。ランドセルを放り出して、その主はどこにいってしまったのだろう。

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さて、この親水公園からも東京スカイツリーが見えた。それは、かなり歴史を重ねたと思われる家と、新しいマンションとの間に見えた。
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梅の花越しに見る東京スカイツリーも、なかなかいいものだ。
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写真を撮ることに夢中になっていると、いつの間にか小さな女の子が側に来ていて、こんなことを尋ねるではないか。
「オジさん、何か食べる物、持ってない?」
身なりは普通の女の子という感じで、食べる物にも窮している極貧の家庭の子とは見えない。
「いや、持ってないな」
残念そうな顔で去って行った。引き続き写真を撮っていると、しばらくしてまたその女の子がやってきた。
「オジさん、そのバッグの中、何が入っているの」

たしか吉行淳之介の小説に、「鞄の中身」という作品があった。以前から、なかなかうまいタイトルをつけるものだなと思っていた。大人だって、他人の鞄とかバッグの中に、いったいどんなモノが入っているんだろうと思うことがあるのだから、子どもであればなおさら、そこに興味が向くのかもしれない。
「いいよ、見せてあげるよ。手帳でしょ、これがボールペン、4色だよ。小型のカメラもあるよ」
と、ショルダーバッグの中を見せてあげた。女の子は、興味深そうに覗いていた。
「ほんとに、食べる物、なにも入ってないね」
二の句が継げなかったですな。小生の子どもの頃は、大人の言うことを疑う気持ちなどは、これっぽっちもなかった、と思う。しかし今の世の中、子どもに疑われても仕方がない、そういうご時世かもしれませんね。

食べ物が欲しい理由を尋ねてみると、甲羅に傷を負って元気のない亀に、エサをあげたかったということだった。そんなことを話していると、その亀が泳いで近くに寄ってきた。甲羅には赤いすじが何本かあって、たしかに甲羅が傷ついているようだった。いたずら小僧に石でも投げつけられたのだろうか。

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いつの間にか、子どもの人数が増えていた。
「このカメ、ダイジョウブかな〜」
と言うのは、男の子。たぶんあのランドセルの持ち主なのだろう。
「千年は生きるそうよ」
と別の女の子。大人げなく、つい口をはさんでしまった。
「カメはもっと生きるよ。ツルは千年、カメは万年って言うでしょ」
「わーすごい、1万年も生きるのね」
喜び方が並外れていたので、本当はもっとずっと短いんだよと訂正する機会を失ってしまった。

「あっちのアミのある方に、移してあげようか」
「そうね、保護してあげましょう」
「どうやって持ってくの」
なにやらいろいろ相談していたが、そのうち男の子がカメを持ち上げて池から出してしまった。

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成長してかなり大きくなったカメだった。男の子一人では運んでいくことができず、女の子と力を合わせて平川橋の方へ運んで行った。

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池の周辺でさらに写真を撮ったあと、子どもたちに助けてもらったカメが、傷癒えて長生きすることができれば、「鶴の恩返し」ならぬ「カメの恩返し」で、将来いいことがあるかもしれないな、などと思いつつ、平川橋の下をくぐって北側の方に行ってみた。子どもたちが言っていた「アミのある方」とは、そこのことかもしれなかった。アミで覆われているから、いたずらされる心配はなさそうだ。

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さて、いよいよ本気で業平橋を探さないと日が暮れてしまう。地図によれば、この親水公園の北の端にあるはずだ。

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2010年03月05日

東武橋から平川橋へ

早口男と別れて、業平橋を探すために再び東武橋に向かった。

〔浅草通り側の東武橋から〕
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業平橋は業平一丁目あたりにあるはずだが、すでに橋の下は埋め立てられているという話だ。果たして橋としての形状を今にとどめているだろうか。

東京都墨田区業平1丁目あたりの地図

「Google マップ」でこの地域の航空写真をみると、業平一丁目あたりに橋の姿は認められない。また東京スカイツリーの建設予定地には、まだその姿はまったく現してい ない。いつ頃の写真なのだろうか。スカイツリーの高さが300メートルを超えた今、この航空写真は貴重なものとなるのだろう。

東京都墨田区業平一丁目あたりの航空写真

こんな説明板があった。それによると、このあたり一帯は、かつて洪水の被害が多かったことが分かる。いわゆるゼロメートル地帯である。

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浅草通りを西に少し進んでから左に曲がってみた。南に向かって歩いてみても、いっこうに親水公園らしきものは見えてこない。ビルに遮られて見えないのかもしれない。四つ角ごとに左右を確かめながら進んで行くと、とある角の左側に錆の浮き出た青い橋が見えた。ヒョッとしてこれが業平橋か。

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近づいて橋の名前を確認すると、残念ながら「ひらかわはし」と記されていた。今は埋め立てられているが、かつてこの平川橋の下を流れていたのが大横川に違いない。橋の下に目をやると、たしかに親水公園としての姿を見せていた。

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〔平川橋からの眺め…北側〕
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〔平川橋からの眺め…南側〕
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2010年03月03日

久しぶりで国会図書館へ

目を通しておきたいと思っていた写真集が、地元の図書館にはなかった。昨年(2008年)出版された写真集だから、オンライン書店などで購入することはできるのだけれど、高価なのでおいそれと手を出すことができない。となれば国立国会図書館、その蔵書の中にはもちろん入っているはずだが、念のためNDL-OPACで検索してみたら、確かに登録されていた。

一時期よく利用することがあって、利用者登録をして利用者カードも持っていた。しかしそのカードの有効期限は、最終利用日から2年間となっていた。退職してから一度も利用したことはなかったから、とっくに失効となっていることだろう。

国立国会図書館への地下鉄最寄り駅は、その名に政治的な意味合いがべったりと付着しているあの永田町、折しも予算案が衆議院を通過して、参議院で審議が始まった日だった。永田町の2番出口から地上に出れば、すぐ目の前の交差点が参議院通用門前、その先に国会議事堂の頭頂部が見えた。道路脇には機動隊の車両が数台並び、角ゝには厳めしい制服に身を固めた隊員が直立不動で立っていた。

道路をはさんだ向かい側には、それとは対照的に国会図書館がひっそりと建っていた。利用者入口は2箇所に別かれている。一つは登録利用者カードを持っている人は本館入り口、未登録の人は新館入り口をそれぞれ利用する。

まず、持ち込み不可のものをロッカーに預けます。100円入れて、あとで戻ってくるタイプです。たまたま100円玉がない時は、両替機が利用できます。

ノート・筆記具や貴重品類は、備え付けの透明ビニール袋に入れて入館します。携帯電話・ノートパソコンは持ち込み可です。携帯電話はもちろんマナーモードで、また利用できる場所が決められています。ノートパソコンは、「機器使用席」で利用します。

詳しくは、こちらを参照して下さい。
http://www.ndl.go.jp/jp/service/tokyo/in.html

次に、館内利用カードを発行してもらいます。入口に設置してあるカード発行機(タッチパネル式)に必要事項を入力すると、当日利用者用のカードが出てきます。入力項目は以下の通りです。

●氏名
●住所
●生年月日
●電話番号

さて、入館してから最初に行ったところは6階、なにはさておき腹ごしらえをしなければならない。6階には食堂がある。1時をだいぶ過ぎていたためか、かなり空席がめだった。ディスプレイに並んでいるサンプルを見ながら、しばし何を食べようかと悩んでいたが、結局「五穀カレー(カ…口偏に加、レ…口偏に厘)」(500円)を食べることにした。

小生の後にいた男性が注文したのは、「国会丼」(450円)だった。それの作り方を見ていると、まずどんぶりに白いご飯を入れ、上に煮込んだ牛肉をのせた。それだけではどう見ても牛丼。しかし牛丼ではなく「国会丼」なのだ。何か違いがなければならない。すると、まかないのオバさんは、肉の上に温泉卵をのせた。どうやら違いは、肉の上に温泉卵がのっている点にあるようだった。牛丼の上に温泉卵をのせれば、牛丼変じて「国会丼」になるということのようだが、今ひとつ納得できないモノが残りました。

ネットで調べてみたところ、国会図書館の「国会丼」はかなり有名で、いくつかサイトの説明によれば、牛丼とカレー丼とを盛り合わせ、その間に温泉卵をのせたものとあった。自民党が政権を担っていた時は、牛丼部分が自民党、カレー部分が民主党、温泉卵が国民を意味するというような説明もあったが、政権交代後に「国会丼」もその姿を変えたのだろうか。

食堂のテレビは、ちょうど予算委員会の中継画面を映していた。窓から国会議事堂が見えれば、今あの建物の中で、あんなやり取りをしているんだな、などと思ったかもしれないけれど、残念ながら見えなかった。

さて、閲覧した写真集は以下のもの。1980年代の雑誌記事で、読んでおきたいものもあったが、食堂がすいていたのを良いことに、ノンビリと過ごしすぎて時間が足りなくなってしまった。日を改めてまた来ることにしよう。その時は「国会丼」を食べてみようか。

「日本の民家 屋根の記憶:大橋富夫写真集」
出版社…彰国社
出版年…2008年5月
内容
…1960年代の変貌著しい日本の農山村で、里山に生活した日本人が作り出した風景の最後の姿を収めた写真集。民家集落をその背景である里山の中で捉え、その屋根の細部に里山の風景を凝縮。
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2010年03月02日

電子証明書の有効期限は3年

面倒だな〜という気持ちが先に立って、なかなか取りかかることができなかった確定申告も、始めてみれば半日もかからずに終わらすことができた。今回で3回目となり、だいぶ慣れてきた。

初めて確定申告をした3年前は、電子申告をしようと思い立ったのだけれど、住民基本台帳カードが間に合わず、パソコンでプリントアウトした申告書を郵送した。昨年は少し早めに準備して、いろいろつまずきながらもどうにか電子申告までたどり着いた。そして今年、慣れれば確かに電子申告は便利だということを実感した。

申告データを送信する際に使う住民基本台帳カードには、有効期間が2019年と記載されていたので、まだまだ当分の間は使えるぞと安心しきっていた。。ところがそのICチップに記憶されている電子証明書の有効期限は3年だった。幸い去年取得したばかりで、来年までは有効なので問題はなかったが、それに気づかずに3年が経過してしまったら、2012年の確定申告では慌てふためくところだった。

電子証明書の有効期限については、こちらに詳しい説明が載っています。
http://www.nta.go.jp/tetsuzuki/shinkoku/shotoku/tokushu/kigen.htm
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2010年03月01日

東武橋から京成橋まで

東武橋周辺から、北十間川に沿って東西に延びる道には、カメラを構える人の姿が多く見受けられた。前回来た時よりも、人数が増えた感じがしますね。

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東武線のガード上でカメラを構えている人を発見!、やり過ぎだな-そこまでしちゃダメだと思いますョ。

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スカイツリーの写真だけでなく、その周辺の雰囲気もカメラにおさめておいた。家に帰ってから、それらの写真をパソコンに取り込んでモニターで確認してみて、驚愕した。なんとそのうちの一枚に、あの早口男が写っていたのだ。川と道路との間に張られた金網越しに、ニヤッとしながら私を見ていた。

そんなことはつゆ知らず、写真を撮り続けていると、いつの間にか彼が側に立っていたのだ。そして例の早口で話しかけてきたが、やはり何を言っているのか良くわからない。さっきのように、かろうじて聞き取れた単語をつなぎ合わせて会話を再現してみる。

『こっちは人が多いでしょ、車も通るから危ないよ』
「本当にそうですねェ」
目の前にタクシーが止まり、中からお年寄りがおりてきた。手にはコンデジが握られていた。スカイツリーを撮るために、わざわざタクシーで乗り付けたのだった。
『反対側に行くと、人も少ないし、車もあまりとおらないよ』
さっきその反対側の道路で彼と出会ったのに、そのことをもう忘れてしまったらしい。
『もうちょっと先に行くと、真下から撮れるよ』
と促されて彼のあとをついて行く。実は、前回来た時に真下あたりで撮ったことがあったのだけれど、仕方がない。

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『あっちの橋の上から撮るといいよ』
と撮影ポイントを教えてくれる。あちらの方には京成橋があるのだが、その橋の上からもすでに撮ったことがあった。

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地元の人なら、業平橋のことを知っているかもしれないと思い、尋ねてみた。
「業平橋を知ってますか」
返事がない。
「地図には、東武橋の少し先に載っているんですけれど」
首をかしげるばかりである。そしてまったく関係のないことを話し出した。
『このあたりで、夜、襲われた人がいるんだよ』
「ぶっそうですね、いつごろのことですか」
なかなか言葉が出てこなかった。そして、やっと口を開いて言ったこと。
『10年くらい前かな〜』
最近のことでなくて良かった。彼に尋ねてもラチが明かないようなので、これから業平橋を探しに行くことを口実に、実際その予定だったのだけれど、彼とやっと別かれたのだった。
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