2012年02月29日

沖縄入門ツアー初日(2)…参加者・ホテル・食堂

那覇空港に着いたのは、夕闇迫る午後6時頃だった。沖縄の空も、雲に覆われていたが、気温は20度を超えていて、寒い日が続いていた関東地方に比べればまさに別天地のような暖かさだ。厚手のセーターなどはもう必要なく、すぐに旅行カバンにしまい込んだ。

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ツアー参加者は47名、韓国やフィリピンの人たちの顔が見えたり、二十代のギャル系あるいはイケメン系の若い参加者もいて、今までのツアーとは違ってバラエティーに富んだメンバー構成だった。

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また、たった一人で参加した高齢の女性もいた。今までも一人で参加した人の姿を見ることはあったが、今回のような高齢者はいなかった。ツアーの単独参加者には、特に食事の時など、たった一人で黙々と食べている後ろ姿に、孤独の影が見え隠れして、こちらまでが物寂しい気分に引き込まれてしまうものだ。まして高齢の女性ならばなおさらのことだ。

どんな事情があってのことだろうか、それを知りたいのは山々だが、赤の他人が行動を共にするツアー旅行では、身の上を詮索することは御法度なのだ。言葉のやりとりの自然な流れの中で分かったことは、船橋のとある団地にお住まいだということだけだった。

さまざまな顔で埋め尽くされたバスは、初日の宿泊先のホテルに向かった。あの元谷芙美子女史が社長をつとめる「アパホテル那覇」は、いわゆるビジネスホテルという範疇に入るのだろう。ツインベッドが二つ置かれた部屋は、パリのホテルと同じくらいの広さで、格安ツアーだからそれは仕方がないとしても、ビジネスマンたちが残していったさまざまな臭いがこびりついている室内は、用意されていた消臭剤を噴霧してもあまり効果がなかった。

夕食は、バスの中で女性添乗員が教えてくれた食堂でとることにした。添乗さんによれば、沖縄料理の店「みかど」は、夜の八時までに入れば、代金は半額になるということだった。部屋に荷物をおいて一息つけば、もう七時を回っていた。荷物整理は後ですることにして、まずは夕食、ホテルからわずかな距離の所にある食堂「みかど」を目指した。

道に迷うはずもなく、店の前に立ったのは八時前だった。やれやれとドアを開けて店内を見れば、顔・顔・顔…の満席、皆さん注文し終わって、料理が出てくるの待っている風情だった。待つにしても、なかなか席が空きそうにもないのは自明だった。次の日添乗さんが言うことには、
「昨夜は、『みかど』に五組のツアーの人が行ったそうです」

「みかど」はあきらめて、添乗さんが教えてくれたもう一つの店「三笠」に行ってみることにした。半額サービスがないためか、こちらの店には、空席があった。

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夫人が注文した「とうふチャンプルー」は500円、当方は550円の「牛肉とナスの味噌煮」を注文した。ともにボリュームがあって、とてもおいしかった。ただ難点は、単品で注文したくても、ライス・味噌汁付きの料金と同じという点だ。言い換えれば、すべてライス・味噌汁付きなのだ。

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なお、「みかど」・「三笠」共に24時間営業ということだ。

posted by 里実福太朗 at 23:55| フォト紀行

雪が降ってる

ここ佐倉地方でも、早朝から雪が降り始め、今(13時50分頃)も降り続いている。

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posted by 里実福太朗 at 12:53| 里ふくろうの日乗

2012年02月28日

沖縄入門ツアー

息子がインフルエンザにかかった時は、同じ屋根の下に暮らしていれば、こちらが感染するのは時間の問題、もしそうなれば沖縄旅行は取りやめとなる、という具合に悲観的にならざるを得なかったが、幸いなことに最悪の事態は回避することができた。

参加したツアーは、「国際通り」から始まり(オプション:知念半島…新原(みーばる)ビーチ、おきなわワールド…玉泉洞)、「首里城公園」、「DFSギャラリア」で終わるという極めてオーソドックスなコースで、沖縄を初めて訪れる人むきの内容だった。ただ、平和記念公園・ひめゆりの塔などの戦跡は、行程に組み込まれていなかった。

佐倉から羽田空港までは、昨年12月の北海道旅行と同様、高速バスを利用した。北海道旅行の際の帰路は、搭乗予定の便が整備不良で欠航となったため、羽田に着いたのが深夜となり、高速バスは利用できなかった。今回は、復路も高速バスを利用することができた。

京成津田沼駅前から羽田空港の第一ターミナルまでの所要時間は、渋滞を避けて一般道を利用した区間があったため、予定時間よりかかって、約70分だった。なお帰路は、順調に走行して、所要時間は50分ほどだった。

家を出た時から、雨模様だった。羽田空港に着いた時も、雨が降っていた。定刻通りに出発したJAL便が、高度を上げていくと、機体は雨雲に包まれて視界がまったくきかなくなった。しかしそこを抜けると、うって変わって雲一つない真っ青な空が広がっていた。そして沖縄旅行中、口惜しいことに再びこのような青空を見ることはなかった。

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posted by 里実福太朗 at 23:50| フォト紀行

2012年02月26日

首里城正殿

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気温16度、小雨降る首里城公園より
posted by 里実福太朗 at 11:33| フォト紀行

2012年02月24日

琉球村

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posted by 里実福太朗 at 15:44| フォト紀行

玉泉洞

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posted by 里実福太朗 at 15:42| フォト紀行

おきなわワールド

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出発時間に遅れる人がいて、添乗さんが走り回っています。沖縄に来たからといって、沖縄時間に染まらなくてもいいのにネ−、今までのツアーにはなかった現象です。
posted by 里実福太朗 at 15:39| フォト紀行

2012年02月23日

今夜は那覇泊

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那覇はくもり、気温は20度程度、昼間は22度まで上がったそうだ。関東では、今年の桜は開花が遅くなりそうだと言われているのに、那覇の桜はすでに散ってしまったそうだ。

オプションの夕食は5000円、とてもそんなぜいたくはしていられないので、添乗さんがおしえてくれたホテル近くの食堂に行ってみた。これが当たりでした。やはり地元の人は、安くておいしい店を知っている。

夫人がたのんだ「とうふチャンプルー」は500円、当方がたのんだ「牛肉とナスの味噌煮」は550円、ともにボリュームがあって、とてもおいしかった。

店名は「三笠」、24時間営業です。
posted by 里実福太朗 at 21:34| フォト紀行

羽田空港から南の島へ

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あいにくの雨の中、高速バスで羽田空港に到着しました。途中渋滞に巻き込まれましたが、それでも1時間10分ほどで着きました。
今年初めての旅は、南の方へ行きます。
posted by 里実福太朗 at 14:06| フォト紀行

2012年02月22日

ポン太や、ポン太…どこ行った

すでに二週間以上、ポン太の姿を見ていなかった。先週、公園に立ち寄った時は、またモミジとミコの姿を見るだけだった。ポン太が新たに縄張りとした地域に行ってみたが、ネコ一匹はおろか、いつもはそこでエサを与えているおじさんの姿も見えなかった。

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ひっそりと静まりかえったその辺りは、以前とはまったく別な雰囲気を漂わせていた。その時どこからか、かすかに「ミャー」という鳴き声が聞こえてきた。もしや、と思って耳をすましてみた。この前のように、近くの植え込みから姿を現すかもしれないと待ち受けていたが、待てども姿を現すことはなかった。

また「ミャー」という鳴き声が聞こえた。今度ははっきりと聞こえてきて、その方角が分かった。ただその鳴き声は、池を渡って聞こえてきたものだった。となると、ネコの鳴き声ということは考えられない。鳥の鳴き声なのだろうか。ウミネコの鳴き声を、ネコと聞き間違えたのか、しかしこの辺りにはウミネコはいまい。それでは、ユリカモメの鳴き声だったのだろうか。

鳥の鳴き声を、ネコの鳴き声と聞き間違えるようでは、ネコを愛玩する情が膏肓に入り始めたということなのか。あの内田百閧ウんが、愛猫「ノラ」を失った顛末を書いた随筆「ノラや」を思い出すけれど、いくらなんでもそこまで、嘆き悲しんでいるわけではない、と自分では思っているのだが…

今週はちょっとした用事があって、フランス語講座は欠席する予定だ。だから、その帰途公園に立ち寄ることはない。そこで思い立って、いつもとは違う曜日に行ってみた。しかしまたもや、ミコとカエデはいたが、ポン太はやはりいなかった。

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ポン太が新たに縄張りとした地域にも行ってみた。すると先週と同じように、「ミャー」という鳴き声が聞こえてきた。また水鳥の鳴き声を聞き間違えたのだろう、いよいよ百閧ウんのようになってきたのかもしれない、そんなことを思っていると、木陰からヒョイと黒い影が飛び出て来て、こちらに向かって小走りで近づいてきた。ポン太だった。

体は薄汚れ、鼻にはさらに傷が増えていた。縄張り争いにいったんは勝利しても、敵…つまりパンダ…に巻き返され、今も抗争は続いているのだろうか。目つきもかなり険悪さを増しているように感じられた。

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「ポン太」と声を掛ければ、「ミャーオ」と鳴く。ネコの記憶力の良さに、そして人を喜ばす術を心得ていることに、あらためて感じ入るのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:55| ねこ

2012年02月21日

有地訓写真展は明日まで

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展示の仕方か変わったということを聞きつけて、またアユミギャラリーに行ってみました。この展示の仕方が、最初の計画に沿った形なのだそうです。
なお写真展は、いよいよ明日をもって最終日を迎えます。
posted by 里実福太朗 at 17:26| 写真

2012年02月17日

有地訓写真展【BATANES】の侃々諤々

今日から、有地訓さんの写真展【BATANES】が始まった。フランス語講座の帰途、ちょっと気になることがあったので、昨日に引き続き、写真展会場のアユミギャラリーに足を運んでみた。

ちょっと気になったのは、写真展示の仕方なのだった。昨日、設営が終盤にさしかかったころ、会場を訪れた何人かの人の間で、展示の仕方について賛否両論の議論の嵐がわき起こった。

ある人曰く、
「写真を床においたのでは、せっかくのいい写真なのに、写真がかわいそうだ」と。またある人曰く、
「今までにない展示の仕方で、とてもおもしろい」
と。こんな具合に侃々諤々の意見が、ギャラリー内を飛び交ったのだ。

しばらくして、戸惑いの空気を私たちに残したまま、喧噪は去っていった。夜もだいぶ更け、いつしか外は雪に変わっていた。とりあえずそのままの状態で明日の初日を迎えることにして、家路についた。

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そして今日、いつもの金曜日のように、公園にも立ち寄ったため少し遅くなり、午後5時頃ギャラリーに着いた。

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展示の仕方はそのままだった。床には地面を写した写真が並べられ、バシー海峡に浮かぶ小さな島々、バタネスを旅した時に撮ったという額装写真が40点、額の底辺を床に置き、そのままの状態で壁に立てかけてあった。

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来場者の数が少ない時は、イスに座ってじっくり写真を見ることができる。イスに座った時の視線の高さが、床に置いた写真を見るにはとても適している。また、写真に取り囲まれている感じがして、ゆったりとした時間が流れるバタネスの暮らしの中に、あたかも身を置いているような印象さえ受ける。写真展の展示方法の定石を外すことで、今までにないような効果を生んでいると思うのだが…一度ご覧になって、そのあたりのことを、体感してみるのもいいのではないだろうか。

posted by 里実福太朗 at 23:50| 写真

2012年02月16日

有地訓写真展会場「アユミギャラリー」

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アユミギャラリーの展示会場は、かなり独創的な空間に仕上がりつつあります。必見の価値ありです。どうぞ足をお運びください。
posted by 里実福太朗 at 21:10| 写真

明日より有地訓写真展「BATANES」

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写真展、ただ今準備中。
展示点数が多いから、額装だけでもかなり大変そうです。

【有地訓写真展 「BATANES」】
 
posted by 里実福太朗 at 17:35| 写真

2012年02月15日

インフルエンザが流行っている

息子が、インフルエンザにかかった。ちょっと鼻声だなと思ったのが日曜日のこと、月曜日は出社したが、勤務時間中に倦怠感を感じて、勤務地近くの病院でみてもらったところ、インフルエンザだと言われたという。会社を早退して、まだ陽が高い時に帰ってきた。

同じ屋根の下にインフルエンザの患者を抱えていると、いろいろと気をつかう。病人のことは言うまでもなく気がかりだが、同時に、感染力の強い病原体から我が身を守ることにも気をつかう。家の中でもマスクをして、うがい・手洗いを励行して、飛沫感染を防がなければならない。幸いにして、今のところ感染の兆候はない。

息子がクリニックで処方してもらった薬は、あの「タミフル」だった。以前、タミフル服用後、異常行動を発現して、転落などの事故が発生して問題となったことがあった。因果関係は不明とされているが、事故に至った人のほとんどが未成年であったことから、原則として十歳代の患者には投与しないとされているそうだ。

社会人となったとはいえ、息子はまだ二十代、薬の影響には個人差があるはずだから、念のため様子を注視していた。タミフルを服用してから三日目、その間、例えば、うわごとを言ったり、意識がぼんやりしたり、けいれんを起こしたり、あるいは、腹痛・おう吐、ジンマシンが現れるなどといったことはなかった。ひとまずは安心というところだろう。

今日はほぼ平熱に下がり、倦怠感も薄れてきたということだから、職場復帰の可否を確かめるため、近くの医院に行き診察してもらった。明後日には普段の生活に戻れるでしょう、という診断だった。しかし、ウイルスの感染力は、まだ何日かは残るそうだから、出勤して菌をまき散らすより、家で静養していた方が良いのではないかと思うが、仕事のことを考えると、そういうわけにもいかないかもしれない。ここは、本人の判断に任せるより仕方がない。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年02月13日

工場夜景ツアー(2)…動画あり

乗船した船は「サンタ・バルカ号」、もちろんれっきとした日本の船なのだが、船名だけ見れば、イタリ国籍の船ではないかと思わせる。イタリアの船ならば…そう思うと、沈没した豪華客船のあの船長を思い出す。そのイタリア人船長は、沈みゆく船に乗客を残したまま、真っ先に逃げ出したというではないか。

きらびやかな「みなとみらい」のイルミネーションを後にして、徐々にスピードを上げていく船から暗い海を見ていると、不吉なことを考えてしまうもののようだ。しかし、ここは日本の海、船長さんはお見受けするところ人柄もよさそうで、仮に沈没したとしても、真っ先に逃げ出すことはないであろう。

防寒着を幾重にも着込み、手袋をはめ、耳まで隠れる防寒帽をかぶっていても、冬の海の凍てつく風は、容赦なく体の芯に突き刺さる。横浜の夜景をかなり遠くに見るようになった頃、このままでは風邪を引き込んでしまうように思われ、暖房の効いた船内に逃げ込んだ。そこならば、窓を開ければ撮影もできるし、寒くなれば窓を閉めればよいのである。

船室の両側にドアが設けられていて、そこから船のヘリ伝いに船首に出て行くことができる。船が速度を落とし、
「しばらく船を止めておきますから、ご希望の方は船首に出て眺めてみてください」
というアナウンスがあった。暗い海に、ドブンと落ちるかもしれず、そんな危険を冒す人は、よもや居まいと思っていた。速度がかなり落ちてくると、近くにいた船員さんが、ドアを開けた。
「出てみませんか」
誰に向かって言っているのだろうかと周囲を見回しても、そこにいる寒がりは一人だけだった。私向かって言っているのだ。試みにドアから顔を出して、船首の方を見やってみた。一人がやっと通れるほどの狭い通路が、船首へと続いていた。船の側面には、細い金属制の手すりがついている。足もとの暗い海を見るのがいやな人は、それにつかまって、カニ歩きで進んで行くということになる。

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それを見るなり、寒がりであると同時に、高所恐怖症でもある私にはとうてい無理だなと思いなした。ところが、くだんの船員さんが、
「今まで、落ちた人はいませんから、大丈夫ですよ」
と言えば、船長さんは、
「物は落とさないようにしてください。人間は落ちても助けられますが、物は落ちたら拾えませんから、十分注意してください」
と、人間は仮に落ちたとしても、物と違ってすぐ助けられる、と気休めを言う。そこまで言われたら、出ないわけにはいかない。船が完全に止まってから、ドアをくぐったのだった。

船首に行くのは、いわば断崖絶壁を壁伝いに進むようなもので、もし足を踏み外せば、千尋の谷ならぬ漆黒の海に、真っ逆さまに落ちて行くかもしれないのだ。頭の中では、そんな妄想が渦巻いていたが、いざ足を踏み出してみると、意外なことにあまり恐怖を感じることはなかった。

◆動画「工場夜景ツアー」
長さ:約18分
ファイル形式:WMV

posted by 里実福太朗 at 23:19| 写真

2012年02月12日

工場夜景ツアー

近ごろは観光ツアーが大はやりで、かく言う当方もいろいろなツアーに参加してきた。しかし、工場地帯の夜景を見るツアーは、初めての経験だった。

この工場夜景ツアーは、写真塾の講座の番外編として企画されたものだった。平日ゆえ勤めを持っている人は、参加するのは難しい。結局、発起人の写真塾講師の先生を含めて9人が参加することになった。さらに一般の人を加えて、船に乗り込んだ人は総勢20名ほどになった。

出航は横浜港の大桟橋埠頭ビルから午後8時、約90分かけて川崎港まで往復して、京浜運河沿いの工場夜景を見学する。利用船舶はサンタ・パルカ号、以前、羽田空港の新滑走路を建設する際、工事関係者の送迎に利用された交通船ということだ。

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2月に入ってもまだ冷気に包まれる日が続き、夜ともなればよりいっそう冷え込む。人間の防寒対策はもちろんのこと、講師の先生からは、カメラも防寒対策した方がよいというアドバイスがあった。寒いと、バッテリーのもつ時間が短くなるからだ。

ライトに照らし出されて、漆黒の闇の中に浮かぶプラント群の、無機質な輝きには感興がそそられるが、横浜港の湾内から望み見る「みなとみらい」の夜景も、高所から眺めおろす夜景とはまた違った趣があって、目を奪われる。

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【工場夜景探検ツアー】
http://www.keihinferry.co.jp/event/factory.html




posted by 里実福太朗 at 23:55| 里ふくろうの日乗

2012年02月11日

梅のつぼみ、ほころぶ

佐倉地方では、梅のつぼみが、やっとほころび始めた。昨年の1月26日に同じ地区で撮影した写真を見ると、すでに6〜7分咲き程度にはなっていた。今年は2週間ほど遅れている。

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〔2011年1月26日撮影〕
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昨日、都バスに乗って湯島天神の前を通った時、「梅まつり」の看板が出ているのを見かけた。しかし、車内から見える境内には、梅の花がまったく見えなかった。梅の花に彩られない「梅まつり」というものは、もの寂しさだけをつのらせる。

湯島天神の梅は、本殿横の早咲きの梅が、2月11日に1本だけが咲き始めたそうだ。例年より1〜2週間遅めという。

【湯島天神】
〔開花状況〕
http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/ume/f_kaika.htm
 
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年02月10日

戦いすんで

梅の開花が遅れていたが、関東地方の各地からは、やっと梅の開花便りが届き始めた。今までは、フランス語講座が終わって公園に着く頃には、陽はかなり西に傾いていて、時を置かずすぐに夕景に包まれてしまった。しかし近ごろでは、池に注ぐ日差しも、昼光色をとどめている時間が次第に長くなってきた。

ホウキおじさんとエサやりおじさんは、いつもの場所でそれぞれの役割を果たしていた。自由ネコたちも、日差しを浴びて気持ちよさそうに午睡していた。
「みんな元気に過ごしていたようですね」
と声を掛けると、
「今日はね、ポン太がいないんだよ」
と、ホウキおじさんが言う。
「ボンちゃんの姿も見てないよ」
と、エサやりおじさんが補った。

ポン太は、以前にもまったく姿を見せないことがあった。しかしその時は、翌週にはまた姿を現した。だから心配する必要はないのかもしれないが、それでも気には掛かる。ポン太のお気に入りの場所に行って、しばらくそこで待っていたが、姿を現すことはなかった。

お二人に、ポン太と縄張りを争って敗者となったパンダの行方を尋ねると、池の南側から西方面のどこかにいるはずだと教えてくれた。その辺りは、樹木に日差しがさえぎられて寒々としている。暖かい場所を好むネコにとって、住環境としてはあまり良くない。敗残者が生き延びていくためには、そういう場所で暮らすより仕方がないということなのだろうか。

ゆっくりと歩を進めて行きながら、ネコの姿を探し求めたが、なかなかパンダは見つからなかった。パンダによく似た毛並みのネコが、植え込みの中にいたが、口と鼻周りの毛の色が違っていた。

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探すのをあきらめて、来た道を引き返しはじめた時、トラ毛のネコが目に入った。口と鼻の周囲が、白い毛で覆われている。紛れようもなく、そのネコはパンダだった。反射的にカメラを構えた。しかし次の瞬間、パンダの姿はファインダーの視野から消えていた。パンダは公園の外に出て行ったのだった。そして、公園の周囲を沿うようにして設けられている歩道を進んでから、再び公園に入り、そのまま姿を消してしまった。

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posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ

2012年02月09日

夕食は中華街で

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posted by 里実福太朗 at 22:45| 写真

はるばる来たものだ横浜

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posted by 里実福太朗 at 18:43| 写真

2012年02月08日

自由ネコたちの縄張り争い(3)

この項の第一回目に、パンダの縄張りだった地域に侵入しようとしているポン太を見て、『他ニャンの縄張りに入って行って大丈夫なのだろうか』と書いた。しかし、その地域の実権はすでにポン太が奪い取っていたわけだから、何の問題も生じるはずはなかった。

そして、実際その通りになった。ポン太が新たに獲得した縄張りに入っていく前に、パンダの姿はエサ場から消えていた。いち早く危険を察知して、その場から立ち去ったのだろう。ポン太は、ほんの少し前まで、そこにパンダがいたことなどつゆ知らず、ゆったりとした足取りでエサ場に近づいて行った。

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この項の第一回目に、パンダの縄張りだった地域に侵入しようとしているポン太を見て、『他ニャンの縄張りに入って行って大丈夫なのだろうか』と書いた。しかし、その地域の実権はすでにポン太に移っていたわけだから、何の問題も生じるはずはなかった。

そして、実際その通りになった。ポン太が新たに獲得した縄張りに入っていく前に、パンダの姿はエサ場から消えていた。いち早く危険を察知して、その場から立ち去ったのだろう。ポン太は、ほんの少し前までそこにパンダがいたことなどつゆ知らず、ゆったりとした足取りでエサ場に近づいていった。

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ポン太がこの公園に来た当座は、まだ体が小さく、ほかのネコたちにいじめられて逃げ回っていたそうだ。そんなポン太の昔を教えてくれたのは、去年出会った自転車男だった。そのポン太が、今では一人前の雄ネコに成長して、ついに池の東側一帯を縄張りとするようになった。人の世よりもっと速く栄枯盛衰を繰り返すネコの世で、ポン太はいつまで君臨し続けることができるのだろうか。

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ポン太がこの公園に来た当座は、まだ体が小さく、ほかのネコたちにいじめられて逃げ回っていたそうだ。そんなポン太の昔を教えてくれたのは、去年出会った自転車男だった。そのポン太が、いまでは一人前の雄ネコに成長して、ついに池の東側一帯を縄張りとするようになった。だが、人の世よりもっと速く栄枯盛衰を繰り返すネコの世で、ポン太はいつまで君臨し続けることができるのだろうか。

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posted by 里実福太朗 at 23:38| ねこ

2012年02月07日

自由ネコたちの縄張り争い(2)

「何日か前に、ネコのケンカがあったらしいよ」
そう教えてくれたのは、その公園でよく見かけるおじさんだった。たまたまなのかもしれないが、見かける時はいつも竹ぼうきで掃き掃除をしていた。

何度かそのおじさんの姿を目にすることを繰り返すうちに、和服姿に下駄履き姿ではないが、赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」に登場する「レレレのおじさん」を思い出すようになっていた。和服姿ではないし、下駄はサンダルになっているし、共通する点はいつも竹ぼうきで掃除をしているところだけであるが、見かけるたびに「レレレのおじさん」を思い出してしまう。

そのホウキおじさんの言によれば、縄張り争いの大げんかをしたのは、ポン太とパンダだったということだ。ただ、ホウキおじさん自身が目撃したのではなく、おじさんも誰かから聞いた話らしい。残念ながら、その伝聞ルートはまだ明らかになっていない。

ホウキおじさんがいつも掃き掃除をしている場所は、ポン太の縄張りの南側で、その辺り一帯を支配していたのはパンダだった。だからポン太は、今まではそこに足を踏み入れることはなかった。

縄張り争いの詳細は明らかになってはいないが、争いの結果は明らかになっている。ポン太が勝利をおさめ、パンダの縄張りを手中にした。ともかく相当に激しい争いだったようだ。ポン太のあの鼻の傷は、その時に受けたのものと思われる。ポン太はこの勝利で、池の東側一帯のすべてが自分の縄張りとした。同時に、その辺りで暮らしていた雌ネコたちも、ポン太の支配下に入った。負けたパンダは、ホウキおじさんによれば、あわれにも池の西側に逃げ去ったそうだ。

その争いから二・三日後、パンダは、かつて自分の縄張りだった地域の少し外側に姿を現した。大きな岩の頂に陣取り、心なしか不安げな表情で、失った縄張りの方を眺めていた。その視線の先には、ホウキおじさんと「エサやりおじさん」の姿が見えた。

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この「エサやりおじさん」は、ご本人の言によれば、毎日二度、午前中と午後にエサをやりに来ているそうだ。夏、帽子をかぶっていない時は、長く伸ばした髪の毛を、頭の後ろ側で一つに結び、つまりポニーテール状にしているのが見えた。しかし冬の今は、毛糸の帽子を深くかぶっていて、そのポニーテールは見えなくなっている。

ポン太が今まで縄張りとしていた場所には、「エサやりおばさん」が週に三回やってきて、ポン太やモミジ・ミコなどにエサをやっていた。週に三回と、毎日、それも午前と午後の二回とでは、どちらが優雅な生活を送れるかは言うまでもないことだ。そういう待遇の違いが、今回の縄張り争いの原因だったのかもしれない。

岩の上から注意深く眺め渡していたパンダは、やがて意を決して、周囲に目を配りながらそろりそろりと、ホウキおじさんとエサやりおじさんのもとへと近づいていった。折しも午後のエサやり時間で、紙製のお皿には、盛りつけられたばかりのキャットフードが山を成していた。

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ポン太の姿がないことを確かめたパンダは、ホウキおじさんの足もとに近づき、何回も何回も体をなすりつけた。
「おう、パンダか、久しぶりだな。元気にしてたか?」
ひとしきり親愛の情を示したパンダは、エサを一心不乱に食べ始めた。西の方に追い遣られてからというもの、十分なエサにありつけなかったのかもしれなかった。

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posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ

2012年02月03日

自由ネコたちの縄張り争い

先週の金曜日のことだった。フランス語講座が終わってから、いつものように公園に立ち寄ったのだが、またもやポン太の姿が見えなかった。1月6日に再会して以来、その日までの3週間もの間、ポン太の姿を見ることはなかった。

今までなら、「ミャーオ」となきながら茂みの中から姿を現すのだが、その日も姿を現さなかった。日向ぼっこをしていたモミジとミコに尋ねても、答えが返ってくるはずはない。しばらくは、その二匹のネコを撮っていたのだが、気になるのはポン太の行方だった。

だが心配するには及ばなかった。木の陰から、忽然と姿を現したのだ。3週間もの間、顔を合わすことがなかったのに、「ポン太」と声を掛ければ、「ミャーオ」と応える。一度近づきになった人間は忘れないもののようだ。

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ポン太は、自由ネコとはいえ、栄養のよく行き渡った美しい毛並みのネコだったが、遠目にも少し薄汚れているのが見て取れた。そして鼻には、長細い線が一本走っていた。鋭い爪で引っかかれたような傷だった。

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その日ポン太は、今までとは少し違った様子を見せた。いままでなら、そのまま足にまとわりついたりして、近辺を行ったり来たりして、すぐ去ってしまうことはなかった。ところが、再会の挨拶がすむと、なんだか落ち着かない様子を見せ、そして何かに憑かれたような表情で、その場を立ち去ってしまった。

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ポン太の後を追ってみた。草むらに入っては、お尻から液体を噴射し、壁際に近づいては臭いを嗅ぎ、さらに池のほとりに行っては、またお尻から液体を噴射するという具合だった。それは、明らかにスプレーというマーキング行為だった。

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そして、ポン太はマーキングを繰り返し、ついに違うネコが縄張りとしていた地域にも侵入していった。そこは、「パンダ」と呼ばれているネコが縄張りをはっていた。レッサーパンダの顔に似ていることとから、「パンダ」と呼ばれるようになったらしい。

他人、いや他ニャンの縄張りに入って行って大丈夫なのだろうか。
(つづく)
posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ

2012年02月01日

スイセンが咲き始めた

年が明けてからしばらくは、日の移ろいがゆっくり進むように感じられたが、一月の末に近づくにつれて、日めくりカレンダーがぱらぱらと音をたて始め、あれよあれよという間に二月を迎えてしまった。

今日の佐倉地方は、日中の気温が10度を超え、南西の強い風は吹いたが、室内にいれば日差しの暖かさが感じられる一日だった。外気はまだまだ冷たいが、陽の光は、日一日と輝きを増しているように感じられる。日本海側の豪雪の映像が頭をよぎると、なんだか申し訳ないような気分にはなるが、太平洋側には大地震の心配が取りざたされているのだから、日差しに恵まれているからといって手放しでは喜べない。

庭のスイセンのつぼみが、やっとほころび始めた。
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posted by 里実福太朗 at 17:59| 里ふくろうの日乗

写真集「木村伊兵衛のパリ」

木村伊兵衛の写真集「木村伊兵衛のパリ」は、先日、某テレビ局の「日曜美術館」で取り上げられてからというもの、ネット書店・町の本屋さんからすっかりその姿を消してしまった。番組放映後、注文が殺到して、品切れになってしまったと思われる。

「木村伊兵衛のパリ」
出版社:朝日新聞出版
定価:14700円(税込)
発売日:2006年7月14日
A4変判上製 288ページ


木村伊兵衛は1954年から55年にかけて、まだ発展途上のカラーフィルムを携えて、二度パリを訪れている。その際、アンリ・カルティエ=ブレッソンと会い、そして、パリを熟知していたはずのロベール・ドアノーに、パリの街を案内してもらったという。この写真集には、その時に撮影した170点の写真がおさめられている。

以前、この写真集を購入したいと思ってネット書店で探した時には、まだ品切れにはなっていなかった。ただ、価格が14700円では、おいそれと手を出すことができず、断念して図書館で借りて見た。

その高価な写真集が、品切れになってしまったということだから、世の中にはお金持ちの人がたくさんいるということなのだろう。かく言う当方は、お金持ちではないけれど、写真の世界に片足の親指ほどは踏み込んでいるのだから、清水の舞台から飛び降りるぐらいの覚悟で、購入しようかと思っていたのだが、品切れではどうしようもない。

ただ、売れ行き好調だから、そのうち第二版が出るかもしれないと思っていたところ、本当にそうなった。二月下旬に、重版が出ることになったらしい。ネット書店などでも、予約を受け付け始めている。
posted by 里実福太朗 at 15:21| 写真