2010年07月31日

明日から夏休み

毎日が日曜日のようなものですから、夏休みを取るなんて言い出すことは、大いなる矛盾ではあるのですが、それでもやはり気分は夏休み。明日から数日の夏休みに入ります。

いいですね、「夏休み」という言葉のひびき、なにかすばらしい出来事が待ち受けていてくれるようで…「里ふくろうの日乗」も夏休みです。
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国会図書館そしてアユミギャラリーへ

ここのところ権藤はなよに関する記事が続いているが、今日もまた続く。

権藤はなよが、武蔵野市立第一小学校に勤務していたのはいつ頃のことか、そのことを調べるため、昨日は武蔵野市立図書館に行く予定をくんでいた。出かける前に、場所と行き方を再確認しようとホームページを開いてみたら、金曜日は休館日だった。さてどうしようかと思案している時閃いた、武蔵野市史は国会図書館にもあるのではないかと。

NDL-OPACで検索すると、確かに国会図書館にも武蔵野市史・教育史に関する資料はあった。ということで、今週2回目の国会図書館行きとなったのだった。そして調べた結果、権藤はなよはたしかに武蔵野第一小学校に勤務したことがあった。勤務時期は昭和初期の約6年間、職名は訓導となっていた。このあたりのことについては、日を改めて書くことにする。

さて、国会図書館での調べものに区切りをつけ、向かった先は神楽坂のアユミギャラリー。夕刻よりギャラリー中庭で、「ジャンバラヤライブ☆ジミー&ベティ」が行われるというので、それの見物に出かけたのだった。その時に撮影した写真が、ブログ「大地の家」に載っています。

里ふくろうのジャンバラヤライブ
 
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2010年07月29日

権藤はなよの転居先

さて、音楽・映像資料室の閲覧用の席に座り、「雪こんこお馬」に目を通し始めたのだが、さきほどのやり取りが頭に浮かんできてなかなか集中できない。没年が分かるなんらかの資料とは、具体的にどのようなものなのか。

ウェブ上には確かに生年・没年が記されているページがあるから、それを示せばいいのだろうか。しかし、ウェブの情報というものは信頼するに足りないものもあるから、それをもって没年を示す証拠として採用される保証はない。それではどういうものを提示すればよいのか。

そもそも没年というものは、利用者側で提示しなければならないものなのか、それも大いなる疑問である。著作権の保護期間に関わる重要な情報なのだから、少なくとも図書館に所蔵されている資料の著者については、「没年データーベース」とでもいうべきシステムを構築しておくべきではないかとも思われる。

「雪こんこお馬」を返却して退室する際、さきほど説明してくれたカウンターの人に尋ねてみた。
「没年が分かるものは、たとえばどのようなものなんでしょうか」
あいにくその点に関する知識は持ち合わせていなかったようで、室外の別のカウンターに行くことを勧められた。

そのカウンターには、「著者の没年を調べる」というパンフレットが用意されていた。東京本館2階の「人文総合情報室」でまとめたものだった。以下、そこから項目だけ取り出しておく。

1.当館ホームページで調べる。
 @NDL-OPAC
 A近代デジタルライブラリー
(筆者注)ただし、没年のすべてが網羅されているのではない。

2.各種参考図書で調べる
 @『人物レファレンス事典 明治・大正・昭和(戦前)編』
 A『外国人物レファレンス事典 20世紀』
 B『CD現代日本人名簿:物故者編 1901-2000』
 C『明治過去帳:物故人命辞典』
 D『大正過去帳:物故人命辞典』
 E『人物物故大年表 日本人編1(古代-1945)』
 F『人物物故大年表 日本人編2(1945-2004)』

3.当館以外のホームページで調べる
 @国立情報学研究所 NACSIS-Webcat
 A青空文庫
 B米国議会図書館
 C英国図書館

以上だが、不十分というそしりを免れることはできそうにもない。著作権に関わることだけに、「没年データーベース」を早急に整備するべきだろう。

権藤はなよについては、以下の資料で確認できた。
◇人物レファレンス事典
 明治33年(1900)4月3日〜昭和36年(1961)11月3日

◇著作権台帳
 1904(明37)6.24〜1961(昭36)11.3

◇著作権者名簿
 1961年死亡

以上の三資料では、没年は1961年(昭和36年)で一致している。ところが生年が二つの資料で異なっている。両者の資料で4年もの違いがあるということは、いったいどういうことなのだろうか。これでは、掲載されている他の情報の信頼性も疑いたくなってしまう。著作権の保護期間に関係するのは没年だから、生年は正確さを欠いてもいいということなのだろうか。

なお、甲府の従妹が確認したところ、生年は明治32年(1899年)、戸籍上の本名は「はなよ」だったそうだ。前記資料の二つとも、生年は誤りだったのだ。

いろいろな資料にあたったおかげで、新しい発見もあった。権藤夫妻は、1940年(昭和15年)頃、吉祥寺富士見通(現在の本町)から五日市街道の北側に転居した。その家は新しい住所表示では吉祥寺北町なのだろうという見当まではついていたが、そのあとの番地までは分からなかった。ところがその番地が分かったのだ。

さっそくGoogle地図サービスの航空写真とストリートビューで確かめてみたところ、当然のことながらと言った方がいいだろう、昔日の家の姿はそこにはなかった。
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2010年07月27日

権藤はな子童謡集「雪こんこお馬」

あらかじめ家のパソコンで、国会図書館のNDL-OPAC(オンライン目録)を利用して検索したところ、権藤はな子童謡集「雪こんこお馬」は1回の検索ですぐヒットした。前回の失敗もあるので、続いて「所蔵詳細」を見ると、東京本館と国際こども図書館に所蔵されていた。家のパソコンでは、とりあえずここまでの情報が得られた。

さて国会図書館内に出向き、館内に設置されているNDL-OPAC端末で検索すると、その童謡集は「音楽・映像資料室」に開架図書として所蔵されているということが分かった。家のパソコンでは、なぜそこまでの情報が得られないのかと疑問に思いながら、一階にあるその資料室に向かった。

開架式ということではあるが、本棚から探し出す手間を省いて、カウンターの人に尋ねてみた。童謡集はすぐ見つかった。ついでにコピーをする際の手続きについて尋ねると、著作権保護期間が終了しているかどうかを訊かれた。権藤はなよは昭和36年になくなっているから、私の計算によれば、保護期間はあと1年少々残っているはずだ。その旨を言うと、コピーできるのは童謡一作品の半分以内であると言われた。それ以上をコピーするには、保護期間が終了するのを待たなければならず、さらにその際には、終了したことを確認するため、没年が分かるなんらかの資料が必要になるということも告げられた。

著作権との関係で、複写できるのは当該資料の半分をこえない分量であることは知っていた。だから童謡集についても、その一冊の中の半分をこえない部分については複写可能なのだろうと思っていたのだが、そうではなかった。なにか腑に落ちないものが残ったが、童謡はみな10行から20行程度の短いものだから、必要な部分を書き写すことにした。

◆「雪こんこお馬」の書誌情報
権藤はな子童謡集
「雪こんこお馬」

昭和七年八月二十六日印刷納本
昭和七年九月一日発行
定価一円

著者 東京市外武蔵野町吉祥寺
   権藤はな子
発行人 宮崎県延岡町
    小島政一郎
印刷人 宮崎県延岡町
    四倉清
発行所 宮崎県延岡町
    凡人會

なお国会図書館の蔵書は、以下の復刻版である。

叢書 日本の童謡 大空社刊
1996年9月28日発行

【内容】
(巻頭)
『雪こんこお馬』へおくる言葉 野口雨情

目次
 雪こんこお馬
 雨の日
 ないしよないしよ
 日暮
 母さんお里
 露草とこほろぎ
 濱道
 こほろぎとダリヤ
 せつせとかせげ
 雪の夜
 燕
 スヰツチヨ
 蝙蝠
 独樂
 螢
 お馬
 黒い犬
 雲雀の子
 蟻の行列
 願かけた
 お山のお山の
 静かな晩
 すすきの小道
 草刈
 一軒家の子供
 雨の降る日
 泣く子
 びゆうびゆう北風
 お月夜
 野遊
 落葉かき
 向日葵
 夕方
 商ひ遊び
 月見草と向日葵
 お地蔵さん
 山のお便り
 蓑蟲
 七夕さん
 お月さん
 麥の穂波
 曇り日
 夏の夜
 お使ひ
 あの子とこの子
 日向ぼつこさん
 渦巻
 お留守居
 煙り
 風船賣り
 末つ子
 手鞠
 お窻
 ひとりぼつち
 赤い下駄
 學校
 風もないのに
 晝寝のあと
 子供と地蔵さん
 追羽根小羽根
 螢來い
 うささん
 大寒小寒
 かごめかごめ
 うさぎうさぎ
 お祭
 手鞠唄
 梭の音
 迷子の狐

(巻末)
後記 小島政一郎

〔筆者注〕
おさめられている童謡は70編です。
「七夕さん」は「たなばたさま」とはまったく違う童謡です。ただ、「さらさら」「きらきら」という擬音語が使われていて、そういう点での共通性は有します。
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2010年07月26日

国会図書館はセミしぐれ

ここ佐倉地方では、ニイニイゼミの鳴き声がよく聞こえてくる。夫人の言によれば、屋根にアブラゼミの死骸がのっていたということだが、鳴き声はまだ聴いていない。先日幕張の免許センターに行った際、アブラゼミが駐車場に白い腹を見せて仰向けにころがっているのを見つけた。周囲からはアブラゼミの鳴き声は聞こえてこなかった。

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国会図書館周辺の林では、セミがけたたましく鳴いていた。ニイニイゼミだけではなく、アブラゼミの鳴き声も聞こえた。道路をはさんだ向かい側にある参議院別館あたりの林からは、ミンミンゼミの鳴き声までも聞こえてきた。普通セミは、種類によって地上に顔を出して鳴き始める時期がずれているのだが、いろいろなセミが入り交じって一斉に鳴くという現象も、この猛暑の影響なのかもしれない。

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権藤はなよは、昭和7年に「雪こんこお馬」という童謡集を出版している。そのことは、甲府在住の従妹が送ってくれた資料で初めて知った。著者名は、「権藤はな子」となっているそうだ。その童謡集の復刻版が国会図書館にあることが分かり、さっそく出かけて調べることにしたのだった。
 
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2010年07月25日

「たなばたさま」の家を尋ねて(3)

10日ほど前に吉祥寺に行ったのは、権藤円立・はなよ夫妻がかつて住んでいた家を探すためだった。富士見通(現在の本町)の家を出て、移り住んだ五日市街道の北側の家の住所は、残念ながら分からない。ただあの辺りだろうなという漠然とした見当が記憶に残っているだけだ。ともかくその見当をたよりに、訪ねていってみるより仕方がない。

父親が結婚したのは昭和11年3月6日のこと、妻として迎えたのは、山梨の歌人・伊藤生更の長女・千代子だった。権藤はなよは、千代子の叔母にあたる。結婚後、武蔵野町吉祥寺十一小路503番地に新居を構え、翌年には長女さらに昭和14年には次女が誕生する。その後、昭和15年(1940年)7月に、権藤氏から富士見通の家を借り受けて移り住むことになる。

ところがその富士見通の家が、いつの間にか権藤氏からほかの人物の手に渡ってしまうのだ。その人物が、映画俳優H・K氏の実家であるI家だった。富士見通りを北に進むと五日市街道に出るが、I家はその少し手前に広い敷地を所有していた。

長年住み続けてきた家が、赤の他人のものとなってしまったのだ。これは推測ではあるが、たぶん家の購入あるいは立ち退きを迫られたのだろう。我が家に購入するだけの財力はなく、家賃を払って住み続けるより仕方がなかった。ところがI家は家賃を受け取ることはせず、あくまでも立ち退きを迫った。そこで先住権(賃貸権)を盾に、家賃を供託するという手段をとることになった。以後父親が亡くなる昭和43年まで、その状態が続いたのだった。

そのI家はまだあった。敷地は多少狭くなっているように感じられた。ただ、子供のころにみた光景というものは、大人になってから見ると、みな小さく見えるものだから、それと同じことだったのかもしれない。

さて、肝心の権藤家・「たなばたさま」の家を探さなければならない。五日市街道を渡っても、どの道に入っていけばよいか分からない。吉祥寺駅行きのバス停が近くにあったというぼんやりとした記憶をたよりに、適当な道に入って行ってみた。もちろん住人は変わっているわけだから、富士見通の家のように取り壊され、庭の雰囲気もすっかり変わっている可能性の方が高い。

北に向かう道路の右側にあったのは間違いない。しかし、次の四つ角出るまでにそれらしい雰囲気の家はなかった。角を曲がり、次の四つ角を今度は南に向かって歩いて行く。やはり、うすぼんやりとした記憶の輪郭を鮮明にしてくれそうな家はなかった。

ちょうど通りかかったお婆さんに声をかけてみた。
「このあたりに、むかし権藤という人が住んでいたんですが、ご存じではないですか」
「いつごろのことですか」
「奥さんが亡くなったのが、昭和36年ですが」
「そのころは、ほかの所にすんでいましたから、分かりませんねェ」
住んでる人も変わってしまっているのだ。昔から住み続けている人は、どんどん少なくなってしまっている。

五日市街道沿いにも新しい店舗が増えていて、古いたたずまいを見せている店はところどころに残っているだけだった。そういう店には、権藤家の場所を知っている人がいるかもしれないと思い、そのうちの1軒に見当をつけてみた。

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店頭には誰もいなかった。店の奥の方に声をかけると、しばらくしてから返事があった。50歳代の女の人が出てきた。事情を話してみたところ、お父さんなら知っているかもしれないけれど、あいにく用事があって外に出ているということだった。
「こちらは、もう永いことご商売をなさっているんじゃないですか」
「もう、60年以上になりますね」
「こどものころ、こちらによくコロッケを買いに来ましたよ」
「このあたりで、昔から商売をなさっているのは…少なくなりましたが、尾張屋さんは古いですよ、だけど今日は水曜だからお休みですね」
尾張屋というお蕎麦屋さんは、成蹊大学の近くにあった。いづれにせよ、今日の所は引き上げてまた出直すより仕方がなさそうだった。

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2010年07月24日

武蔵野市立第一小学校

甲府在住の従妹が送ってくれた資料に目を通したところ、権藤はなよが武蔵野市立第一小学校に勤めていたという記述があった。はて、第一小学校といえば私も卒業した学校であるのだけれど、在学中にはなよ大叔母さんとなんらかの接点があったという記憶は残っていない。周囲の人から、そういった話しも聞いたことがなかった、と思う。

それが事実であるならば、いつ頃のことだったのだろうか。まあ、武蔵野市史あるいは第一小学校の校史などで調べてみれば分かることだろう。10日ほど前に吉祥寺に行った時、五日市街道側の校門の写真を撮っておいたのでそれを載せておくことにする。

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武蔵野市立第一小学校のホームページに、校歌が載っていた。歌詞も旋律もすっかり忘れていたが、一度聴いてみれば懐かしい響きがよみがえってきた。

校庭の砂場、シーソー・ブランコ・ジャングルジム、逆上がりの練習をした鉄棒、三石館という講堂、その壁に野球のボールを投げつけて遊んだこと、壁の下側が崩れてできた穴からもぐり込んで、床下を探検したことなど、次から次へと当時の記憶がよみがえってきた。

5・6年生の時のクラスに、成績も容姿も学年で一番という誉れ高い女の子がいた。しかし一つだけ劣っていることがあった。

音楽のテストは、一人ずつ先生のもとにゆき、先生のピアノの伴奏で歌うというものだった。初めてその女の子が歌った時、予想外のことを耳にして教室中が静まりかえった。

その端麗な姿とはあまりにもかけ離れた歌声が響いたのだ。有り体に言えば、ひどい音痴だったのだ。音をはずしながらも、そんなことはまったく意に介するそぶりを見せずに歌っているのを見て、教室の何人かは、歌声を聞き続けることに耐えきれず、きっと指で耳をふさいだに違いない。

その子の名前は、今でも覚えている。今まで高嶺の花だったそのAさんが、それ以来、ほんのわずかばかり身近な存在として感じられるようになったのだった。

武蔵野市立第一小学校の校歌
 
 
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2010年07月23日

自動車免許の更新

自動車免許証の更新のため、幕張の免許センターに行ってきた。前回の更新は5年前、午後の申請受付が始まる午後1時に間に合うように行ったところ、すでに長蛇の列だった。ところが講習が終わり免許証を受け取って変えることには、人の波はすっかり引いていた。

受け付け開始から1時間ほど経過すれば、適性検査(視力検査)・写真撮影などがほとんど待たずにできたのだった。そこで今回は、免許センターに2時頃に着くように家を出た。予想した通り混雑に巻き込まれることなく、免許更新の手続きは順調に進んだ。

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【手続き手順】
更新申請書に必要事項をの記載
*.新しい免許証はICカード化されていて、申請書には二種類の暗証番号を記入して申告する。
 ↓
適性検査(視力検査等)
 ↓
申請書の提出
 ↓
写真撮影
 ↓
更新時講習の受講(30分…優良運転者)
 ↓
免許証の受領
 ↓IC免許証の内容確認
*.先に申告した暗証番号が必要となる。

新しい免許証では、本籍地の蘭が空欄になり、ICチップにそのデータが記憶されている。また、免許の種類は今までは「普通」だったが、新設された「中型」へと変更され、「条件等」の蘭に、「中型車は中型車(8t)に限る」と記載されていた。

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2010年07月22日

酷暑を避けて美術館へ

近頃、朝の目覚めが早くなった。といっても、勤めていた頃よりはずっと遅いのだが、今までより2時間ほど早く目が覚めてしまうのだ。その原因は、たぶんこの暑さにあると思う。寝室は東側にあるから、朝日があたる。だから室温がどんどん上がる。寝苦しくなって目が覚める。こういう具合だ。

この暑さは、ほんとうに尋常ではない。8月生まれで夏の暑さには比較的強いという自信があったが、さすがにこの暑さでは、忍耐力が汗とともに蒸発して体から抜け出していってしまう。こういう時は、冷房完備の場所を求めて行くに若くはない。図書館・映画館そして美術館など…ということで、国立新美術館(オルセー美術館展2010「ポスト印象派」と、お気に入りのブリヂストン美術館(印象派はお好きですか?)に行ってきた。

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まず国立新美術館へ。地下鉄・千代田線の乃木坂駅が一番近い。改札口を出ると、美術館への通路でチケットを売っていた。チケット売り場で並ぶのはイヤだから、迷わず購入。この通路が直接美術館の入口へ通じていればいいのだが、そういうわけにはいかず、いったん外を歩かなければならなかった。わずかな距離を歩いただけだったが、都心は佐倉よりずっと暑かった。

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会場が広かったせいか、それほど混雑しているとは感じなかったが、それでも一枚の絵の前には、たえず10数人がへばりついているので、やはり人の頭越しに見ることが多くなってしまう。このあと行ったブリヂストン美術館では、いつも通り絵と一対一で相対することができた。

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家を出る時は、どちらの美術館を先に見ようかと迷っていた。作品を時代順に見るのであれば、ブリヂストン美術館を先にした方がいいのだが、電車の乗り継ぎがスムーズにいくようにとない知恵を絞ってみたところ、国立新美術館を先にすることに落ち着いたのだった。この順序にしたのは正解だった。ブリヂストン美術館の静謐な空気の中に身を置いたことが、国立新美術館のざわついた雰囲気の印象を霧散してくれたのだった。

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2010年07月21日

佃の古老(2)

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佃の古老は鳥居の前に立ち、二つの神社が並んでいることから話を始めた。
「神社が二つ並んでいるのは、珍しいことなんだ」
通りに面した鳥居の扁額には、確かに二つの神社名が並んでいた。

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 浪除
   稲荷大明神
 於咲

その鳥居の奥には、小さなお社が仲良く並んでいた。左側が浪除稲荷大明神、右側が於咲稲荷大明神、そこには一回り小さな鳥居が設けられていて、鳥居が入れ子構造になっていた。

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「於咲(おさき)は、女の人の名前でね、言い伝えによると、キツネに取り憑かれて死んでしまったんだ」
「そこでここに祀られたわけですね」
「水商売の人がお参りするとね、御利益があるということで、昔はそれらしい感じの人がお参りしているのをよく見掛けたんだが、近頃はあまり見ないね」

「すみません」
古老と話し込んでいて、若い女性が近づいて来たのに気づかなかった。
「すみません、お地蔵様を祀っているところはどこですか」
「ほれ、すぐそこ、そこが入口」
と言いながら、古老は手をあげて指し示した。
「あッ、あんな近く…ありがとうございました」
女性は少し離れたところに立っていた男のもとに走り寄り、連れ立って狭い路地に入っていった。

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「あのお地蔵さまは、ワシらは子育て地蔵って呼んでるよ。ここらの人はみんなそうだよ」
「太いイチョウの木がありますね」
「あれも困りもんなんだよ。落ち葉がすごいんだよ。子育て地蔵のイチョウが雄で、こっちのお稲荷さまの方が雌。ちょっと離れてるけど、地面の下では伸びた根がからまっているかもしれないな」

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「ほら、そこに『さし石』があるだろ」
「この丸っこい石ですか」
「その石は、昔、力自慢が競って持ち上げたっていうことなんだが、重量挙げのようにね。『さし』だから、頭の上までさし上げたんだろう。ところが、ワシは『さし石』をさし上げているのを見たことがないんだ」
「そうですか、三つありますね」

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「それが、おやじの屋号だよ」
「『つくだ さんかめ』ですか」
「本名は、境内の石に刻んである。こっちの方なんだ」
と言って案内してくれた。

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古老のズボンのベルトあたりから、医療用のコルセットがはみ出ているのが見えた。腰痛があるのだろうか、もうこれ以上話を続けるのは避けた方がよさそうだった。鳥居をくぐって表通りに出た時は、3時をまわっていた。
「やあ、これから?」
古老が通りがかったお婆さんに声をかけた。
「どちらに行くんでしょうか」
「銭湯」
「ということは、あの『日の出湯』ですね」
「8月6日から祭があるよ、来年は大祭だよ」
そう言い残して、古老は路地の奥に消えていった。

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2010年07月20日

佃の古老

昨日梅雨明けしたばかりの関東地方では、今年初めての猛暑日となり、東北地方も梅雨明けしたそうだ。梅雨明けの頃にはニイニイゼミが鳴き始めるものだが、家の近辺ではまだ鳴き声が聞こえてこない。一気に夏となり、セミもとまどっているのかもしれない。

さて、佃島の撮影会の際、佃島で生まれ育ったという古老と話す機会があった。せき止められて流れの滞った掘り割りに、小さな魚が群れを成して泳いでいるのを見つけた時のことだった。どぶ川のように濁った水の中で、機敏に泳ぎ回る様子に見入っていると、
「それはボラだよ」
と声を掛けてきた。

実は、その老人がいることは、分かっていた。掘り割りのほとりで所在なさそうに佇んでいるのを目にして、このあたりに居を構えている人に違いないと見当をつけていた。かなりのご高齢のようだから、昔話の一つや二つはきっと知っているに違いない。声をかけるきっかけをどのように作ろうか、そんなことを考えながら魚を見ている時に、その老人の方から声を掛けてきてくれたのだから、もっけの幸いということである。

「ボラですか、こんなに汚いところにもいるんですね」
「今はちっちゃいけどな、1メートル以上にもなるよ」
「1メートル!そんなに大きくなったら、こんなところにはいられないですね」
「ほら、行き止まりになっているところがあるだろ、昔はずっとその先まで流れていたんだけどな、埋め立てられてしまってな、あそこにアシが生えているだろ、そこに卵を産み付けるんだ」

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「ボラは大きくなるにしたがって、呼び方が変わるんだ。イナそしてボラ、最後がトド。その頃には、海に出て行くから心配することはない」
「あァそういうことか、『とどのつまり』の『とど』ですね。出世魚ですね」
「ああそういうことだ。セイゴそうだな。セイゴ、フッコそしてスズキ」
「ブリもそうですね」
「そう、ワカシ・イナダ・ブリ」
「お詳しいですね、この辺りにお住まいですか」
「佃島で生まれ育ったからな。昔はウナギとかアナゴもとれたな。たけずっぽでとるんだよ」
「たけずっぽ?どんなもんなんですか」
「竹のフシをくり抜いて作った竹筒よ。センカキというのも使ったな」
「なんですか、それは」
「長い棒のな、10尺以上はあったかな、その棒の先にハリをつけたものをセンカキと言ってな、それを海底に突き刺して引っ掛けるわけだ。千回突き刺してやっと1匹とれるから、センカキ。上手な人は2・3回でとれたな、カマのセンちゃんという名人がいたよ」

ここで古老は、手にしていたツエを逆さにして、身振り手振りを交えてセンカキを使った漁の仕方について説明してくれた。

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針に掛かったら、垂直に引き上げたらダメなんだ。身をくねらせて、逃げてしまう。水の中を流していって、コベリにすくい上げる…」
「コベリ?」
「船のヘリだよ」
「そんなふうに漁をしていたんですね」
「いや、ワシは漁には出なかった」
「……」
「漁をしたのはオヤジの代までさ、漁業権がなくなってしまったからな」

陽が西に傾きはじめていた。強い西日が真正面から射す場所を避けて、鳥居のあるところに移動して、話の続きを聞くことにした。

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2010年07月17日

梅雨明けは唐突に

今年もまた各地でゲリラ豪雨による被害が発生した。特に九州から中国地方で大雨となり、土石流や河川の氾濫により甚大な被害を被った所もあったようだ。ところがここ千葉県佐倉地方は、吉祥寺に出かけた14日頃から晴天が続き、空には真っ白な雲が浮かんでいて、夏が一気に来たような天気だった。

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ただ、梅雨時の豪雨に見舞われている地方もあり、この好天も一時的な晴れ間なのかもしれず、またじめじめジトジトと長雨の降る状態に舞い戻るのかなと思っていたら、関東地方の梅雨は明けたと思われるとニュースが伝えた。梅雨というものはもう少ししぶといものだと思っていたが、今年はなんともあっさりと退却してしまった。

これで梅雨のしめじめも去り、やれやれと思いたいところだが問題があった。梅雨があまりにも唐突に明け、心も体も夏を受け入れる準備ができていなかったのだ。そんな状態の時に猛暑がやって来た。暑さに慣れていない身を守るためには外出をひかえるのが一番なのだが、そんなことを言ってはいられない用事があれば仕方がない。その用事とは、写真塾の撮影会そして夕方からの出版記念パーティなのだから、暑い暑いと言って外出を渋っているわけにもいかない。

今回の撮影地は佃島、海に囲まれていて想像するだに汗が噴き出してくる感じがする。強い陽差しを避けるためには、帽子をかぶった方がいいに決まっている。千葉ロッテ・マリーンズの試合観戦に行くときは、アカイヌさまからいただいた野球帽は必ずかぶるが、それ以外は帽子はほとんどかぶったことがない。しかしこの暑さでは、とうとう気持ちが動いた。帽子をかぶって家を出たのでした。

集合場所は地下鉄月島駅、そこから歩きはじめて、炎暑の佃島をたっぷり3時間ほど巡って撮影してきました。途中、熱中症で倒れることもなく、6時から神楽坂の教室で行われる大橋先生の出版パーティにも参加してきたのでした。

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2010年07月16日

「たなばたさま」の家を尋ねて(2)

駅前の雑踏を抜けて、吉祥寺・東急百貨店の建つ交差点から大正通りに入る。今は東急のビルが建っているが、生まれ育った吉祥寺を去った昭和43年のころは、その場所に「名店会館」があった。吉祥寺に初めてできた商業ビルだった。

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大正通りは、記憶の中ではユッタリとした道幅の道路が西に向かって延びていたが、時を経て実際に歩いてみると、その道幅の狭さに驚かされる。

道路脇に立てられていた案内図で現在地を確かめる。地図というものは、だいたいのところ上部が北をさしているのだが、次の2枚目の地図は南北が逆になっていた。そこで、上・下を逆にして、左右も反転しておいた。

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もう少し進むと、かつては「大坂屋」という酒店があった。その酒店で誰かが亡くなった時、葬式まんじゅうが配られたといううわさ話を聞いたことがあった。どうでもいいようなことほどよく憶えているのも、不思議なことだ。とっくのとうに「大坂屋」は店を畳んでしまったのかもしれないな、何の根拠もなくそんな失礼なことを思いながら歩いて行くと、意外にも「大坂屋」はまだ店を構えていた。シャッターが下りていたのは、定休日なのだろうか。

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「大坂屋酒店」まで来れば、家のあった場所はもう目と鼻の先だ。下の写真に写っている道の中ほどに、かつて権藤円立・はなよ夫妻が住み、そして夫妻が転居した後を受けて、権藤はなよが私の母親の叔母であったという縁で移り住み、その後昭和43年まで住み続けた家があったのだ。

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一軒ごとに表札を確かめながら、ゆっくり歩いて行く。しかしなんの変哲もないブロック塀に取って替わってしまった家々の表札には、記憶を目覚めさせてくれる名前は記されていなかった。

道の中ほどまできたとき、「I.hiroshi」という表札があった。この名前は記憶に強く刻み込まれていた。それもそのはずで、かつての隣人だった。その当時すでに一家を構えていて、私より年下の二人の男の子の父親だった。すでにかなりの高齢になっているはずだが、まだご健在のようだ。

Iさんの手前の家が、かつて30年近く住んだ家だった。木製の門は鋼鉄製の門扉に変わり、竹で組まれていた垣根は、ブロック塀に変わっていた。庭を覆っていた木々、ヤマザクラ・ソメイヨシノそして柿や栗の木は皆消えていた。

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ブロック塀の内側に数本見える樹は、背丈がかなり伸びているが、かつて垣根の内側に植えられていた樹と同一のものだろう。緑の帽子がこんもりと大きくなって、元気に育っていた。

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2010年07月15日

「たなばたさま」の家を尋ねて

二十歳過ぎまで吉祥寺に住んでいた。その家はある人から借り受けて永年住んでいたのだが、いろいろな事情があって、父親の死後立ち退くことになった。その事情については、両親が話していることをそれとなく耳にして、ある程度は分かっていた。

昭和11年、父親は山梨の歌人・伊藤生更の長女と結婚した。新居を構えたのは、武蔵野市吉祥寺十一小路503番地、4年後の昭和15年には吉祥寺富士見通1881番地に転居、以後昭和43年に他界するまでそこに居住した。

実はその家は、権藤円立・はなよ夫妻が住んでいた家だった。権藤夫妻が五日市街道の北側に少し入った所の家に転居したあと、長女・次女を引き連れた両親が、その富士見通の家を借りて移り住んだのだった。

その吉祥寺の家を立ち退くはめになった事情は、書き始めると長くなるので別の機会に譲ることにして、このあとは昨日久しぶりで吉祥寺を訪れたことを書き留めておくことにする。「たなばたさま」を作詞した権藤はなよが、亡くなるまで住んでいた家はまだ残っているのだろうか、今はどうなっているのだろうか、そんなことを心に思い描きながら吉祥寺駅の北口に降り立ったのだった。

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下の写真の左前方に、「ダイヤ街」への入口が見える。「ダイヤ街」は、吉祥寺に住んでいたころからすでにあった。

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2010年07月13日

小字「俵房」の谷津田

「ユーカリが丘」にある佐倉市のコミュニティセンターは、かつて谷津であった場所に建設された。「ユーカリが丘」が山万というディベロッパーにより開発され新興住宅地となる前は、そこは谷津田の一部だったのだ。その場所は、旧来用いられていた区画名で言えば、「俵房」という小字がその所在地となる。

戦後、アメリカ軍によって撮影された航空写真を見ると、「ユーカリが丘」という街が、谷津という地形を利用して造成されたことが良く分かる。縦横に延びる谷津のある部分は埋め立てられて市街地となった。埋め立てられなかった部分は、稲作を行う谷津田として残った。

谷津は、河川が内陸部に深く侵入してできた低湿地だから、そこにつくられた谷津田は例外なく細長く延びている。「俵房」もそういう谷津田の一部を成す小字で、その南端は埋め立てられコミュニティーセンターが建ったが、そこ以外は現在も谷津田として残っている。

次の写真は、「俵房」から南西に向かって、つまりユーカリが丘駅に向かって撮ったものである。駅前の高層マンション群の手前右端に見える丸い屋根が、コミュニティーセンターのものである。2枚目の写真は、反対側を向いて北東方向に広がる「俵房」の谷津田を撮ったものである。

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2010年07月12日

佐倉市役所の設計者は?

昨夜から今日の日中にかけて、おそろしく強い風が吹き荒れた。我が家もその影響で被害が出た。2階にのぼる階段の途中にある窓の網戸が、強い風の圧力に負けて外れてしまった。さらに庭の物干し台のポールが、強風にあおられて根もとから折れてしまった。もっとも根もとのあたりは、だいぶ錆びていたが…物干し台は、市役所に用事があって出たついでに、ホームセンターに立ち寄って買い求めた。

佐倉市役所の建物は、周囲の風景からかなり浮き上がってみえる。なにしろここは佐倉城に近く、城下町の雰囲気を残すいくつかの観光スポットもある場所だ。そういう歴史的景觀の中、いくつもの四角いカプセルが組み合わされてできている市役所の建物は、前衛的・未来的と言えばそうなのかもしれないが、遠くから見れば積み木ブロックを積み重ねたオモチャの建物という感じがしないわけでもない。

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佐倉市役所は、どうしてこんな建物になったんでしょう。これが設計・建設された時代は、こういう建物がもてはやされていたんでしょうか。実はこの佐倉市役所、すでに鬼籍に入った黒川紀章という建築家が設計した建物(1971年)だった。東京都知事選挙とか参議院選挙に立候補したこともあるあの黒川氏である。そういうことが分かれば、なるほどなーとなんとなく納得できます。
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2010年07月11日

谷津田の今

昨日の午後は、佐倉市の「ユーカリが丘」周辺を歩いて写真を撮ってきた。その名前から容易に想像できるように、いわゆる新興住宅地である。京成線の駅前には高層マンションが数棟建ち並び、区域内をモノレールまでもが走っていて、そこだけに目を向ければさながら小都会の様相を呈している。ところが車で十分も走らないうちに、都市計画によって築かれた街並みは尽きて、昔ながらの集落が谷津田の周辺あるいは畑中に見えてくる。

こちらに転居してきたのは、約30年前のこと。その当時はすでにそういう景觀が形作られていたが、仕事を持つ身にとってはそういう点に目を向けるいとまはなかった。2・3年前に地元の市民大学に入学して、佐倉の歴史・地理そして地名などについて学んだことが、新旧入り交じったこの地域のおもしろさに目を向けるきっかけとなった。

現在はまだ旧地区は、都市部からハッキリと分断されていて独立性を保っているように見受けられる。しかし住民の高齢化に伴って、都市化の波に徐々に浸食され取り込まれていってしまうかもしれない。そういった状況がいつごろもたらされるのか、それは予想もつかないことであり、あるいはそのようにならない可能性もあるかもしれない。これから先のことを予測することは難しいが、しかし今の時間を切り取ってその姿をとどめておくことは難しいことではない。そんなことをつらつら思って、時間を見つけては、カメラをかついでこの地域を歩き回ってみることにしたのだった。

【谷津田から高層マンションを望む】
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【谷津田近くを走るモノレール】
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2010年07月08日

権藤はなよの仲人は野口雨情

甲府の従妹から電話で、権藤はなよ関係の資料が届いたという連絡があった。また昨日の七夕の日、山梨日日新聞に権藤円立・はなよの結婚式の写真と記事が掲載され、Web版にも載っていることを教えてくれた。

その結婚式の写真が載ることは、すでに従妹から聞いて知っていた。たぶんWeb版にも載るだろうと思って、7月7日が来るのを待っていたのだが、資料探しに出かけたりしているうちにすっかり忘れてしまっていた。

Web版に掲載されている写真は、兄である伊藤生更の甲府の家で営まれた結婚式の写真、若かりし日のはなよの写真の2葉である。結婚式の写真では、仲人を務めた野口雨情が、中央にデンと構えて座っている姿が写っている。

7月7日(水)の山梨日日新聞の記事

権藤花代(韮崎出身)、雨情と豊かな交流 
童謡「たなばたさま」を作詞 
甲府で写真、手紙見つかる

http://www.sannichi.co.jp/local/news/2010/07/07/3.html

なお、今まで名前の表記を「はなよ」としてきたが、その新聞記事では「花代」となっていた。また図書館で調べた資料では、旧姓の伊藤の場合は「はなよ」、結婚後は「はな代」に変わっていた。
 
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2010年07月07日

今日は七夕…「権藤はなよ」を探し求めて

国会図書館に出かけた一昨日は、本当に蒸し暑い日だった。少し歩くとすぐ汗がにじみ出てきた。それでも国会丼を食したためか、「たなばたさま」を作詞した権藤はなよに関する資料を探すため、大学付属図書館に向かう足取りはそれほど重くはなかった。

オープンカレッジの受講生には会員証が発行され、それを所持することで大学が提供するいくつかのサービスを受けることができる。その一つに図書館サービスがある。図書館の入口で会員証を提示して一日利用カードを受取り、それを入館ゲートの機械に通すことで図書館を利用することができる。

あらかじめ家のパソコンで調べて、権藤はなよの作品が掲載されている雑誌の所蔵場所は、3階のバックナンバー書庫であることは分かっていた。書庫への出入り口には、もう一つの関門が待ち受けていた。近くのカウンターで入庫許可を得て、荷物は貴重品・筆記用具などを除いてロッカーに入れなければならない。

少し面倒だが、書庫に入って必要な資料を自分で探すことができるのはありがたい。特に雑誌の場合は、掲載されている巻数が分からない場合もあり、国会図書館のような資料請求システムだと、自分で書架を探し回る手間は省けるが、何回も請求手続きをして、やっと必要な資料を閲覧することができるようになることもある。

書庫内にはコピー機も複数台設置されていた。あらかじめコピー機専用のプリペイドカードを購入しておけば、それを差し込むだけでコピーすることができる。このように関門を通過すれば、かなり効率的に資料を集めることができるようになっていて、権藤はなよの3点の資料も、短時間で手にすることができた。

3点の資料のうち1点は、作者名が「権藤はなよ」ではなく、旧姓の「伊藤はなよ」になっていた。「権藤はなよ」の旧姓が、「伊藤」であるということが分かっていなかったら、その作品は調査の網の目から漏れてしまったことだろう。

コピーした資料は、昨日の午後、今回の依頼主である甲府の従妹のもとに送った。遅くとも明日までには届くことだろう。
posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗

『東京−変わりゆく町と人の記憶』が届いた

予約注文しておいた写真集「東京−変わりゆく町と人の記憶」が、七夕の今日届いた。

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発売予定は当初6月だったようだが、出来上がりが遅れて7月にずれ込んだらしい。秋山書店のホームページには、『7月5日(月曜日)より順次発送して参ります』と記されていた。

『東京−変わりゆく町と人の記憶』事前御注文いただきました方へ

ついでながら秋山書店のホームページについて書き添えておくと、しばらく訪問しない間に、サイト全体がリニューアルされていた。新たにXHTMLで記述して全面的に改装したようで、まだ工事中の頁はあるが、サイト全体の構造が直感的に把握できるようになっている。

秋山書店

なお注文は、直接秋山書店に申し込むこともできるが、いくつかのオンライン書店で調べてみたところ、今のところ以下のオンライン書店などで注文可能になっていた。

BK1
ブックサービス
e-hon
セブンネットショッピング
LivedoorBOOKS

posted by 里実福太朗 at 22:51| 里ふくろうの日乗

2010年07月06日

もうすぐ七夕(2)…国会丼

国会図書館6階の食堂は、国会議員や職員だけでなく、一般の人も利用できる。前回来た時も利用した。その時は1時をだいぶ過ぎていたので、人の姿はかなり少なくゆっくりと食事をとることができた。今回はまだ12時をまわったばかりで、混雑していることは覚悟していたが、実際にはそれほどでもなかった。

メニューに「国会丼」なるものがあることは、以前書いたことがある。その時は食べそこなったが、今回は最初からそれに決めていた。券売機に500円を投入し食券を購入して、丼物コーナーで係りのオバさんに手渡せば、
「国会丼、入りました」
と、食堂全体に響き渡りそうな大きな声で威勢良く叫ぶ。普段から利用している人は、たぶん国会丼などは注文しないのだろう。食事が終わるまで、一度も同じ声を聞くことはなかった。たまに利用する者が、物珍しさに誘われて注文するということなのだ。

「国会丼」を式で表すと、
(牛丼+カレー丼)/2+温玉
ということになる。言葉で示せば、丼飯の上に、牛肉とカレーとが半々ずつかかっていて、その境界線の中央に温玉がのっているということになる。一つのドンブリで同時に二種類が味わえる、一度で二度おいしいのだから欲張りな人にはうってつけの食べ物だ。

さて、国会丼をガツガツと掻き込んでいる時、食堂の奥の方からどこかで見たことのある人物がやって来た。近づくに従って明らかになってきた相貌は、あの長妻大臣にソックリだった。他人の空似なのだろうか、いやいやここは国会図書館であって、本来国会議員のための施設だから、大衆的な食堂であっても議員によっては利用することもあるに違いない。しかし大臣ともなれば…そんなことを考えている間に通り過ぎてしまい、券売機の方に向かっていった。

それにしてもよく似ていた。こちらに近づいて来る時に、食い入るように見つめていた当方には目もくれず、周囲の視線を拒絶するように前方の一点だけに目を注いでいたその人は、通り過ぎたあとで思い返してみると、どうしても長妻厚生労働大臣であったと思われて仕方なかった。しかし確証はない。

その人が食堂を利用するなら、券売機前に並んでいるはずだ。残りの「国会丼」を掻き込んで、もと来た道を券売機まで戻った。果たして、その人は並んでいた。後を向いていたため顔を見ることはできなかったが、その人が手に携えていた事務封筒には「厚生労働省」の文字が記されていた。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗

2010年07月05日

もうすぐ七夕(1)

国立国会図書館への最寄り駅は、地下鉄永田町駅、改札口近くに笹が設けられ、いろいろな願いことが記された短冊がびっしりとつるさがっていた。折しも選挙期間中、場所が永田町だけに、七夕さまへ最後のお願いをしている候補者もいるかもしれない。まあ、あり得ないことだけれど、念のためいくつかの短冊を確かめてみたところ、あったのはこんな願い事を書いた短冊。

テストがうかりますように
1億円当たりますように
嵐コンのチケットが当たりますように
健康で快活に働けますように
良い職に出会えますように
ダイエットがうまくいきますように

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七夕の日が近づくとともに思い出されるのが、童謡「たなばたさま」。その「たなばたさま」を作詞した権藤はなよについて調べるために、久しぶりで国会図書館に向かったのだった。

先日甲府在住の従妹から、ある雑誌に権藤はなよの作品が載っているはずだから調べてみてくれないかという依頼があった。まず家のパソコンから、国会図書館の検索システムを使って調べてみたところ、復刻版の存在が確認できた。そこで、今日出かけたというわけだ。

国会図書館で資料を閲覧するためには、まず館内に設置されたNDL-OPAC(オンライン目録)端末で資料を検索して、画面上からオンラインで申し込むことになっている。家で印刷しておいたその雑誌の資料を手元に置いて、家と同じように検索してみたのだが、予想外のことが起こった。何回繰り返してもヒットしないのだ。いったいどういうワケなんだ。

キツネにつままれたような気分で、総合案内に助けを求めに行った。理由はすぐに分かった。その雑誌は東京本館の所蔵ではなく、国際子ども図書館にあるということなのだ。それが東京本館の検索システムで探しても、見つからない理由だった。館内の検索システムでは、当該館の所蔵本のみ検索できるなんて、どうしてそんな不親切な制限をかけるのだろう。信じられないことだ。

家で印刷した資料の「所蔵情報」には、所蔵館に関する記述はなかった。そこで係りの人に尋ねた。
「所蔵館はどのようにすれば確認できるんですか」
返答はこういうことだった。書誌情報の画面で、さらに「所蔵詳細/申込み」ボタンをクリックすると、次の画面で所蔵館を確認できると…。さらに係りの人は、その雑誌は現在ディジタル化の作業中で、半年間ほど利用できないとも言ったのだった。

こんなことなら、最初から別の図書館に行けば良かった、と思っても時すでに遅し。実は、オープンカレッジの運営母体である大学の図書館にも、その雑誌があることは確認済みだった。国会図書館とその大学図書館のどちらに行こうかと迷ったのだけれど、結局国会図書館に決めたのだった。

こうなったからには、気を取り直して大学図書館に行かざるを得ない。時刻はすでに12時を回っていた。まずは腹ごしらえ、6階の食堂に行くことにした。

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2010年07月02日

千葉マリンはエース対決

野球観戦に出かける準備をしている時、カミナリが鳴った。イヤな予感がした。しかし鳴ったのは、その1回だけだった。幕張に向かって高速道路を走っている時は、陽がさしていた。マリンスタジアムについた時も、青空が見えていた。ところが試合開始を待っている時、空模様があやしくなり雨がポツリポツリと降ってきて、屋根で覆われている席に移動した。こんな具合に不安定な空模様だったが、試合終了までなんとか持ちこたえてくれた。

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マリンスタジアムに足を運んだのはこれで3回目、前回観戦したのは3月28日のことだから、ずいぶんと間があいた。その間マリーンズはスタートダッシュに成功して上位をキープしていた。交流戦のあとは、投壊などと言われて覇気の感じられない試合もあったが、ここのところ踏ん張って2連勝していた。

今日の先発は、マリーンズが成瀬、ライオンズが涌井、不振が続く成瀬投手ではマリーンズの方が分が悪いと思われた。初回、先頭打者に投じた第一球が痛打され、右中間への2ベースヒットになった時はどうなることかと思ったが、なんとかその回を抑えたあとは、丁寧なピッチングを続けて得点を許さなかった。そして6回、エラーがらみではあるが待望の先取点を手に入れたのだった。

次の映像はその6回の攻撃とラッキーセブンの風船飛ばしを、スマートフォン「SC-01B」で初めて録画してみた。あまり期待はしていなかったが、まあまあというところだろうか。

マリーンズ6回裏の攻撃

ラッキーセブンの風船飛ばし


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2010年07月01日

ホームドア

東京都写真美術館の最寄り駅はJR恵比寿駅、すでに何回か利用したことがあるが、今回は今までとは違った光景が見られた。ホームに見慣れないものがあったのだ。ホームの線路側の端に、柵が設置されていた。

何日か前のニュースで、JRの駅で転落防止対策用の柵を設置したというニュースを聞いた覚えはあったが、ボーッと聞いていたらしく詳しい内容は記憶に残っていない。あらためて、ウェブで関連ニュースを調べてみると、こんな記事が見つかった。

【47NEWS】
「恵比寿駅ホームドア部分発進 JR在来線 初の転落防止柵」
http://www.47news.jp/news/2010/06/post_20100626143045.html

ホームの端に設置されていたものは、柵などという無粋な名称ではなく、「ホームドア」と名付けられていた。

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この「ホームドア」なる名称、以前から使われていたかどうかは定かではないが、柵そのものは、以前から地下鉄の一部路線の駅では使われていた。JRの在来線で設置されたのは、この恵比寿駅が最初ということだけれど、なぜ恵比寿駅なのだろう。

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さて東京都写真美術館で写真展を三つハシゴしたあと、歩く歩道でJR恵比寿駅に戻り山手線に乗り込んだ。乗る時は「ホームドア」は問題なく開閉して、電車はスムーズに発進した。ところが次の目黒駅で問題発生。駅に到着しても電車のドアが開かない。車内アナウンスが、
「停車位置を確認しています。しばらくお待ち下さい」
と伝える。しかし同じアナウンスを繰り返すだけで、電車は止まったままでまったく動こうとしない。そしてだいぶ経ってから、電車はほんのわずかだけ動いて位置を直した。

電車のドアとホームドアがずれると、安全対策のために設置したものが、返って危険を招くかもしれないということは、すこし想像力を働かせてみれば容易に分かることだ。停止位置のズレの許容量はどの程度のものだろうか。ホームドアがあることで、運転手さんはなお一層停止位置に神経を使わなければならなくなるにちがいない。運転手さんの負担を軽減するためには、次は自動停止装置を開発して、数センチの誤差もないように停車させることを可能にすることなのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗