作家の北杜夫さんが亡くなったのは、去年の10月24日のことだった。あまりにも急に訪れた訃報だったので、俄には信じられず、その死を惜しむ前に、一体どういうことだったのだろう、死因は何だったのだろうという疑問がまっさきに浮かんできたのを覚えている。
先日、出版されたばかりの「マンボウ最後の家族旅行」(2012年3月25日、実業之日本社)を、近所の書店で買い求めた。巻末に、愛娘_斎藤由香さんが書いた「父が遺したユーモア」と題する一文が載っていた。それを読み、北杜夫さんの最期の様子の一端を知ることができて、心のモヤモヤを幾分かははらすことができた。
当時、その突然の死が、どのように報道されたかを、まず振り返っておくことにしよう。
◇朝日新聞
【作家の北杜夫さん死去 「どくとるマンボウ」シリーズ】
http://www.asahi.com/obituaries/update/1026/TKY201110260123.html?ref=recc
(asahi.com 2011年10月26日10時39分)
『24日午前6時2分、腸閉塞(ちょう・へい・そく)のため東京都内の病院で死去した。』
【死の前夜、孫に「元気でね」 北杜夫さん、繰り返す】
http://www.asahi.com/culture/update/1026/TKY201110260670.html
(asahi.com 2011年10月27日11時29分)
『妻の喜美子さん(74)ら家族の話によると、北さんは23日の昼食後、歯磨きに立とうとしたとき、いすから床に崩れ落ちた。なかなか立ち上がれず、救急車で病院に搬送された。/同日夕、家族が見舞いに行った時は、「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だよ」と答えた。 』
◇読売新聞
【「どくとるマンボウ」北杜夫さん死去】
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20111026-OYT8T00204.htm
(YOMIURI ONLINE 2011年10月26日 読売新聞)
…死因については触れていない。
【さよならマンボウ…夫人「したいことをした」】
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20111026-OYT8T00622.htm
(YOMIURI ONLINE 2011年10月26日 読売新聞)
『22日にインフルエンザの予防接種を受けた後、体調を崩して23日に入院。24日に容体が急変し午前6時2分、都内の病院で腸閉塞のため死去した。』
両紙ともに、死因は『腸閉塞』と伝えていた。また、読売新聞の記事では、インフルエンザの予防接種を受けた後、体調が崩れたと伝えていて、インフルエンザの予防接種が、死への端緒となったという印象を与える。
現にこの記事が配信された翌日、次のようなブログ記事も書かれている。
【◆ 北杜夫さんはインフルエンザワクチンで急変】
http://ameblo.jp/emkanayoshi/entry-11060899673.html
(田中佳先生のブログ 2011年10月27日 21時27分36秒)
さて、斎藤由香さんの「父が遺したユーモア」という一文に戻ろう。そこに記されていることに基づけば、インフルエンザの予防接種を受けたこと、また腸閉塞を起こしていたことは、たしかに事実だった。以下、要点を抜き出して事実を追っていくことにしてみる。
10月20日(木)
…マンボウ夫妻、羽根木公園に散歩に行く。
10月22日(土)
…インフルエンザの予防接種、しきりに「眠い、眠い」と言う。
…マンボウ氏だけ、娘の由香宅で夕食をともにする。刺身とエビフライ。
…夜、少しおう吐。
10月23日(日)
…朝、いつもと変わらない様子。
…昼食後、テレビを見ようとして、イスに座りそこねて床に倒れる。起き上がることができなくなる。
…夕方、救急車で東京医療センターに搬送されて、入院。
…午後6時半、由香、病院着。話すこともできて、顔色も良い。
…午後7時、孫が駆けつけた時、「大丈夫だよ」と言う。
…緊急性はないということだったので、家族は病院をあとにする。
10月24日(月)
…朝5時に、病院から容態急変の連絡。
…5時15分、血圧が下がり、心臓マッサージを行う。30分以上行っても効果はなく、家族の了承を得て、中止する。
…6時2分、死亡確認。
医師の説明によれば、見回りに行ったら心臓が止まっていたということだったそうだ。そして、その原因については、解剖してみないと分からないと言う。しかし結局、妻の喜美子は解剖を選択しなかった。ただ、娘の由香は、嘔吐物による窒息死だったのかもしれないという疑いを抱く。
『今でも思い出す。マッサージをされていた父の横には、入院した時に着ていた黄色いポロシャツが置かれ、嘔吐物がついていた。医者が入院した父をしっかり見ていてくれれば窒息死しなかったのではないだろうか。』
そして、父の傍にいれば、急変の様子に気づいたのに、とそのことを悔やむのだった。その通りだったのかもしれない。ただ、医者から緊急性はないと言われ、マンボウ氏も重篤であるようには見受けられなかったのだから、一安心して病院をあとにしたことを悔やんでも、それはもうせん無いことと言うしかない。人の死は、決まりごとのように、誰かの心に悔いを残してしまうものなのかもしれない。
2012年03月30日
ドクトル・マンボウの死について
posted by 里実福太朗 at 23:55| 里ふくろうの日乗
2012年03月28日
上野公園の桜はまだか
広小路の方面から横断歩道を渡って上野公園に入ると、右側に立派な桜の木がある。交番のちょうど後ろのあたりだ。ここは南側に面していて、日当たりが良い。このところの春めいてきた日ざしを浴びて、満開となっていた。
さらに公園の中に入っていくと、つぼみの状態の樹が多く、見頃になるのはまだまだ先のことと思われる。
夕闇が迫り暗さを増してきた園内をさらに進んで行くと、やわらかい光を集めて、うすぼんやりと浮き上がっている場所があった。ちょうど清水観音堂の下のあたりだ。不思議なことに、そこの桜だけが、満開に近い状態で咲いていた。品種が違うのだろうか。
お山を下って不忍池に向かうと、弁天堂へと続く参道の両側には、屋台が軒を接して立ち並び、花見客を迎える準備を急いでいた。
さらに公園の中に入っていくと、つぼみの状態の樹が多く、見頃になるのはまだまだ先のことと思われる。
夕闇が迫り暗さを増してきた園内をさらに進んで行くと、やわらかい光を集めて、うすぼんやりと浮き上がっている場所があった。ちょうど清水観音堂の下のあたりだ。不思議なことに、そこの桜だけが、満開に近い状態で咲いていた。品種が違うのだろうか。
お山を下って不忍池に向かうと、弁天堂へと続く参道の両側には、屋台が軒を接して立ち並び、花見客を迎える準備を急いでいた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2012年03月26日
江ノ島のネコ
朝食前の散歩では、途中で時間が足りなくなって、ネコの姿を確認することができなかった。せっかく江ノ島まで来て、ネコの写真を撮らないのではいかにも残念だ。せっかくネコがいると教えてくれた人にも、申し訳ないことになってしまう。
土産物店が並ぶ参道を上っていくと、さっそく店の前でちょこんと座っているネコを発見した。人通りはかなり多いのにまったく意に介していない。文字通り、招き猫という風情であった。
次のネコも参道で出会った。
二番目のエスカレーター乗り場の前で、三匹目のネコと出会った。水を飲んだあと、花壇の方へ歩いて行くのでその後を追ったが、こちらが近づくと、逃げるというほどではないが、歩みを早めてこちらと一定の距離を保とうとする。かといって、走って追いかければ、逃げられてしまうのは必定だから、さて、どうしたものか。
「トラちゃん」
と、ためしに呼んでみた。もちろん、そのネコの名前など知る由はない。ところが当てずっぽうで言った名前が、思いがけなくも効果があったのだ。そのネコは足を止めて、こちらを振り返ったのだ。もう一度、
「トラちゃん」
と言ってみたところ、さらに驚くべきことに、こちらに近づいてきて、足に体をすり寄せるではないか。ネコの名前は、外見の特徴から単純につけられることが多いから、ほんとうにトラという名前だったのかもしれない。
最後のエスカレータを下りたところでも、ネコを発見した。柵の中にいて、こちらにお尻を向けて発泡スチロールの上に座っていた。柵の間から手を伸ばして、お尻をチョンチョンと触ってみたところ、体を入れ替えて顔を見せてくれた。
先ほどのことがあるから、また適当な名前で呼んでみた。
「白ちゃん」
見ての通り、白い毛で覆われているから、当てずっぽうで呼んでみたのである。するとどうだろう、立ち上がって背伸びを一つしてから、柵の狭い隙間を通り抜けてこちら側に出てくるではないか。近くを通りかかった女の子が、
「ネコが出てきたよ」
と言いながら近づいて来てカメラを向けた。
江ノ島に住む自由ネコは、適当な名前で呼んでも、それに応えてくれる心優しいネコたちだった。観光地に住むネコとして、自らの役割を心得ているのかもしれない。
土産物店が並ぶ参道を上っていくと、さっそく店の前でちょこんと座っているネコを発見した。人通りはかなり多いのにまったく意に介していない。文字通り、招き猫という風情であった。
次のネコも参道で出会った。
二番目のエスカレーター乗り場の前で、三匹目のネコと出会った。水を飲んだあと、花壇の方へ歩いて行くのでその後を追ったが、こちらが近づくと、逃げるというほどではないが、歩みを早めてこちらと一定の距離を保とうとする。かといって、走って追いかければ、逃げられてしまうのは必定だから、さて、どうしたものか。
「トラちゃん」
と、ためしに呼んでみた。もちろん、そのネコの名前など知る由はない。ところが当てずっぽうで言った名前が、思いがけなくも効果があったのだ。そのネコは足を止めて、こちらを振り返ったのだ。もう一度、
「トラちゃん」
と言ってみたところ、さらに驚くべきことに、こちらに近づいてきて、足に体をすり寄せるではないか。ネコの名前は、外見の特徴から単純につけられることが多いから、ほんとうにトラという名前だったのかもしれない。
最後のエスカレータを下りたところでも、ネコを発見した。柵の中にいて、こちらにお尻を向けて発泡スチロールの上に座っていた。柵の間から手を伸ばして、お尻をチョンチョンと触ってみたところ、体を入れ替えて顔を見せてくれた。
先ほどのことがあるから、また適当な名前で呼んでみた。
「白ちゃん」
見ての通り、白い毛で覆われているから、当てずっぽうで呼んでみたのである。するとどうだろう、立ち上がって背伸びを一つしてから、柵の狭い隙間を通り抜けてこちら側に出てくるではないか。近くを通りかかった女の子が、
「ネコが出てきたよ」
と言いながら近づいて来てカメラを向けた。
江ノ島に住む自由ネコは、適当な名前で呼んでも、それに応えてくれる心優しいネコたちだった。観光地に住むネコとして、自らの役割を心得ているのかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ
ネコの総会
買い物帰りのこと、町内の駐車場の横を車で通ると、ネコが4匹集まって、なにやら相談をしている風情だった。以前我が家の庭に侵入して、密会していた二匹のネコもいる。ネコの集会と言えば、夜開かれることが多いはずだが、昼間に集まっているのは珍しい。
急いで家に帰り、カメラを持ち出して、集会の現場に戻った。ところが、すでに散会してしまったのだろう、ネコたちの姿は見えなかった。残念なことをしたと思いつつ、家の方へときびすを返した時、ブロック塀の上に一匹のネコがいることを発見した。密会していた現場を私に見つけられた、あのネコの片われだった。
町内を縄張りとするネコたちも、年度末が近づいて、総会を開いていたのだろうか。
急いで家に帰り、カメラを持ち出して、集会の現場に戻った。ところが、すでに散会してしまったのだろう、ネコたちの姿は見えなかった。残念なことをしたと思いつつ、家の方へときびすを返した時、ブロック塀の上に一匹のネコがいることを発見した。密会していた現場を私に見つけられた、あのネコの片われだった。
〔密会現場:2011年2月7日〕
町内を縄張りとするネコたちも、年度末が近づいて、総会を開いていたのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 00:17| 里ふくろうの日乗
2012年03月25日
町内会の総会
町内会の総会が昨日あった。年に一度、年度末のこの時期に行われる。今までは、夫人が出席するか、委任状を提出するかのどちらかで、当方が出席したのは過去一回か二回といったところだろう。それもずいぶんと前のことである。
総会が行われる地区の会館は、歩いて十分足らずの所にある。小雨降る中、記憶を頼りにたどり着くと、すでに多くの住民が席に着いていた。ほとんどが高齢の人だった。男性と女性の比率は、ほぼ2対3、未亡人が多いこの地区の状況を反映する数字だった。
会長をはじめとする役員は、年度ごとの持ち回りになっている。まずは、今年度の会長さんの挨拶、その冒頭、最近声がかれてきて、自分では精一杯声を出しているつもりだけれど、声が届きにくく、聞き苦しい点があるかもしれない、という断りの言葉から始まった。
活動報告は、会長さん御自ら行った。項目は、昨年度の総会から始まって、二ページにわたってビッシリと並んでいる。声がかすれてよく出ないというのに、会長さん、それを一つ一つ丁寧に説明しだした。一項目に要する時間を一分としても、ゆうに五十分はかかりそうなペースなのだ。
内容が聞き取れればまだしも、ところどころ聞き取りにくかったりすると、理解しようとする気力も失われてくる。
「後ろの方まで、聞こえますか」
と会長さんが確認すると、
「聞こえません」
と言う返事が返ってくる。声を張り上げて、
聞こえますか、ともう一度尋ねると、
「聞こえません」
と、同じ答えが戻ってくる。こうなると、「聞こえません」といった人が前の席に移った方がいいのだが…
たまりかねて、ある人が「もっと簡潔にお願いします」と言ってくれたおかげで、今度はかなり大胆に項目を飛ばして、またたく間に活動報告は終わった。
会長が、
「今までのところで、何か質問はありますか」
と言うと、
「ちょっと耳が遠いので、聞き取れなかったところがあるのですが」
と発言した男性がいた。そこで、会長が繰り返して説明する。発言者は、身を乗り出して聞き取ろうとしているが、顔を見れば分かっていないことは一目瞭然なのである。声がしゃがれてよく出ない人が、耳の遠い人に向かって説明しているのを、皆、ただ黙って見ているより仕方がなかった。
この会館のすぐ隣に、子供用の狭い公園がある。自分の子供がまだ小さかった頃、たまに子供を連れて遊びに来ることがあった。それから二十年以上が経って、現役を退いた今、当方もときどき声がしゃがれることに気づくことがある。おっつけ、耳も遠くなってくるかもしれない。そう思うと、先ほどのやり取りも、人ごとではないような気持ちにもなってくるのだった。
総会が行われる地区の会館は、歩いて十分足らずの所にある。小雨降る中、記憶を頼りにたどり着くと、すでに多くの住民が席に着いていた。ほとんどが高齢の人だった。男性と女性の比率は、ほぼ2対3、未亡人が多いこの地区の状況を反映する数字だった。
会長をはじめとする役員は、年度ごとの持ち回りになっている。まずは、今年度の会長さんの挨拶、その冒頭、最近声がかれてきて、自分では精一杯声を出しているつもりだけれど、声が届きにくく、聞き苦しい点があるかもしれない、という断りの言葉から始まった。
活動報告は、会長さん御自ら行った。項目は、昨年度の総会から始まって、二ページにわたってビッシリと並んでいる。声がかすれてよく出ないというのに、会長さん、それを一つ一つ丁寧に説明しだした。一項目に要する時間を一分としても、ゆうに五十分はかかりそうなペースなのだ。
内容が聞き取れればまだしも、ところどころ聞き取りにくかったりすると、理解しようとする気力も失われてくる。
「後ろの方まで、聞こえますか」
と会長さんが確認すると、
「聞こえません」
と言う返事が返ってくる。声を張り上げて、
聞こえますか、ともう一度尋ねると、
「聞こえません」
と、同じ答えが戻ってくる。こうなると、「聞こえません」といった人が前の席に移った方がいいのだが…
たまりかねて、ある人が「もっと簡潔にお願いします」と言ってくれたおかげで、今度はかなり大胆に項目を飛ばして、またたく間に活動報告は終わった。
会長が、
「今までのところで、何か質問はありますか」
と言うと、
「ちょっと耳が遠いので、聞き取れなかったところがあるのですが」
と発言した男性がいた。そこで、会長が繰り返して説明する。発言者は、身を乗り出して聞き取ろうとしているが、顔を見れば分かっていないことは一目瞭然なのである。声がしゃがれてよく出ない人が、耳の遠い人に向かって説明しているのを、皆、ただ黙って見ているより仕方がなかった。
この会館のすぐ隣に、子供用の狭い公園がある。自分の子供がまだ小さかった頃、たまに子供を連れて遊びに来ることがあった。それから二十年以上が経って、現役を退いた今、当方もときどき声がしゃがれることに気づくことがある。おっつけ、耳も遠くなってくるかもしれない。そう思うと、先ほどのやり取りも、人ごとではないような気持ちにもなってくるのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:47| 里ふくろうの日乗
2012年03月24日
江島神社
宿を引き払って、再び江ノ島に渡った。朝食前の散歩では、最初の大鳥居をくぐって少し歩いたところで、すでに7時半をまわっていたから、そうそうに宿に引き返したのだった。
先ほどとはうって変わり、「江の島春まつり」と染め抜かれたのぼりがはためき、参道は多くの参拝客で賑わっていた。急な階段を上るまでもなく、頂上まで楽に連れて行ってくれるエスカレーターもあると聞く。まだまだそんなものにはお世話になりたくはないから、果敢に急な石段を上っていくことにした。
なんとか石段を上り切ると、予想もしない賑わいが待ち受けていた。高価そうな一眼レフを構えるカメラマンたちが列を成し、レンズの向こう側には、着飾った稚児たちが、カメラマンの注文に応じて笑顔を振りまいていた。正面には、立派な殿舎がどっしりと構えていた。これこそが江島神社の拝殿だろうと見当をつけ、歩み寄ってお参りした。
見下ろせば、崖下には参道を歩む参拝客たちの姿が小さく見えた。かなり高いところまで上ってきたことは確かだ。お参りもすんで、さあ下山しようかと思ったが、何となく心に引っかかるものがある。お参りのすんだ参拝客たちの多くは、境内を抜けてさらに奥へと進んで行くではないか。
徒然草に登場したあの仁和寺の法師なら、なぜなのだろうかと思っても、見過ごしてそのまま下山してしまったことだろう。不審に思った私は、立ち止まって考えた。大勢の人が奥の方へと歩を進めて行くのは、それなりの理由があるからだろう。早合点して、下山してしまわない方が良さそうだ。
辺りを見回してみると、都合良く説明版があった。それを読み、理由が分かったのだった。それには、こう記されてあった。
江島神社 三宮のご案内
辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す
三宮にお参りしないと、江島神社に参拝したことにならないということなのだ。たった今お参りしたのは、最初の宮_辺津宮だったのだ。危ういところで、仁和寺の法師の二の舞となるところだった。
気を取り直して、再び急な階段を上り始めた、と言いたいところだが、一度なえた心を復活させるのには時間がかかりそうで、心なしか足取りも重くなり、そうこうするうちに、エスカレーターの乗り場が見えたものだから、一も二もなく乗車券を買ってしまったのだった。
ちなみに、頂上に行くには、エスカレーターを三度乗り継ぎ、料金は350円である。二番目の乗り場から頂上までは、180円とほぼ半額となる。
先ほどとはうって変わり、「江の島春まつり」と染め抜かれたのぼりがはためき、参道は多くの参拝客で賑わっていた。急な階段を上るまでもなく、頂上まで楽に連れて行ってくれるエスカレーターもあると聞く。まだまだそんなものにはお世話になりたくはないから、果敢に急な石段を上っていくことにした。
なんとか石段を上り切ると、予想もしない賑わいが待ち受けていた。高価そうな一眼レフを構えるカメラマンたちが列を成し、レンズの向こう側には、着飾った稚児たちが、カメラマンの注文に応じて笑顔を振りまいていた。正面には、立派な殿舎がどっしりと構えていた。これこそが江島神社の拝殿だろうと見当をつけ、歩み寄ってお参りした。
見下ろせば、崖下には参道を歩む参拝客たちの姿が小さく見えた。かなり高いところまで上ってきたことは確かだ。お参りもすんで、さあ下山しようかと思ったが、何となく心に引っかかるものがある。お参りのすんだ参拝客たちの多くは、境内を抜けてさらに奥へと進んで行くではないか。
徒然草に登場したあの仁和寺の法師なら、なぜなのだろうかと思っても、見過ごしてそのまま下山してしまったことだろう。不審に思った私は、立ち止まって考えた。大勢の人が奥の方へと歩を進めて行くのは、それなりの理由があるからだろう。早合点して、下山してしまわない方が良さそうだ。
辺りを見回してみると、都合良く説明版があった。それを読み、理由が分かったのだった。それには、こう記されてあった。
江島神社 三宮のご案内
辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す
三宮にお参りしないと、江島神社に参拝したことにならないということなのだ。たった今お参りしたのは、最初の宮_辺津宮だったのだ。危ういところで、仁和寺の法師の二の舞となるところだった。
気を取り直して、再び急な階段を上り始めた、と言いたいところだが、一度なえた心を復活させるのには時間がかかりそうで、心なしか足取りも重くなり、そうこうするうちに、エスカレーターの乗り場が見えたものだから、一も二もなく乗車券を買ってしまったのだった。
ちなみに、頂上に行くには、エスカレーターを三度乗り継ぎ、料金は350円である。二番目の乗り場から頂上までは、180円とほぼ半額となる。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
江ノ島の朝
紀伊国屋旅館での朝食は8時から、その前に散歩がてら江ノ島方面へネコを探しに行ってみた。かねてより、江ノ島にはネコがいると聞いていたからだ。
さいわい雨は上がっていた。旅館前のすばな通りを進み、江ノ島弁天橋にさしかかる手前で、塾生の一人と出会った。聞けば、六時頃旅館を出て、江ノ島の上の方まで行ってきたということだ。
「ネコがたくさんいましたよ」
と教えてくれた。写真塾の講評会でネコの写真を提出することが多かったので、ネコ好きであるということを、認知してくれているのだろう。吹聴しておくということは、大切なことである。
毎年恒例の「湘南江の島春まつり」が開かれる行われるということでから、かなりの人出があることだろう。しかし、朝の弁天橋を行き来する人は少なく、時おりジョギングする人が走り抜け、サーフボードを担いだ若者が、先を急ぐように早足で通り過ぎていった。
さいわい雨は上がっていた。旅館前のすばな通りを進み、江ノ島弁天橋にさしかかる手前で、塾生の一人と出会った。聞けば、六時頃旅館を出て、江ノ島の上の方まで行ってきたということだ。
「ネコがたくさんいましたよ」
と教えてくれた。写真塾の講評会でネコの写真を提出することが多かったので、ネコ好きであるということを、認知してくれているのだろう。吹聴しておくということは、大切なことである。
毎年恒例の「湘南江の島春まつり」が開かれる行われるということでから、かなりの人出があることだろう。しかし、朝の弁天橋を行き来する人は少なく、時おりジョギングする人が走り抜け、サーフボードを担いだ若者が、先を急ぐように早足で通り過ぎていった。
posted by 里実福太朗 at 22:31| 里ふくろうの日乗
2012年03月22日
江ノ電
江ノ電は、江ノ島駅を出て少し走ると、急に視界が開ける。ちょうど滝口寺の参道入り口の辺りだ。そして二車線よりは少し広いだけの道路を、腰越駅までノロノロと進む。江ノ電が路面電車になるのは、この区間だけである。
学生時代の昔、たまに、飯田橋から神田_神保町まで、都電を利用して古書店をのぞきに行くことがあった。その当時の、都電がそこかしこを走っていた頃の光景に似てないことはないが、ただ道路の幅がまるで違う。
電車の軌道と車道・歩道とは、はっきりと区分けられていないから、運転手さんはいうまでもなく、通行する車も人も、注意を怠らないようにしなければならない。考え事などして歩いていると、背後から来る江ノ電にはねられてしまうおそれがある。ただそんな場合は、運転手さんが徐行して警笛を鳴らしてくれるとは思うが、運が悪ければ、電車をよけようとした車にはねられてしまうかもしれない。
そんなことを心配していたら、志賀直哉の短編小説「城の崎にて」を思い出した。冒頭は以下のように始まる。
『山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、その後養生に、一人で但馬の城の崎温泉へ出かけた。』
実際に志賀直哉は、ここに書かれてある通り、線路のそばを歩いていたところを、後ろから電車にはねられてしまった。大正2年(1913年)のことだという。線路のそばを歩いていたということだから、線路と歩道との境目などはなかったのだろう。それにしても、いかにもドジな話ではある。
小説の最後では、
『三週間いて、自分はここを去った。』
と記されている。「城の崎にて」は、実体験に即して書かれた小説だから、城の崎温泉で三週間を過ごしのだろう。その間に体験したことがもとになって、生と死とを見つめ、名作と呼ばれる作品をものしたのだから、事故に遭ったことも無駄ではなかった。
学生時代の昔、たまに、飯田橋から神田_神保町まで、都電を利用して古書店をのぞきに行くことがあった。その当時の、都電がそこかしこを走っていた頃の光景に似てないことはないが、ただ道路の幅がまるで違う。
電車の軌道と車道・歩道とは、はっきりと区分けられていないから、運転手さんはいうまでもなく、通行する車も人も、注意を怠らないようにしなければならない。考え事などして歩いていると、背後から来る江ノ電にはねられてしまうおそれがある。ただそんな場合は、運転手さんが徐行して警笛を鳴らしてくれるとは思うが、運が悪ければ、電車をよけようとした車にはねられてしまうかもしれない。
そんなことを心配していたら、志賀直哉の短編小説「城の崎にて」を思い出した。冒頭は以下のように始まる。
『山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、その後養生に、一人で但馬の城の崎温泉へ出かけた。』
実際に志賀直哉は、ここに書かれてある通り、線路のそばを歩いていたところを、後ろから電車にはねられてしまった。大正2年(1913年)のことだという。線路のそばを歩いていたということだから、線路と歩道との境目などはなかったのだろう。それにしても、いかにもドジな話ではある。
小説の最後では、
『三週間いて、自分はここを去った。』
と記されている。「城の崎にて」は、実体験に即して書かれた小説だから、城の崎温泉で三週間を過ごしのだろう。その間に体験したことがもとになって、生と死とを見つめ、名作と呼ばれる作品をものしたのだから、事故に遭ったことも無駄ではなかった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2012年03月20日
モノレール_湘南江の島駅から紀伊国屋旅館まで
昔の話になるけれど、会社勤めをしていた二十代の頃は、横浜に住んでいた。休みの日は、たまに湘南の海を見に行くことがあった。自宅近くのバス停から京急バスに乗って大船に出て、そこからはモノレールを利用した。終点の湘南江の島駅からは、左に江ノ電の江の島駅を見ながら、海岸に向かて一直線にのびる細い道を進んだ。昭和四十年代の頃だった。
一人きりで海を見るには、秋そして冬がふさわしい。海に向かう道の所々には、古びた写真館や旅館などがひっそりと佇んでいた。夏の盛りはとっくに過ぎて、道行く人は少なく、いっそうもの寂しい雰囲気を漂わせていた。
それからほぼ四十年が経つ。海に向かう道は、現代風に大きく変貌していた。それでも昔見た写真館は、生き残っていた。あの古びた旅館もまだ残っていたが、すでに営業はしていなかった。店先では、かつて海の幸などを供した食器類を並べて販売していた。廃業を決めたのだろう。
一夜の宿となった「紀伊国屋旅館」も、歴史を感じさせる旅館だった。聞くところによると、創業は明治元年、五代百五十年の間、旅館業を続けてきたということだった。昔、まだ江ノ島に渡る橋がなかった時代には、この宿で島に渡る身支度を整えたという。出発の朝、玄関で宿泊客を見送る社長さんは、齢八十を数えると従業員の方から聞いた。
一人きりで海を見るには、秋そして冬がふさわしい。海に向かう道の所々には、古びた写真館や旅館などがひっそりと佇んでいた。夏の盛りはとっくに過ぎて、道行く人は少なく、いっそうもの寂しい雰囲気を漂わせていた。
それからほぼ四十年が経つ。海に向かう道は、現代風に大きく変貌していた。それでも昔見た写真館は、生き残っていた。あの古びた旅館もまだ残っていたが、すでに営業はしていなかった。店先では、かつて海の幸などを供した食器類を並べて販売していた。廃業を決めたのだろう。
一夜の宿となった「紀伊国屋旅館」も、歴史を感じさせる旅館だった。聞くところによると、創業は明治元年、五代百五十年の間、旅館業を続けてきたということだった。昔、まだ江ノ島に渡る橋がなかった時代には、この宿で島に渡る身支度を整えたという。出発の朝、玄関で宿泊客を見送る社長さんは、齢八十を数えると従業員の方から聞いた。
〔翌朝〕
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2012年03月19日
上野のお山は桜の開花を待つばかり
湘南_腰越から千葉の佐倉までは、ゆうに三時間はかかってしまう。長居をしていると、どっとくり出した日曜日の行楽客の帰り時間と重なって、満員電車に揺られて帰ることになりかねない。美術塾と写真塾との合同合宿を少し早めに失礼して、江ノ電・東海道線・京浜東北線と乗り継いで、上野に着いたのは、午後四時を少しまわった頃だった。
雨もあがり、夕食に間に合うように帰るには、一時間ほどは上野で過ごす時間がありそうだ。今年は春の花の開花が軒並み遅れているから、上野のお山の桜も、まだまだその兆候はないに違いないが、様子見がてら散歩してみることにした。
JR上野駅から京成上野駅に向かう道すがら、大きな旅行用スーツケースをガラガラと引きずっていく人たちの中に、いつもより外国人が多かった。春の訪れと共に、外国人旅行者の数も増えてきているのだろうか。
広小路方面から園内に入り写真を撮っていると、
「シャッターを押していただけないでしょうか」
と、クセのないきれいな日本語で話しかけられた。五十歳前後の人で、十人ほどの人たちが後ろにひかえていた。最年少は十歳前後の女の子、最高齢は八十歳ほどの老人、家の子郎等を引き連れて日本に観光に来たらしかった。
日本語を話せるのはその男性だけで、ほかの人が使っていたのは中国語のようだった。となると、シャッターを押す際のかけ声は、「チーズ」と言っても分からないだろうし、「イー・アル・サン」と言うのもいやだし、
「ワン・ツウ・スリー・はい…でシャッターを押しますよ」
結局、そうすることにした。皆、にこやかに笑って写真におさまった。そして、「ありがとうございました」
と丁寧なお礼の言葉を残して、そろって園内に向かっていった。
思い起こせば、去年の春は、東日本大震災直後で、花見のイベントを自粛するところが多かった。花見の名所ここ上野公園でも、震災・計画停電などに配慮するとして、お節介にも園内での宴会の自粛を呼びかける看板を設置していた。行政に言われるまでもなく、悲劇を体験した庶民は、心静かに桜を愛でる心性くらいは持ち会わせているはずなのだ。
こんなこともあった。例のナベツネ氏のことである。今年もプロ野球の開幕日まであと二週間を切ったが、計画停電に配慮して、パ・リーグは開幕日の延期を決めた。ところがセ・リーグは3月25日開幕を譲ろうとしなかった。さらに読売ジャイアンツは、東京ドームでナイターの試合を強行しようとした。その背景には、ナベツネ氏の横暴さがあったのだった。
上野公園の桜が咲くのは、かなり先のことになりそうだが、園内はすでに花見の準備が進んでいた。桜並木が続く大噴水へと通じる道の両側には、すでに提灯がつるされていて、あとは桜が咲いてくれるのを待つばかりになっていた。
雨もあがり、夕食に間に合うように帰るには、一時間ほどは上野で過ごす時間がありそうだ。今年は春の花の開花が軒並み遅れているから、上野のお山の桜も、まだまだその兆候はないに違いないが、様子見がてら散歩してみることにした。
JR上野駅から京成上野駅に向かう道すがら、大きな旅行用スーツケースをガラガラと引きずっていく人たちの中に、いつもより外国人が多かった。春の訪れと共に、外国人旅行者の数も増えてきているのだろうか。
広小路方面から園内に入り写真を撮っていると、
「シャッターを押していただけないでしょうか」
と、クセのないきれいな日本語で話しかけられた。五十歳前後の人で、十人ほどの人たちが後ろにひかえていた。最年少は十歳前後の女の子、最高齢は八十歳ほどの老人、家の子郎等を引き連れて日本に観光に来たらしかった。
日本語を話せるのはその男性だけで、ほかの人が使っていたのは中国語のようだった。となると、シャッターを押す際のかけ声は、「チーズ」と言っても分からないだろうし、「イー・アル・サン」と言うのもいやだし、
「ワン・ツウ・スリー・はい…でシャッターを押しますよ」
結局、そうすることにした。皆、にこやかに笑って写真におさまった。そして、「ありがとうございました」
と丁寧なお礼の言葉を残して、そろって園内に向かっていった。
思い起こせば、去年の春は、東日本大震災直後で、花見のイベントを自粛するところが多かった。花見の名所ここ上野公園でも、震災・計画停電などに配慮するとして、お節介にも園内での宴会の自粛を呼びかける看板を設置していた。行政に言われるまでもなく、悲劇を体験した庶民は、心静かに桜を愛でる心性くらいは持ち会わせているはずなのだ。
こんなこともあった。例のナベツネ氏のことである。今年もプロ野球の開幕日まであと二週間を切ったが、計画停電に配慮して、パ・リーグは開幕日の延期を決めた。ところがセ・リーグは3月25日開幕を譲ろうとしなかった。さらに読売ジャイアンツは、東京ドームでナイターの試合を強行しようとした。その背景には、ナベツネ氏の横暴さがあったのだった。
上野公園の桜が咲くのは、かなり先のことになりそうだが、園内はすでに花見の準備が進んでいた。桜並木が続く大噴水へと通じる道の両側には、すでに提灯がつるされていて、あとは桜が咲いてくれるのを待つばかりになっていた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
日本橋…戦禍の跡
徒然草に登場する仁和寺の法師は、よくバカなことをしでかして、物笑いの種となることが多い。第五十二段に登場する法師もその一人なのである。この五十二段は、以下のように始まる。
『仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。』(「里実文庫第T期」より。以下同様)
この法師は、石清水に詣でるために一人で出かけた。初めての参詣だというのに、案内役を頼まなかった。
『極楽寺・高良かうらなどを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。 』
極楽寺・甲良大明神は、男山という山の麓にある。この法師、麓の寺社だけを拝んで、これで長年の願いが果たせたと、さっさと帰ってしまったのだった。
『さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ことかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 』
じつは、岩清水八幡宮は、男山の山頂にある。この法師は、そのことを知らずに、長年の夢が果たせたと喜んで、山頂の石清水八幡宮拝まずに帰ってしまうという失態を演じてしまったのだ。そこで、兼好おじさんは次のように教訓をたれる。
『少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。』
日本橋地域には、今までに何回も来たことがある。日本橋をはじめとして、周辺の観光スポットを、一人で歩いて写真を撮ったこともある。しかし今回、ガイドさんに案内されて歩きまわってみると、確かに兼好おじさんが言う通り、『先達(案内者)』は必要だと感じた。今までに足を向けたことのないような場所を訪れたり、あるいは今までに行ったことのある場所でも、新たな事実教えてもらったり、という具合だった。仁和寺の法師のことを笑ってばかりはいられない。
日本橋を渡ったことは何回もあるが、日本橋の敷石に焼夷弾の跡が今でも残っていることは、今回初めて知った。ガイドさんに教えられて、足もとに目を落としてみれば、確かに敷石の一部が欠けていたり、茶色に変色したりしている箇所があった。ガイドさんによれば、それが焼夷弾が落ちた痕跡ということなのだ。修理しようという話もあったそうだが、結局残しておくことになったそうだ。東京のど真ん中の日本橋に、今なお戦争の爪痕が残っている。
さらに鮮明な焼け焦げた痕跡があった。ガイドさんに伺うと、首をかしげていたから、焼夷弾の跡ではないのだろう。たしかに新しいもののようだった。しかし、どうしてこんな所に焦げ跡が残っているのだろうか。
『仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。』(「里実文庫第T期」より。以下同様)
この法師は、石清水に詣でるために一人で出かけた。初めての参詣だというのに、案内役を頼まなかった。
『極楽寺・高良かうらなどを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。 』
極楽寺・甲良大明神は、男山という山の麓にある。この法師、麓の寺社だけを拝んで、これで長年の願いが果たせたと、さっさと帰ってしまったのだった。
『さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ことかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 』
じつは、岩清水八幡宮は、男山の山頂にある。この法師は、そのことを知らずに、長年の夢が果たせたと喜んで、山頂の石清水八幡宮拝まずに帰ってしまうという失態を演じてしまったのだ。そこで、兼好おじさんは次のように教訓をたれる。
『少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。』
日本橋地域には、今までに何回も来たことがある。日本橋をはじめとして、周辺の観光スポットを、一人で歩いて写真を撮ったこともある。しかし今回、ガイドさんに案内されて歩きまわってみると、確かに兼好おじさんが言う通り、『先達(案内者)』は必要だと感じた。今までに足を向けたことのないような場所を訪れたり、あるいは今までに行ったことのある場所でも、新たな事実教えてもらったり、という具合だった。仁和寺の法師のことを笑ってばかりはいられない。
日本橋を渡ったことは何回もあるが、日本橋の敷石に焼夷弾の跡が今でも残っていることは、今回初めて知った。ガイドさんに教えられて、足もとに目を落としてみれば、確かに敷石の一部が欠けていたり、茶色に変色したりしている箇所があった。ガイドさんによれば、それが焼夷弾が落ちた痕跡ということなのだ。修理しようという話もあったそうだが、結局残しておくことになったそうだ。東京のど真ん中の日本橋に、今なお戦争の爪痕が残っている。
さらに鮮明な焼け焦げた痕跡があった。ガイドさんに伺うと、首をかしげていたから、焼夷弾の跡ではないのだろう。たしかに新しいもののようだった。しかし、どうしてこんな所に焦げ跡が残っているのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 01:11| 里ふくろうの日乗
2012年03月16日
日本橋のまち歩き
千葉県東方沖を震源とする最大震度5強の地震があった日、写真の会の集まりがあった。今までは会って・食べて・飲んでの集まりだったが、今回は幹事さんの発案で、ボランティアガイドをお願いして、日本橋界隈のまち歩きとあいなった。一汗かいた後は、いつものごとく乾杯、予定している場所は築地ということだった。
ガイドさんは、中央区文化財サポーター協会から派遣されたそれなりに歳を重ねた女性だった。銀色に輝くサングラスをかけ、スニーカーを履き、背筋をピンと伸ばした姿からは、いかにも健脚という印象が伝わってくる。
【中央区文化財サポーター協会】
協会には、中央区の養成講座を修了した人が、まち歩きボランティアガイドとして認定・登録されている。中央区の史跡・旧跡・名所などの見どころを中央区の史跡・旧跡・名所などの見どころを見て回る際、協会に申し込めば、認定ガイドさんに案内していただくことができる。
〔申込方法〕
○3人以上のグループ
○10:00から16:00間で、一回り2時間程度
○費用は300円/人
○利用日の3週間前までに、TELまたはFAXで申し込む
おすすめコースは、8つ用意されているが、それ以外のコースの希望があれば、問い合わせれば可能になる場合もあるそうだ。
今回我々が依頼したのは、基本中の基本の「江戸東京400年のルーツを歩く〜日本橋編〜」というコース、ただしカメラでパチリパチリと撮りながらの散策、おまけに、それぞれが興味の赴くままに寄り道をするものだから、予定されていたコースの全部を回りきることはできなかった。ガイドさんは、たぶんやりにくくて、ストレスがたまったことだろう。
■集合場所…コレド日本橋
ガイドさんは、中央区文化財サポーター協会から派遣されたそれなりに歳を重ねた女性だった。銀色に輝くサングラスをかけ、スニーカーを履き、背筋をピンと伸ばした姿からは、いかにも健脚という印象が伝わってくる。
【中央区文化財サポーター協会】
協会には、中央区の養成講座を修了した人が、まち歩きボランティアガイドとして認定・登録されている。中央区の史跡・旧跡・名所などの見どころを中央区の史跡・旧跡・名所などの見どころを見て回る際、協会に申し込めば、認定ガイドさんに案内していただくことができる。
〔申込方法〕
○3人以上のグループ
○10:00から16:00間で、一回り2時間程度
○費用は300円/人
○利用日の3週間前までに、TELまたはFAXで申し込む
おすすめコースは、8つ用意されているが、それ以外のコースの希望があれば、問い合わせれば可能になる場合もあるそうだ。
今回我々が依頼したのは、基本中の基本の「江戸東京400年のルーツを歩く〜日本橋編〜」というコース、ただしカメラでパチリパチリと撮りながらの散策、おまけに、それぞれが興味の赴くままに寄り道をするものだから、予定されていたコースの全部を回りきることはできなかった。ガイドさんは、たぶんやりにくくて、ストレスがたまったことだろう。
■集合場所…コレド日本橋
posted by 里実福太朗 at 23:00| 里ふくろうの日乗
2012年03月14日
千葉県東方沖を震源とする震度5強の地震
成田方面に向かって走っていた電車が急停車した。急停車の反動なのか、車体がユラーリユラーリと揺れ続けている。急停車の反動で、これほどの揺れが発生するものだろうか、それに左右の揺れなのだ。電車は止まったまま動かない。しばらくして揺れは収まった。かなり大きな揺れだった。
車内アナウンスが、地震が発生したため急停車した理由を伝えた。やはり地震だったのだ。揺れの大きさからすると、かなり大きな地震のようだった。車内は意外と静かだった。ケータイやスマートフォンの画面に見入っている人が多い。
私もスマートフォンで、「地震速報」を検索してみた。アクセスが集中してなかなか繋がらないかもしれないと思ったが、案外早く地震情報が表示された。
発表日時:14日21時16分
発生時刻:12年03月14日21時05分
○震央のおおよその位置
千葉県東方沖
深さ10キロメートル
○地震の規模
M6.1
○地点震度情報
〔震度5強〕
神栖市波崎、銚子市若宮町
…
佐倉市は、震度4だった。久しぶりの震度4だった。家にメールを送ったが、こちらもすんなりと送信できた。
停車している場所は、よく分からなかった。京成沿線の風景は飽きるほど見てきたが、見当がつかなかった。そのうち電車は、ノロノロと動き出した。車内アナウンスによれば、安全が確認されるまで、徐行運転を続けるということだった。
電車が動き出して、すぐに「京成中山駅」を通過した。そして9時34分、八千代台駅まで安全が確認されたので、通常の運転に戻るというアナウンスが入った。
千葉県東方沖を震源とする震度5強の地震が発生してから、24時までの間に、千葉県東方沖を震源とする地震が以下のように頻発している。
21時05分 千葉県東方沖 M6.1
21時16分 千葉県東方沖 M3.1
21時25分 千葉県東方沖 M3.7
21時27分 千葉県東方沖 M3.7
21時29分 千葉県東方沖 M3.6
21時40分 千葉県東方沖 M3.1
21時58分 千葉県東方沖 M3.2
21時59分 千葉県東方沖 M3.7
22時25分 千葉県東方沖 M3.4
22時28分 宮城県沖 M4.0
22時29分 千葉県東方沖 M4.5
22時52分 千葉県東方沖 M3.4
23時37分 千葉県東方沖 M3.2
21時16分の地震の余震なのかもしれないが、今までこのように連続して発生することはなかっただけに、なんとなくいやな感じがする。今後、千葉県東方沖が落ち着いてくれることを祈り、地震への備えを怠りなくしておくことにしよう。
車内アナウンスが、地震が発生したため急停車した理由を伝えた。やはり地震だったのだ。揺れの大きさからすると、かなり大きな地震のようだった。車内は意外と静かだった。ケータイやスマートフォンの画面に見入っている人が多い。
私もスマートフォンで、「地震速報」を検索してみた。アクセスが集中してなかなか繋がらないかもしれないと思ったが、案外早く地震情報が表示された。
発表日時:14日21時16分
発生時刻:12年03月14日21時05分
○震央のおおよその位置
千葉県東方沖
深さ10キロメートル
○地震の規模
M6.1
○地点震度情報
〔震度5強〕
神栖市波崎、銚子市若宮町
…
佐倉市は、震度4だった。久しぶりの震度4だった。家にメールを送ったが、こちらもすんなりと送信できた。
停車している場所は、よく分からなかった。京成沿線の風景は飽きるほど見てきたが、見当がつかなかった。そのうち電車は、ノロノロと動き出した。車内アナウンスによれば、安全が確認されるまで、徐行運転を続けるということだった。
電車が動き出して、すぐに「京成中山駅」を通過した。そして9時34分、八千代台駅まで安全が確認されたので、通常の運転に戻るというアナウンスが入った。
千葉県東方沖を震源とする震度5強の地震が発生してから、24時までの間に、千葉県東方沖を震源とする地震が以下のように頻発している。
21時05分 千葉県東方沖 M6.1
21時16分 千葉県東方沖 M3.1
21時25分 千葉県東方沖 M3.7
21時27分 千葉県東方沖 M3.7
21時29分 千葉県東方沖 M3.6
21時40分 千葉県東方沖 M3.1
21時58分 千葉県東方沖 M3.2
21時59分 千葉県東方沖 M3.7
22時25分 千葉県東方沖 M3.4
22時28分 宮城県沖 M4.0
22時29分 千葉県東方沖 M4.5
22時52分 千葉県東方沖 M3.4
23時37分 千葉県東方沖 M3.2
21時16分の地震の余震なのかもしれないが、今までこのように連続して発生することはなかっただけに、なんとなくいやな感じがする。今後、千葉県東方沖が落ち着いてくれることを祈り、地震への備えを怠りなくしておくことにしよう。
posted by 里実福太朗 at 23:55| 里ふくろうの日乗
2012年03月12日
311大地震の前兆
「tenki.jp」で、2011年3月11日14:46分以前に発生した地震を確認してみればすぐ分かることだが、三陸沖を震源をとする地震が、3月9日から頻繁に発生していたのだ。
3月9日11時45分に震度5弱のかなり大きな地震が発生して以来、あの大地震発生までの間、なんと30回も三陸沖を震源とする地震が発生していた。これはかなり異常な状態と考えた方がよかったのではないだろうか。いまから思えば、ということになるけれど、素人目にも大地震発生の確率が高まっていることが強く感じられるデータだ。
地震学の専門家は、この異常な地震発生状況をどう捉えていたのだろうか。
(データは、「tenki.jp」より)
3月9日11時45分に震度5弱のかなり大きな地震が発生して以来、あの大地震発生までの間、なんと30回も三陸沖を震源とする地震が発生していた。これはかなり異常な状態と考えた方がよかったのではないだろうか。いまから思えば、ということになるけれど、素人目にも大地震発生の確率が高まっていることが強く感じられるデータだ。
地震学の専門家は、この異常な地震発生状況をどう捉えていたのだろうか。
(データは、「tenki.jp」より)
posted by 里実福太朗 at 01:16| 里ふくろうの日乗
2012年03月11日
2012年03月10日
新聞投稿『この地で生きたいから「減染」』の問題点
朝日新聞の「声」欄(2012年3月10日)に、『この地で生きたいから「減染」』と題する投書が載っている。投稿者は千葉県佐倉市に住む40代の女性である。その投書の中で、投稿者自身が住む地域の放射能汚染の状況について、以下のように述べている。
『私が住む地域は福島から距離はあるが、国から助選の財政支援が受けられる「汚染状況重点調査地域」に指定されている。近所の人たちと定期的に家の周りの放射線量を測定しているが、指定の条件である毎時0.23マイクロシーベルトなどという数字は簡単に超えてしまう。』
私だけではなく、佐倉市在住の人の多くは、一読して、説明に言葉足らずな面があり、佐倉市全域で高線量が測定されているという誤解を引き起こすおそれがあると危惧したのではないだろうか。
確かに、測定結果が佐倉市で定める対策目標値(毎時0.223マイクロシーベルト)を上回った地域・施設は存在する。ただし、それは佐倉市内の限られた地域であって、佐倉市の多くの地域では投稿者が言うような『毎時0.23マイクロシーベルトなどという数字は簡単に超えてしまう』という状況にはなっていない。
汚染状況の実態については、佐倉市が継続的に行ってきた調査で明らかになっている。佐倉市の公式ウェブサイトに掲載されている「除染計画の改訂について」では、以下のように記されている。
『調査の結果、緊急実施基本方針において、市町村が除染計画を策定する必要がある「追加被ばく線量が概ね年間1から20ミリシーベルトの間の地域」に該当する場所があることが判明しています。
また、全体的な傾向として、市の西部地域の空間放射線量が比較的高い傾向があることが分かっています。
放射性物質は雨水などの影響により偏在し、局所的に線量率の高い所があるといわれており、詳細な調査が必要となることが予想されることから、これまでの調査結果を参考に、よりきめの細かい調査を実施していく必要があります。 』
◆除染計画の改訂について
(最終更新日:2011年(平成23年)12月1日)
→ http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/jyosen_housyasen_kai2.html
市の調査結果を参照して推察すれば、投稿者のお住まいは佐倉市の西部の地域ではないかと思われる。線量が周辺よりも比較的高く、不安な日々を過ごしていらっしゃると想像する。それでもなお、佐倉の地で生きていきたいともおっしゃっている。同じ佐倉の地であっても、こういう差違が生じる現実に、放射能汚染の不条理さを思わざるを得ない。
空間線量以外の汚染状況の調査も、継続して行われている。以下に、水道水・ごみ焼却処理施設から排出される飛灰等・原料汚泥及び肥料に関する測定データへのリンクを設けておく。いずれの測定においても、放射性物質は不検出あるいは基準値以下という結果になっている。
◆佐倉市内の水道水中の放射性物質の測定結果について
…平成24年3月6日午後00時20分現在
【3月5日採水分】
(単位:ベクレル/kg)
〔出典〕
→ http://www.city.sakura.lg.jp/suido/jigkanri/original/news/sokuteikekka.htm
◆佐倉市、酒々井町清掃組合ごみ焼却処理施設から排出される飛灰等の放射性物質の測定結果について
(最終更新日:2012年(平成24年)3月6日)
『佐倉市の家庭ごみなどを処理している佐倉市、酒々井町清掃組合(酒々井町墨)では、ごみ焼却処理施設から排出される飛灰、不燃残渣、排出ガス及び放流水について、平成24年2月17日に採取を行い、放射性物質の測定を行いました。その結果、飛灰及び不燃残渣とも、環境省の基準値8,000ベクレル/sを下回っていました。また、排出ガス及び放流水については不検出でした。』
〔出典〕
→ http://www.city.sakura.lg.jp/haiki_taisaku/osirase/osirase_sokuteikekka.html
【測定結果】
佐倉市、酒々井町清掃組合のホームページ
→ http://www.ss-seisou.jp/010/housyanou.pdf
◆印旛衛生施設管理組合における原料汚泥及び肥料についての放射性物質の測定結果について
(最終更新日:2012年(平成24年)3月6日)
〔出典〕
→ http://www.city.sakura.lg.jp/haiki_taisaku/osirase/osirase_innbaeisei.html
『佐倉市市内のし尿、浄化槽汚泥を処理している印旛衛生施設管理組合(佐倉市宮本)では、し尿等を処理し肥料として再生していますが、このほど原料汚泥及び肥料について放射性物質の測定を行いました(2月16日測定分)。
その結果は下表のとおりであり、放射性セシウム濃度は、原料汚泥39ベクレル/kg、肥料171ベクレル/sでした。いずれも、農林水産省の基準値(原料汚泥200ベクレル/kg、肥料400ベクレル/s)を下回っていました。』
【測定結果】最新測定日:H23.2.16
印旛衛生施設管理組合のHP
http://www.inba-eisei.jp/download/houshasei.pdf
『私が住む地域は福島から距離はあるが、国から助選の財政支援が受けられる「汚染状況重点調査地域」に指定されている。近所の人たちと定期的に家の周りの放射線量を測定しているが、指定の条件である毎時0.23マイクロシーベルトなどという数字は簡単に超えてしまう。』
私だけではなく、佐倉市在住の人の多くは、一読して、説明に言葉足らずな面があり、佐倉市全域で高線量が測定されているという誤解を引き起こすおそれがあると危惧したのではないだろうか。
確かに、測定結果が佐倉市で定める対策目標値(毎時0.223マイクロシーベルト)を上回った地域・施設は存在する。ただし、それは佐倉市内の限られた地域であって、佐倉市の多くの地域では投稿者が言うような『毎時0.23マイクロシーベルトなどという数字は簡単に超えてしまう』という状況にはなっていない。
汚染状況の実態については、佐倉市が継続的に行ってきた調査で明らかになっている。佐倉市の公式ウェブサイトに掲載されている「除染計画の改訂について」では、以下のように記されている。
『調査の結果、緊急実施基本方針において、市町村が除染計画を策定する必要がある「追加被ばく線量が概ね年間1から20ミリシーベルトの間の地域」に該当する場所があることが判明しています。
また、全体的な傾向として、市の西部地域の空間放射線量が比較的高い傾向があることが分かっています。
放射性物質は雨水などの影響により偏在し、局所的に線量率の高い所があるといわれており、詳細な調査が必要となることが予想されることから、これまでの調査結果を参考に、よりきめの細かい調査を実施していく必要があります。 』
◆除染計画の改訂について
(最終更新日:2011年(平成23年)12月1日)
→ http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/jyosen_housyasen_kai2.html
市の調査結果を参照して推察すれば、投稿者のお住まいは佐倉市の西部の地域ではないかと思われる。線量が周辺よりも比較的高く、不安な日々を過ごしていらっしゃると想像する。それでもなお、佐倉の地で生きていきたいともおっしゃっている。同じ佐倉の地であっても、こういう差違が生じる現実に、放射能汚染の不条理さを思わざるを得ない。
空間線量以外の汚染状況の調査も、継続して行われている。以下に、水道水・ごみ焼却処理施設から排出される飛灰等・原料汚泥及び肥料に関する測定データへのリンクを設けておく。いずれの測定においても、放射性物質は不検出あるいは基準値以下という結果になっている。
◆佐倉市内の水道水中の放射性物質の測定結果について
…平成24年3月6日午後00時20分現在
【3月5日採水分】
(単位:ベクレル/kg)
〔出典〕
→ http://www.city.sakura.lg.jp/suido/jigkanri/original/news/sokuteikekka.htm
◆佐倉市、酒々井町清掃組合ごみ焼却処理施設から排出される飛灰等の放射性物質の測定結果について
(最終更新日:2012年(平成24年)3月6日)
『佐倉市の家庭ごみなどを処理している佐倉市、酒々井町清掃組合(酒々井町墨)では、ごみ焼却処理施設から排出される飛灰、不燃残渣、排出ガス及び放流水について、平成24年2月17日に採取を行い、放射性物質の測定を行いました。その結果、飛灰及び不燃残渣とも、環境省の基準値8,000ベクレル/sを下回っていました。また、排出ガス及び放流水については不検出でした。』
〔出典〕
→ http://www.city.sakura.lg.jp/haiki_taisaku/osirase/osirase_sokuteikekka.html
【測定結果】
佐倉市、酒々井町清掃組合のホームページ
→ http://www.ss-seisou.jp/010/housyanou.pdf
◆印旛衛生施設管理組合における原料汚泥及び肥料についての放射性物質の測定結果について
(最終更新日:2012年(平成24年)3月6日)
〔出典〕
→ http://www.city.sakura.lg.jp/haiki_taisaku/osirase/osirase_innbaeisei.html
『佐倉市市内のし尿、浄化槽汚泥を処理している印旛衛生施設管理組合(佐倉市宮本)では、し尿等を処理し肥料として再生していますが、このほど原料汚泥及び肥料について放射性物質の測定を行いました(2月16日測定分)。
その結果は下表のとおりであり、放射性セシウム濃度は、原料汚泥39ベクレル/kg、肥料171ベクレル/sでした。いずれも、農林水産省の基準値(原料汚泥200ベクレル/kg、肥料400ベクレル/s)を下回っていました。』
【測定結果】最新測定日:H23.2.16
印旛衛生施設管理組合のHP
http://www.inba-eisei.jp/download/houshasei.pdf
posted by 里実福太朗 at 15:33| 里ふくろうの日乗
2012年03月09日
おにぎりとポン太
神楽坂で写真展の見ての帰途、例の公園に立ち寄ってみた。先週はそぼ降る雨に訪れる人も少なく、ひっそりと静まりかえっていたが、久しぶりの暖かさに誘われてのことだろうか、平日だというのに池の畔の遊歩道を行き来する人は、意外と多かった。
沖縄旅行に出かける前にポン太の姿を見てから、すでに二週間以上経つ。今日こそは、ポン太の姿をカメラにおさめようと意気込んでいたのだが、ポン太の縄張りを何回か往復しても、いっこうにポン太は姿を現さなかった。
あきらめて帰ろうとした時、公園と飲食店とを区切る柵の辺りに黒い小さな姿が見えた。チラッとこちらを見たようだった。しかし、今までのよう「ミャーオ」となきながら小走りで近寄ってはこなかった。逆に、小走りで遠ざかっていった。あわてて後を追ったが、なおも足を速めて逃げていく。後ろ姿に向かって、
「ポン太」
と声を掛けてみると、足を止めて辺りを見回した。まだこちらに気づいてないようだった。もう一度、
「ポンちゃん」
と呼ぶと、やっと視線があった。
顔には、さらに傷が増えていた。加えて、シッポにも傷を負っていた。抗争はまだ続いているのだろうか。
ポン太に会ったら、さっき神楽坂で買い求めた半額おにぎりを食べさせてみようという心づもりがあった。カバンから取り出し、ひとかけらを目の前に置いてみたところ、興味を示して鼻を近づけた。そして食べようとしたが、口の中に少し入れたところで、食べるのをやめてしまった。そこで、おにぎりの上にのっていたテラテラと光る鮭の一切れを与えたところ、それには食らいついたのだった。
以前は行き交う人にはまったく無頓着だったが、しきりに注意を払うようになっていた。人通りが多かったせいなのかもしれないが、なんとなく以前より警戒心が強くなっているように感じられた。ただ、危害を与えるおそれのない人間が近くにいると安心するのだろうか、ひとしきり身繕いをしてから、草をフトンに丸くなってしまった。そしてそのまま、時間がゆったりと流れていった。
沖縄旅行に出かける前にポン太の姿を見てから、すでに二週間以上経つ。今日こそは、ポン太の姿をカメラにおさめようと意気込んでいたのだが、ポン太の縄張りを何回か往復しても、いっこうにポン太は姿を現さなかった。
あきらめて帰ろうとした時、公園と飲食店とを区切る柵の辺りに黒い小さな姿が見えた。チラッとこちらを見たようだった。しかし、今までのよう「ミャーオ」となきながら小走りで近寄ってはこなかった。逆に、小走りで遠ざかっていった。あわてて後を追ったが、なおも足を速めて逃げていく。後ろ姿に向かって、
「ポン太」
と声を掛けてみると、足を止めて辺りを見回した。まだこちらに気づいてないようだった。もう一度、
「ポンちゃん」
と呼ぶと、やっと視線があった。
顔には、さらに傷が増えていた。加えて、シッポにも傷を負っていた。抗争はまだ続いているのだろうか。
ポン太に会ったら、さっき神楽坂で買い求めた半額おにぎりを食べさせてみようという心づもりがあった。カバンから取り出し、ひとかけらを目の前に置いてみたところ、興味を示して鼻を近づけた。そして食べようとしたが、口の中に少し入れたところで、食べるのをやめてしまった。そこで、おにぎりの上にのっていたテラテラと光る鮭の一切れを与えたところ、それには食らいついたのだった。
以前は行き交う人にはまったく無頓着だったが、しきりに注意を払うようになっていた。人通りが多かったせいなのかもしれないが、なんとなく以前より警戒心が強くなっているように感じられた。ただ、危害を与えるおそれのない人間が近くにいると安心するのだろうか、ひとしきり身繕いをしてから、草をフトンに丸くなってしまった。そしてそのまま、時間がゆったりと流れていった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ
2012年03月07日
白馬雪どけ米「ゆめしなの」
写真展「人間漂流」は、今日が最終日だった。今日行かなければ見損なってしまうから、花粉症発症のリスクは承知の上で、花粉が舞い踊る中、神楽坂アユミギャラリーへと出かけたのだった。
ネコの写真が二点、イヌの写真が三点あった。どうしても、そちらの写真に目がいってしまう。イヌ・ネコもそれぞれ、写し方もそれぞれで、勉強になりました。
写真展を見ての帰り、神楽坂を少し下ると、とある店の店頭でお握りを販売していた。
『おにぎり 一個50円』
その張り紙を見て足が止まった。そばにいた店の人が、
「50円のおにぎりは、売り切れました。こちらは100円です」
と言って、ワゴンの中に残っていた4個のおにぎりを指した。コンビニのお握りよりは安いけれど、スーパーでは68円で売っていることもある。買おうか買うまいか思案していると、店の奥からいかにも威勢のよさそうな人が出てきて、
「50円でいいよ」
と言ったものだから、すぐさま残りの4個を買い求めてしまった。
なんでも『信州白馬の雪融け水が育んだ奇跡の極上稀少米』で握ったおにぎりなのだそうだ。そこで、長野の方からいらっしゃったんですかと尋ねると、友人が長野で米作りをしていて、依頼されて販売しているということだった。
ネコの写真が二点、イヌの写真が三点あった。どうしても、そちらの写真に目がいってしまう。イヌ・ネコもそれぞれ、写し方もそれぞれで、勉強になりました。
写真展を見ての帰り、神楽坂を少し下ると、とある店の店頭でお握りを販売していた。
『おにぎり 一個50円』
その張り紙を見て足が止まった。そばにいた店の人が、
「50円のおにぎりは、売り切れました。こちらは100円です」
と言って、ワゴンの中に残っていた4個のおにぎりを指した。コンビニのお握りよりは安いけれど、スーパーでは68円で売っていることもある。買おうか買うまいか思案していると、店の奥からいかにも威勢のよさそうな人が出てきて、
「50円でいいよ」
と言ったものだから、すぐさま残りの4個を買い求めてしまった。
なんでも『信州白馬の雪融け水が育んだ奇跡の極上稀少米』で握ったおにぎりなのだそうだ。そこで、長野の方からいらっしゃったんですかと尋ねると、友人が長野で米作りをしていて、依頼されて販売しているということだった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2012年03月06日
おきなわワールド(2)
全長890メートルの地下の散策が終わると、今度は地上の遊歩道を、入り口の方向へ向かって、逆方向に歩いて行くことになる。まずは「熱帯フルーツ園」を通り抜け、疲れを感じ始めた頃に、「フルーツ茶屋」が設けられている場所に至る。一休みして疲れをとった方がいいよ、と待ち受けている感じもするが、やはり何か飲み物を求めたくなるのは仕方がない。
そこで目をつけたのが、さとうきびジュース。サトウキビをその場で砕いて絞って、ジュースにしてくれる。なにしろ砂糖の素だから、もちろん砂糖など加える必要はない。それでは砂糖水を飲むのと同じではないかということにもなりそうだが、実際に口に含んだ感じはそうではなかった。
最初は、ちょっと青臭さが感じられた。オェッとなるような強烈な青臭さではなく、あくまでもほんのりとかすかに感じるだけで、二口目からはまったく気にならなくなった。砂糖の素だけあって甘みは強いが、ベトベトとした感じはなく、後味はさっぱりとしていた。細長く切ったサトウキビが添えられていて、歯でガリガリとかじって甘みを絞り出して味わう。
途中には、土産店をはじめとして、さまざまな誘惑が待ち受けていて、足を止めて見入っていると、到底集合時間には間に合いそうにもない。急ぎ足で通り過ぎていくより仕方がなかったが、おかげさまで散財せずにすんだ。
〔マンゴーまん〕
〔紅型工房〕
〔南都酒造所〕
〔エイサー広場〕
posted by 里実福太朗 at 23:55| フォト紀行
2012年03月05日
おきなわワールド…玉泉洞
「おきなわワールド」の見どころは、なんといっても鍾乳洞の「玉泉洞」だろう。まだアメリカの統治下にあった1967年、愛媛大学の学術探検部が最初の調査を行ったそうだ。その後も調査が続けられ、次第に鍾乳洞の全容が明らかになっていった。
鍾乳石の数は国内最多の100万本以上、全長は5キロメートルに及ぶという。現在は、そのうちの890メートルが公開されている。全長の五分の一に満たないが、それでも玉泉洞の神秘的な世界を堪能することができる。
鍾乳石の数は国内最多の100万本以上、全長は5キロメートルに及ぶという。現在は、そのうちの890メートルが公開されている。全長の五分の一に満たないが、それでも玉泉洞の神秘的な世界を堪能することができる。
posted by 里実福太朗 at 23:46| フォト紀行
2012年03月03日
新原ビーチのワンちゃん
出迎えてくれたのは、ネコだけではなかった。スタイルのいいイヌまでが、出迎えてくれた。最初はそう思ったのだが、イヌの動きを追っていくと、迎えてくれたのではなかったようだ。
店の裏手に回り込み、物欲しげな顔で中をのぞき込んだ。そうすれば、なにか食べ物にありつけるのだろうか。その日は、残念ながら目論見は外れたようで、トボトボと去っていった。
店の裏手に回り込み、物欲しげな顔で中をのぞき込んだ。そうすれば、なにか食べ物にありつけるのだろうか。その日は、残念ながら目論見は外れたようで、トボトボと去っていった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| フォト紀行
新原ビーチのまねきネコ
ビーチ乗り場の店先で、ネコが「ミャー」とないて出迎えてくれた。毛並みが良くてきれいであるところを見ると、家ネコなのだろう。
もう一匹出迎えてくれたネコがいた。こちらも、「ミャー」と鳴いてくれた。
いつも見ている東京の公園ネコより精悍な面構えをしていて、野生の血を色濃く保っているように見受けられた。しかし近寄ってみると、見かけ倒しで、だらしがなくもコソコソと逃げ出して、少し離れた場所で海を眺めていた。公園ネコたちは、池を眺めて暮らしているが、沖縄のネコは、ひなが海を眺めているようだ。
もう一匹出迎えてくれたネコがいた。こちらも、「ミャー」と鳴いてくれた。
いつも見ている東京の公園ネコより精悍な面構えをしていて、野生の血を色濃く保っているように見受けられた。しかし近寄ってみると、見かけ倒しで、だらしがなくもコソコソと逃げ出して、少し離れた場所で海を眺めていた。公園ネコたちは、池を眺めて暮らしているが、沖縄のネコは、ひなが海を眺めているようだ。
posted by 里実福太朗 at 23:30| フォト紀行
雨の公園
久しぶりで陽の光がさした。何日ぶりのことだろうか。思い返せば、沖縄に出発した日から、雨の日が始まった。沖縄で過ごした四日間も雨だった。こちらに帰ってくれば、雪に見舞われる日もあった。そして今日、やっと遠慮しがちな春の日ざしが訪れた。
雨の降る昨日、公園は訪れる人も少なく物寂しい雰囲気に包まれていた。自由ネコにエサをやる人の姿も見えない。ベンチに横たわっている自由人の姿も見えない。見えるのは、池のほとりや手すりで羽を休める鳥の姿、そして池の中でなにやら作業をしている人の姿…
雨の降る寒い日は、ネコだって濡れるのはいやだから、雨を避けられる暖かい場所を探して潜り込んでいることだろう。ポン太に会うことは無理だろうと思いつつも、縄張りの辺りを一巡りしてみた。新たに縄張りとなった場所に近づいた時、建物の隅、かろうじて雨をしのげそうな場所に一匹のネコを見つけた。
ポン太ではなかったが、見覚えのあるネコだった。
「どうして、そんな寒い場所にいるんだい?」
と声を掛けると、不審げな表情でこちらを見てから背伸びを一つ、そして体の向きを変えて再び座り込んでしまった。
そこに居続けた理由はあとで分かった。池の周囲を歩き回ってその場所に戻ってきた時、そこに小柄な人影が見えた。近づいてみると、先ほどのネコがエサをもらって食べていた。ネコは、エサをくれる人の来る時間が分かっていて、寒いのを我慢してその場所で待っていたのだ。それが証拠に、ネコは食事がすむとどこかへと姿を消した。
雨の降る昨日、公園は訪れる人も少なく物寂しい雰囲気に包まれていた。自由ネコにエサをやる人の姿も見えない。ベンチに横たわっている自由人の姿も見えない。見えるのは、池のほとりや手すりで羽を休める鳥の姿、そして池の中でなにやら作業をしている人の姿…
雨の降る寒い日は、ネコだって濡れるのはいやだから、雨を避けられる暖かい場所を探して潜り込んでいることだろう。ポン太に会うことは無理だろうと思いつつも、縄張りの辺りを一巡りしてみた。新たに縄張りとなった場所に近づいた時、建物の隅、かろうじて雨をしのげそうな場所に一匹のネコを見つけた。
ポン太ではなかったが、見覚えのあるネコだった。
「どうして、そんな寒い場所にいるんだい?」
と声を掛けると、不審げな表情でこちらを見てから背伸びを一つ、そして体の向きを変えて再び座り込んでしまった。
そこに居続けた理由はあとで分かった。池の周囲を歩き回ってその場所に戻ってきた時、そこに小柄な人影が見えた。近づいてみると、先ほどのネコがエサをもらって食べていた。ネコは、エサをくれる人の来る時間が分かっていて、寒いのを我慢してその場所で待っていたのだ。それが証拠に、ネコは食事がすむとどこかへと姿を消した。
posted by 里実福太朗 at 23:00| ねこ
2012年03月02日
新原ビーチ(みーばるビーチ)でグラスボート
二日目からは、バスガイドさんが同乗して添乗さんとの二人体制になった。三日目も同様で、最終日は再び添乗さん一人に戻った。
添乗さんの話し方は、おだやかで、ゆっくりゆっくりとしていて、いかにも南国-沖縄という雰囲気を漂わせていた。バスガイドさんの方は、いつもハイテンションで、言葉を力任せにぶつけてくるような話しぶりで、最前列から二列目に座っていた当方は、不運を嘆かざるを得なかった。
最初の目的地は「新原ビーチ」、グラスボートに乗って海底の珊瑚を見たり、遠浅の海を気持ちよさそうに泳ぐサカナたちを見ることができる。このコースは事前オプションで、申し込まなかった人たちは国際通りの散策で自由時間を過ごす。
船底を長方形にくり抜いて透明板をはめ込み、そこから海底を覗き込む。船が動いている時に覗き続けていると、気分が悪くなっている。さらに見続けていると、吐き気をもよおしてくる。バスガイドさんがそう言っていたが、たしかにその通りで、実際参加者の中には体調が悪くなった人もいた。
ウソかホントか、添乗さんによれば、ビーチにいるサカナたちには名前がつけられているそうだ。サダコという名前のサカナもいるそうで、「サダコ」と呼ぶと近寄ってくるという。それを聞いていたガイドさんがマイクを握ると、サダコはすべてのサカナにつけられた名前で、「サダコ」と呼べば、近くを泳いでいるサカナがみんな寄ってくる…と言っていた。
◆動画
〔新原ビーチの海底散歩−A〕
ファイル形式:WMV
長さ:約3分
〔新原ビーチの海底散歩−B〕
ファイル形式:MOV
長さ:約3分
添乗さんの話し方は、おだやかで、ゆっくりゆっくりとしていて、いかにも南国-沖縄という雰囲気を漂わせていた。バスガイドさんの方は、いつもハイテンションで、言葉を力任せにぶつけてくるような話しぶりで、最前列から二列目に座っていた当方は、不運を嘆かざるを得なかった。
最初の目的地は「新原ビーチ」、グラスボートに乗って海底の珊瑚を見たり、遠浅の海を気持ちよさそうに泳ぐサカナたちを見ることができる。このコースは事前オプションで、申し込まなかった人たちは国際通りの散策で自由時間を過ごす。
船底を長方形にくり抜いて透明板をはめ込み、そこから海底を覗き込む。船が動いている時に覗き続けていると、気分が悪くなっている。さらに見続けていると、吐き気をもよおしてくる。バスガイドさんがそう言っていたが、たしかにその通りで、実際参加者の中には体調が悪くなった人もいた。
ウソかホントか、添乗さんによれば、ビーチにいるサカナたちには名前がつけられているそうだ。サダコという名前のサカナもいるそうで、「サダコ」と呼ぶと近寄ってくるという。それを聞いていたガイドさんがマイクを握ると、サダコはすべてのサカナにつけられた名前で、「サダコ」と呼べば、近くを泳いでいるサカナがみんな寄ってくる…と言っていた。
◆動画
〔新原ビーチの海底散歩−A〕
ファイル形式:WMV
長さ:約3分
〔新原ビーチの海底散歩−B〕
ファイル形式:MOV
長さ:約3分
posted by 里実福太朗 at 23:50| フォト紀行
2012年03月01日
沖縄の天気予報は当たらない?
沖縄での初めての朝を迎えた。天気予報では、晴れるはずだった。しかし、那覇の空は、灰色の雲で覆われていた。そしてホテルを出て、毎朝繰り返されるという通勤時間帯の渋滞に巻き込まれた頃から、雨がバスの窓をポツリポツリと濡らし始めた。
聞くところによれば、沖縄の天気予報は、まずは当たらないものと思っていた方がいいそうだ。そんな具合では天気予報を見ても仕方がないということになってしまうが、なんとか天気が回復するようにと願う心に動かされ、ついつい天気予報を見てしまう。天気予報を確かめることが、青空を実現させるための一種の儀式のようなことになっているのかもしれない。
夫人は、ついにてるてる坊主を作り始めた。以前にも、旅行途中で雨に降られたことがあって、てるてる坊主を作ってみたところ、みごとに効果が現れて雨がやんだということがあった。それ以来自信を深めた夫人は、今回もその効果をねらったのだが、お手製のてるてる坊主も沖縄の天気には勝つことができなかった。
聞くところによれば、沖縄の天気予報は、まずは当たらないものと思っていた方がいいそうだ。そんな具合では天気予報を見ても仕方がないということになってしまうが、なんとか天気が回復するようにと願う心に動かされ、ついつい天気予報を見てしまう。天気予報を確かめることが、青空を実現させるための一種の儀式のようなことになっているのかもしれない。
夫人は、ついにてるてる坊主を作り始めた。以前にも、旅行途中で雨に降られたことがあって、てるてる坊主を作ってみたところ、みごとに効果が現れて雨がやんだということがあった。それ以来自信を深めた夫人は、今回もその効果をねらったのだが、お手製のてるてる坊主も沖縄の天気には勝つことができなかった。
posted by 里実福太朗 at 23:41| フォト紀行