駅前から東に延びる大通りをお城山方面に向かう。
二之町・三之町のあたりまで足をのばしたいところだが、残念ながら時間的な余裕がない。日没前には戻らなければならないから残された時間はせいぜい40分ほど、適当なカドをおれて引き返さなければならない。
村上はお茶栽培の適地としては北限に位置し、「村上茶」は北限の茶として知られている。
朝日岳に源を発する三面川は、村上で日本海に注ぐ。その三面川を遡上する鮭が、古くから村上に食の恩恵をもたらしてくれた。その代表格が塩引き鮭で、民家の軒下につるされた鮭が村上らしさを演出してくれている。
そろそろ歩をお世話になっている家の方へと移さなければならない時間になってきたが、ここに至るまでに出会った猫は怪傑ゾロ猫だけ、このまま帰るのではなんとも残念な結果となってしまう。しかしその思いが天に通じたのか、ふとのぞき込んだ路地の奥にネコの姿があったのだ。
どうもノラちゃんらしいので、警戒心を抱かれないようにゆっくり注意深く距離を詰めていった。幸いたいそうおおらかな猫のようで、警戒心を抱くどころか逆に親愛の情を示して、いろいろなポーズをつけてくれた。
最後の最後になって二匹目の猫との出会いがあって、これで心置きなく戻ることができるというものだ。戻る途次、酒屋に立ち寄り村上の銘酒〆張鶴の「吟醸生貯蔵酒」を買い求め散歩の土産の品としたのだった。なお、このお酒は5月から7月の期間だけ販売される限定酒である。
〔宮尾酒造〕
http://shimeharitsurusake.blog59.fc2.com/
2013年06月29日
村上ねこ散歩(1)
村上はいい街だっせ
歩いて回ってくれっしゃ
歩いて回ってくれっしゃ
村上に着いてから二日目の夕方、夕食までの時間を利用して村上の猫との出会いを求めて町に出てみた。散歩の出発点はお世話になっている方の家だが、便宜的に村上駅から歩き始めたことにしておく。さて、小和田家ゆかりの地でもある城下町村上で、何匹の猫と遭遇することができるだろうか。
村上駅から歩き始めてほんの二・三分、喫茶店の前で猫発見、これはさい先がいい。飼い主はそのカフェの店主のようだった。店内には、光り輝く立派な招き猫の置物が見える。
店内からユル・ブリンナーを思い起こさせる禿頭のチョット怖そうなオニーサンが出てきたものだから、猫と一緒に当方もチョット身構えたところ、そのオニ−サンはケータイを取り出して私と並んで写真を撮り始めた。風体に似合わずネコ好きのようなので、
「怪傑ゾロのような顔をしていますね」
とつい声を掛けてしまった。しかし返事はなく、何枚かの写真を撮ってから無言で去って行った。しばらく行ったところで立ち止まり、ケータイの画面をのぞき込んでいた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月28日
アオバズクは抱卵中
アオバズクのヒナが巣立っていくのは、親が抱卵を始めてから50日前後だと聞く。城址公園のアオバズクが抱卵を開始した時期は定かではないが、去年の巣立ちの日を思い起こせば、まだ一生懸命卵を温めていると思われる。そうは思うものの、やはりアオバズクのことが気になって、久しぶりで城址公園を訪ねた。
こちらのそんな気持ちをよそにして、アオバズクはいつもの枝のいつもの位置に、いつもの姿でとまっていた。一目見てずいぶんほっそりした感じだと思ったが、見る角度によるものだった。場所を変えてみたところ、特徴のあるふっくらとした羽毛に包まれた変わらない姿がそこにあった。
写真を撮っていると、通りがかりのオジサンが声を掛けてきた。聞くところによると、用事があって城址公園に来ることがあるそうで、その都度アオバズクの様子を確かめていくという。いつごろ巣立ちの日を迎えるのだろうかと聞かれたから、去年の例を教えてあげた。しばらく立ち話をしてから去って行った。
アオバズクは依然として同じ姿勢を保って枝にとまっていた。少しは動いてくれないものかと、「ほーほー」と鳴き声をまねてみた。その鳴き声に反応したのは、意外にもアオバズクではなく先ほどのオジサンだった。立ち去る歩みを止めて、こちらの方に振り向き、
「いま鳴きましたね」
と言うではないか。アオバズクの鳴き声を聞いたと思いこんでいるのだから、それをぶち壊してしまうのも忍びなく、
「ええ、聞こえましたね」
と応えてしまったのだった。
こちらのそんな気持ちをよそにして、アオバズクはいつもの枝のいつもの位置に、いつもの姿でとまっていた。一目見てずいぶんほっそりした感じだと思ったが、見る角度によるものだった。場所を変えてみたところ、特徴のあるふっくらとした羽毛に包まれた変わらない姿がそこにあった。
写真を撮っていると、通りがかりのオジサンが声を掛けてきた。聞くところによると、用事があって城址公園に来ることがあるそうで、その都度アオバズクの様子を確かめていくという。いつごろ巣立ちの日を迎えるのだろうかと聞かれたから、去年の例を教えてあげた。しばらく立ち話をしてから去って行った。
アオバズクは依然として同じ姿勢を保って枝にとまっていた。少しは動いてくれないものかと、「ほーほー」と鳴き声をまねてみた。その鳴き声に反応したのは、意外にもアオバズクではなく先ほどのオジサンだった。立ち去る歩みを止めて、こちらの方に振り向き、
「いま鳴きましたね」
と言うではないか。アオバズクの鳴き声を聞いたと思いこんでいるのだから、それをぶち壊してしまうのも忍びなく、
「ええ、聞こえましたね」
と応えてしまったのだった。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月26日
N BOXで新潟へ
新潟へ行くのは、五年ぶりのことだった。漠然とそんなに長い期間訪れていないことはないだろうと思っていたが、前回行った時にお目にかかったある人が、五年前のことだったと覚えていたのだ。ちょうどその日が、その一家の引っ越し当日だったことが記憶を鮮明に残していたのだろう。
五年前はステップワゴンに12時間ほど乗って、やっと村上にたどり着いたと記憶している。12時間かければ、成田から飛行機に乗ってパリのドゴール空港に着いてしまう。今より五歳若かったとはいえ、やはりかなりきつかった。
今回の車は昨年乗り換えた軽自動車のN BOX、近年は高速を利用して長距離ドライブをすることも減り、乗り換えた新車で高速を走ることも数えるほどしかなかった。片道450qほどの道のりを一気に走り通すことは、さすがにためらわれ、行きは湯沢で一泊、帰りは長岡で一泊したのだった。
出発時の距離メーターは5000q程度、帰宅時は約5950qになっていた。走行距離は950qを超え、久しぶりの長距離ドライブであった。
軽自動車でこれほどの距離を走ることは初めてのこと、特に山間部での走行には不安がないわけではなかった。ギアがドライブとロウだけなので、上り坂での力不足による速度低下、逆に下り坂でのスピードの出すぎなどが心配の種だった。しかし、それらの点はまったく問題なかった。上り坂ではうなり声をあげながらも懸命に駆け上ってくれたし、下り坂ではコンピュータ制御によりエンジンブレーキがかかって速度超過に陥ることもなかった。今時の軽自動車は、ほんとうによく走ってくれる。
五年前はステップワゴンに12時間ほど乗って、やっと村上にたどり着いたと記憶している。12時間かければ、成田から飛行機に乗ってパリのドゴール空港に着いてしまう。今より五歳若かったとはいえ、やはりかなりきつかった。
今回の車は昨年乗り換えた軽自動車のN BOX、近年は高速を利用して長距離ドライブをすることも減り、乗り換えた新車で高速を走ることも数えるほどしかなかった。片道450qほどの道のりを一気に走り通すことは、さすがにためらわれ、行きは湯沢で一泊、帰りは長岡で一泊したのだった。
出発時の距離メーターは5000q程度、帰宅時は約5950qになっていた。走行距離は950qを超え、久しぶりの長距離ドライブであった。
軽自動車でこれほどの距離を走ることは初めてのこと、特に山間部での走行には不安がないわけではなかった。ギアがドライブとロウだけなので、上り坂での力不足による速度低下、逆に下り坂でのスピードの出すぎなどが心配の種だった。しかし、それらの点はまったく問題なかった。上り坂ではうなり声をあげながらも懸命に駆け上ってくれたし、下り坂ではコンピュータ制御によりエンジンブレーキがかかって速度超過に陥ることもなかった。今時の軽自動車は、ほんとうによく走ってくれる。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月20日
2013年06月16日
「かんだやぶそば」の今
「かんだやぶそば」で火災が発生したのは、今年(2013年)の2月19日夜のことだった。店舗面積約600uのうち、ほぼ三分の一を消失したそうだ。1880年創業の老舗蕎麦屋さんで、1923年に再築された料亭風の建物は、東京都の歴史的建造物に指定されていた。
写真塾の撮影会でその地を訪れたのは、それから約四ヶ月後のことだった。建物は解体され、その跡地はとりあえず時間貸しの駐車場として利用されるようで、「近日OPEN」の看板が立っていた。そして近くには、「かんだやぶそば 新店舗建設予定地」という表示板もあった。
周囲のビルの壁面には、また煤焦げたあとが残っていて、火災当日の火勢の激しさをいまだに生々しく伝えていた。
写真塾の撮影会でその地を訪れたのは、それから約四ヶ月後のことだった。建物は解体され、その跡地はとりあえず時間貸しの駐車場として利用されるようで、「近日OPEN」の看板が立っていた。そして近くには、「かんだやぶそば 新店舗建設予定地」という表示板もあった。
周囲のビルの壁面には、また煤焦げたあとが残っていて、火災当日の火勢の激しさをいまだに生々しく伝えていた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月14日
庭に花菖蒲が咲く不思議
花菖蒲と思われる花が咲いた。花の中央部分に黄色の文様があるからそうだと思われる。去年までそんな花が咲いたことはなく、夫人も植えた記憶がないという。友だちから譲り受けたかもしれず、心当たりのひとに聞いてみたがそうではなかった。
花菖蒲は湿地帯に育つと言われているが、庭に湿地帯などはなく、梅雨に入っても雨が少なく地面はいつも乾燥していると言った方がよい。そういう場所に、どうして花菖蒲が咲いたのだろうか。不思議なことである。
折しも佐倉城址公園の菖蒲田では、6月8日・9日の両日「菖蒲祭り」が行われた。うまい具合に見頃の時期に重なって、さまざまな花菖蒲が色を競っていた。
花菖蒲は湿地帯に育つと言われているが、庭に湿地帯などはなく、梅雨に入っても雨が少なく地面はいつも乾燥していると言った方がよい。そういう場所に、どうして花菖蒲が咲いたのだろうか。不思議なことである。
折しも佐倉城址公園の菖蒲田では、6月8日・9日の両日「菖蒲祭り」が行われた。うまい具合に見頃の時期に重なって、さまざまな花菖蒲が色を競っていた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
ゴーヤーネットを延長した
ゴーヤーの苗を購入したのは、4月20日のことだった。極端な寒暖を繰り返す異常な天候にも負けず、背丈を伸ばしていった。それから約一ヶ月後の5月22日に、初めて黄色い花が咲いた。しかし咲いたのは雌花だけで、受粉することができずに朽ちてしまった。
その後の5月29日頃、平年より10日ほど早く梅雨入りしたが、晴天続きで一向に雨は降らず、カラ梅雨の状態が続いた。ただそれがゴーヤーにとっては幸いしたようで、七つの苗のうち特に二つがすくすくと成長し続け、とうとう我が身の丈を超えるほどになった。ツルの先端がゴーヤーネットの上端からはみ出て、ユラユラと行き場を求めてさまよい始めたのだ。ゴーヤーが早くなんとかしてくれと言ってるように思われて、いよいよゴーヤーネットを継ぎ足して延長することにした。先端は、二階のベランダの手すりに届くほどの長さになる。
近ごろは毎日のように、二つから三つほどの花が咲く。残念ながら雄花だけなので、今のところむなしく咲いては散るだけである。
今年植えた苗は四種類、何も考えずに混在させて植えてしまったが、違う品種の雄花・雌花が受粉したらどういう実がなるのだろうか。チョット興味がわくことではある。
その後の5月29日頃、平年より10日ほど早く梅雨入りしたが、晴天続きで一向に雨は降らず、カラ梅雨の状態が続いた。ただそれがゴーヤーにとっては幸いしたようで、七つの苗のうち特に二つがすくすくと成長し続け、とうとう我が身の丈を超えるほどになった。ツルの先端がゴーヤーネットの上端からはみ出て、ユラユラと行き場を求めてさまよい始めたのだ。ゴーヤーが早くなんとかしてくれと言ってるように思われて、いよいよゴーヤーネットを継ぎ足して延長することにした。先端は、二階のベランダの手すりに届くほどの長さになる。
近ごろは毎日のように、二つから三つほどの花が咲く。残念ながら雄花だけなので、今のところむなしく咲いては散るだけである。
今年植えた苗は四種類、何も考えずに混在させて植えてしまったが、違う品種の雄花・雌花が受粉したらどういう実がなるのだろうか。チョット興味がわくことではある。
posted by 里実福太朗 at 23:30| 里ふくろうの日乗
2013年06月13日
あちらの世界からこちらの世界へ
自由人の誕生月は6月だそうだ。誕生日の前日に公園を訪れて彼に会った時、外見の印象が大きく変化していた。いつもは無精ヒゲをはやし、頭髪もボサボサの状態だったのに、髪は短く刈られヒゲもきれいに剃られていた。いわばスッピンともいうべき顔になっていたのだ。そんな顔は初めて見たような気がする。
「ずいぶんサッパリしましたね」
と声を掛けると、前の日曜日に無料の散髪サービスがあって、それを利用したということだった。場所は日本橋方面のとある場所だと言っていた。月に一回サービスデーがあるらしいが、今までそんなスッピンの自由人は見たことがなかったのだから、そのサービスを受けたのは今回が初めてだったのだろう。
今回に限って、どうしてそのサービスを受けたのだろうか。彼の心中を推し量ってみれば、やはり明日が誕生日だということと関連性があるのかもしれない。
俗世間を離れて隠遁者としての生活を始めてから、もう四〜五年は経つに違いない。このまま公園での生活を続けていけば、いずれは老いさらばえて死地へと赴くことになってしまう。彼の亡き後、その場所には立ち入り禁止の札が立てられ、その周りはロープで囲まれることだろう。
しかし明日の誕生日を境に、そのような将来に変革をもたらすことができるのだ。自由人が住むあちらの世界からこちらの世界へと、戻って来られる可能性が生まれるのだ。この誕生日はそういう意味で、自由人にとって一大転機となるはずの重要な日なのだ。そういう大切な日を、どうして隠遁者然としたヒゲ面で迎えられようか。
スッピンの彼は、柔和な表情を見せていた。彼の将来を照らす光が、表情を明るくしていたのかもしれない。
「あした誕生日なんだよ」
「そうでしたね、おめでとうございます。これ、誕生日のお祝いとして…」
「いや、それは…ケーキでも買うことにします」
お酒を飲まない彼は、甘党なのだろう。
「○○さんがこの公園からいなくなっても、私は猫がいる限りここに来ますよ」
「オレも…ここには世話になったから」
これからカン集めの仕事があるということなので、いとまを告げて彼の後ろ姿を見送った。猫背が一段とひどくなっていた。先年ヨッパライに足蹴にされた腰に、痛みがまだ残っているのだろうか。
「ずいぶんサッパリしましたね」
と声を掛けると、前の日曜日に無料の散髪サービスがあって、それを利用したということだった。場所は日本橋方面のとある場所だと言っていた。月に一回サービスデーがあるらしいが、今までそんなスッピンの自由人は見たことがなかったのだから、そのサービスを受けたのは今回が初めてだったのだろう。
今回に限って、どうしてそのサービスを受けたのだろうか。彼の心中を推し量ってみれば、やはり明日が誕生日だということと関連性があるのかもしれない。
俗世間を離れて隠遁者としての生活を始めてから、もう四〜五年は経つに違いない。このまま公園での生活を続けていけば、いずれは老いさらばえて死地へと赴くことになってしまう。彼の亡き後、その場所には立ち入り禁止の札が立てられ、その周りはロープで囲まれることだろう。
しかし明日の誕生日を境に、そのような将来に変革をもたらすことができるのだ。自由人が住むあちらの世界からこちらの世界へと、戻って来られる可能性が生まれるのだ。この誕生日はそういう意味で、自由人にとって一大転機となるはずの重要な日なのだ。そういう大切な日を、どうして隠遁者然としたヒゲ面で迎えられようか。
スッピンの彼は、柔和な表情を見せていた。彼の将来を照らす光が、表情を明るくしていたのかもしれない。
「あした誕生日なんだよ」
「そうでしたね、おめでとうございます。これ、誕生日のお祝いとして…」
「いや、それは…ケーキでも買うことにします」
お酒を飲まない彼は、甘党なのだろう。
「○○さんがこの公園からいなくなっても、私は猫がいる限りここに来ますよ」
「オレも…ここには世話になったから」
これからカン集めの仕事があるということなので、いとまを告げて彼の後ろ姿を見送った。猫背が一段とひどくなっていた。先年ヨッパライに足蹴にされた腰に、痛みがまだ残っているのだろうか。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月11日
2013年06月09日
2013年06月06日
藤田嗣治の猫
先週は、岩合光昭写真展「ねこ歩き」のほかにもブリジストン美術館に行く予定を組んでいた。しかし岩合さんのサインをもらうために、予定していた時間を大幅に超えてしまって断念せざるを得なかった。
ブリジストン美術館の「Paris、パリ、巴里─日本人が描く 1900-1945」の開催期間は6月9日まで、今週行きそびると見逃してしまうおそれがあるのだが、先週に引き続き東京まで出て行くのが次第におっくうに感じるようになっていた。
そんな時、アカイヌさんから旅行のお土産としてレオナール・フジタ(藤田嗣治)筆の猫がデザインされた一筆箋が送られてきた。藤田嗣治といえば、長らくパリで活躍してエコール・ド・パリの画家として数えられ、また、猫を題材とした絵もたくさん描いている。
「Paris、パリ、巴里」には、もちろん藤田嗣治も取り上げられている。展覧会のウェブページを見ると、「猫のいる静物」という作品が出展されているらしい。かくして重くなった腰をあげて出かけてみることにしたのだった。
藤田嗣治の猫が登場する絵は、二点展示されていた。
〔横たわる女と猫〕…1932年、ブラジル
〔猫のいる静物〕…1939−1940年、パリ…オルド−ネ街の画室
なお猫関係の著作としては、「猫の本」という画文集が出版されている。
【猫の本】
…2003年7月、講談社
ブリジストン美術館の「Paris、パリ、巴里─日本人が描く 1900-1945」の開催期間は6月9日まで、今週行きそびると見逃してしまうおそれがあるのだが、先週に引き続き東京まで出て行くのが次第におっくうに感じるようになっていた。
そんな時、アカイヌさんから旅行のお土産としてレオナール・フジタ(藤田嗣治)筆の猫がデザインされた一筆箋が送られてきた。藤田嗣治といえば、長らくパリで活躍してエコール・ド・パリの画家として数えられ、また、猫を題材とした絵もたくさん描いている。
「Paris、パリ、巴里」には、もちろん藤田嗣治も取り上げられている。展覧会のウェブページを見ると、「猫のいる静物」という作品が出展されているらしい。かくして重くなった腰をあげて出かけてみることにしたのだった。
藤田嗣治の猫が登場する絵は、二点展示されていた。
〔横たわる女と猫〕…1932年、ブラジル
〔猫のいる静物〕…1939−1940年、パリ…オルド−ネ街の画室
なお猫関係の著作としては、「猫の本」という画文集が出版されている。
【猫の本】
…2003年7月、講談社
posted by 里実福太朗 at 23:55| 里ふくろうの日乗
2013年06月04日
樹胴に住む猫
去年アオバズクが営巣した樹胴のある木を、今週も確かめに行ってみた。しかしまだアオバズクは飛来していなかった。そこで前回と同じく猫を探して園内を散策してみたところ、先週出会った猫の姿はなかったが、なんと新たに八匹の猫と出会った。
そのうちの一匹はシッポが黒くて体が白い猫、遠くからその猫の姿を認め、後について行くと太い木のかげに見えなくなった。木の周りを猫とは逆方向に回って待ち伏せようとしたのだが、一回りしても猫と鉢合わせすることはなかった。不思議なことに、姿を消してしまったのだ。
根元を見て消えた理由が分かった。そこに空洞があって、その中で先ほどの猫が身を潜めてジッとこちらの様子をうかがっていたのだ。近くに遊歩道があって、時々犬を連れた人が通るが、樹胴に潜む猫に気づく人はいない。そこなら安心して眠りを貪ることができそうだ。
試みにカリカリを樹胴に差し入れてみたが、警戒しているのだろう…なかなか口をつけようとしない。その場を離れてしばらくしてから戻ってみると、カリカリはだいぶ減っていた。
そのうちの一匹はシッポが黒くて体が白い猫、遠くからその猫の姿を認め、後について行くと太い木のかげに見えなくなった。木の周りを猫とは逆方向に回って待ち伏せようとしたのだが、一回りしても猫と鉢合わせすることはなかった。不思議なことに、姿を消してしまったのだ。
根元を見て消えた理由が分かった。そこに空洞があって、その中で先ほどの猫が身を潜めてジッとこちらの様子をうかがっていたのだ。近くに遊歩道があって、時々犬を連れた人が通るが、樹胴に潜む猫に気づく人はいない。そこなら安心して眠りを貪ることができそうだ。
試みにカリカリを樹胴に差し入れてみたが、警戒しているのだろう…なかなか口をつけようとしない。その場を離れてしばらくしてから戻ってみると、カリカリはだいぶ減っていた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月02日
カエデが消えてから
自由人によるとカエデがいなくなったのは10日ほど前のことだったそうだ。その話をネコサポータの年配の女性にしたところ、その後の二日間、カエデはエサを食べに来ていたという。ショルダーバッグから手帳を取り出して、
「金曜日のところに、『カエデが来なかった』と書いてあるから、間違いないわよ」
と確認してくれた。
その人は毎日エサやりに来ているから、その情報の信憑性は高い。高いというよりは、そちらの方が正しいといった方がいいだろう。ということは、自由人はカエデのいなくなった日を正確に把握していなかったということになる。毎朝エサをやっていると言っていたが、それもどうやら怪しくなってきた。
カエデのことはもう諦めた方がいいのだろう。猫は死期が迫ると、自らそれを自覚して姿を消すという話はよく耳にする。ネコ公園のどこかを死に場所と定め、そこで最期の時を迎えたのだろうか。
長いことエサやりを続けている男性のネコサポーターに聞いたことだが、その人は園内で猫の亡骸を何回も見たことがあるそうだ。ある亡骸は、カラスにつつかれ無残な姿になっていたという。実際のところは、死に場所を求めて行く余裕などはない状態で命が尽きてしまうのかもしれない。
カエデとチャコはいつも一緒にいた。二匹とも人間に心を許すことなく、いつもビルの敷地内に設置されている室外機の上に並んで座っていた。公園とは柵で仕切られているその場所は、人間が侵入して来ない安全な場所なのだ。しかし今その場所には、チャコの姿だけしか見ることができない。
エサをもらう時も、人間のそばで食べるということはしなかった。エサの近くに人間がいると、決して近寄ってこなかった。それが分かっているネコサポーターは、エサを置くとその場から離れて行った。しばらくすると、辺りをうかがいながらソロリソロリとエサに近寄って来るのだった。
カエデがいなくなってから何日かが経ったある日の夕方、「ニャー」という鳴き声が聞こえた。見ると、珍しいことにチャコが2メートルぐらいの所まで近寄って来ていた。「チャコ」と呼ぶと、また「ニャー」と鳴いた。エサをほしがっているのだろうと思い、持っていってあげると少し遠ざかったが、今までのように遠くに逃げてしまうことはなかった。エサを置いてその場を離れると、すぐ戻ってきてエサを食べ始めた。
「金曜日のところに、『カエデが来なかった』と書いてあるから、間違いないわよ」
と確認してくれた。
その人は毎日エサやりに来ているから、その情報の信憑性は高い。高いというよりは、そちらの方が正しいといった方がいいだろう。ということは、自由人はカエデのいなくなった日を正確に把握していなかったということになる。毎朝エサをやっていると言っていたが、それもどうやら怪しくなってきた。
カエデのことはもう諦めた方がいいのだろう。猫は死期が迫ると、自らそれを自覚して姿を消すという話はよく耳にする。ネコ公園のどこかを死に場所と定め、そこで最期の時を迎えたのだろうか。
長いことエサやりを続けている男性のネコサポーターに聞いたことだが、その人は園内で猫の亡骸を何回も見たことがあるそうだ。ある亡骸は、カラスにつつかれ無残な姿になっていたという。実際のところは、死に場所を求めて行く余裕などはない状態で命が尽きてしまうのかもしれない。
カエデとチャコはいつも一緒にいた。二匹とも人間に心を許すことなく、いつもビルの敷地内に設置されている室外機の上に並んで座っていた。公園とは柵で仕切られているその場所は、人間が侵入して来ない安全な場所なのだ。しかし今その場所には、チャコの姿だけしか見ることができない。
エサをもらう時も、人間のそばで食べるということはしなかった。エサの近くに人間がいると、決して近寄ってこなかった。それが分かっているネコサポーターは、エサを置くとその場から離れて行った。しばらくすると、辺りをうかがいながらソロリソロリとエサに近寄って来るのだった。
カエデがいなくなってから何日かが経ったある日の夕方、「ニャー」という鳴き声が聞こえた。見ると、珍しいことにチャコが2メートルぐらいの所まで近寄って来ていた。「チャコ」と呼ぶと、また「ニャー」と鳴いた。エサをほしがっているのだろうと思い、持っていってあげると少し遠ざかったが、今までのように遠くに逃げてしまうことはなかった。エサを置いてその場を離れると、すぐ戻ってきてエサを食べ始めた。
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗
2013年06月01日
岩合光昭写真展「ねこ歩き」
今、日本橋の三越で、岩合光昭写真展「ねこ歩き」が開催されている。岩合さんの写真展には、今までに何回か行ったことがあるが、いつでも入場者が多く混雑していた。平日に出かけたのだが、やはり今回も混雑していた。
会場を出てから写真集「ねこ歩き」を買い求めたところ、サイン会の整理券を渡してくれた。訊けばサイン会は、ギャラリートークが終わってから行われるという。まだ1時間以上ある。昼食はまだだったので、三越を出て少し歩いたところの裏通りの店でカレーを食してから、早めに7階の会場に戻った。ギャラリートークが終われば、それを聴いていた人たちがなだれうって出てきて行列を作るに違いないと予想して、それが終わる前にサイン会の準備の進み具合を確かめたかったのだ。
ギャラリートークは3時から始まり、30分ほどで終わる予定となっていた。会場に戻ったのは3時10分頃、すでに準備は整えられ、6人ほどが並んでいた。会場内からは岩合さんの声が聞こえて来た。その声が絶えると、かわって人のざわめきが次第に大きくなり、それとともに出口からぞろぞろと人が出てきた。そしてあっという間に、長い行列ができたのだった。やはりギャラリートークが終わる前に並ぶのが正解だったのだ。
私の前に並んでいた人は、「ねこ歩き」を5冊と犬の写真集を二冊、合計7冊を抱えていた。岩合さんは一冊ごとにネコのスタンプを押し(犬の写真集の場合は、その場で犬のイラストを描いていた)、その下に実に丁寧にサインを書き、そして握手した。先着100名となっていたが、行列はそれを超えているように見えた。そんなペースでは、いったいどのくらいの時間が掛かるのだろうか。
会場を出てから写真集「ねこ歩き」を買い求めたところ、サイン会の整理券を渡してくれた。訊けばサイン会は、ギャラリートークが終わってから行われるという。まだ1時間以上ある。昼食はまだだったので、三越を出て少し歩いたところの裏通りの店でカレーを食してから、早めに7階の会場に戻った。ギャラリートークが終われば、それを聴いていた人たちがなだれうって出てきて行列を作るに違いないと予想して、それが終わる前にサイン会の準備の進み具合を確かめたかったのだ。
ギャラリートークは3時から始まり、30分ほどで終わる予定となっていた。会場に戻ったのは3時10分頃、すでに準備は整えられ、6人ほどが並んでいた。会場内からは岩合さんの声が聞こえて来た。その声が絶えると、かわって人のざわめきが次第に大きくなり、それとともに出口からぞろぞろと人が出てきた。そしてあっという間に、長い行列ができたのだった。やはりギャラリートークが終わる前に並ぶのが正解だったのだ。
私の前に並んでいた人は、「ねこ歩き」を5冊と犬の写真集を二冊、合計7冊を抱えていた。岩合さんは一冊ごとにネコのスタンプを押し(犬の写真集の場合は、その場で犬のイラストを描いていた)、その下に実に丁寧にサインを書き、そして握手した。先着100名となっていたが、行列はそれを超えているように見えた。そんなペースでは、いったいどのくらいの時間が掛かるのだろうか。
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