2010年07月16日

「たなばたさま」の家を尋ねて(2)

駅前の雑踏を抜けて、吉祥寺・東急百貨店の建つ交差点から大正通りに入る。今は東急のビルが建っているが、生まれ育った吉祥寺を去った昭和43年のころは、その場所に「名店会館」があった。吉祥寺に初めてできた商業ビルだった。

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大正通りは、記憶の中ではユッタリとした道幅の道路が西に向かって延びていたが、時を経て実際に歩いてみると、その道幅の狭さに驚かされる。

道路脇に立てられていた案内図で現在地を確かめる。地図というものは、だいたいのところ上部が北をさしているのだが、次の2枚目の地図は南北が逆になっていた。そこで、上・下を逆にして、左右も反転しておいた。

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もう少し進むと、かつては「大坂屋」という酒店があった。その酒店で誰かが亡くなった時、葬式まんじゅうが配られたといううわさ話を聞いたことがあった。どうでもいいようなことほどよく憶えているのも、不思議なことだ。とっくのとうに「大坂屋」は店を畳んでしまったのかもしれないな、何の根拠もなくそんな失礼なことを思いながら歩いて行くと、意外にも「大坂屋」はまだ店を構えていた。シャッターが下りていたのは、定休日なのだろうか。

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「大坂屋酒店」まで来れば、家のあった場所はもう目と鼻の先だ。下の写真に写っている道の中ほどに、かつて権藤円立・はなよ夫妻が住み、そして夫妻が転居した後を受けて、権藤はなよが私の母親の叔母であったという縁で移り住み、その後昭和43年まで住み続けた家があったのだ。

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一軒ごとに表札を確かめながら、ゆっくり歩いて行く。しかしなんの変哲もないブロック塀に取って替わってしまった家々の表札には、記憶を目覚めさせてくれる名前は記されていなかった。

道の中ほどまできたとき、「I.hiroshi」という表札があった。この名前は記憶に強く刻み込まれていた。それもそのはずで、かつての隣人だった。その当時すでに一家を構えていて、私より年下の二人の男の子の父親だった。すでにかなりの高齢になっているはずだが、まだご健在のようだ。

Iさんの手前の家が、かつて30年近く住んだ家だった。木製の門は鋼鉄製の門扉に変わり、竹で組まれていた垣根は、ブロック塀に変わっていた。庭を覆っていた木々、ヤマザクラ・ソメイヨシノそして柿や栗の木は皆消えていた。

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ブロック塀の内側に数本見える樹は、背丈がかなり伸びているが、かつて垣根の内側に植えられていた樹と同一のものだろう。緑の帽子がこんもりと大きくなって、元気に育っていた。

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posted by 里実福太朗 at 00:00| 里ふくろうの日乗