父親が結婚したのは昭和11年3月6日のこと、妻として迎えたのは、山梨の歌人・伊藤生更の長女・千代子だった。権藤はなよは、千代子の叔母にあたる。結婚後、武蔵野町吉祥寺十一小路503番地に新居を構え、翌年には長女さらに昭和14年には次女が誕生する。その後、昭和15年(1940年)7月に、権藤氏から富士見通の家を借り受けて移り住むことになる。
ところがその富士見通の家が、いつの間にか権藤氏からほかの人物の手に渡ってしまうのだ。その人物が、映画俳優H・K氏の実家であるI家だった。富士見通りを北に進むと五日市街道に出るが、I家はその少し手前に広い敷地を所有していた。
長年住み続けてきた家が、赤の他人のものとなってしまったのだ。これは推測ではあるが、たぶん家の購入あるいは立ち退きを迫られたのだろう。我が家に購入するだけの財力はなく、家賃を払って住み続けるより仕方がなかった。ところがI家は家賃を受け取ることはせず、あくまでも立ち退きを迫った。そこで先住権(賃貸権)を盾に、家賃を供託するという手段をとることになった。以後父親が亡くなる昭和43年まで、その状態が続いたのだった。
そのI家はまだあった。敷地は多少狭くなっているように感じられた。ただ、子供のころにみた光景というものは、大人になってから見ると、みな小さく見えるものだから、それと同じことだったのかもしれない。
さて、肝心の権藤家・「たなばたさま」の家を探さなければならない。五日市街道を渡っても、どの道に入っていけばよいか分からない。吉祥寺駅行きのバス停が近くにあったというぼんやりとした記憶をたよりに、適当な道に入って行ってみた。もちろん住人は変わっているわけだから、富士見通の家のように取り壊され、庭の雰囲気もすっかり変わっている可能性の方が高い。
北に向かう道路の右側にあったのは間違いない。しかし、次の四つ角出るまでにそれらしい雰囲気の家はなかった。角を曲がり、次の四つ角を今度は南に向かって歩いて行く。やはり、うすぼんやりとした記憶の輪郭を鮮明にしてくれそうな家はなかった。
ちょうど通りかかったお婆さんに声をかけてみた。
「このあたりに、むかし権藤という人が住んでいたんですが、ご存じではないですか」
「いつごろのことですか」
「奥さんが亡くなったのが、昭和36年ですが」
「そのころは、ほかの所にすんでいましたから、分かりませんねェ」
住んでる人も変わってしまっているのだ。昔から住み続けている人は、どんどん少なくなってしまっている。
五日市街道沿いにも新しい店舗が増えていて、古いたたずまいを見せている店はところどころに残っているだけだった。そういう店には、権藤家の場所を知っている人がいるかもしれないと思い、そのうちの1軒に見当をつけてみた。

店頭には誰もいなかった。店の奥の方に声をかけると、しばらくしてから返事があった。50歳代の女の人が出てきた。事情を話してみたところ、お父さんなら知っているかもしれないけれど、あいにく用事があって外に出ているということだった。
「こちらは、もう永いことご商売をなさっているんじゃないですか」
「もう、60年以上になりますね」
「こどものころ、こちらによくコロッケを買いに来ましたよ」
「このあたりで、昔から商売をなさっているのは…少なくなりましたが、尾張屋さんは古いですよ、だけど今日は水曜だからお休みですね」
尾張屋というお蕎麦屋さんは、成蹊大学の近くにあった。いづれにせよ、今日の所は引き上げてまた出直すより仕方がなさそうだった。

