写真を撮ることを生業としている人から、こんな話を聞いたことがある、どんなに短い期間であってもカメラを手にしない日が続くと、シャッターボタンを押す指の感覚が鈍ってしまう。だから撮影の仕事がないときでも、たとえば部屋の中でテレビと向き合ってカメラを構え、画面に映し出される人物の動きを追いながらシャッターをきって、指の感覚を忘れないようにしている。
ブランクがあると、元の状態に戻すのがたいへんであることは、スポーツ選手や演奏家なども同様のようだ。継続的な修練を必要とする分野では、ともかく毎日欠かさず続けていくことが肝要なのだろう。そしてそのことは、文章を書くことにも当てはまるような気がする。
近ごろは、ブログをアップする頻度が以前より少なくなってきたが、ひところは、日を置かず書いていた時期もあった。何も書かない日が何日も続くと、もう二度と書くことができなくなるのではないかという強迫観念めいたものがあったのかもしれない。しかし、そんなことは思い過ごしであったようだ。一週間以上書かないとこともあったけれど、今もなお飽きずに続けているのだから、それがなによりの証左になるのだろう。
ブログの文章というものは、あまり固すぎない方がいいだろう、日常会話的なくだけた表現をできるだけ使ってみよう、そんな考えにそって書き続けていると、習い性となり、いつしかそういった文章しか書けなくなってしまうかもしれない、そんな懼れも芽生えてきたりする。取り越し苦労だとは思うけれど、それがいよいよ高じてくると、気に入った作家の文章を読み直して軌道修正しようとすることもある。
難しい言葉を駆使して、品格があるだろうと言わんばかりの気取った文章は、一読して嫌悪感が走るから、お手本の文章としてはふさわしくない。分かりやすい言葉を使って、一読して意味を了解することのできる整った文章、そしてところどころに詩的イメージを呼び起こしてくれたり、ユーモアが隠し味となっているような文章が、軌道修正するときに読む文章としてはふさわしい。
三浦哲郎さんは、そういった文章を書く作家の一人だと思う。分かりやすい言葉で分かりやすく書かれているから、人によっては、そういった文章は簡単に書けてしまうのではないかという印象を持ってしまうかもしれない。しかしそれは見当はずれというものである。
短編の名手と言われた三浦さんの文章は、推敲に推敲を重ね、みがいては削り、削ってはみがくということを繰り返して書かれたものにちがいない。そしてそういった文章は、莫大な気力と体力とを費やすことでやっと生まれてくるものなのだろう。
三浦さんは、残念ながら今夏鬼籍に名を連ねてしまった。その死を惜しみつつ、八年前の平成十四年に出版された「いとしきものたち」を読んでいると、こういった文章はパソコンの画面ではなくて、活字の本でゆっくり読むべきなのだろうな、などと思い始めているのだった。電子書籍の時代になっても、三浦さんの文章はそういう読み方がふさわしいような気がする。
2010年11月23日
インテルのCMから里見駅が消えた
近ごろ、再びインテルのテレビCMが流れている。ただ残念なことに新作ではなく、過去のCMを再編集したものだった。さらに残念なことは、「里見駅」の場面がカットされてしまっていることだ。そこで、先月末に里見駅を訪れた際、500枚ほど撮影した写真の一部を載せておくことにする。
その日里見駅には、午後1時ちょっと過ぎに着いた。そして上りに列車に乗ったのは、4時過ぎのことだった。ほぼ3時間ほどを、里見駅およびその周辺で過ごしたことになる。その間、カメラを携えた人が3人ほどやって来ただけで、ほかに訪うものは誰もいなかった。
今ではもう使われていないホームに、ふるびた駅名表示板がそのまま残されていた。
いつやって来たのだろうか、どこからともなく現れた子ネコが数匹、ホームに入り込んでいた。まだ人間に対する恐怖心が芽生えていないのだろうか、近づいても逃げることはない。こちらの存在を気にする様子もなくじゃれ合っている。ともかく格好の被写体が現れたのだから、このチャンスを逃す手はない、これ幸いとモデルをつとめてもらった。
待合室に入っていく子ネコのあとを追っていくと、ベンチの下に置かれていた箱の中に入り、しばらくしてからまた外に出て、箱のまわりをうろついていた。子ネコたちは、どうやら捨て猫のようだった。たぶんその箱に入れられて、運ばれてきたのだろう。駅の待合室に置けば、誰かが拾っていってくれるだろうと思ってのことなのだろうか。かわいそうだとは思うけれど、家に連れて帰るわけにもいかない。
せめて食べる物でも与えておけば、命を長らえることができて、拾ってもらえるチャンスも増えるかもしれない、そう思って駅舎の周辺を見渡してみれば、少し離れたところに何かの店かと思われる構えの家が見つかった。商いをしているかどうかは分からないが、ともかく行ってみることにした。
ガラス戸を開けて中に入れば、陳列棚には種々雑多な日用品・食料品などが並んでいた。奥の方に声をかけると、少し間があってからお年寄りが出てきた。
「駅に子ネコがいるんですよ。エサになるような物、何かないでしょうか」
「かわいそうにねェ、誰かが捨てて行っちまったんだよ」
「やっぱり捨て猫ですか」
「水もなくなってたから、今朝あげといた」
店内を見まわすと、魚肉ソーセージが目に入り、それを買い求めることにした。
「どこから来なさった」
「佐倉から」
「佐倉からねェ、遠いねェ…ニラは食べなさるか」
そんなふうに突然たずねられてとまどったが、
「ええ、嫌いではないですよ」
と答えれば、
「さっき採ってきたニラがあるから、持って行きなさるか。採りたてだからおいしいよ」
と言って、ビニール袋に入っていたニラを、気前よくそのまま丸ごと手渡してくれた。
「フライパンで炒めて、そこにタマゴを落として食べるとおいしいよ」
食べる物を買ってきてくれることを察していたのだろうか、子ネコたちは待ちかねたように甘え声をもらした。魚肉ソーセージを与えると、うなり声をあげながら、ガツガツという音が聞こえてきそうな勢いで一生懸命に食べた。そして食べ終わると、一人前のネコがするように、おコンボで口のまわりをきれいにみがくのだった。
時刻は4時を過ぎ、陽はだいぶ西に傾いてきた。そろそろ4時9分発の列車が到着するはずだ。こころは残るけれど、誰かが拾い育ててくれることを祈りつつ、里見駅をあとにするより仕方がなかった。
その日里見駅には、午後1時ちょっと過ぎに着いた。そして上りに列車に乗ったのは、4時過ぎのことだった。ほぼ3時間ほどを、里見駅およびその周辺で過ごしたことになる。その間、カメラを携えた人が3人ほどやって来ただけで、ほかに訪うものは誰もいなかった。
今ではもう使われていないホームに、ふるびた駅名表示板がそのまま残されていた。
いつやって来たのだろうか、どこからともなく現れた子ネコが数匹、ホームに入り込んでいた。まだ人間に対する恐怖心が芽生えていないのだろうか、近づいても逃げることはない。こちらの存在を気にする様子もなくじゃれ合っている。ともかく格好の被写体が現れたのだから、このチャンスを逃す手はない、これ幸いとモデルをつとめてもらった。
待合室に入っていく子ネコのあとを追っていくと、ベンチの下に置かれていた箱の中に入り、しばらくしてからまた外に出て、箱のまわりをうろついていた。子ネコたちは、どうやら捨て猫のようだった。たぶんその箱に入れられて、運ばれてきたのだろう。駅の待合室に置けば、誰かが拾っていってくれるだろうと思ってのことなのだろうか。かわいそうだとは思うけれど、家に連れて帰るわけにもいかない。
せめて食べる物でも与えておけば、命を長らえることができて、拾ってもらえるチャンスも増えるかもしれない、そう思って駅舎の周辺を見渡してみれば、少し離れたところに何かの店かと思われる構えの家が見つかった。商いをしているかどうかは分からないが、ともかく行ってみることにした。
ガラス戸を開けて中に入れば、陳列棚には種々雑多な日用品・食料品などが並んでいた。奥の方に声をかけると、少し間があってからお年寄りが出てきた。
「駅に子ネコがいるんですよ。エサになるような物、何かないでしょうか」
「かわいそうにねェ、誰かが捨てて行っちまったんだよ」
「やっぱり捨て猫ですか」
「水もなくなってたから、今朝あげといた」
店内を見まわすと、魚肉ソーセージが目に入り、それを買い求めることにした。
「どこから来なさった」
「佐倉から」
「佐倉からねェ、遠いねェ…ニラは食べなさるか」
そんなふうに突然たずねられてとまどったが、
「ええ、嫌いではないですよ」
と答えれば、
「さっき採ってきたニラがあるから、持って行きなさるか。採りたてだからおいしいよ」
と言って、ビニール袋に入っていたニラを、気前よくそのまま丸ごと手渡してくれた。
「フライパンで炒めて、そこにタマゴを落として食べるとおいしいよ」
食べる物を買ってきてくれることを察していたのだろうか、子ネコたちは待ちかねたように甘え声をもらした。魚肉ソーセージを与えると、うなり声をあげながら、ガツガツという音が聞こえてきそうな勢いで一生懸命に食べた。そして食べ終わると、一人前のネコがするように、おコンボで口のまわりをきれいにみがくのだった。
時刻は4時を過ぎ、陽はだいぶ西に傾いてきた。そろそろ4時9分発の列車が到着するはずだ。こころは残るけれど、誰かが拾い育ててくれることを祈りつつ、里見駅をあとにするより仕方がなかった。
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2010年11月22日
卒業以来初めて参加のOB会
卒業以来40年以上出席したことのなかったOB会に、今年に限って参加してみようと思ったのは、OB会の案内はがきに、ゼミの先生が今回を限りとして出席できなくなるという文言が含まれていたからだった。齢を重ねて85歳、昨今は歩くことが難しくなってきて、今回は無理を押して、出席していただけることになったそうだ。
ゼミでのご指導、そして就職の際にもお世話になったのに、卒業以来一度もご挨拶しないままになってしまうかもしれないと思い、出席に丸をつけたのだった。同じような思いを抱いた人が多かったのだろう、今回の出席者は例年の3倍ほどの人数だったそうだ。受付でいただいた出席者一覧表には、100人以上の氏名が記されていた。

こんなに参加者が多かったのに、同期の参加者は誰もいなかった。クラブと違ってゼミは縦のつながりが希薄だから、同期がいないとなると、「やあやあ、ひさしぶり」と言って談笑する相手もいない。手持ちぶさたを慰めるため、写真ばかり撮っていた。それにしても、ゼミ同期会には10人前後は集まるというのに、先生にもお会いできるゼミOBの全体会に一人も来ないのは、どういうことなんだろうか。
昨年に引き続き、今年も新卒者の就職難は続き、内定先が決まった学生はまだ57%程度らしい。その原因の一端が、大手の企業をねらうという学生たちの安定志向にあるにせよ、100社以上の採用試験をうけたという話を聞くと、過酷な状況に置かれた若者たちの将来を思い暗澹たる気持ちにもなってくる。
40年ほど前はまだコンピュータ産業の黎明期で、企業の多くは、コンピュータ関連の技術者候補学生を必要としていた。そういう社会状況の中で、同期の人たちの就職先は、東芝・日立・NEC・三菱、毎日新聞社・TBS、東京銀行、第一生命というような世間的に名の通った企業に次々と決まっていった。
しかし、私たちの就職先の多くは、自分たちで選んで決めたものではなかった。ゼミの先生から、○○クンはこの会社、○○さんはあの会社、という具合に割り当てられたものだった。先生からすれば、それぞれの学生の適正を見極めて会社を選んだのかもしれないが、自分がその会社を受験するに至った理由は分からなかった。
現在では、求人情報は就職課でまとめたものを学生たちに公開しているのだろうが、当時は企業の人事担当者が、直接ゼミの先生のもとに依頼したのだろう。割り振られた会社を拒否することもできたのかもしれないが、名の通った会社への就職が約束されている機会を、敢えて拒む学生はいなかった。
さて、就職してから5年が経ち、私は退社した。コンピュータ業界とはまったく違う世界、文学の分野に身を置いてみたいと思うに至ったからだった。同期の人たちの中にも、先生から紹介された会社を去っていった人は多かった。他の会社に移った人、退職して起業した人、あるいは郷里に戻って実家の商いを継いだ人、宗教の道に身を投じてしまった人もいた。卒業以来一貫して同じ会社に勤め、サラリーマン人生を全うした人の方がむしろ少なかった。
せっかく先生が紹介してくれた企業を、惜しげもなく捨てて別の道に進んだ同期の人たちは、そのことで先生に会うことへのためらいの気持ちが生まれ、OB会から足が遠のいていってしまったのかもしれない。
先生と二言三言の言葉をかわし、写真も十分撮ってしまってからは見の置き所もなくなり、会の途中で早々にいとま乞いをしたのだった。
ゼミでのご指導、そして就職の際にもお世話になったのに、卒業以来一度もご挨拶しないままになってしまうかもしれないと思い、出席に丸をつけたのだった。同じような思いを抱いた人が多かったのだろう、今回の出席者は例年の3倍ほどの人数だったそうだ。受付でいただいた出席者一覧表には、100人以上の氏名が記されていた。

こんなに参加者が多かったのに、同期の参加者は誰もいなかった。クラブと違ってゼミは縦のつながりが希薄だから、同期がいないとなると、「やあやあ、ひさしぶり」と言って談笑する相手もいない。手持ちぶさたを慰めるため、写真ばかり撮っていた。それにしても、ゼミ同期会には10人前後は集まるというのに、先生にもお会いできるゼミOBの全体会に一人も来ないのは、どういうことなんだろうか。
昨年に引き続き、今年も新卒者の就職難は続き、内定先が決まった学生はまだ57%程度らしい。その原因の一端が、大手の企業をねらうという学生たちの安定志向にあるにせよ、100社以上の採用試験をうけたという話を聞くと、過酷な状況に置かれた若者たちの将来を思い暗澹たる気持ちにもなってくる。
40年ほど前はまだコンピュータ産業の黎明期で、企業の多くは、コンピュータ関連の技術者候補学生を必要としていた。そういう社会状況の中で、同期の人たちの就職先は、東芝・日立・NEC・三菱、毎日新聞社・TBS、東京銀行、第一生命というような世間的に名の通った企業に次々と決まっていった。
しかし、私たちの就職先の多くは、自分たちで選んで決めたものではなかった。ゼミの先生から、○○クンはこの会社、○○さんはあの会社、という具合に割り当てられたものだった。先生からすれば、それぞれの学生の適正を見極めて会社を選んだのかもしれないが、自分がその会社を受験するに至った理由は分からなかった。
現在では、求人情報は就職課でまとめたものを学生たちに公開しているのだろうが、当時は企業の人事担当者が、直接ゼミの先生のもとに依頼したのだろう。割り振られた会社を拒否することもできたのかもしれないが、名の通った会社への就職が約束されている機会を、敢えて拒む学生はいなかった。
さて、就職してから5年が経ち、私は退社した。コンピュータ業界とはまったく違う世界、文学の分野に身を置いてみたいと思うに至ったからだった。同期の人たちの中にも、先生から紹介された会社を去っていった人は多かった。他の会社に移った人、退職して起業した人、あるいは郷里に戻って実家の商いを継いだ人、宗教の道に身を投じてしまった人もいた。卒業以来一貫して同じ会社に勤め、サラリーマン人生を全うした人の方がむしろ少なかった。
せっかく先生が紹介してくれた企業を、惜しげもなく捨てて別の道に進んだ同期の人たちは、そのことで先生に会うことへのためらいの気持ちが生まれ、OB会から足が遠のいていってしまったのかもしれない。
先生と二言三言の言葉をかわし、写真も十分撮ってしまってからは見の置き所もなくなり、会の途中で早々にいとま乞いをしたのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:00| フォト漫歩計
2010年11月18日
今成誠一「塊魚 vol.6」×北田英治「ベ−ハ小屋」
昨日は、旅の疲れがまだ出てこないのをよいことに、神楽坂のアユミギャラリーに行ってきた。写真塾でお世話になっている北田先生の写真、そして益子の陶芸家・今成誠一氏の力作を見るためだった。
去年の9月、まだ残暑きびしい折り、北田先生に案内されて、益子周辺にわずかに残るベーハ小屋(米葉小屋、タバコ葉の乾燥小屋)を撮ったり、さらに今成氏の「塵庵」を訪れ、実際に作陶している場面を撮影させていただいた。前々から機会があれば、まだまだ未熟なできばえではあるけれど、今成氏にその時撮影した写真をお渡ししたいという気持ちもあった。
「塊魚」とは聞き慣れない言葉だが、今成氏の作品群を一目見れば、自ずと意味するところは了解される。深海魚の形を模して作ることから始まり、後に心の中に湧き起こるイメージを造形するようになり、今の「塊魚」に行き着いたと今成氏は言う。深海に生まれた魚が陸に上がって、土くれの魚へと変貌して「塊魚」となったのである。
その風貌からして「怪魚」と呼びたいところだが、やはりそれでは平凡すぎる。「塊魚」という名前は、常に土と接し、土に愛着を寄せる陶芸家ならではの、けだし絶妙なネーミングなのである。
そういえば「塊魚」は、どことなく作者の風貌に似通っているようにも思われる…イヤ失礼、表現されているのは作者の外観ではなく、もちろん作者の内なる思いなのである。そういう意味で、「塊魚」は作者自身である、と言うことは許されるであろう。
去年の9月、まだ残暑きびしい折り、北田先生に案内されて、益子周辺にわずかに残るベーハ小屋(米葉小屋、タバコ葉の乾燥小屋)を撮ったり、さらに今成氏の「塵庵」を訪れ、実際に作陶している場面を撮影させていただいた。前々から機会があれば、まだまだ未熟なできばえではあるけれど、今成氏にその時撮影した写真をお渡ししたいという気持ちもあった。
「塊魚」とは聞き慣れない言葉だが、今成氏の作品群を一目見れば、自ずと意味するところは了解される。深海魚の形を模して作ることから始まり、後に心の中に湧き起こるイメージを造形するようになり、今の「塊魚」に行き着いたと今成氏は言う。深海に生まれた魚が陸に上がって、土くれの魚へと変貌して「塊魚」となったのである。
その風貌からして「怪魚」と呼びたいところだが、やはりそれでは平凡すぎる。「塊魚」という名前は、常に土と接し、土に愛着を寄せる陶芸家ならではの、けだし絶妙なネーミングなのである。
そういえば「塊魚」は、どことなく作者の風貌に似通っているようにも思われる…イヤ失礼、表現されているのは作者の外観ではなく、もちろん作者の内なる思いなのである。そういう意味で、「塊魚」は作者自身である、と言うことは許されるであろう。
posted by 里実福太朗 at 23:30| 写真
宮崎から羽田へ
宮崎から夜の便で羽田に戻ってきたのは、もう一昨日のことになってしまった。お会いしたいと思っていた人とは、なんとかお会いできた。しかし、探し求めていた資料に関しては、予想していたことではあったが、やはり不十分な結果となった。ただ、お会いした方々が、あまり詳しいことは知らないんですよと言いながら、いろいろ話題をさがして昔語りをしてくれたことには、感謝しなければならないだろう。

駅前広場には、若山牧水の歌碑があった。牧水は日向市に生まれ、延岡中学校を卒業後、上京して早稲田大学に入学した。

わずか二日の短い滞在だった。再びこの地を訪れることはないかもしれない。延岡発16:08分の「RED EXPRESS」で、宮崎空港に向かった。


往路の飛行時間は1時間50分ほどだったが、復路は1時間20分ほどで、ほぼ30分も短かい飛行時間だった。羽田空港に着陸後、バスで到着ロビーに移動した。

〔夜の羽田空港〕

駅前広場には、若山牧水の歌碑があった。牧水は日向市に生まれ、延岡中学校を卒業後、上京して早稲田大学に入学した。

わずか二日の短い滞在だった。再びこの地を訪れることはないかもしれない。延岡発16:08分の「RED EXPRESS」で、宮崎空港に向かった。


往路の飛行時間は1時間50分ほどだったが、復路は1時間20分ほどで、ほぼ30分も短かい飛行時間だった。羽田空港に着陸後、バスで到着ロビーに移動した。

〔夜の羽田空港〕
posted by 里実福太朗 at 23:00| フォト紀行
2010年11月16日
2010年11月15日
再び金券ショップへ
もう少しドルを用意しておくことになり、フランス語の授業が終わったあと、再び金券ショップに立ち寄った。為替相場が82円台になり、それに伴い両替レートも変わっていた。
〔大黒屋〕
両替レート:1ドル=84.81円
一昨日が83.60円だったから、1.21円のドル高(円安)ということになる。
この円安の原因は、経済ニュースのコメンテーターによれば、アイルランドとかポルトガルとかの財政不安が高まり、ユーロが売られドルが買われたことによるものらしい。遠く離れた外国の信用不安が、円の価値に影響を及ぼし、ひいてはなけなしのお金をはたいて格安ツアーに参加する、日本の旅行者の懐具合にも影響を与えることになったわけだが、実際に両替を体験してみると、円安とか円高とかの影響力が実感されてきます。

〔大黒屋〕
両替レート:1ドル=84.81円
一昨日が83.60円だったから、1.21円のドル高(円安)ということになる。
この円安の原因は、経済ニュースのコメンテーターによれば、アイルランドとかポルトガルとかの財政不安が高まり、ユーロが売られドルが買われたことによるものらしい。遠く離れた外国の信用不安が、円の価値に影響を及ぼし、ひいてはなけなしのお金をはたいて格安ツアーに参加する、日本の旅行者の懐具合にも影響を与えることになったわけだが、実際に両替を体験してみると、円安とか円高とかの影響力が実感されてきます。

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2010年11月11日
金券ショップで両替
12月に格安ツアーを利用して、サイパンに行くことになった。格安ゆえ、朝食も夕食もナシ。DFS(duty-free shop、免税店)では、円で支払うこともできるそうだが、レストランなどではどうなのだろうか。仮に円で支払いが可能であっても、レートはどうなのだろうか。日本国内で、円を米ドルに両替しておいた方がいいのだろうか。
いずれにせよ現地の事情がよく分からないから、食事代・お土産代などとして、ある程度のドルは用意していくことにした。そして昨日、江戸東京博物館からの帰途、つましい金額をドルに両替してきた。
昨日の東京の為替レートは、81円台半ばだった。銀行の両替サービスではプラス3円の84円台半ば、両替を扱っている金券ショップなどでは、それより1円ほど下げているところもある。
仮に両替レートが1ドルあたり1円下がれば、1円の円高になるのと同じことで、100ドルの両替なら100円、500ドルなら500円の節約となる。電車賃になるかならないかという程度の節約ではあるけれど、たいそう儲かった気分になるのはいたしかたない、それが庶民の常なのである。今日の東京市場は円安・ドル高となり82円台を回復、さらに得した気分になったのだった。
〔大黒屋〕
両替レート:1ドル=83.60円
いずれにせよ現地の事情がよく分からないから、食事代・お土産代などとして、ある程度のドルは用意していくことにした。そして昨日、江戸東京博物館からの帰途、つましい金額をドルに両替してきた。
昨日の東京の為替レートは、81円台半ばだった。銀行の両替サービスではプラス3円の84円台半ば、両替を扱っている金券ショップなどでは、それより1円ほど下げているところもある。
仮に両替レートが1ドルあたり1円下がれば、1円の円高になるのと同じことで、100ドルの両替なら100円、500ドルなら500円の節約となる。電車賃になるかならないかという程度の節約ではあるけれど、たいそう儲かった気分になるのはいたしかたない、それが庶民の常なのである。今日の東京市場は円安・ドル高となり82円台を回復、さらに得した気分になったのだった。
〔大黒屋〕
両替レート:1ドル=83.60円
posted by 里実福太朗 at 23:30| フォト漫歩計
優勝パレード&報告会の日取り決まる
日本シリーズで中日ドラゴンズとの激闘を制した千葉ロッテマリーンズが、千葉に凱旋して優勝パレードを行う。日程は以下の通り。
【優勝パレード】
日時:11月21日(日) 11時〜12時
場所:幕張新都心
【優勝報告会】
時間:パレード終了後12:30〜
場所:千葉マリン球場(入場無料)
詳しくはこちら
2005年 優勝パレード

優勝報告会

【優勝パレード】
日時:11月21日(日) 11時〜12時
場所:幕張新都心
【優勝報告会】
時間:パレード終了後12:30〜
場所:千葉マリン球場(入場無料)
詳しくはこちら
2005年 優勝パレード

優勝報告会

posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗
2010年11月10日
2010年11月09日
秋の嵐の贈り物
車のドアを開けると、おもわず鼻を覆ってしまいたくなるような強烈な臭いに襲われた。車から降りて地面に足を下ろすと、靴の下で何かが弾ける乾いた音がした。なんだろう、視線を下に向けると、そこらじゅうに小さな黄色い実が散乱していた。びっしりと地面を覆い尽くしているその実が、異臭を発していたのだった。

久しぶりで夫人のいとこの訪問を受け、遠く離れた彼女のふる里に似た風景を案内する心づもりだった。最寄り駅まで迎えに行き、近くのファミリーレストランで昼食を共にしたあと、毎年初詣に行く神社へと車を走らせた。
午前中から吹いていた風は、午後になってさらにその勢いを強め、小台風並みの強風が吹き荒れていた。色づいた葉や、熟したギンナンが、その強風にあおられ振り落とされて、神社の前の道路や境内の地面を埋め尽くしていた。
僥倖に恵まれるとは、きっとこういうことを言うのだろう。夫人のいとこがたまたま訪ねて来て、たまたまなじみの神社に立ち寄ったところ、熟して落ちる機会をうかがっていたギンナンが、おりからの強風にあおられて降るように地上を覆い尽くしたときに、私たちがやってきたのだから。
ギンナンを好んで食することはないけれど、この僥倖を逃す手はない。さっそくビニール袋を取り出して、ギンナンを拾い集めることにしたのだった。足もとの地面は、びっしりとギンナンで埋め尽くされている。ビニール袋が、手応えを感じるほどの重さになるには、さほど時間はかからなかった。

ほどなく年寄り夫婦がやってきて、ギンナン拾いに加わった。話を聞けば、数日前からギンナンが落ち始めていないかと確かめに来ていたそうだ。今日も来たところ、ひとあし先に私たちがが拾い始めているのを見て、慌てて加わったということだった。その後、さらに二人組みがやって来た。強風が吹く日をねらっていたそうだ。

自然の恵みに感謝して、お賽銭をいつもよりはずんでおいたのは言うまでもない。


久しぶりで夫人のいとこの訪問を受け、遠く離れた彼女のふる里に似た風景を案内する心づもりだった。最寄り駅まで迎えに行き、近くのファミリーレストランで昼食を共にしたあと、毎年初詣に行く神社へと車を走らせた。
午前中から吹いていた風は、午後になってさらにその勢いを強め、小台風並みの強風が吹き荒れていた。色づいた葉や、熟したギンナンが、その強風にあおられ振り落とされて、神社の前の道路や境内の地面を埋め尽くしていた。


僥倖に恵まれるとは、きっとこういうことを言うのだろう。夫人のいとこがたまたま訪ねて来て、たまたまなじみの神社に立ち寄ったところ、熟して落ちる機会をうかがっていたギンナンが、おりからの強風にあおられて降るように地上を覆い尽くしたときに、私たちがやってきたのだから。
ギンナンを好んで食することはないけれど、この僥倖を逃す手はない。さっそくビニール袋を取り出して、ギンナンを拾い集めることにしたのだった。足もとの地面は、びっしりとギンナンで埋め尽くされている。ビニール袋が、手応えを感じるほどの重さになるには、さほど時間はかからなかった。

ほどなく年寄り夫婦がやってきて、ギンナン拾いに加わった。話を聞けば、数日前からギンナンが落ち始めていないかと確かめに来ていたそうだ。今日も来たところ、ひとあし先に私たちがが拾い始めているのを見て、慌てて加わったということだった。その後、さらに二人組みがやって来た。強風が吹く日をねらっていたそうだ。

自然の恵みに感謝して、お賽銭をいつもよりはずんでおいたのは言うまでもない。


posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗
2010年11月07日
千葉ロッテマリーンズ日本一
昨日は延長戦のすえ引き分け、今日こそは9回でけりをつけてくれと願ったが、クローザーの小林投手が打たれて同点、またもや延長戦になってしまった。試合は前夜と同じ流れに突入して、やれやれ今夜も12時近くまでテレビを見ていることになるのかと思い始めていた矢先、岡田選手のタイムリー三塁打が出て1点が入り、その裏、伊藤投手が危なげなく無失点で投げきった。マリーンズらしい粘りの野球で、ついにレギュラーシーズン3位から日本一になった。
二夜にわたり試合終了まで中継してくれたフジテレビには感謝したいが、解説のエモヤンはひどいことを言ってたね。プロ野球界に対する認識が一昔前のままで、ただ思いつきを口任せにしゃべっているだけだった。
マリーンズが日本一に輝いたのは5年前の2005年、その時はバレンタイン氏が監督だった。彼が千葉を去り、バトンを引き継いだ西村監督は就任一年目で、日本一の座をたぐり寄せたのだった。今回も幕張で優勝祝賀パレードがあることを願って、5年前のパレードの写真をまた載せておくことにする。
二夜にわたり試合終了まで中継してくれたフジテレビには感謝したいが、解説のエモヤンはひどいことを言ってたね。プロ野球界に対する認識が一昔前のままで、ただ思いつきを口任せにしゃべっているだけだった。
マリーンズが日本一に輝いたのは5年前の2005年、その時はバレンタイン氏が監督だった。彼が千葉を去り、バトンを引き継いだ西村監督は就任一年目で、日本一の座をたぐり寄せたのだった。今回も幕張で優勝祝賀パレードがあることを願って、5年前のパレードの写真をまた載せておくことにする。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2010年11月04日
雨漏り修理がやっと終わった
今日やっと屋根の雨漏りの修理が終わった、何度目の正直だったのだろうか。思い起こしてみれば、二階のトイレでかなりひどい雨漏りがあったのは、一ヶ月以上も前のことだった。その後見積もりを依頼して正式な契約書を取り交わし工事日は決まったけれど、雨にたたられて何度となく延期になっていた。
まず何年か前にリフォームを依頼した業者に夫人が連絡して、雨漏りの状態を見てもらい見積もりを出してもらうことにした。それと共に、夫人の知り合いから紹介してもらった大工さんにも連絡して、見てもらった。大ごとにはなりそうにもないので、リフォーム業者に頼めば、材料費程度で直してもらえるかもしれないということだった。紹介してくれた知人の言うように、良心的な感じの大工さんだった。リフォーム業者の見積もりが高かったら、その大工さんを介して屋根の専門業者に依頼することも検討してみることにした。
小雨降る9月30日に、リフォーム業者から派遣された人がふたり、雨漏りの原因を調べに来てくれた。高齢の職人さんの方は、富里から来たと言っていた。仕事に一区切りついてから、庭のビワの木を見上げながら、
「実はなりますか」
と訊ねるから、
「なったためしがないんですよ」
「苗を買ってきたんですか」
「いえ、家の者が種を埋めておいたら、芽が出てきてこんなに大きくなったんですよ」
「やっぱりねェ、種からだと実はならないんだな。オレんちのビワの木も、実がならないから切っちまったよ」
「おや−、もったいないことしましたネ。葉っぱを乾燥させて、細かく砕いてビワ茶を作るんですよ、体にいいらしいですよ」
と答えておいた。
その後私が外出した日に、別の人がまた見に来たそうだ。それから何日か経った10月12日に、、リフォーム業者のセールスエンジニアの女性から、見積もりができたから持参するという電話連絡があった。屋根の笠木という部分の修理、それに加えて雨漏りのシミのついた天井板を交換して、約9万円程度の費用がかかるということだった。
10月に入ってからガス管の交換工事があったばかりで、また出費、できるだけ費用は切り詰めたい。そこで笠木部分の修理費用と天井費用とに分けて見積もりを出してもらうことにした。天井にシミが残っていても、そんなことは気にしないことにしよう。正式な見積書では、笠木部分が4万円少々、天井部分は3万円少々で合計8万円弱だった。
工事の予定は、当初9月25日だった。しかしあいにくの雨で28日に延期。ところがまたもや雨、再び延期して11月1日へ。天気予報を確認して次の予定日を決めているのだが、11月1日はまたまた雨模様、再々延期で4日になった。天気予報では、今週は晴れが続いていたはずだが、どういうわけか今日も小雨模様だった。やれやれまた延期かと思っていたところ、家の前に工事の車が止まったのだった。
まず何年か前にリフォームを依頼した業者に夫人が連絡して、雨漏りの状態を見てもらい見積もりを出してもらうことにした。それと共に、夫人の知り合いから紹介してもらった大工さんにも連絡して、見てもらった。大ごとにはなりそうにもないので、リフォーム業者に頼めば、材料費程度で直してもらえるかもしれないということだった。紹介してくれた知人の言うように、良心的な感じの大工さんだった。リフォーム業者の見積もりが高かったら、その大工さんを介して屋根の専門業者に依頼することも検討してみることにした。

「実はなりますか」
と訊ねるから、
「なったためしがないんですよ」
「苗を買ってきたんですか」
「いえ、家の者が種を埋めておいたら、芽が出てきてこんなに大きくなったんですよ」
「やっぱりねェ、種からだと実はならないんだな。オレんちのビワの木も、実がならないから切っちまったよ」
「おや−、もったいないことしましたネ。葉っぱを乾燥させて、細かく砕いてビワ茶を作るんですよ、体にいいらしいですよ」
と答えておいた。
その後私が外出した日に、別の人がまた見に来たそうだ。それから何日か経った10月12日に、、リフォーム業者のセールスエンジニアの女性から、見積もりができたから持参するという電話連絡があった。屋根の笠木という部分の修理、それに加えて雨漏りのシミのついた天井板を交換して、約9万円程度の費用がかかるということだった。
10月に入ってからガス管の交換工事があったばかりで、また出費、できるだけ費用は切り詰めたい。そこで笠木部分の修理費用と天井費用とに分けて見積もりを出してもらうことにした。天井にシミが残っていても、そんなことは気にしないことにしよう。正式な見積書では、笠木部分が4万円少々、天井部分は3万円少々で合計8万円弱だった。
工事の予定は、当初9月25日だった。しかしあいにくの雨で28日に延期。ところがまたもや雨、再び延期して11月1日へ。天気予報を確認して次の予定日を決めているのだが、11月1日はまたまた雨模様、再々延期で4日になった。天気予報では、今週は晴れが続いていたはずだが、どういうわけか今日も小雨模様だった。やれやれまた延期かと思っていたところ、家の前に工事の車が止まったのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:06| 里ふくろうの日乗