去年の七夕の日に、「たなばたさま」の作詞者・権藤はなよについて書こうと思ったのだが、結局書かず仕舞いで終わってしまった。今年も7月7日は過ぎ、昨年と同じことになるおそれがある。というよりは、すでにそうなってしまったと言った方が良い。
毎年七夕の日が近づくと、短冊に願い事を書いて、笹の葉に結びつけている子どもたちの姿を見掛けることが多くなる。そういう習わしは、たぶんこれからもずっと続けられていくのだろう。そういうことを思えば、一日遅れとはなるが、「たなばたさま」の作詞者である権藤はなよにかかわる思い出を書いておくことも無駄ではないだろう。
権藤はなよは、山梨県で生まれ旧姓を伊藤という。私の母方の祖父である歌人の伊藤生更の妹である。伊藤生更は、「アララギ」に入会して齋藤茂吉に師事し、のちに歌誌「美知思波」を主宰した。
宮崎県出身の声楽家・権藤円立と山梨県出身の伊藤はなよが、どのような経緯で結婚に至ったのか、その間のいきさつについては分からない。ただ、権藤氏が山梨師範学校に赴任して音楽教育に携わったこと、伊藤生更が山梨師範学校を卒業して、一時期師範学校の教壇にも立ったことがあることなどを重ね合わせれば、ある程度想像することはできる。
権藤円立・はなよ夫妻は吉祥寺に居を構えた。私の父母は、権藤夫妻が住まいとしていた富士見通(現在は本町四丁目)の家を借り受け、権藤夫妻は五日市街道を北に越えたところにある広い庭の家に転居した。
その後、14歳で亡くなった姉の命日には、権藤氏がやって来て、仏壇の前で御詠歌をうたってくれることがよくあった。子どもにとっはその有り難みが分からず、退屈な時間に過ぎなかったが、かつて声楽家として活躍しただけあって、子供心にもその声の魅力は感じられた。
はなよ夫人に先立たれた後、権藤氏は後妻を迎え、吉祥寺の家を処分しアパートの家主として老後の生計を維持した。
私の母親にとって、権藤はなよは確かに叔母さんにあたるのだから、「ゴンドウおばさん」と呼ぶのは当たり前のことなのだが、子どものころの私はそれをまねて、「ゴンドバサン」と呼んでいた。「ゴンドバサン」が、正しくは「権藤叔母さん」であることを知るのは、少し大きくなってからだった。「ゴンドバサン」の存命中に、かつて童謡の作詞家として活躍した時代があったことを聞く機会がなかったことは、今となってはとても残念に思えてならない。