それが事実であるならば、いつ頃のことだったのだろうか。まあ、武蔵野市史あるいは第一小学校の校史などで調べてみれば分かることだろう。10日ほど前に吉祥寺に行った時、五日市街道側の校門の写真を撮っておいたのでそれを載せておくことにする。



武蔵野市立第一小学校のホームページに、校歌が載っていた。歌詞も旋律もすっかり忘れていたが、一度聴いてみれば懐かしい響きがよみがえってきた。
校庭の砂場、シーソー・ブランコ・ジャングルジム、逆上がりの練習をした鉄棒、三石館という講堂、その壁に野球のボールを投げつけて遊んだこと、壁の下側が崩れてできた穴からもぐり込んで、床下を探検したことなど、次から次へと当時の記憶がよみがえってきた。
5・6年生の時のクラスに、成績も容姿も学年で一番という誉れ高い女の子がいた。しかし一つだけ劣っていることがあった。
音楽のテストは、一人ずつ先生のもとにゆき、先生のピアノの伴奏で歌うというものだった。初めてその女の子が歌った時、予想外のことを耳にして教室中が静まりかえった。
その端麗な姿とはあまりにもかけ離れた歌声が響いたのだ。有り体に言えば、ひどい音痴だったのだ。音をはずしながらも、そんなことはまったく意に介するそぶりを見せずに歌っているのを見て、教室の何人かは、歌声を聞き続けることに耐えきれず、きっと指で耳をふさいだに違いない。
その子の名前は、今でも覚えている。今まで高嶺の花だったそのAさんが、それ以来、ほんのわずかばかり身近な存在として感じられるようになったのだった。
武蔵野市立第一小学校の校歌