2013年08月22日

藤圭子さんを悼む

歌手の藤圭子さんが、マンション13階のベランダから転落して死亡したそうだ。午前7時頃のことで、飛び降り自殺ではないかとみられている。

【藤圭子さんが飛び降り自殺か 東京・新宿のマンションから転落死】
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130822/crm13082213100016-n1.htm
…msn・産経ニュース

今では宇多田ヒカルの母親と紹介されることの方が多いが、昭和44年に「新宿の女」でデビューして、翌年に「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたころのことを知っている者にとっては、藤圭子の娘が宇多田ヒカルなのである。

昭和44年・45年といえば、駆け出しのサラリーマンの時代で、川崎の小向工場でコンピュータのプログラム開発を担当していた。いわゆる高度経済成長第二期の中程にさしかかったころで、今のような閉塞感に覆われた社会情勢ではなかった。藤圭子が登場したのは、そんな時代を背景にしていた。

その時、藤圭子はまだ17・18歳で、幼さと鄙の雰囲気を漂わせていた。しかしそういう外見とはうらはらに、暗い色をたたえた瞳とドスのきいたハスキーボイスが、いかにも新鮮に響いたのだった。

作家の五木寛之さんが、亡くなった藤圭子さんに寄せたコメントが、朝日新聞デジタルに載っていた。

「藤圭子の衝撃、まちがいなく怨歌」五木寛之さん
http://www.asahi.com/culture/update/0822/TKY201308220390.html
…朝日新聞デジタル 2013年8月22日23時20分

「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」

そうだ、その当時、五木さんは藤圭子の歌を『怨歌』と評していた。この記事を読んで、そんな40年以上も前のことを思い出した。

昭和46年8月に出版された「ゴキブリの歌」は、五木寛之さんの「風に吹かれて」に次ぐ随筆集で、毎日新聞の日曜版に連載された文章をまとめたものである。その中に「艶歌と援歌と怨歌」と題された一文がある。

その一文は「演歌」の原義を説くことから始まり、仇花としての「艶歌」への共感、また「援歌」への嫌悪感が綴られる。そして最後の部分で藤圭子が登場するのである。その部分を少し引用してみよう。

『藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを買ってきて、夜中に聴いた。彼女はこのレコード一枚残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。…略…彼女のこのLPは、おそらくこの歌い手の生涯で最高の短いきらめきではないか、という気がした。』

そして少しおいて、藤圭子の歌を<艶歌>でも<援歌>でもなく、正真正銘の<怨歌>であると述べるくだりが続くのである。そして、藤圭子の行く末に不吉な予感を感じるのだった。

『だが、しかし、この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今この数ヶ月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の閃光であって、芸として繰り返し再生産し得るものではないからだ。彼女は酷使され、商品として成功し、やがてこのレコードの中にあるこの独特の暗く鋭い輝きを失うのではあるまいか。』

藤圭子さんのその後の人生をたどってみれば、五木さんの予感とは遠からずと言っても良さそうな生き方だった。突然引退を表明して歌手の道を捨ててアメリカに渡ってみたり、芸名を変えて芸能界に復帰したり、再びもとの藤圭子に戻したりと、出口の見えない迷い道に入り込んでしまったかのような人生を送っている。

しかし、実は進んで行く道は見えていたのかもしれない、五木さんが指摘した彼女の不吉な道が。目を瞑ってその道に入り込まないようにしたことが、結局迷い道にばかり入り込んでしまうことにつながったのかもしれない。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=f9QsJo-j17c

〔圭子の夢は夜ひらく〜京都から博多まで〕youtube
http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM
1970年紅白 圭子の夢は夜ひらく 演奏 小野満とスイングビーバーズ
1972年紅白 京都から博多まで 演奏 ダン池田とニューブリード

posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗