2012年10月30日

自由人の問わず語り

いつの間にか陽は大きく西へ傾き、おもいおもいに過ごしていた自由ネコたちの影も、西日を受けて長くのびるようになっていた。ネコ公園にエサやり時間までに帰ろうと思っていたのに、思いがけなくもここで、長い時間を費やしてしまった。今から帰っても、もうエサやりの時間には間に合いそうにもないが、自由人には会えるかもしれない。

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ネコ公園に着いた時には、もうすでに陽は落ちきり、ひと気が失せた園内は闇に包まれていた。エサ場に行ってみると、段ボールが置かれたままになっていた。その段ボールが、何時間か前にネコサポーターが来て、エサをやって帰ったことを教えてくれる。段ボールが一枚あれば、地面から伝わる冷気を防ぐことができる。ネコの体を冷気から守る座布団代わりとして、ネコサポーターはどこからか段ボールを調達してくるのだ。だから段ボールがあることが、彼らが来たことの証拠になる。

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昼間いなかった自由人は、もう戻っているだろうか。足はおのずと彼ら二人が暮らす場所へと向かう。池の周りの街灯と周囲のビルの窓明かりが、かろうじて園内の様子を浮き上がらせてくれる。薄明かりの中に、うごめく二つの影があった。ちょうど彼らは、簡易仮設住宅を組み立ているところだった。

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忙しそうに立ち働いているのを邪魔しては申し訳ないので、少し遠目から眺めていると、向こうからこちらの姿を認めて声をかけてきた。
「こんばんは」
「おじゃまじゃないですか」
「いえ…雨にやられた段ボールを全部取り替えたんですよ」
声がだいぶ出るようになっていた。前かがみになっていた姿勢も、真っ直ぐのびていた。
「胸はまだ痛みますか」
「まだ、ちょっとね。夕べ、足慣らしのためにちょっと遠出してみたけど、まあ大丈夫そうだ」
「それはよかった。動けなくなってしまったら、いよいよ生活保護を受けなければならなくなるかもしれないから、それを心配してたんですけど…」

こんな話になった時、自由人は自分の境遇を自ら話し始めた。以前はどんな仕事をしていたのか。いつ頃、なぜ、ホームレスになったのか。そんなことを、悪びれることなく淡々と問わず語りに語ったのだった。彼が語った内容はプライバシーに関わることだから、ここに記すことはできない。いずれ彼がこちらの世界に戻ってきたとき、差し支えなければ書き留めておくことにする。今は、無事その日を迎えられることを、祈っていることにしよう。

ネコが一匹やってきて、ビルの窓にそのシルエットが映った。姿格好からすると、あれはチャコかもしれない。呼んでみたが、顔をこちらに向けただけだった。

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posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月29日

ゲートブリッジでのネコとの遭遇

恐竜橋の途中まで歩いて行ったのだけれど、時間の関係で引き返すことにした。あくまでも時間の関係で、ということだ。決して、高所を歩き続けることに、身体的にも精神的にも限界に達したというわけではない。途中で引き返したのは、ネコ公園でのエサやり時間に遅れないようにしたいがためなのだ。それに、自由人の怪我の状態も気がかりだった。

若洲昇降施設のエレベーターで地上に戻ると、出迎えてくれたのはネコだった。逃げることなくこちらに向かってくるところを見ると、自由ネコに違いない。自由ネコが野良猫と違う点は、自分たちに危害を与えるおそれのある人間と、ネコにやさしい人間とを識別する能力に優れている点である。野良猫は、やみくもに人間を恐れて逃げ去ってしまう。

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かくして若洲公園で、自由ネコを撮影することに相成ったのである。ネコは三匹、クロとミケと茶トラという具合に、三種類の毛並みのネコがそろっていた。片方の耳の上端に、三角形の切り込みが入っている。これは、避妊手術をした印であろう。

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ミケがカメラリュックの近くにいる時、通りすがりの男女の二人連れが興味を示し、そこに座り込んだ。二人ともネコ好きなんだろう。たいして注意を払うことなく、写真を撮ることに没頭していた。時々、そちらに目を向けると、女の方がミケに覆い被さるようにしているふうだった。ちょっと気にはなったが、そのまま撮影を続けていた。

しばらくして、その男女は立ち去っていった。レンズを交換しようとして、リュックを置いた場所に戻ったところ、あることに気づいた。チャックが開いていたのだ。やられたと思った。ミケの上に覆い被さるようにすれば、すぐ横にあるリュックの上にも覆い被さることになり、こちらに気づかれないようにチャックをあけることができるのだ。

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二人はレンズには興味がなかったようで、盗まれることなくリュックの中にあった。貴重品類も、いつもショルダーバッグに入れて、撮影の時も肩からさげて動き回っているから、被害はなかった。二人は、たぶん舌打ちでもしながら立ち去ったことだろう。日本でもこういうことがあるんですね。気をつけなければ。

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2012年10月27日

新居訪問

新居は赤坂、さぞかし家賃は高く給料のすべてがその支払いで吹っ飛んでしまうのではないかと思いきや、そうでもないらしく自分の給料に見合うアパートを探したようだ。それにしても赤坂は赤坂、物価は高く日常生活を営むには不向きな土地柄ではないかと心配が先立つが、本人が下した決断だから見守っていくより仕方がない。

赤坂なんて、絶えて久しく行く機会はなかった。最寄り駅は、昔は地下鉄銀座線の赤坂見附駅くらいしかなかったと記憶しているが、今は千代田線赤坂駅などがができて、アクセスの方法も多種多様となった。

赤坂という地名通り坂が多い地形なので、年寄りが歩き回るにはちょっと辛いものがあるが、物珍しさも手伝ってお上りさん気分でウロウロ見物してきた。名のみきく赤坂サカスでは、TBSをはじめ周囲の高層ビル群を見上げ、一ツ木通りを行き来して、横道の奥に大鳥居を見つければ、その鳥居をくぐって赤坂日枝神社にも参拝した。

〔赤坂サカス〕
赤坂ギャラリーでは、被災地の小中高生たちが撮った「I TIE ☆ 会いたいプロジェクト」写真展が催されていた。
http://i-tie.jp/

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〔一ツ木通り〕
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〔赤坂日枝神社〕
お日柄も良く、結婚式や少し早めの七五三のお祝いなどで賑わっていた。

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エスカレーター
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2012年10月26日

揺れる東京ゲートブリッジ

エレベーターを8階で降りると、すぐ歩行者用道路に入ることができる。歩道は車道の北側だけに設けられている。幅はかなり広く、4・5人が横一列に並ぶこともできそうだ。恐竜橋に至るまでのアプローチ部分の柵は、女性の肩あたりまで、背の高い人間から見れば、少し低いような感じがする。

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歩いていると、揺れを感じることがあった。時おり吹く風のせいなのか、それとも通行する大型ダンプのせいなのか、どちらのせいか定かではないが確かに揺れる。そのとたん、足がすくむ。そして、自分が高い橋の上を歩いていることが意識にのぼる。水面に、我が身が吸い込まれていく場面が頭に浮かぶ。こうなると、もういけない。引き返したいと思うが、まだ歩き始めたばかり、ここは我慢のしどころだ。しかし、それにしても揺れる。

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そうだ、水面が見えないようにできるだけ柵から離れた場所、車道側を歩けばいいのではないか。実際、そのようにしてみたら、いくぶん恐怖心が和らいだ。冷静さを取り戻し、頭を上げて前方を見れば、私と同じように車道の左側にピッタリと近寄って歩いている人がいた。彼女も、きっと高所恐怖症に違いない。今の気持ち、よく分かります。もう二度と来たくない、と思っていることだろう。

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〔東京ゲートブリッジの概要〕
東京港臨海道路U期事業は、物流車両のスムーズな通行を目的として、江東区若洲と中央防波堤外側埋め立て地(4.6q)を結ぶ臨港道路を整備する事業です。

東京ゲートブリッジは臨海道路U期事業の橋梁区間(2,618m)です。
東京ゲートブリッジはフォルムが特徴的ですが、このフォルムの理由は主に2つあります。
 ・羽田空港に近接しているため、建造する高さに制限がある
 ・航路を跨ぐため、安全な船舶航行のための桁下高さが必要
このため、高い主塔が必要な吊り橋や斜張橋ではなく、「トラスト構造」を採用し、物流車両など一日に3.2万台が通行する橋梁の安定性と耐久性を確保しています。
(説明板より)

なお、別名「恐竜橋」と呼ばれるゆえんの主橋梁部の橋長は、760mである。

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posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

東京ゲートブリッジまで

〔新木場駅まで〕
◇東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線「新木場駅」
◇JR京葉線武蔵野線
◇りんかい線

〔新木場駅→若洲公園キャンプ場前〕
◇都バス「木11系統 若洲キャンプ場行き」
乗車:新木場駅バス乗り場@番
下車:若洲キャンプ場前
料金:200円
乗車時間:約15分
注:バスの本数は少ない

駅前ロータリーの真ん前に、NECソフトのビルがある。勤めていたころ、NECソフトのSEの人と一緒に仕事をしたことがあった。木場の方から来ているとい言っていたが、こんな所に本社ビルがあった。

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@番乗り場でバスを待っていると、次第に私と同じようなスタイルの人が集まってきた。ただし彼ら・彼女らは、皆三脚を持っていた。同じバスに乗るのであれば、ゲートブリッジの撮影に行くと思われるが、どうして三脚などが必要なのだろう。その疑問はあとで解決した。ライトアップされたゲートブリッジを撮影するためだった。

〔若洲キャンプ場前→ゲートブリッジ〕
案内板に従って、徒歩5・6分程度で「若洲昇降施設」に着く。ゲートブリッジに出るには、そのエレベーターで8階までのぼる。

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posted by 里実福太朗 at 14:46| 里ふくろうの日乗

2012年10月25日

自由人のその後

自由人の怪我の状態が気がかりで、少し早めに家を出て例の公園に行ってみた。しかし、残念ながら彼の姿は見えなかった。いつも起居を共にしているもう一人の自由人はいたが、就寝中だった。その人は、夜の方が空きカンを集めやすいということで、夜通し歩き回って集めているそうだ。きっと徹夜の仕事をのあとで、疲れ切って寝ているのだから、声を掛けて相棒の様子を尋ねることはできない。

ポン太をはじめとして自由ネコたちの姿も、まったく見あたらない。エサ場近くの建物の裏側にまわってみると、立ち入り禁止の柵の向こう側に、フウ太とチビが体を寄せ合って寝ていた。呼んでみたが、何の反応もなかった。午後になって、ネコサポータたちがやってくるまで、きっと午睡の時間は続くことだろう。

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エサやりの時間までは、まだだいぶ間がある。そういうこともあろうかと思って、時間つぶしの方策を考えておいた。以前行われた写真塾のゲートブリッジでの撮影会に、都合が悪くて参加できなかった。

ここのところ冷え込む日が増えてきて、寒風吹きすさぶ東京湾にかかる橋の上を歩くことなど、御免被りたい季節はもうそこまでやって来ている。風がなく、穏やかな陽の射す日こそ、橋の上を歩くには絶好のチャンスなのだ。

posted by 里実福太朗 at 23:57| 里ふくろうの日乗

2012年10月23日

自由人の災難

陽が西へ傾き始めたころになって、やっとフウ太とチビが動き始めた。チビは体を低くして、匍匐前進よろしくそろそろとなにかに狙いを定めて進んでいる。チビの視線の先には、カラスがいた。

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その成り行きを興味深く見守っていると、突然背後から声を掛けられた。
「こんにちは」
チビの動きに気を取られ、うしろに人がいることに気がつかなかった。振り返ってみれば、そこにはあの自由人が立っていた。先方からこんな風に声をかけてくるのは初めてのことだった。無精ひげをはやし、心持ちやつれているように見えた。

こちらから話を切り出す間もなく、いつもの穏やかな自由人とはうって変わって、語気を強めて話し始めた。話してくれたことを多少の脚色を加えてまとめてみれば、こういうことだった。

…二週間ほど前の深夜、もう一時を過ぎたころだった。一仕事終えて、ビニール袋いっぱいの空き缶を自転車にのせて、信号を待っていた。終電の時刻が近く、飲食店から出てきた人たちが、駅へと足早で向かっていく。その時、大声をあげながら、二人連れの若い男がふらふらとした足取りで近づいてきた。いやな予感がした。そう思う間もなく、男の足が空き缶でパンパンにふくれたビニール袋を蹴り上げた。酔っている割には正確なキックだった。ビニール袋は破れ、空き缶がカラカラと音をてながら転がっていった。腹が立って文句を付けたのがよくなかった。背中に二発、胸に二発、蹴りを入れられその場に倒れ込んでしまった。息もできない状態になり、これで終わりかもしれないと思った。通りの向こう側のカラオケ店の店員が、この様子を見ていて110番してくれた。パトカーが何台も来て、すごい騒ぎになった。野次馬もどんどん集まってきた。その頃には、蹴りを入れた二人組は姿をくらましていた…

ここまでを、一気に話したのだった。
「若い奴は、手加減を知らないから…まだ腰は痛むし、セキをすると飛び上がるほど痛い」
「肋骨にヒビが入っているんじゃないですか。病院へは行かれたんですか」
「病院なんか行けないよ、保険証がないし」
「被害届は出したんですか」
「おまわりさんが、被害届を出しますかと訊いてくれたんだけど、出さなかった。相手はサラリーマン風だったから、必ず治療代を取れると言ってくれる人もいるんだけど…」
「…」
「会社に知られるとまずいでしょ、だから必ず払うって」
「今からでも出した方がいいですよ」
「やっと歩けるようになって…二週間ほどカン拾いに行けなくて、そろそろ始めないといけないんだけどな…それじゃ、ちょっと行くところがあるから、これで」
「そうですか」
「管理事務所に行って、書類を書かないとならないもんで…こんな具合だから、昼間もねぐらを造ったままにしておく許可をもらいに…」
「昼間は、たたまなければならないんですか」
「そう。雨の日はそのままでいいんだけど、晴れの日は片付けなければならないから、ほんとうは。だけど、今は無理だから」
そう言って、いつも姿勢の良かった自由人は、少し腰をかがめながら去って行った。

posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月22日

登米市登米町の油麩丼

今年のB級グルメの祭典は北九州市で開催され、昨日グランプリが決まり、B-1グランプリは、 八戸せんべい汁研究所の「八戸せんべい汁」が獲得したということだ。宮城県登米市(とめし)登米町(とよままち)から出展した 登米・油麩丼の会の「油麩丼」は、残念ながらベストテンには入らなかった。

【第7回B級ご当地グルメの祭典!B-1グランプリin北九州」の投票結果】
http://www.b1-kitakyushu.jp/info/20121021.html

油麩丼なるものを初めて食したのは、先日の東北の被災地を訪ねる旅行の際だった。最初の訪問地である登米市で、復興共生住宅の「手のひらに太陽の家」を見学したあと、講師の日影氏から「油麩丼」のお店を教えていただき、写真塾のYさんと一緒にその店に向かったのだった

【手のひらに太陽の家】
http://taiyounoie.org/

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紹介していただいたのは「味処 もん」、しかし定休日なのか、のれんは下がっていなかった。仕方なくそのあたりを歩いてみると、「創業天保四年 海老喜」という看板が目に入った。油麩丼を扱う店ではなさそうだが、なんとなく心惹かれる感じがして入ってみた。

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偶然にもその店が、その地域の油麩丼の店を束ねて、世に広めようと活動している拠点だった。奥の方から出てきたその店のご主人らしき男性の話によると、そういうことだった。ご主人に改めて油麩丼を扱っている店を教えていただき、自宅のお土産用の油麩を買い求めて、その店「つか勇食堂」へと向かったのだった。

〔お土産の油麩〕…330円
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〔つか勇食堂の油麩丼〕
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2012年10月21日

フウ太とチビ

ほぼ二週間ぶりのネコ公園だった。途中でゆっくり昼食をとっていたため、着いたのは1時を過ぎていた。まず、ポン太をさがして一回りしてみた。残念ながらポン太の姿は見えなかったが、フウ太とチビの二匹の姿はいつもの場所で見ることができた。

二週間見ない間に、チビはだいぶ大きくなっていた。フウ太の方が年上で体も大きいのだが、もうじき追いつきそうな勢いで成長している。以前は、チビの方がフウ太に近づこうとすると、いつも追い払われていた。その後フウ太は、チビが近づくことを少しずつ許し始め、とうとうその日は、二匹が仲よく体を寄せ合ってウトウトしていた。

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しばらくすると体の向きを変えたフウ太が、チビの顔をなめてあげるではないか。親子ほどの年の差はないはずだから、兄が小さな弟をかわいがっているという格好だ。チビの方も気持ちよさそうな顔をしてなめてもらっている。そしてなめ疲れたのか、フウ太はチビの頭の上にあごを載せたまま寝入ってしまった。

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2012年10月19日

上野の桜の迷い咲き

「第29回全国都市緑化フェアTOKYO」が、東京都内の6カ所で開催されている。開会が9月29日で10月28までの期日となっていて、残すところあと一週間あまりとなった。

上野公園も、その緑化フェアの会場の一つとなっている。
【会場案内】
http://greeneryfair-tokyo.jp/spot/ueno/post_64.html
【計画平面図】
http://greeneryfair-tokyo.jp/about/images/uenozentai.jpg

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好天に恵まれた園内は風もなく、心地よい秋の日ざしが包み込んでいた。写真を撮ることに心を奪われていると、背後から突然声を掛けられた。振り向けば女性が二人が立っていた。身につけているものから想像するに、フェアに関わっている人のようだった。
「桜が咲いていますよ」
といいながら、花のもとへと導いてくれた。指さす方を見上げれば、たしかに数輪の花が咲いていた。
「桜の花の狂い咲きですね」
と言うと、
「ええ、迷い咲きです。目黒川の桜も咲いているそうです」
「狂い咲き」では穏やかではないので、その人は「迷い咲き」という言い方を使っていた。

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2012年10月18日

東金の「東京庵」と消えた「やっさくん」

東金駅の北側はシャッター街になって久しく、昼食場所にふさわしい店があまりない。かろうじて駅近くの「東京庵」が、おいしいお蕎麦と丼物などを提供してくれるお蕎麦屋さんで、一年に一回の御殿山詣の際は、「東京庵」を利用することが多かった。

去年は10月27日に訪れた。歌碑にお参りをして、東京庵に赴いたのだが、残念ながら定休日だった。木曜日が定休日だったのだ。今年は去年の二の舞になるならないように日を選び、水曜日に訪れたのだった。

開店時間は11時、11時半頃に店に着いたのだが、すでに駐車場は満杯状態だった。かろうじて奥まったところに一台分の空きスペースがあった。さほど待たされることなく、小上がりの四人席に案内された。店内にジャズが流れているのは、以前と同じ、蕎麦屋さんとジャズとの不思議な組み合わせは、意外と違和感は感じられない。

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東金のイメージキャラクターは「やっさくん」、去年は街角でその姿を見ることもあったが、今年はそれが町から消えていた。イメージキャラクターとしては、かなり異端な存在で、選定された当時はメディアで取り上げらこともあったが…あの陰気なキャラクターでは、東金のイメージアップにはつながらないと、お払い箱になってしまったのだろうか。

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2012年10月17日

東金の御殿山歌碑参り

息子が11月から新しい道へ進むというので、その前に、一度は連れて行って見せたいと思っていた父親…息子にとっては祖父…の歌碑のある東金の八鶴湖に行って来た。以前から思っていたことだが、なかなかその機会がなく、独り立ちする間際になってやっと実現した。

東金の八鶴湖の近くの御殿山に歌碑がたっていることは、まだ勤めを持っているころから耳にしていた。探しに行っても、見つけ出すことができずに引き返したこともあった。その後、いろいろな偶然が重なって、やっと見つけ出すことができた。その場所を教えておかなければ、息子が歌碑を見たいと思うようになった時、一から探すことになるかもしれず、今のうちに教えておきたいという気持ちがあった。

去年来た時は、八鶴湖の水はほとんど無く、ひび割れた湖底が顔を出していた。なんでも池を浄化するため、水を抜いて湖底のヘドロを取り除く、ということだった。その作業はすでに完了したのだろう、湖は静かに水をたたえていた。

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以前、山の斜面がくずれたことがあって、入山できなくなっていた時期もあったが、今日の御殿山の山門は、扉を開けて待っていてくれた。右手に石碑群を見ながら、坂道を登っていく。わずかな距離を登るだけだが、歌碑の前に立った時にはかなり息があがっていた。

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歌碑の前で記念写真を撮っていると、一人の老人がやってきて、
「何してなさるんかね」
と声を掛けてきた。そして、碑に刻まれた歌について説明を始めるではないか。その歌を詠んだのは、自分の父親であると言い出す間もなく、説明を続けるものだから、耳を傾けているより仕方がなかった。

聞くところによれば、明日40人ほどを引き連れて、八鶴湖周辺をガイドして回るそうなのだ。そのための下見にやってきたということだった。私たち相手に、ちょうど良い予行演習になったことだろう。

話が一段落したところで、やっと身分を明かすことができたのだった。それでもまだ説明は続いていく。
「この歌は、白幡の八幡神社に奉納する竹を、この御殿山から切り出す時のことを詠んだものなんです」
(それは分かっています)
「『あさまだき御殿山の竹林に
  おぼめく影は齋竹ほる人』
最初の『あさまだき』は、夜明け前の薄暗い時分のことです。最後の『さいたけ(齋竹)』の『さい(齋)』の読み方は、つい最近、辞書をひいて『いみ』という読み方があることを知りました。ただ、「いみ」では、不吉な感じがして違うような気もします」

『齋竹』の読み方は、当方も最初は『さいたけ』と思っていた。その後、なにかの機会に、『さいたけ』ではなく神事にまつわる場合、別の読み方があることが分かった。しかし、その読み方が思い出せない。
「たしかに『さいたけ』ではないですね、調べたことがあるんですが、忘れてしまいました」
「明日の説明では、『さいたけ』という読み方ではない、とだけ言っておきます」
そんなことを言えば、それではどういう読み方ですか、と質問されるに決まっていると思うのだが…

家に帰ってから、確認してみたところ、『いみたけ』という読み方で良いことが分かった。

【いむ】
忌む…不吉なこととして避ける
齋む…身を清めて慎む

なお、白幡八幡神社のある山武市のホームページに、以下のような「お竹取とりの行事」の記事が載っている。

『旧暦の9月7日、八幡宮の祭礼の御旗を結ぶ御神竹を東金の御殿山から八幡宮への奉納の行事をいう』
『お竹取りの行事は徳川家康が東金に御殿を造営し、鷹狩りにおもむいたさい、八幡神社に参詣になり、その時東金の御殿山から御旗竹を奉納されたことが初めとなったといい伝えられる』

【お竹取りの行事】
http://www.city.sammu.lg.jp/soshiki/32/n-yahatajinjasinji.html
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月16日

防災対策庁舎

南三陸町は、志津川町と歌津町とが合併して2005年(平成17年)に誕生した。町の中心部には、気仙沼線の志津川駅があり…あの大津波で流されてしまったが…また志津川小・中学校、志津川高校という具合に、「志津川」をその校名に持つ学校もある。


〔気仙沼線のトンネル〕
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〔高台に建つ志津川中学校〕
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佐倉市にも志津地区と呼ばれる地域があり、京成電鉄には志津駅という駅もある。また志津小学校・中学校もある。佐倉市に居住するものとしては、同じ地名を有する南三陸町の志津川地区に浅からぬ縁を感じていた。

さて、その志津川地区には、てっきり志津川という川が流れているものとばかり思っていた。ところが地図で調べても、志津川という川は見あたらない。南三陸町を流れているのは、以下の川だけだった。
 八幡川
 新井田川
 水尻川
 桜川
 折立川
 水戸辺川
 蛇王川
 伊里前川
 港川
【南三陸町(本吉郡) 河川・湖沼・海・池・ダム 】
http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07001/04606/

南三陸町の中心部を襲った大津波の映像は、本吉街道の東側高台にある志津川小学校から撮影されたものと、反対側…本吉街道の西側高台にある志津川高校から撮影されたものを、YouTubeで見ることができる。津波の恐ろしさを記憶にとどめておくためには、目を覆いたくなるような惨状であっても観ておかなければなるまい。

高台にある志津川中学校から撮影された動画には、まず、中学校のすぐ下を流れる川の水が、スーと逆流して来る様子が映っている。そして、その流れに導かれるように、背後から大津波がすべてを破壊しながら押し寄せて来くる。先導役を担うかっこうになってしまったその川が、八幡川だった。

【 南三陸の大津波 10分で壊滅】


八幡川は、本吉街道に沿って流れ、その街道沿いには町の主要施設が点在していた。あの防災対策庁舎も、八幡川のほとり…本吉街道沿いにあった。写真などで何度か見たことはあったが、無残に赤い鉄骨だけをさらしている建物を実際に見上げると、平常心ではいられなくなる。あの屋上に30名ほどが避難したということだが、そこから生還できたのは10名だけだったと聞く。

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posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月15日

志津川の川のほとりで

行く先々で滞在時間を超過して、最後の訪問地となったのは、石巻市釜谷地区となってしまった。予定されていた女川訪問は、残念ながら時間の関係で別の機会にゆずらざるを得なかった。

添乗員の役割を受け持ってくれたアユミギャラリーのスタッフ-A青年は、いつも時間を気にしていた。滞在時間を超過するたびに、「バスに乗ってください」呼びかけていた。しかし、被災地への未練を残す参加者は、なかなかその場を離れようとせず、スタッフ-A青年のストレスは増すばかりだったと想像する。Aさん、お疲れ様でした。扱いにくい大人が多くて、申し訳ありませんでした。

あの日の大津波で、南三陸町は壊滅的な被害を被った。丸1年7ヶ月が経過して、散乱していた瓦礫はある程度は片付けられ、姿を消したようにも見える。しかし撤去されたものも、多くは集積場所でうずたかく積まれていて、処理されるのを待っている。まだまだ、復旧途上の状況が続いている、と言った方が良いだろう。

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町を丸ごと飲み込んだ大津波が、一気に遡っていった志津川の河川は、あの日の惨劇をもう忘れてしまったかのように、細いゆるやかな流れを取り戻していた。きっと震災前も、同じような表情で流れていたのだろう。エサをねらうシラサギの姿までも見受けられた。人間の復興は遅々として進まず、自然の方が、一足早く元の姿を取り戻す。


〔上流を望む〕
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〔下流を望む〕
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posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月13日

被災地を訪ねて

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今夜は、さくらの湯で一泊。
昼間は暖かく、夜になって冷えてきた。山の一軒宿のぐるりには山並だけ、満天の星がきれいだ。
posted by 里実福太朗 at 22:02| 里ふくろうの日乗

2012年10月10日

東北被災地訪問

あの東日本大震災から、今日で一年七ヶ月が経つ。いまだに行方不明となっている方も多く、警察庁が今日10月10日の日付で公表した資料によると、2778人となっている。

【平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の被害状況と警察措置】
 平成24年10月10日
 警察庁緊急災害警備本部
http://www.npa.go.jp/archive/keibi/biki/higaijokyo.pdf

東北各県の被害は、以下の通りである。
      死者  行方不明
 青森    3      1
 岩手   4671    1204
 宮城   9528    1359
 秋田
 山形    2
 福島   1606     211

東北被災地のなかでも、死者・行方不明者が最も多い宮城県に、近々行く予定である。以前から、この目で確かめておきたいと思っていたが、あまりにも重い事実に圧倒されて、なかなか足を向けることができなかった。

一泊二日の短い訪問だから、多くの被災地を訪ねることはことはできない。2008年6月の岩手・宮城内陸地震で、大きな被害を受けた荒砥沢を訪ねたあと、登米市を経由して、南三陸町に入り志津川地区を訪ねる。その後、海岸沿いを南下して石巻市に入り、多くの児童が犠牲となった大川小学校に立ち寄り、そして20メートルを超える津波に襲われた女川町立病院などを訪ねる予定である。

大川小学校は、北上川河口から4キロほど上流に位置している。震災の日、全校児童108名のうち、74人が死亡・行方不明となった。小学校のある地区では、現在まだ38名が行方不明のままと聞く。


大きな地図で見る

一昨日、下流の長面地区で行方不明者の捜索が始まったそうだ。周辺の農地は地震の影響で地盤が沈下して、海水につかってしまった。そのため今まで捜索ができなかったということだ。

【大川小下流、ようやく捜索 海水に沈んだ石巻・長面地区】
朝日新聞デジタル 2012年10月8日19時17分
http://www.asahi.com/national/update/1008/TKY201210080232.html

被災地は、まだ復興の途上にあるはずだ。その復興を支援するための復興予算が、被災地とは無関係の方面に流用されているらしい。被災地復興のためなら仕方ないなと思っていた人も多いと思われるが、まったくもってひどい話である。

【復興予算:使途調査へ…衆院委 「被災地外」に批判】
毎日新聞 2012年10月04日 02時30分(最終更新 10月04日 09時47分)
http://mainichi.jp/select/news/20121004k0000m010111000c.html

【復興予算の出所は? 国民生活、負担長く】
東京新聞 2012年10月10日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2012101002000104.html
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月08日

初めてさわらせてくれた

三代目チビは、だいぶ体が大きくなってきて、オスであることが判明した。最初のころは、柵の向こう側から不安そうな目を向けていたが、今では柵の外で無邪気に飛び回る姿を見せてくれるようになってきた。

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ネコサポーターたちが、注意深く接してくれているおかげで、人間に対する恐怖心が植え付けられることもない。このまま大きく育ってくれれば、あの敵愾心に満ちたチャコのようにはならないだろう。

まだまだ遊びたい盛りのようで、物陰から小枝を動かしてみれば、目ざとく見つけて、飛びかかる。フウ太の近くに行って、「あそぼうよ」と誘ったりもするが、フウ太は悠然と構えていて、あまり相手にしない。

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遊び疲れると、木の根もとに行ってごろりと横になる。ほどなくまぶたが下りてきて、眠りに落ちてしまう。そんな時、そっと近づいて体を触ってみた。ピョンと跳ねて逃げ出すかもしれないと思っていたが、眠りから覚めることはなかった。少し力を入れて、撫でてみた。それでも、目を覚ますことはなかった。柔らかく、すべるようになめらかな毛の感触だった。

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ネコサポーターの一人によれば、面倒を見たいと言ってくれた人がいたらしいが、その話は流れてしまったそうだ。もらわれてしまえば、もうネコ公園で見ることはできなくなる。ちょっと寂しい気もするが、それは仕方がない。大きくならないうちに里親になってくれる人が現れて、この公園から去って行ける日が来ることを願っていることにしよう。

posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月07日

記憶の回路は摩訶不思議

10月2日にお亡くなりになった大滝秀治さんの追悼番組を観ていた時、画面に根津神社が映し出された。それを観て、家人が、根津には子規庵があると言うのだが、子規庵は根津ではない。それは分かるのだが、地名が出てこない。
「いやいや、子規庵は根津ではなくて…」
困ったことにあとが続かない。
「子規庵は、ほら、あそこだよ」
「どこ?」
「根津とは反対側の…」
どうしても地名が出てこない。

子規庵には、何度か行ったことがあるから、その時のことを思い出してみる。かなり前のことだけれど、イメージは鮮明に蘇ってくる。子規庵の周辺はかなり変貌していて、あろうことかラブホテルが密集していた。

ながらく病床に伏して亡くなった子規には、庭に咲くイチハツの花を詠んだ有名な歌がある。4月末に訪れた際、受付の人に、イチハツの花のことを訊いてみたところ、庭にはもうイチハツはないということだった。子規庵を保存するなら、それと表裏一体の庭も同様に扱わなければならないのではないかと思ったのだが…その後、イチハツは植えられたのだろうか。

そんなことが頭の中をグルグルと駆け巡ったのは、せいぜい1秒ほどだったのかもしれない。そして、僥倖にも記憶の回路がつながったのだ。
「思い出した!」
うれしさのあまり、そう叫んでしまった。
「子規庵は、………」
どうしたのだろう、地名が出てこない。たしかに一旦は思い出したのだ。それはほんとうなのだ。しかし、それがふたたび消滅してしまった。せっかくつながった記憶の回路が、「思い出した」などと言ったばかりに、別の回線に振り向けられてしまったのだろう。余計なことは言わずに、すぐ言ってしまえば良かったのだ。

しばらくしてから、ふたたび記憶の回路がつながった。今度は余計なことは言わずに、間髪を入れずに言ったのはいうまでもない。
「子規庵は、根岸だ」

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posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2012年10月06日

本邦のネコサポーター

一方、本邦ネコ公園のネコサポーターは、今まで知り得た限りでは、全部で6人である。その中で、現在も定期的にエサやりを続けている人は二人だけである。一日二回、自転車に乗ってエサやりポイントを巡回している人、不思議な関係の二人組の片割れ、この二人である。

以前、高齢の女性が週三回エサやりに来ていたが、プツリと途絶えてしまった。そのことを自由人に話すと、
「レンタルおしぼりの店に勤めていたんだけれど、不景気でつぶれてね。エサ代だってバカにならないから、収入が無くなれば、エサやりにも来られないっていうことなんだ」
と、教えてくれた。自由人は、ほんとうに何でも知っている。
「以前は、その人の旦那さんがエサをやっていたけど、亡くなって、そのあとを引き継いだということだ。ほら、そこの奥の方にいるネコ、チャコはその旦那さんだけにはなついていて、あとを継いだその人にも心を許さなかったな」
「たしかにチャコは、警戒心が強いですね。近づくと、すごい形相でフッ〜と威嚇します」
「そうでしょ、可愛げがないんだ」

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チャコ


しばらく姿を見ることのなかったフウ太の名付け親に、久しぶりで会った。マンション管理人のネコサポーターの姿を、近ごろ見かけなくなっていたので、消息を尋ねてみた。その二人は、ネコサポターとして互いに連絡を取り合っているようなことを、聞いたことがあったからだ。
彼女の言によれば、
「暑いからさぼっていたのよ」
ということのようだった。ならば、フウ太の名付け親も暑い時期は、避けていたということだったのだろう。

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フウ太


残りの一人は、近くの資料館で働いている人。仕事の合間にネコたちの面倒を見ている。初代のチビは、この人が引き取って面倒を見ている。かなりの肥満体になっているらしい。

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初代チビ


自由人もエサやりを続けてはいるが、頼まれてしていることだから、ネコサポーターとしてカウントするのは適当ではないので、数の中には入れてない。毎朝6時頃、ポン太らにエサをあげてくれているらしい。
posted by 里実福太朗 at 23:50| ねこ

2012年10月03日

マルタのネコサポーター

マルタ島にたくさんのネコがいることは、以前にも書いたことがある。その島で暮らすネコたちの多くは、飼い主のいないネコらしい。人間に寄り添って暮らすように仕向けられてきたネコたちは、エサをやって命を支えてあげる人たちがいなければ暮らしていけないはずである。きっとマルタにも、ネコサポーターのような人たちがいるのだろう。

マルタ島に関する知識を得る必要があって、夫人が「マルタ島に魅せられて」という本を図書館から借りてきた。筆者は、養護教諭を経て、精神科医のご主人の仕事の関係で、マルタで2年間を過ごしたそうだ。実際にマルタの日常の中に身を置いただけあって、旅行者では知り得ないマルタ人気質や暮らしぶりなどが詳しく述べられている。

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ネコに関する記述はあまりないが、かろうじて『ネコにいさん』という項にマルタネコに関することが書かれてあった。以下、内容を簡単に紹介してみる。

マルタではイヌよりも圧倒的にネコが多く、目にする場所は、港・公園や裏通りに駐車した車のかげなど、やせていることはなく、おだやかでのんびりした顔つきをしている。道行く人が頭を撫でてもいやがるそぶりはない。

スリーマの岬に、何十匹かの猫が仲よく暮らしている公園がある。島の西端のメリーハから、朝夕の二回、一人の青年がオートバイでやって来て、エサをやりながら猫とのひとときを楽しんで帰っていく。ところが、突然来なくなってしまった。交通事故で入院してしまったのだった。3ヶ月におよぶ入院生活を経て、オートバイに乗れなくなった青年は、中古の車に乗って再びネコ公園に姿を現した。入院中は、猫のことがずっと心配だったと話す青年に、筆者たちはエサ代をカンパしたのだった。

マルタの自由ネコたちも、こういった人たちに支えられて、安穏な日々を送ることができるのだろう。
posted by 里実福太朗 at 23:55| ねこ

2012年10月01日

昭和の名残の三原橋界隈

写真集「昭和の記憶」の49ページに、田沼武能氏が昭和28年に撮影した銀座2丁目の写真が載っている。この写真は、「銀座館マート」を撮影したもので、名前はハイカラではあるが、実態は、露店をシートで覆っただけの雑な造りのものだった。

この写真については、以下のような説明が載っている。
『GHQの露店排除の名で、銀座の露店は三十間堀川の埋め立て地に建てた銀座館マートに移って営業を続けた。』

この「銀座館マート」のすぐ近くに三原橋があり、その下が埋め立てられて三原橋地下街ができたのだった。現在「銀座館マート」の跡地には、近代的な高層ビルが建てられていて、当時の様子を想像できるよすがはまったく残されていない。当時とまったく同じではないにせよ、かろうじて「三原橋地下街」だけが、当時の面影を今に伝えているのである。

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銀座の三原橋地下街について、以前このブログに記事を載せたことがある。

【三原橋地下街の銀座シネパトス】
http://fukulog.sato296.com/article/57854201.html

その時は、映画「ニッポンの嘘」を観るという目的があったので、地下街を抜けて向こう側に出てみることはしなかった。東京ミッドタウンで「昭和の記憶」展を観たあと銀座に出て、もう一つの写真展を観るついでに、再度、三原橋を訪ねてみた。

この地下街が開設されたのは、田沼氏が「銀座館マート」を撮影した1年前の昭和27年のことだった。そのことは、東京都が作成した以下の資料から確認できる。

【地域防災計画 大規模事故編】
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/japanese/tmg/plan-jiko.html

第1編 大規模事故編>第1部 総則> 第2章 市街地等の概況(PDF:1,121KB)
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/japanese/tmg/pdf/keikaku/h-jiko1-02.pdf

地下街名(通称名):三原橋地下街
所在地:中央区銀座4,5
経営主体:新東京観光梶@
開設日:S27.12.1

さて、昭和の時代に思いを馳ながら三原橋地下街を抜けて地上に出た。道路の向こう側の「銀座館マート」跡地に建てられた高層ビル群を眺めやってから、周辺を少し歩いてみた。

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すると、どこからか昭和の香りが漂ってくるではないか。その故は、ビルとビルとに挟まれて、いかにも時代を感じさせる路地が視線の端にとらえられたからだった。足は自ずとその路地へと向かって行った。そして足を踏み入れてみれば、観てきたばかりの「昭和の記憶」の世界が手招きしているのだった。そして、しばらくそこにたたずんでいると、サラリーマン風の男が、足音もなく私の脇をすり抜けて、中華店の中に吸い込まれていった。

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posted by 里実福太朗 at 23:55| 里ふくろうの日乗

台風一過の真夏日

昨夜から今日の未明にかけて、台風17号が吹き荒れた。そして今日は、台風一過のさわやかな秋空が広がるだろうと思っていたが、台風が夏を呼び戻し、雲一つない青空が広がって、真夏を思わせる暑い一日となった。

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強風のため、庭の草花は少し荒らされたが、そのほかの被害は、ゴーヤーの実が一つ、強風に煽られて落ちた程度だった。
posted by 里実福太朗 at 23:14| 里のつれづれ