その男が現れたのは、たしか9月下旬のこと、まだ暑い日が続いていて、いい加減うんざりしていた頃だった。何が入っているのか分からないけれど、パンパンにふくらんだデイパックを背負い、肩から小さめのショルダーバッグを斜め掛けにしていた。少し猫背で、背の丈は180センチは超えていそうだ。年の頃は60歳前後だろうか、見ようによってはもっと若く見える。
オレ様に、カメラを無遠慮に向ける輩は数多くいる。オレの邪魔さえしなければ、撮りたいヤツには勝手に撮らせておくのがオレ様の流儀だ。だからその男が、ショルダーバッグからカメラを取り出したのが目に入っても、別に気にならなかった。
最初は遠くの方からカメラを構えていた。そして腰を低く落として、、少しずつ少しずつにじり寄ってきた。そうなってくると、ちょっとは気になってきたが、それでも我慢していた。男はオレが逃げないのをいいことに、鼻先にレンズを近づけて撮り始めた。いくらオレ様がアップにたえる顔だとしても、限度があるというものだ。とうとう嫌気がさして、体の向きを変えて、お尻を向けてやった。
ところが、その男はオレの正面に回り込んでまたアップで撮り始めた。こういう手合いには、一発うなり声を上げて、オレの自慢の牙を見せて脅すか、あるいは、人間が来られない所に移動するか、そのどちらかで対処する必要がある。オレは、とりあえず今回は後者を選んだのだった。
その男は、未練たらたらの体で、オレの方をずっと目で追っていた。ヤレヤレこれで安穏な時間を取り戻せた、そう思い始めたときだった。以前見たことのある顔が、あの男に話しかけているのが見えた。その男は、以前はこのあたりでよく見掛けたが、近ごろはさっぱり姿を見せなくなっていた。久しぶりでみたその男は、どこで調達したのだろうか、立派な自転車にまたがっていた。耳を澄ますと、こんなやり取りが聞こえてきた。
「やあ、逃げられてしまいましたね。あいつは、ポン太って言うんですよ。昔はこわがりでね、すぐ逃げたもんだ」
「そうですか、今は、すぐ逃げなかったですよ」
「エサをやって、手なずけたんだよ」
カメラ男は顔をしかめて何か言いたげだったが、ぐっとこらえてその言葉を腹の中にしまったようだった。
「エサって、煮干しのようなものですか」
「そんなもんじゃ、だめだよ。ここらのネコは、いいもん食ってるんだよ。煮干しなんかじゃ、見向きもしないよ」
自転車男は、我々の食生活について、ある程度の知識は持っているようだった。
「キャットフードみたいなものですか」
「それでもいいよ。それと、あいつはカニカマが好きなんだ」
「カニカマですか」
オレの耳がピクンと動き、よだれが流れ落ちそうになった。大好物の「カニカマ」、そういえば近ごろありついていない。
「金があれば、買ってきてあげるんだけど、仕事がなくてな、金がないんだ。今日だって、この公園で炊き出しがあると聞いたから来たんだけど、もうなくなってたんだよ。あんた、金ある? あるなら、それで買ってきてあげるけど」
金がないと聞いてがっかりしたけれど、カメラ男の方は、あんな立派なカメラを持っているんだから、カニカマを買うくらいのお金は持っているに違いない。カメラ男が、財布の中身を見られないように、バッグの中に手を入れて、もぞもぞと動かしているのを、期待をもって見つめていた。
「100円あれば、買えるよ」
「100円玉がないなァ…500円玉ならあるんだけれど」
「それでいいいよ、お釣り持ってくるからサ、500円で」
カメラ男は、自転車男の顔をじっと見つめていた。そして、500円玉を取り出して、自転車男の手のひらに載せた。
「よし、近くのコンビニに行ってくるよ。ここで待ってろよ、必ず帰ってくるからな」
と言うなり、自転車に飛び乗って、風のようにどこかに去って行った。
オレは、ちょっと心配だな。あの自転車男は、炊き出しに食いっぱぐれたんだろ、それに500円と言えば、大金だ。考えたくはないけれど、持ち逃げしてしまうことだってあり得ないことではない。公園でいろんな人間模様を見ているオレ様の想像では、その確率の方が高いな。でも、カニカマは食べたい。だから今だけは、オレの人間を見る目が狂っていることを願うよ。
自転車男が消えてから、もう10分以上は経っているに違いない。頭の中のカニカマに、霧がかかってだんだん見えなくなってきた。カメラ男も、自転車男が消えた方向をじっと見つめ続けている。そして、ときどき腕組みをして深いため息をついた。もうカニカマは、諦めた方がいいのかもしれない。
posted by 里実福太朗 at 23:50|
ねこ