2011年10月30日
自由ネコ「ポン太」の日常(1)
近ごろは、フランス語講座からの帰途、必ずといっていいほど、とある公園に立ち寄っている。その公園に住み着いている自由ネコたちの姿を、写真に撮らせていただくためである。
何回か通ううちに、その中の一匹、白黒の毛並みのネコと親しくなった(当方が一方的にそう思い込んでいるだけかもしれないが)。写真を撮っていると、たまに公園の事情に詳しい不思議な人と出遭って、話を交わすこともある。ある時その人から、白黒ネコの名前を教えてもらった。ネコといえど、実名を明らかにするということは、プライバシー尊重の観点から避けるべきである。そこで、「ポン太」という仮名で彼を呼ぶことにする。なお、実名の名付け親は不明だということだ。
そのフクポン太と接するうちに、彼との意思疎通がはかれるようになってきたのだ。そんなバカなことはあり得ない、とお思いになる方がいらっしゃるかもしれないが、事実なのだから信じていただくより仕方がない。
以下は、そのポン太が、自らの日常を、とはずがたり風に語っていくのを聞き書きした文章である。
今日も、日が暮れていく。昨日もこの金属製のクイに寄りかかって、暮れゆく空を見ていた。その前の日も…、こんなふうに眺めるだけの暮らしが、毎日繰り返されていく。
陽が西に傾き始めたころ、オレは、何人もの人間どもに囲まれていた。人間が座るときのように、体を起こして遠くを眺めていると、またたく間に四・五人がオレを取り囲んで、
「まるで人間みたい」
と口々に叫んで、ケータイなどで遠慮会釈もなく撮り始めたんだ。以前は癇にさわることもあったけれど、近ごろはもう慣れっこになってしまって、人間どもの好きなようにさせているんだ。
ただし、手を出してオレに触ろうとする輩には、こちらだってそれなりの対応をする。たしか先週だったと思う。今も目の前にいる一眼レフを首からさげた背の高い男が、オレ様に触ろうとしたから、その男の手を、右の手でポンポンとたたいたら、すぐ手を引っ込めたっけ。
もちろん爪は隠したままだったけれどね。爪を立てて怪我でもさせようものなら、あのネコは凶暴だという噂がすぐにたつ。そうなると、一番の心配は、エサをくれる人がいなくなってしまうかもしれない、ということなんだ。だから、命に関わる場合以外は、爪で引っ掻くことはしないことにしているんだ。公園で生き延びていくための知恵だね。
男に触られるのはイヤだが、女性、とくに若い女性の場合は、拒否しないようにしている。若い二人連れが目の前をよく通るが、オレに近づいてくるのは、だいたいのところ女性の方なんだ。男の方は、
「引っ掻かれるから、やめといた方がいいよ」
なんて余計なことを言う。そんな時は、安心させるために、猫なで声で、
「ミャー」
と鳴いてみせると、近寄ってきて撫でてくれるんだ。撫でてもらうと、黒い毛の部分のツヤが増すような気がする。そういうこともあって、女性の場合は、撫でられるのを拒まないようにしているんだ。
さて、座っているのは、ネコ族にとっては不自然な姿勢だから、とても疲れる。観客が多いときは、オレもサービス精神を発揮して、長い間、その格好で座っているから、人間どもが飽きていなくなると、とたんに気が緩んで疲れがどっと出る。疲れが極まった時にゃ、ゴロンと横になってしまうことだってあるんだ。
公園で自由気ままに暮らす我々のことを、うらやましげな目で眺めて通り過ぎる人もいるけれど、自由と思われている生活にも、それなりの苦労があるんだ。自由な境遇には、かえって不自由な面があることを知ってもらいたいね。
posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ
2011年10月29日
八鶴湖の今
八鶴湖は湖水が干上がり、とうてい湖とは呼べそうにもない変わり果てた姿をさらしていた。去年行ったときは、湖底に堆積した汚泥をさらうため、水が抜かれて水面が低くなっていたが、それでも湖と呼べるだけの水量は維持していた。ところが、今回は、湖底がすべて露出してしまっていた。
そんな状態になったことで、一番喜んでいるのは鳥たちなのかもしれない。何羽ものシラサギがエサをついばんでいた。ところどころに細い水の流れがあり、そこに小さな魚がいるらしい。
昼食は、「東京庵」でお蕎麦を食べるつもりだったが、あいにく木曜日は定休日だった。ほかの店を探して歩いてみたが、東金駅の北側は、シャッターをおろしている店が多く、なかなか見つからない。以前、アカイヌ王国のお二人と歌碑参りをした際、アジアン風のお店に入ったことを思い出し、八鶴湖近くのその店に行ってみることにした。さいわいなことに営業していた。
一人で接客していたお年寄りと言葉を交わす機会があり、八鶴湖のことを聞いてみた。老女が言うことには、湖水の浄化費用を捻出するためのカンパに、なにがしかの金銭で応じたが、その甲斐もなく工事はいっこうに進んでいない、ということだった。
こんな話も聞かせてくれた、東金には、外国人がいなくなった、と。放射能が怖くて、みな逃げ出していったらしい。東金は佐倉よりずっと南にあるから、高線量の放射能に汚染された風が吹くことはなく、同様の雨も降らなかったと思われるのに…ただ彼女の話が、どの程度の信憑性があるのかは分からない。
念のため、東金の線量を調べてみた。
測定場所は、幼稚園・小学校・中学校・公園などである。
(単位は、マイクロシーベルト/時)
〔5月31日〕
最大値:0.17(地上1m)
最小値:0.09(地上0.5m)
〔10月3日〜10月12日〕
最大値:0.10(地上0.5m)
最小値:0.05(地上1m)
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2011年10月27日
東金・御殿山の歌碑詣
久しぶりに車で遠出した。遠出といっても東金までだから、せいぜい1時間半ほどのドライブではあるが、近頃は長距離を走ることがめっきり少なくなったから、やはり気持ちの上では遠出という感じになる。
例年、夏は、八ヶ岳山麓のアカイヌ山荘にお邪魔して、その際墓参りをするのが常となっていた。しかし今年は、姉の入院そして他界ということがあり、とうとうその機会を逸してしまった。
行かないままで気持ちに納まりがつけばよいのだが、時おりそのことを思い出すことがあって、そのたびに甲府まで車を走らせてみようかと思ったりする。しかし、首都高を抜け、中央高速にのって甲府まで行く行程を思い浮かべると、すぐさま億劫になってしまう。ドライブは嫌いな方ではなく、こんな気持ちになるのは今までにないことだった。
甲府まではダメでも東金までなら大丈夫だろう、墓参りは無理でも歌碑参りならできそうだ、ということで思いついたのが、東金の御殿山に建つ父親の歌碑に詣でるということだった。
東金行きは、当初、今週の月曜日を予定していたが、天候不順のため今日に延期した。延期して良かった。快晴に恵まれ穏やかな秋日和となった。ただ、心配な点が一つあった。去年、東金に行ったときは、折り悪く御殿山で何かの工事があって入山できなかったのだ。工事が一年以上続くことはないにしても、東日本大震災の影響で、入山が規制されているかもしれない。
幸いにして、その心配は杞憂だった。山への入り口に設けられた門は、半分だけ開いていた。その閉ざされた片側の門には、次のような張り紙があった。
『左側は壊れているので開けないで下さい。』
地震のせいで壊れたのかどうかは分からないが、ともかく山に入ることはできたのだった。
石碑群を右に見ながら、山道を登る。そして山の中腹に至れば、急斜面を背にして建つ歌碑は、あの地震の激しい揺れにも耐えて、以前と変わらない姿をとどめていた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2011年10月26日
北杜夫さん逝去
作家の北杜夫さんがお亡くなりになったことを知ったのは、お昼近くのニュースを見ているときだった。メディアで伝えられたのは今日のことだったが、亡くなられたのは溯ること二日、24日午前6時2分、腸閉塞により東京都内の病院でのことだったそうだ。84歳だった。
北杜夫文学の愛好者の多くはそうであるのかもしれないが、私にとっても特別な意味を持つ存在だった。初めて手にした著作は「ドクトルマンボウ昆虫記」、まだ吉祥寺に住んでいる頃のことだった。爾来、新刊が出れば必ず買い求めていた。今まで漫画の世界にどっぷりと浸っていた人間を、活字の世界に誘い、そして、文学の世界にも導いてくれた人であったと言っても良いだろう。
いろいろと思い出すことはあるけれど、短時間でまとめることはできそうにもない。今はただ、ご冥福をお祈りすることだけにとどめ、YouTubeに投稿されている映像を載せておくことにする。昨年の春、「どくとるマンボウ昆虫展」が北杜市で開催された。その際に行われたインタビューを記録した映像で、2010年2月21日にアップロードされている。
【どくとるマンボウ昆虫展】
場所:北杜市オオムラサキセンター
開催期間:2010年1月9日〜2010年3月28日
http://www.museum-kai.net/museum_home/47/event,335
【北杜夫】YouTubeより
posted by 里実福太朗 at 23:40| 里ふくろうの日乗
木枯らし一号とゴーヤー
気象庁の発表によると、午後4時58分、北西の風が最大瞬間風速15.0メートルを記録したそうだ。この風が、東京地方での木枯らし一号となるらしい。
快晴の今日は、昨日とはうって変わって気温が下がり、秋らしい穏やかな一日だった。東京地方に木枯らしが吹いたのは夕方、その頃は庭で水まきをしていたから、木枯らしが吹けば気づいたはずだが、冷たい強風に見舞われたことは印象に残っていない。
念のため「tenki.jp」で確認してみたところ、午後5時の佐倉は、北北東の風、風速2m/sだった。
http://tenki.jp/past/detail/pref-15.html?year=2011&month=10&day=26
(観測地点:佐倉)
ゴーヤーの葉の多くは、しおれて茶色に変色してしまった。ところが、昨日のような気温の高い日があると、再び元気を取り戻してツルの細胞分裂が始まり、うす緑色の若々しいツルが伸びてくる。そして、花が咲き、子供まで生まれてくる。ただ、大きく成長することはない。
葉がすべて落ち、花も咲かなくなったら栽培ネットをかたづけようと思っているのだが、いまだに夏日があって、その度にゴーヤーは息を吹き返すから、なかなかその機会が訪れない。今日は気温が下がったが、来週以降は、また気温が高い状況になるそうだから、ネットを片付けるのはもう少しあとのことになるかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗
2011年10月25日
帯状の奇妙な雲
午後3時頃、晴れ渡った空の東から西に向かって、細い帯状の雲が伸びていた。帯は西に伸びるに従って次第に細くなり、針先の先端を思わせる姿を呈して終わる。この奇妙な雲は、何かの前兆なのだろうか。「宏観現象画像掲示板(http://www3.ezbbs.net/10/0011798/)」を見ると、異常な雲と感じた人が多かったようで、同じような雲の写真が投稿されていた。
posted by 里実福太朗 at 23:20| 里ふくろうの日乗
2011年10月24日
2011年10月23日
上総堀り
「上総堀り」とは、その名称通り上総地方が発祥の井戸掘り技術のことである。以前、久留里城を訪ねたとき、久留里城址資料館に立ち寄ったことがあった。その資料館に、上総堀りの用具が展示されていた。興味を持っていたというわけではないが、写真に撮っておいた。
今日は自転車に乗って、いつもとは違った道を谷津田に向かった。その途中の道路脇に、「上総堀り」と染め抜かれたのぼりが立てられていた。はて、ここは下総、どうしてそんなところに上総堀りののぼりが立っているのだろう、そんな疑問が浮かんでくるのは当然のことである。
のぼりに導かれて、脇道を奥へと入っていた。しばらく歩くと視界が開けて、その先には久留里で見たあの上総堀りのやぐらが目に入ってきた。そのやぐらの周囲には、忙しそうに立ち働く人やそれを見ている人、取り混ぜて5・6人の人たちがいた。見学のことわりを入れ、写真を撮らせていただいた。
しばらくしてから、そのグループの代表とおぼしき人が、いろいろと説明してくれた。
・会の名称は「上総堀り伝承の会」。
http://www.ntv.co.jp/burari/080308/info05.html
・八千代市からの補助で活動していること。
・いろいろな所で掘ったことがあり、この場所での井戸掘りは4月から始めたこと。
・26メートル位まで掘り進んだこと。
・毎週、土・日に作業をすること。
・自由参加であること。
これ以外にも、道具の説明、井戸掘りの仕組みなども説明してくれた。
上総堀りに関しては、「君津地方歴史情報館」というサイトにも解説が載っている。
【久留里歴史散歩】
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub2.htm
posted by 里実福太朗 at 23:40| 里ふくろうの日乗
2011年10月20日
カタクチイワシが夜のお供
夜中近くなってくると、腹が空いてきて、口寂しくなってくる。そこで菓子などに、ついつい手が出てしまう。しかし糖分の摂りすぎは、体に良いことはない。体の中心部が、日に日に突き出ていくことは目に見えている。
お菓子以外のもので腹の虫をなだめることはできないだろうか、そのことが長い夜を過ごす際の難題だった。過日、ヒョンなことで一つの解決策がみつかった。スーパーで「食べる小魚」として売られていたカタクチイワシが、夜のお供にふさわしいということが分かったのだ。
包装袋には、「おやつやおつまみとしてそのままお召し上がりください」記されている。カルシウムがたっぷり含まれているから体にも良い。少し堅いから、自ずとよく噛むことになって、アゴの筋肉を鍛えることにもつながる。高価ではないことが、さらに良い。
ただ、最初は、夜のおやつとして買い求めたのではなかった。近頃、カメラの被写体となってくれている公園ネコに、謝礼として贈ろうと思って買ったのだった。あくまでも謝礼としてであって、手なずけるためでないことは、もちろんなのである。
先週のこと、そのカタクチイワシを鞄にしのばせ、フランス語講座の帰りにくだんの公園に立ち寄った。お目当てのネコは、その日も自分の縄張りに陣取って、園内の通行人を見物していた。
「やあ、また来たよ」
と声をかけたが、チラッとこちらを見ただけで、すぐ視線を元の方向に戻してしまった。
「また写真を撮らせてくれるかな…今日は、お土産を持ってきたよ」
と言ってみても、片方の耳を少し動かすだけ、そこで、鞄から例のものを取り出し鼻先に置いてみた。すると、鼻を近づけて臭いをかいだ。かいだが、2・3回クンクンしただけで、結局口にすることはなかった。さぞ喜ぶだろうという思わくは、見事に外れてしまったのだった。
そんな結果になることは、実は、ある程度予想していた。というのも、先々週、たまたま言葉を交わすことになった人から聞いた話で、公園で暮らす自由ネコたちは、意外と食べ物には恵まれていることが分かったからだ。ネコを世話する人たちがいて、キャットフードなどを与えて食事の面倒を見ているらしいのだ。
そのことを教えてくれた人については、別の機会に書くことにして、ともかく、公園ネコの口はおごっていると思われる。だから、干からびた小魚などには見向きもしないのだ。かくして、ネコが口をつけなかったカタクチイワシは、「お気に入りのネコ物語」を読む人間様の、夜のお供になったのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:30| 里ふくろうの日乗
2011年10月19日
2011年10月16日
ギンナン拾い
昨夜から今日の午前中にかけて強い風が吹いた。風の音のせいなのかどうか、日曜日だというのに7時過ぎに目が覚めてしまった。床の中でしばらくグズグズしているうちに、昨日ギンナンを食べたことを思い出していた。
昨日は写真塾の撮影会で神代植物園に行き、その帰り道に吉祥寺で途中下車、とある居酒屋で、塾長先生を囲む反省会に相成ったのだった。その席で誰かが注文したギンナンが、ふっくらと丸みを帯びていて、もうギンナンが出回っているのかと思いつつ、一ついただいて口に含んだところ、しっとりとした粘り気を持つ実は、柔らかく苦みもなかった。
去年、強風が吹いた後、元日にお参りする神社にたまたま行くことがあった。境内が一面のギンナンで覆われていて、ギンナン拾いに熱中したことがあった。強い風が吹けば、ギンナンがたくさん落ちるのだ。
戸外で吹き荒れる風の音を聞きながら、昨日のようなおいしいギンナンを家でも食べたいものだ、そんなふうに思い始めると、食い気が眠気に勝って、いつもなら1時間ほどは床の中でウツラウツラしているというのに、はやる心に急き立てられて床を抜け出したのだった。
神社の境内は、ひっそりとして人影はなかった。去年は、数組の人たちが、ギンナン拾いにやって来ていたのに、境内の奥にも人の姿は見えない。人に邪魔されることなく、思う存分ギンナン拾いができるぞと喜んだのも束の間、境内に目を落としても、先ほど床の中で思い描いていた光景、地面を覆い尽くすギンナンの姿はそこにはなかった。
イチョウの樹上を見上げてみれば、梢の所々方々にはびっしりと黄金色の実がしがみついていた。イチョウの黄葉もまだ始まっていないのだから、当然と言えば当然のことなのだ。まだギンナン拾いには、早すぎたのだった。
しかし、神社の奥の小高い林に足を踏み入れてみたら、そこかしこにギンナンの実が落ちていた。ただ、茶色く変色したり傷んでいたりで、昨日今日落ちた実ではないようだった。過日の強風にあおられて、未熟な状態で振り落とされ、落ち葉の中に埋もれていたのだろう。
近頃は、放射性物質の線量のことがニュースでもネットでも盛んに取り上げられていて、雨水がたまるところ、落ち葉が降り敷くところの線量が高いなどとも言われている。そんなことが気にはなったが、夫人が持たせてくれた使い捨てビニール手袋をはめ、ギンナンをビニール袋に拾い集めたのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2011年10月14日
写真集「チェルノブイリからの風」
著 者:本橋成一
発行日:1993年4月26日
発行所:ポレポレタイムス社
発売元:影書房
定 価:1545円
旧ソビエト連邦、ウクライナ共和国チェルノブイリの原子力発電所4号炉で事故が発生したのは、1986年4月26日のことだった。その事故により飛散した放射性物質は広範囲の地域に及び、汚染された地域では多くの人たちが悲惨な状況に陥った。
ベラルーシ・ゴメリ州のチェチェルスクは、チェルノブイリから170キロメートルも離れている。しかし運が悪いことに、事故発生時に吹いていた風は、チェルノブイリからチェチェルスクに向かっていたのだ。そして黒い雲から落ちてくる雨が、その地を放射線物質で汚染したのだった。
写真集「チェルノブイリからの風」におさめられている写真は、チェルノブイリの原子力発電所から始まる。チェチェルスクの汚染地区では、事故後もなおそこに住み続けている人びと、村を離れることができないお年寄りたちの暮らしを見つめていく。
児童血液センターでは、子どもたちの痛々しい姿を目の当たりにして、写真機を構えようとする気持ちに迷いが生じる。つらい気持ちを押し殺して撮影したのだろう、白血病に冒された子どもたちを写した写真には、そんな写真家の苦悩がにじみ出ているような気がする。放射線物質は子どもたちの未来を奪い、ひいては人類の未来を奪ってしまうことを改めて思う。
「フクシマからの風」が運んできた放射線物質、それに汚染された地域に住む人びとは、風向きが違っていれば、風が海に向かって吹いていれば、と思っているに違いない。
posted by 里実福太朗 at 01:52| 里ふくろうの日乗
2011年10月13日
最後のゴーヤーになるか
ゴーヤーの花はまだ咲いている。子どもも生まれている。ただ、大きく成長することはなく、小さいまま黄色に変色してそのまま朽ちてしまう。ところが、今日少し大きくなった実を三つ発見した。すでに先端の色が薄くなっていた二つを、すぐ収穫しておいた。少し小さめの残りの一つが、最後のゴーヤーになるかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 22:58| 里ふくろうの日乗
2011年10月12日
年間1ミリシーベルトを1時間あたりの線量に換算する
報道によれば、10月10日、環境省は国の責任で行う除染地域を、年間1ミリシーベルト以上とする基本方針を固めたそうだ。この年間1ミリシーベルトを、1時間当たりの放射線量に換算すると、どの程度の線量になるのだろうか。それが分からなければ、除染地域を確定できないはずなのだが…。
佐倉市ではすでに、「佐倉市放射性物質除染計画」を9月15日に策定している。それによれば、『子どもの生活圏における推定年間追加被ばく線量が1ミリシーベルトを下回ることを目指し、1時間当たりの空間放射線量を0.223マイクロシーベルト以下とすることを目標値として』対策を推進することになっている。
【除染計画の策定について】最終更新日:2011年(平成23年)9月22日
http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/jyosen_housyasen.html
この計画によれば、1時間当たりの空間放射線量が0.223マイクロシーベルト以下であれば、年間被曝量を1ミリシーベルト未満に抑えられるということなのだ。それでは、この「0.223」という数値は、どのようにして算出されたのだろうか。その点については、上記ホームページに詳しく示されている。簡単にまとめておくと以下の通りである。
0.033(自然被曝線量)+0.19(追加被曝線量)
=0.233マイクロシーベルト(μSv)
自然界に存在している放射線の量が「自然被曝線量」で、その値を0.033としている。また「追加被曝線量」とは、福島第一原発がまき散らした放射線の量のことで、その値は次のような考え方で算出されたものだ。つまり、1日のうち8時間を屋外で過ごし、屋内で16時間過ごすと仮定し、さらに、屋内での被曝線量は屋外の40%と仮定して得られた数値が、追加被曝線量の「0.19」なのである。
この年間1ミリシーベルトという値は、国の「追加被ばく線量除染に関する緊急実施基本方針」に基づくものだが、この国の方針は、国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年の勧告を参考にしていると思われる。
放射線事故など非常時に設定する参考レベル:20〜100ミリシーベルト
非常状況での避難参考レベル:1〜20ミリシーベルト
計画状況での公衆被爆に設定する拘束値:1ミリシーベルト未満
【2007 年ICRP 勧告(Publ.103)】
http://www.medicalview.co.jp/download/blue_yellow/2007ICRP.pdf
さて上記の計算は、屋外・屋内の滞在時間などの、仮定の条件に基づいて算出されたものなので、それらの仮定を排して、1ミリシーベルトを単純に1時間あたりの線量に換算してみることにする。
1000÷(365×24)=0.114
自然被曝量は「0.033」を用いて、それを加える。
0.033+0.114
=0.147マイクロシーベルト
一日中屋外にいることが1年間続くということは、かなり特殊な状況で、実際にはあり得ないことではある。だからこの数値を、非現実的で厳しすぎるという見方を示す人はいるだろう。一方で、放射線量は低ければ低いほど良いのだから、適切な数値だとする人もいるだろう。判断の難しいところだが、ただ事実として言えることは、もし「0.147マイクロシーベルト」を対策の目標値とすれば、佐倉市の除染対称地域はかなり増えるはずである。
【放射線量の測定について(第8報 9月30日実施分まで)】
http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/111006_housyasen.html
posted by 里実福太朗 at 23:30| 里ふくろうの日乗
2011年10月10日
席取り
フランス語講座の席は、特に決められていない。それぞれの受講者の好みの席の順に、先着順で埋まっていく。
この講座は午後の最初の授業、昼休みの時間は1時間だから、1時間前に着けば、教室に一番乗りとなるはずなのだ。座りたい席を確保するためには、1時間前に着くように家を出ればよいのだが、ただバスや電車の時間もあるのでピッタリというわけにはいかない。
4月から始まった春講座の時は、節電対策のため間引き運転となり、昼間の時間帯は普通電車だけが運行されていた。そのため、大震災前より15分ほど余計に時間がかかった。先々週から始まった秋講座では、すでに節電対策は終了して快速電車が復活していたので、12時10分過ぎ頃には着けるようになった。
この教室で授業を受けるようになってから、座る席はいつも決まっている。他の受講者も、30分ほど前に到着した人たちは、毎回同じ席に座っている。30分を過ぎるころから、ドアを開ける顔ぶれが週によって変わってくる。当然その人たちが座る席は、回ごとに異なる。
30分前までに教室に入る人たちがいつも座っている席は、いつの間にかその人の指定席となっていた。だから、本来先着順ではあるけれど、その人より早く到着しても、その指定席に座ることはなかなかできない。私がいつも座っている席だって、私より早く来た人が座ってもかまわないのだが、今までそのようなことが起こったためしはない。30分前までに来た人の間では、こんな不文律ができてしまっていたのだ。
秋講座から新たに加わった受講者が、そんな不文律があるとはつゆしらず、その禁をやぶってしまった。12時半を過ぎて、空いていた席は徐々に埋まってゆき残り少なくなっていた。その中には、ある人の指定席も含まれていた。そこは新入生も好む場所だったようで、目星をつけて腰を下ろそうとした。まさにその時、ドアが開いてひとりの受講生が入ってきた。そして自分の指定席を見た時、彼は足を止めてその場を動こうとしなかった。
新入生は、不穏な空気を感じ取ったのだろう、ドギマギしながら席を譲ろうとした。誰かが、「先着順だから、どこに座ってもいいのよ」と言ったが、結局他の空いている席に移った。
こんなことがあったものだから、前回は、いつも通り12時少し過ぎに着いたけれど、自分の指定席には座らずに、他の席に座ってみた。そして以後、玉突き状態で席が埋まっていった。
実は、席取りのことでこんな苦労をするのも、それが最後となった。次回からは、先生が手を回してくれて、めでたく大きな教室に移れることになったのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:30| 里ふくろうの日乗
2011年10月08日
谷津はバッタの天国
谷津田は稲刈りが終わり、黄金色に輝いていた稲穂はすっかり姿を消していた。稲からバトンを引き継いで植えられているものは、まだ背丈が低くその正体が分からない。稲刈りの終わった田に、再び水を引いて育てているのは何だろうか。
あぜ道には草が生い茂り、その中に足を一歩踏み入れると、バッタが次々と飛び跳ねて空中を舞っていく。谷津田は、バッタたちの天国になっていた。足を止め腰を落とせば、逃げ遅れたのか、それとも逃げるまでもないと思ったのか、まっすぐに伸びた茎にしがみついているバッタの何匹かを見いだすことができる。
身近に起きた異変には気づいているのだろう。ソロソロと手をのばしてみると、いち早く危険を察して、発達した後ろ脚が伊達ではないことを教えてくれる。バッタと仲良くなるためには、焦ってはだめなのだ。
すぐに手をのばさず、その場にしばらく身を置き、バッタの警戒心を解いてからおもむろに手を近づけてみる。そうすれば、バッタは決して逃げようとはしない。それだけでなく、指先でなでようと、こづこうと、体を少し動かして煩わしい手から逃れようとするだけなのである。
posted by 里実福太朗 at 23:30| 里ふくろうの日乗
ゴーヤーはまだ頑張っていた
葉がしおれて茶色になり、せっかく生まれた子供の実は、大きくなることなく黄色になり、ゴーヤの季節はもう終わりだなと思っていた。ところがさにあらず、久しぶりでゴーヤーの様子を確かめてみたところ、ツルはまだのび続け、黄色い花が咲き、つぼみも生まれていた。そして、一つのゴーヤーが大きく育っていた。
posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗
2011年10月05日
会津若松と佐倉の放射線量
ミステリーツアーの目的地は、福島県だった。「フクシマ」と聞くと、福島の人には申し訳ないことだが、どうしても原発事故のことが思い起こされ、放射線量のことが心配になってしまう。
裏磐梯や会津若松は、福島第一原発のほぼ西の方に位置している。水素爆発により原発建屋が吹き飛ばされ、放射線が広範囲にまき散らされた直後の風の向きから推測してみれば、福島県の西部地域は、高線量の放射能風にさらされることはなかったと思われる。目的地が会津若松方面ということが分かってからは、そんなふうに思っていた。
好天に恵まれた連休中なのに、高速道路は渋滞なし、立ち寄る観光地も混雑している様子は見えず、「フクシマ」から西に遠く離れていても、原発事故の影響を被っていることは容易に想像できた。
「裏磐梯猫魔ホテル」から歩いて数分の桧原湖の駐車場には、ほとんど車はなく、ボート乗り場も閑散としていた。
二日目、最初に訪れたのは五色沼の一つ、毘沙門沼だった。集合写真を撮ってから、写真屋のおじさんが、五色沼の散策の仕方について、一くさりぶったのだが、その話の中で、ミステリーツアーのバスが、今年に入ってからちょうど320台目の観光バスで、その数は去年の10分の1にも届かないと歎いたのだった。
家に帰ってから、福島県の線量を確認してみた。以下の数値は、朝日新聞朝刊に掲載された9月26日の測定値である。
浪江(赤字木):15.9
浪江(下津島):7.1
館:2.151
福島:0.95
郡山:0.86
南相馬:0.41
白河:0.41
会津若松:0.14
南会津:0.08
(単位:マイクロシーベルト/時)
また会津若松市でも、毎日3回、同一地点で大気中の放射線濃度の測定を行っている。
【環境放射線測定値について】
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/ja/joho/kankyo/radial/radial_201109.htm
それによると、9月26日の測定値は以下の通りだった。
〔9月26日〕
9:00 曇 0.14
12:00 曇 0.14
15:00 曇 0.13
3月の線量を確認してみると、15日午後から増加しているのが分かる。
【環境放射線測定値について(平成23年3月分)】
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/ja/joho/kankyo/radial/radial_201103.htm
〔3月15日〕
9:00 曇 0.07
12:00 曇 0.07
15:00 曇 0.16
〔3月16日〕
9:00 雪 0.63
12:00 雪 0.61
15:00 晴 0.59
〔3月17日〕
9:00 晴 0.54
12:00 晴 0.42
15:00 雪 0.40
佐倉市の線量と比較してみよう。佐倉市の線量は、地区によって違いがあるので、最大値・最小値を拾っておくことにする。
【放射線量の測定について(第7報 9月14日実施分まで)】
http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/110922_housyasen.html
(地上1m)
最大値:0.293
最小値:0.058
(地上50cm)
最大値:0.279
最小値:0.064
(砂場5cm)
最大値:0.247
最小値:0.054
会津若松市のデータは、調査位置の高さが不明ではあるが、大ざっぱにみて、両者の線量に大きな違いはないと言ってもいいだろう。
なお、佐倉市の「除染計画」によると、『子どもの生活圏である保育園、幼稚園、小学校、中学校等のうち、対策目標値(1時間あたり0.223μSv)を超える値が検出された次の施設の詳細調査を実施し、必要に応じた対策を講じ』ることになっている。
【除染計画の策定について】
http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/jyosen_housyasen.html
posted by 里実福太朗 at 02:47| 里ふくろうの日乗
2011年10月03日
樹上の天国
例のネコが縄張りにしている場所では、肩からカメラをつるしている人が、何人か見受けられた。かなり有名になっているのかもしれない。広く知られるようになってくれば、ネコの安住の地として存続するのが難しくなってしまうかもしれない。
そのネコは、いつも人目につきやすいところにいるから、通りがかりの人にいじめられることもあるのかもしれない。実際にそのようなことがあったのだろうか、こんな注意書きが設けられている。
利口なネコは、いじめられるおそれのない樹上に、安定した状態で体を支えてくれる枝振りの良いところを見つけて、だらりと身をまかせて、平和な眠りをほしいままにしている。ただ、棒で突こうとする輩もいるから、もっと高いところに引っ越した方がいいかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 23:46| 里ふくろうの日乗
2011年10月01日
自由ネコとの接し方
フランス語講座の終了後、久しぶりで都バスを使って上野まで出た。例のネコにちょっと挨拶していこうと思いつつ、池のほとりを歩いて行くと、違うネコのグループに遭遇した。挨拶せずに通り過ぎるわけにもいかない。
初対面のネコとの接し方は、なかなか難しい。ましてや自由ネコの場合は警戒心が強くて、カメラを向けただけで、すぐに逃げ出すことができるように身構える。そういうときは一歩でも近づくとすぐに逃げられてしまう。
そういう警戒心の強いネコとお近づきになるには、ちょっとしたコツがある。エサをやりながら近づこうと試みている人を見掛けることがあるが、それは邪道である。ネコに危険人物というレッテルを貼られないようにするためには、彼らが守っている縄張り空間に、時間をかけて徐々に溶け込んでいくのが、遠回りのようではあるが確実なやり方なのだ。
ただし、その方法でいつも成功するとは限らない。いくら時間をかけても、決して心を許そうとしないネコもいる。そういうネコとは相性が悪いのだと思って、いったんはお近づきになることは諦めた方がよい。
posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ