2010年12月29日

西新宿「Organic House」

2010120056.jpg「お正月を彩る」展を観る前に昼食をとろうと思って、京王プラザホテル周辺を歩いてみたが、気軽に入れて手頃な値段の店がなかなか見当たらない。新宿駅まで戻れば適当な店はあるのだろうが、引き返すのも面倒だ。もう少しねばって探してみたところ、京王プラザホテルの向かいのビルの前に「55HIROBA」という広場があり、その奥に「Organic House(オーガニックハウス)」という店があった。


2010120053.jpg


この店のシステムは、いわゆるビュッフェスタイルなのだが、すこし違った点もあった。並べられた料理の中から、自分の好み・腹具合に応じて自由に選ぶことができる点は、一般的なビュッフェスタイルと同じなのだけれど、料金システムが違っていて、一方が定額制であるのに対して、こちらは従量制なのだ。つまり選んだ料理の総重量で値段が決まるのだ。

並べられているお総菜のすべてが、10グラムあたり28円の均一料金だった。普通のビュッフェでは、料理を欲張って取りすぎて食べ過ぎる傾向があるが、量に応じて金額が決まるのであれば、腹具合とよく相談して慎重に料理を選び量の加減をすることになる。なかなか合理的なシステムであると言えるだろう。

2010120054.jpg


店に入ったとき、店員さんから、
「初めてですか」
と訊かれ、そうだと答えたら上記のような説明をしてくれた。ただその時は、じっくり品定めするのはちょっと面倒だなという気持ちがあり、そのシステムを試してみるのはまたの日ということにして、できあいの「スープカレー」(500円)を注文した。

こういうシステムを好むのは年寄りなのかなと思っていたら、あとから若者も店に入ってきた。その若者が料理を選んで、近くの席に来て腰をおろした。あまりジロジロ見るわけにもいかず、チラッと見たところでは、白米に味噌汁、そしてサバの味噌煮らしきもの、そして何かの肉・野菜をプレートにのせていた。
posted by 里実福太朗 at 23:45| フォト漫歩計

2010年12月28日

塊魚、新宿のホテルに現る

京王プラザホテルで開催される「お正月を彩る展」は今日が初日、さっそく新宿まで出かけて観てきた。西新宿に降り立つのは久しぶりのことで、林立する高層ビルはもう物珍しい存在ではなくなっているのだろうが、久しぶりのことゆえどうしても見上げてしまう。

〔京王プラザホテルと都庁〕
2010120047.jpg 2010120048.jpg


神楽坂のアユミギャラリーで見たあの「塊魚」が出品されているかどうか、その点にも興味があった。エントランスを入り、エスカレーターに乗って3階に着けば、そこが展示会場のあるロビーだった。

2010120050.jpg


展示会場の広い空間の中、ポツンと置かれたテーブルの上に塊魚がいた。アユミギャラリーでの作品展の時は、塊魚たちは体中から強烈なエネルギーを発していて、それが部屋中に充満していた。

しかしロビーギャラリーの二体の塊魚たちは、ホテルのロビーという大海に投げ出され、やっとたどり着いた孤島に身を寄せて、なんとなく途方に暮れて空を見上げているかのように見受けられた。

展示される場所によって、こうも印象が大きく変わるものなのだろうか。いろいろな場所に塊魚たちを置いて、見比べてみるのもおもしろいかもしれない。

2010120051.jpg


塊魚以外の作品も展示されていた。

2010120049.jpg 2010120052.jpg

posted by 里実福太朗 at 23:55| フォト漫歩計

2010年12月27日

ドイツ村の観覧車から富士山を望む

スマートフォンで撮った富士山の写真は、ぶれてしまって失敗。そこで、デジイチで撮った写真を載せておきます。

2010_8000015.jpg
posted by 里実福太朗 at 23:50| フォト漫歩計

観覧車から

SNC00335l.jpg富士山が見えました。
posted by 里実福太朗 at 18:23| フォト漫歩計

ドイツ村ナウ

SNC00330b.jpgだいぶ日が影ってきました。人も増えてきました。
posted by 里実福太朗 at 15:49| フォト漫歩計

ドイツ村

SNC00328b.jpg天気はよいけれど、風が冷たい。
posted by 里実福太朗 at 14:26| フォト漫歩計

2010年12月26日

銀座で450円のラーメンを食す

何日か前のこと、ブリヂストン美術館で「セーヌの流れに沿って」展を観たあと、中央通りを銀座方面に向かって歩き、伊東屋で必要な文具を買い求めた。用事をすませて伊東屋を出た時は、もう3時近くになっていた。

いつものようにセルフサービスのコーヒー店で、サンドイッチでも一緒に求めて済ませようかとも思ったが、いつも同じでは能がない。気軽に入れて、値段は高くなく、味もある程度満足できる店はないかと、中央通りを渡って歩くことほんのわずかな交差点、左右を見渡す左側に、高級店が建ち並ぶ銀座には不似合いな中華料理店が目に入った。

足は自然にその店に引き寄せられていき、店の前の看板を見れば、「ラーメン450円」となっていた。今どきそれも銀座で、500円でお釣りがくるとは希有なことだ。ためらうことなくその店に入ったのだった。

店内はいたって狭く、四人掛けのテーブルが3卓、カウンター席が5・6脚だった。店は狭いのに、調理場には3人、店内サービス担当が二人、合計5人をそろえるのは、昼時には大混雑となるのは必至で、それに備えてのことなのだろう。サービス担当の店員さんは高齢の男女で、ご夫婦なのかもしれない。

2010120042.jpg


席に座ると、間髪を入れずに水の入ったコップが目の前に置かれ、さらに新聞を持って来てくれるという心配り、コップの水が残り少なくなると、待ってましたとばかりに足してくれるという具合にサービス精神満点だった。お昼時はとうに過ぎ、店内には客が3人だけだった。その3人もすぐに出て行った。

注文したのはラーメンとギョウザ、ラーメンは素朴な醤油味、ギョウザは中身がたっぷり詰まった少し小ぶりなものが、皿に6個のっていた。後で分かったのだが、3個の半ギョウザというものもある。

店の名前は「中華西銀座 大王」、銀座で働くサラリーマンにとっては、お昼時の空腹を満たしてくれるありがたい店の一つであるに違いない。

2010120043.jpg

posted by 里実福太朗 at 23:30| フォト漫歩計

2010年12月24日

三ヶ日みかん

学生時代の友人で静岡に住むY君が、今年も三ヶ日みかんを送ってくれた。みかんは今夏の猛暑のせいで、デキが今ひとつ、価格も高騰していると聞く。みかんを食べる機会が減るかもしれないな、と思っていたところに届いたものだから、ありがたさも倍増といったところだ。

2010120041.jpg

 
posted by 里実福太朗 at 23:32| 里ふくろうの日乗

2010年12月22日

青山墓地

ゴッホ展を観おわって美術館を出たのが2時少し前、せっかく都心に出てきたのに、このまま帰るのではもの足りない感じがする。かといってミッドタウンのイルミネーションを観るには、夕刻まで時間がありすぎる。そこで青山墓地を通って帰ることにした。空は寒々とした灰色の雲に覆われ、そんな日によりによって墓地を訪れるなんて、我ながら物好きなことだ。

2010120039.jpg


2010120025.jpg 2010120026.jpg

  
地図には、志賀直哉や齋藤茂吉などの墓も記されていた。せっかくだから写真を撮っていこうと探し回ったが、そこらじゅう墓だらけで、まァ墓地だから仕方がないけれど、探せども探せども見つからない。とうとう寒さには勝てず、最寄りの地下鉄駅に逃げ込むことになってしまった。

2010120040.jpg


短歌結社「浅香社」を結成した落合直文と、白樺派の長與善郎のお墓は偶然見つかったので、写真を撮っておいた。

2010120028.jpg


2010120029.jpg


青山墓地から六本木ヒルズを望む

2010120030.jpg

 
posted by 里実福太朗 at 23:45| フォト漫歩計

スカイツリーの今

先週ゴッホ展に行く途次、押上で京成線から下車してスカイツリーを見てきた。久しぶりのことだった。前回見たのは、300メートルを超えたときのことで、今はもう500メートルを超えていた。

2010120021.jpg


京成橋からカメラを構えて、てっぺんまで入れようとしてもうまく納まらない。地面すれすれのところで構えて、やっと全体を入れることができた。

2010120022.jpg


以前には全く姿かたちのなかったビルが、目の前にそびえていて、かなり周囲の景観が変化していた。

2010120024.jpg

 
posted by 里実福太朗 at 23:24| フォト漫歩計

2010年12月20日

「塵庵アトリエ.ギャラリー」

去年の9月、まだ残暑厳しき折、写真塾と建築塾との合同講座が益子で行われた。写真塾のメンバーは、講師の北田さんに案内していただいて、強い陽差しを浴びながら、周辺に残るベーハ小屋を撮影して回った。たどり着いた今成さんの塵庵は、陽差しをさえぎってくれる木立に囲まれ、体の火照りを癒しながら、昼食をとるためにはうってつけの場所だった。

2010120015.jpg  2010120016.jpg

塵庵では、今成さんが実際にロクロをまわして陶器づくりをしている様子を撮らせていただいた。先日、アユミギャラリーでお渡しした写真は、その時に撮影したものだ。現像して印刷したのは3枚だけだったが、もう一度すべてを見直してみたら、残りの写真の中に新たな発見があった。

一休みしてから、塵庵の周辺をブラブラ歩いていたら、道端にひっそりと置かれた穏やかな優しい表情の石像が目に入った。お地蔵さんではなさそうだし、左前の着物を身につけていることを確認するまでもなく、ふっくらとした顔立ちを見れば、女性の像であることは間違いないと思われた。どうしてこんなところに置かれているのだろうと疑問は浮かんだが、深く考えることもなく、その表情に惹かれてシャッターを切った。

2010120017.jpg


そのままその像のことは忘れてしまった。ところが塵庵で撮った写真を見直した時、この像の写真のところにきて、思い当たることがあった。ヒョッとして、今成さんからうかがったお話に関係しているのかもしれない…そんなふうに思ったのだった。

写真塾の講座のあった土曜日の帰途、地下鉄神楽坂駅で少し前に別れたばかりの今成さんと再び遭遇し、帰りの電車をご一緒した。写真を見直しているとき、その時にうかがったお話とその石像とが結びついたのだ。話をしている時の今成さんの表情を思い出すと、その想像は間違いないようにも思われたのだった。

中途半端な終わり方になってしまうが、想像の世界に入り込んでしまうと、際限もなくそれが続きそうな気もするので、ここで終わっておくことにする。

さて気持ちを切り替えて、今成さんにお渡しした写真以外のものから、二枚ほど選び直して載せておくことにする。



2010120018.jpg


2010120019.jpg
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

陶芸家・今成誠一さんが出品する「お正月を彩る展」

陶芸家・今成誠一さんの作品が、以下の通り展示されます。

◇お正月を彩る展
場所:京王プラザホテル ロビーギャラリー
期日:
 2010年12月28日(火)〜2011年1月7日(金)
 10時〜19時まで
 …12月31日(金)〜1月3日(月)は18時まで
 …1月7日は4時まで
ウェブサイト:
 http://www.keioplaza.co.jp/guide/facility/gallery.html

出展:
 今成 誠一(陶芸)
 宇田 直人(鍛冶)
 竹内 照代(墨彩)
 田中 ゆみ(和紙絵)
 馬 景泉(篆刻)

詳しくはこちらのPDFファイルをご覧ください。
「ロビーギャラリーの展示予定」


posted by 里実福太朗 at 17:23| 里ふくろうの日乗

2010年12月19日

大橋先生の手

身辺雑記のブログを書いていると、どこまで書き込んでいいものかと迷うことがままある。たとえば仲間うちで作っている同人雑誌のようなものにでも載せるのであれば、書かれたことがひろがっていく範囲は、たかがしれている。ところが現代のネット社会では、ウェブに載せるやいなや、あっという間に全世界に伝播してしまう。そういうことを思うと、書くことにも慎重にならざるを得ない。

たしかにいろいろな人と忌憚なく話をしていると、おもしろい話だから他の人にも教えてあげたいものだ、書き残しておきたいものだ、と思うことがある。しかし、限られた人だけが参加している場だからこそ聞くことができた話かもしれず、そういう場であったことを、多くの人たちに向けて発信することについては、やはり慎重になる必要がある。だから、どうしても具体性に欠けてしまうことにもなる。

昨日は、写真塾の今年最後の講座があった。終了後は居酒屋「竹ちゃん」で、お疲れさん会があった。その会には、先日アユミギャラーで、写真塾講師の北田英治さんと共に作品展を行った陶芸家の今成誠一さんも加わり、いろいろなお話をうかがわせていただいた。

北田さんがタイで撮影した時に体験した話などは、謎めいた部分があって、とても興味が惹かれた。今成さんからは、アユミギャラリーの作品展に続き、年末に作品展に参加するというお話をうかがった。その作品展に関しては、ページをあらためて開催情報を載せておくことにする。

こちらは写真塾に入ってからまだ2年目、塾長の大橋先生は、写真家として50年以上のキャリアを有する。その先生と畏れ多くも握手しようなどとはこちらから思いつくはずもない。ところが思いがけなくも、店を出て神楽坂の交差点でサヨナラの挨拶をする際、自然な流れの中で握手させていただくことになった。

この一年間の謝意を言いつつ握手をすると、大橋先生の手はとても大きく感じられ、思わず、
「先生の手は大きいですねェ」
と言ったところ、先生は、
「いや、あなたの方が大きいでしょう」
と否定され、それでは手を合わせて比べてみましょうということになった。「大きいですねェ」と言った手前、こちらの手が大きくては困るので、手のひらを少し下にずらして合わせたところ、先生の手の方が指関節一つ分ほど長かった。しかし、こちらがズルしたことを鋭く見抜き、もう一度きちんと手を合わせて比べ直してみることになった。その結果、ほぼ同じ大きさだった。

最初の印象と違う結果となってしまった。しかし、こんなふうに考えてみることはできないだろうか。身長ではこちらの方がはるかに高い。だからその比率を手に当てはめれば、当然こちらの方が大きくてしかるべきなのだが、事実はそうではなかった。ということは、大橋先生は体の大きさに比して、手は大きいということなのだ。やはり握手したときはの印象は、正しかったのだ。

どうしてこんなに手にこだわるのかというと、カメラのシャッターを50年以上押し続けていれば、当然その営為が手に反映されているに違いないと思ってのことなのだ。大橋先生は、師の土門拳から「職人は手を撮れ」と教えられたそうだ。職人と写真家とは違うかもしれないかもしれないが、長年に亘って携わった仕事が、その仕事にふさわしい手を形作るという点では同じであろう。

「そのうち先生の手を撮らせていただけませんか」
「自分で、左手を撮ったことはあります」
その左手の写真は、見せていただいたことがあった。しかし左手ではないのだ。シャッターボタンを押し続けた右手なのだ。残念ながら話はそこで終わってしまい、右手を撮らせていただく約束を結ぶことはではできなかった。

posted by 里実福太朗 at 23:50| 写真

2010年12月17日

ゴッホと広重を結ぶ「線」

ゴッホ展の副題は「こうして私はゴッホになった」というもの、ここでいう「ゴッホ」とは、言うまでもないことだが、誰が見てもこれはゴッホの絵だと分かるような絵を描いたゴッホを指している。そういう絵が描けるようになるまでには、さまざまな流波の影響を受け、さまざまな画家の模倣をして、さらに遙か遠く離れた日本の浮世絵の配色と構図を取り入れたりして、1888年2月に移り住んだ南仏アルルで「ゴッホ」になった。

今回のゴッホ展では、そういう副題の意味するところに沿って、ゴッホを「ゴッホ」たらしめることにあずかった他の画家たちの絵も一緒に展示されていた。ただその意図は分かるにせよ、印象が薄められてしまって、残念ながらいまひとつ物足りなさを感じさせる展覧会であったことは否めない。

ゴッホを「ゴッホ」たらしめたアルル時代の代表作が少なかったことが、そんな印象を感じた要因だったのだろう。「ひまわり」がない、「糸杉」がない、「はね橋」がない、「夜のカフェ・テラス」・「ローヌ川の星月夜」もなかった。クライマックスのないドラマを見ているような感じだった。

全体的な印象はそういうことだったが、まったく得るところが無かったわけではない。「灰色のフェルト帽の自画像」は観ることができたし、おまけに、ガチャガチャでその絵のミニチュアを手に入れることができたのだから、それを以てよしとしておくことにしよう。

手元に、「広重名所江戸百景」という望月義也氏の浮世絵コレクションをまとめた本がある。以前、アートガレー神楽坂で、「歌川広重 名所江戸百景展」が開催された際に購入した。その本の後の方に、画家・岩本拓郎という方の、「ゴッホと『名所江戸百景』」という文章が載っている。浮世絵の中でも、特に広重のいわゆる「江戸百」にしぼって、ゴッホとの関係について考察したものだ。

その中の一節「浮世絵とゴッホそして“線”について」では、浮世絵の特徴である線を用いた描写について以下のように述べている。

『元来、浮世絵には当時の西洋絵画にはない“線”というものが大きな特徴としてあった。ところで“線”とはきわめて抽象的なもので、現実には存在しない。……抽象、つまり現実に存在する世界の描写再現から離れ、絵でしか現せない世界を描き出し、生み出していくことが抽象だとしたら、ゴッホこそそこに向かって一歩を踏み出した最初の人といってもよいだろう。』

そして岩本拓郎氏は、線で描かれた例として、広重の「大はしあたけの夕立」の雨をあげている。

「大はしあたけの夕立」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hiroshige_Atake_sous_une_averse_soudaine.jpg

氏によれば、ゴッホはさらに実態のない光までも“線”によって描いていった。例えば「星月夜」や「糸杉」のシリーズのように。そういう視点で観ると、ゴッホの絵には確かに線が多用されていることに気づく。

「灰色のフェルト帽の自画像」も、その例外ではない。その絵はアルル時代より前の1887年に描かれているが、無数の線が顔を覆い尽くし、それだけではなく、線が円を描いて顔をとり巻いている念の入れようなのだ。ゴッホのこの自画像は、一目見ただけで強烈な印象が焼き付けられ、どうして顔を線で描いているのだろうと疑問がわき起こる。その疑問を解くカギが、実は広重の「大はしあたけの夕立」にあるということなのだった。

「灰色のフェルト帽の自画像」
http://www.cinra.net/news/viewer.php?eid=7879&id=0

posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗

2010年12月16日

ゴッホ展

国立新美術館で行われているゴッホ展が、いよいよ今月の20日で終了となる。以前金券ショップで購入した招待券を無駄にするわけにもいかないので、思い切って今日夫人と行ってきた。「思い切って」などと書いたのは、アカイヌ王国ご夫妻がつい最近出かけたらしいのだが、その時は行列ができていて、結局観ることはあきらめて帰ってきたということを聞いて、億劫になっていたからなのだ。

混雑が始まる前に美術館に着くためには、佐倉を遅くとも8時過ぎには出発しなければならない。しかしグズグズしているうちに9時を過ぎ、押上駅で京成から地下鉄半蔵門線に乗り換えようとしたとき、スカイツリーのことを思い出し、せっかくだから見ていくかということになり、結局乃木坂駅に着いたのは11時半頃になっていた。

行列ができていることを覚悟していたが、ありがたいことに行列に並ぶこともなくすんなりと入場できた。ただ、会場内はかなり混んでいた。雑踏の中で、人にぶつからないようにと気を使っていると、なかなか観ることに集中できない。いままでにそういうことを何度か味わい、そのたびに人波を見に来たようなものだと後悔の念にとらわれたというのに、今回も同じ轍を踏んだのだった。

2010120014.jpg 2010120012.jpg


展示会場を出れば、そこはミュージアムショップ、めぼしいものはないかと物色したが触手はのびず、目に入ったのは隅の方に置いてあったガチャガチャの機械、はてどうしてこんな所に…と疑問に思ってよく見れば、透明ケースの中にはゴッホの絵が入っていた。種類は全部で7種類、一回300円で何が出てくるかは分からない。できれば「灰色のフェルト帽の自画像」が欲しいなと思いつつレバーを回せば、願い通りにその絵が出てきた。だけどこの帽子、灰色ではなくて極彩色だ…それに顔も線で描かれていて、かなり奇妙な自画像だ。

2010120013.jpg

灰色のフェルト帽の自画像


posted by 里実福太朗 at 23:36| フォト漫歩計

2010年12月14日

「野口雨情」

2010120011.jpg

野口雨情「郷愁の詩とわが生涯の真実」


著者:野口雨情
編者:野口存彌
発行:2010年1月25日
…日本図書センター

野口雨情ご令息・存彌(のぶや)氏から、上記書籍が送られてきた。野口雨情は、「十五夜お月さん」「七つの子」「赤い靴」「船頭小唄」「はぶの港」などを作詞したことで広く知られている詩人、その雨情が権藤花代にあてた葉書が収録されていた。

消印は大正13年9月25日、花代がまだ大阪に住んでいる時に出されたものだった。雨情の娘「恒子」は、三歳の誕生日の前に亡くなってしまう。そこには、その悲しみが切々と綴られていて、そういう個人的感情を包み隠さず記しているということは、それだけ二人の師弟としてのつながりが強かったということなのだろう。
posted by 里実福太朗 at 23:30| 里ふくろうの日乗

2010年12月13日

「ちょいとダンナさん」

次に向かったのは神楽坂、写真塾講師の北田英治さんが、ご自身で撮った写真を投影しながら御自ら語るという興味深い講座を聴講するためだった。ただ、まだ開始時間まで間があったので、神楽坂の路地裏を一巡りしてみることにした。

先週の水曜日のこと、去年写真教室で机を並べた生徒たちが、久しぶりで新宿に集まった。会の当初の名目は、各自が撮りためた写真を見ながら、相互に感想を言い合うということだった。ただ会を重ねるに従って、写真についてそれぞれが勝手なことを言い合うことより、飲むことの方に重点が移ってきているようにも感じる。

それはまァいいこととして、その会の幹事は持ち回りで務めることになっていた。次はいよいよ私の番、近ごろは夜飲み歩くこともあまりなく、写真塾の講座終了後にギャラリー近くで一杯という程度だから、適当な場所はすぐには思い浮かばない。それでも場所の予告は大ざっぱでもいいから、とりあえず言っておかなければならない。そこで思いつくまま、次回は神楽坂にしましょうと口走ってしまったのだった。

神楽坂と言えば、はるか昔に学生時代を過ごしたところ、もちろん街の表情はその当時とは大きく変わっているに違いないし、去年から写真塾に通うようになって、何回かカメラを首から下げて歩き回り、再び少しは身近な土地になったにはなったけれど、まだまだ路地のすみずみの雰囲気までは体に染み込んでいない。だから昔ながらの神楽坂の雰囲気を残しつつ、安価でおいしい料理とお酒を出してくれるお店の見当をつけるなどということは、どだい無理なことなのかもしれない。しかし、それでも何とかしなければならない。

地下鉄東西線の神楽坂駅を出て、坂上の交差点まで下り、その近辺から路地に入り、あとは足任せに歩いて回った。昼間歩いたときはあまり気づかなかったが、夜ともなればともる明かりが、そこかしこにこじんまりとした店が軒を連ねているさまを浮かび上がらせてくれる。

本多横丁のとある店先で、エプロン姿の年配の女将が道行く人に声をかけていた。今まで歩いて来た通りでは見掛けることのなかった光景だ。耳を澄ませば、「和食ですよ」と言っているようだった。店構えは確かに和風、神楽坂の細道ある店としては好ましい雰囲気ではあったけれど、いかにも高級そうな気配が漂っていた。

ちょっと興味を持ったことを見透かされたのだろうか、声を掛けられてしまった。
「ちょいとダンナさん、どうですか」
「少人数の集まりがあるから、歩き回ってパンフレットをもらっているだけですから」
「パンフレットはないですけどね、名刺型のものならありますよ。何人ぐらいの会なんですか」
「4・5人ですが」
「じゃァちょうどいい部屋がありますよ、ちょっと見てくださいよ」
といいながら先に立って歩いて行くものだから、店の中の様子を確かめるべく後をついていった。

入って右側にカウンター席、左側には小上がりが四つほど、奥の突き当たりが少人数用の座敷(二部屋)になっていた。お客が一人もいないことが気になったが、
「平日はなじみの人で埋まるんですよ、土曜日はダメ、観光客ばかりだから」
と、先手を打って話し始めた。

以下長くなるので、女将が問わず語りに語ったことをかいつまんでまとめておくことにする。
・お店を始めてから40年ほどたつこと
・今の建物は平成に入ってから建て替えたもので、20年ほど経っていること
・現在は息子さんが調理場を任されていること
・料理には手を掛けているから自信があること
・値段が高そうで入りにくいとよく言われること
・隣は酒屋だったけれど、最近になってついに店をたたんでしまったこと
・その土地を購入したのは、あの細木数子であること

訊けば、立て替えの際にはすべて取り壊して、新たに建て直したということだった。アユミギャラリーの建物のように、昔の姿を残しておいてほしかったと思っても詮ないこと、願わくは今の姿をとどめつつ歳を重ねていかんことを。

2010120009.jpg  2010120010.jpg

神楽坂
日本料理 河庄

 
posted by 里実福太朗 at 23:50| フォト漫歩計

2010年12月12日

ひさしぶりのバロンで

写真展をあとにして、向かうは久しぶりのバロン。フランス語講座が終わり、当分の間、訪れる機会がなくなる。店をたった一人で切り盛りしている女性店主は元気だろうか、店をたたんでしまっていることはないだろうか、そんなことを思いながら店の前まで来ると、バロンは夕闇に溶け込むようにひっそりとたたずんでいた。

2010120008.jpg


営業中であることを示すのは、店内から漏れてくるかすかな灯りだけ、ドアを開けて中に入ると店内に客は一人もいなかった。店主の姿も見えず、「こんにちは」と声をかけると、カウンターの奥から返事があった。

ご主人はすでに再び帰らない旅に出て、以来女手一人で守ってきた店は、何一つ変わっていないように見えた。ご主人が丹精込めて作った調度品の数々も、以前とまったく同じ表情で訪れる人を待っていた。

大学もそろそろ冬休みに入る頃、人ずくなになった学生街では、店を開けていても開店休業状態が関の山、
「そろそろ仕事納めですか」
と訊ねたところ、驚くことにこんな答えが返ってきた。
「31日までやっていますよ。毎年そうですよ」
「土・日は、店は休むんですか」
「土・日もやっていますよ、休みなんかありませんよ」
少し声高にそしてキッパリと言った。

客が一人でもいれば、心に張りも生まれるのだろうが、客のない日は、たった一人で長い一日をどうやって過ごすのだろうか。しかしそんな心配は、無用なことなのかもしれない。ご主人手作りの調度品に囲まれた空間に身を置いていると、亡き人と今でも共に過ごしているような気持ちに浸れるのかもしれない。店にさえいれば、共に過ごした日々が今もなお続いていると思えるのかもしれない。

「いくらなんでも、元日はお休みになるんでしょう?」
「元日もお店に来ることは来ますよ。朝来て、新聞を取って、お店の中を覗いて、だけどね、すぐ閉めて初詣に行くのよ」
「近くの穴八幡宮ですか」
「ええ……大晦日の晩にやりたいことがあるんですけど、この43年間、一度も実現できてないの」
「どんなことですか」
「お店を夜通し開けておいて、そこの大きなテレビで、お客さんと一緒に紅白を見て、12時をまわったら初詣に行くこと…でも、あのテレビ、もう映らないから…もうダメね」

それからしばらく沈黙が続いた。違う話題に移るきっかけをさがして、コーヒーカップに手をのばしたけれど、すでに飲み干していた。

「次に行くところがありますので、そろそろ…」
「そうですか…それではよいお年を」
「よいお年を」
ドアの前で見送られ、地下鉄の駅へと向かったのだった。

posted by 里実福太朗 at 23:00| フォト漫歩計

ふたたび受講生写真展へ

金曜日のフランス語講座が終了してから、受講生写真展に顔を出したのは、もちろん今年の受講生の作品を見るためでもあったが、もう一つ昨年お世話になった写真の先生にお会いしたいということもあった。

昨年の写真展最後の日、先生がカメラを構えているところを失礼を顧みず撮ったところ、自画自賛になるのでちょっと気が引けるけれど、ためらわずに言ってしまえば、すばらしい出来映えの写真になったのだ。今年の写真教室の授業が終わる頃を見はからって出向き、先生にその写真をお渡しようと思っていたのだが、なかなか実行に移せず、のびのびになってしまっていた。

ヒョッとして会場にいらっしゃるかもしれないと期待していたのだか、残念ながらいらっしゃらなかった。昨日の土曜日は、写真塾の塾生も参加できる講座を聴講する予定があって、それが夕方からの開始なので、その前にもう一度写真展に出向いてみた。写真展の最終日には、出品作品のひとつひとつに先生が講評するならいになっていたから、その時間までには必ず会場に顔を出されるに違いないと踏ふんでいたのだ。そして予想通りの結果となった。

「つたない写真ですが」
と言って手渡すと、
「おーおッ」
という声をあげて破顔一笑、そういう反応の仕方も去年何回か目にしたものだった。とにもかくにも、これでやっと一年間気になっていたことの一つが片付いたのだった。

2010120007.jpg去年の写真展の会場の様子。
光の当たっているところに先生が座っていて、まるでスポットライトをあびているかのようだった。
posted by 里実福太朗 at 22:36| 写真

2010年12月10日

フランス語講座と写真展

2010120004.jpgフランス語講座は、前期・後期を合わせて20回の講義が終了した。先週はサイパン旅行で休んだので皆勤はのがしたが、それ以外に欠席することはなかったから受講回数は19回だった。二年がかりの講座なのでまだ半分、来年度も悪戦苦闘は続く。

講義終了後、先生の文学部の授業が終わるのを待って、近くのケーキ屋さんの喫茶コーナーで親睦会があった。

親睦会が始まるまでの間、大学付属施設のギャラリーで行われている、写真教室の受講者による写真展をのぞいてみた。出品者の中には、去年の受講者の名前もあった。

2010120006.jpg 2010120005.jpg
posted by 里実福太朗 at 11:30| 里ふくろうの日乗

2010年12月09日

サイパンへの旅(1)

2010120001.jpg先週の今ごろは、サイパン国際空港の入国手続きを終えて、ホテルに向かうバスの中にいた。あれからもう一週間経ってしまったわけで、サイパンで過ごしたわずかな時間の記憶は、情けないことにはやくも薄れてきてしまった。

このままではパソコンに取り込んだ写真に写っている場面だけが、サイパン旅行の思い出になってしまいそうだから、今のうちにそういった写真を見返しながら、うたかたの夢のような時間を手元に引き戻しつつ、サイパンの旅行記を少しずつ書きつづっておくことにしよう。

何日か前から朝日新聞の夕刊に、『65年目の「遺言」』という記事が連載されている。団塊の世代はじめとして、戦後生まれの戦争を知らない世代が、人口の大半を占めるようになった今、こういった企画は何度でも繰り返すことが大切であるに違いない。このシリーズが始まってから、そのうちサイパンのことも取り上げられるのだろうと予想していたが、4回目の今日、その通りになった。

記事は、サイパンで米軍と戦いながらもかろうじて一命を取り留め、投降した元陸軍兵長の証言をもとに構成されていた。1944年6月15日に米軍が上陸、7月6日の夜に玉砕覚悟の総攻撃を開始した。砲弾を受けながらも奇跡的に命をとどめ、北へと敗走して行く。北の果ての岬では、追い詰められて逃げ場を失った人々が、米軍の呼びかけを聞き入れず、後に「バンザイクリフと命名された崖の上から身を投げるのを目の当たりに見た。

2010120002.jpg


米軍が上陸したのは、ススペとガラパンのちょうど中間あたりだったそうだ。今回宿泊したススペの「サイパン・グランド・ホテル」前には、サラサラとした白い砂浜が広がっていた。南北にのびる海岸線には同じような砂浜が続いているのだろう。もちろん過酷な戦闘が繰り広げられた65年前にも…紺碧の海を前にしてその砂浜に立つと、いくら想像力をかき立てても、そこに兵士たちの姿を思い浮かべることは難しい。

2010120003.jpg


実は当初、目的地はサイパンではなかった。去年同様ヨーロッパに行きたいと思っていた。しかし諸般の事情により、主として経済的な理由からだけれど、それを断念して格安ツアーでサイパンに行くことにしたのだった。つい最近のこと、ヨーロッパは寒波に襲われて、ドゴール空港は閉鎖されたそうだから、何がさいわいするか分からないものだ。

それはともかくとして、サイパンに行くからには激戦のあった地を訪れ、死者を弔い平和への願いをあらためて祈念しなければならないと思うに至ったのだった。そのようなサイパンの旅から戻って来て、サイパンの戦闘で生き残った人の記事を読むというのも、何かのめぐり合わせのような気もする。



posted by 里実福太朗 at 11:30| フォト紀行

2010年12月05日

さよならサイパン

SNC00306s.jpgあさまだきの午前3時半、ホテルのロビーには、クリスマスソングが流れている。サイパンともいよいよお別れです。
posted by 里実福太朗 at 02:39| フォト紀行

2010年12月04日

旧日本人墓地

SNC00301s.jpgホテルから歩いて15分ほどの所に、旧日本人墓地があった。今でもりっぱな生花が供えられ、きれいにととのえられていた。
posted by 里実福太朗 at 20:04| フォト紀行

島内めぐり

午前中は島内めぐりで、かつて激戦が繰り広げられた地を訪ねた。

大戦終盤、サイパンに上陸した圧倒的戦力を有するアメリカ軍に、北へ北へと追いやられ、島の北の果てまで追い詰められた人々は、捕虜となることへの恐れから、ついには美しい海を見下ろす絶壁から身を投げた。天皇陛下万歳と叫びながら飛び降りたからバンザイクリフとよばれるようになったという説があるけれど、実際にはそういうことはなかったらしい。想像するに、飛び降りたときの格好が、万歳する姿に似ていたからなのかもしれない。身を投げた民間人の数は、二千人近くにのぼったらしい。

見学会に参加したのは二十人ほど、若い人の姿が多かった。
posted by 里実福太朗 at 16:58| フォト紀行

鎮魂碑

SNC00298s.jpgSNC00297s.jpgおはようございます。
サイパンは第二次大戦の激戦地、多くの人命が失われました。それらの人々の魂鎮めのために設けられた鎮魂碑が、ホテルの敷地内にも二ヵ所にありました。

今朝8時(日本時間7時)頃、虹がかかりました。
posted by 里実福太朗 at 07:42| フォト紀行

2010年12月03日

サイパンより

SNC00289s.jpgSNC00290m.jpg本日は快晴。
12月のサイパンは蒸し暑い。

昨日の深夜にホテルに着く。フロント前には、クリスマスツリーが飾られていた。

今朝は一番で、ホテル近くのスーパーマーケットに行き、朝食などを買い入れて、ホテルの部屋で食事。

夫人は免税店に行ってくると言って、部屋を出ていった。気合いが入っている。

陽射しが強く、プールの周囲に人がちらほらいるだけで、海で泳いでいる人はいない。
posted by 里実福太朗 at 12:31| フォト紀行

2010年12月02日

成田からサイパンへ

SNC00287s.jpgSNC00286s.jpg成田空港で、デルタ航空サイパン行きの搭乗待ち。
posted by 里実福太朗 at 18:49| フォト紀行