2013年05月19日

神楽坂から早稲田まで

写真塾の新しい年度が始まった。何人かの人が去り、何人かの人が新しく入塾した。講座の終了後、早稲田スコットホールギャラリーで開催されている『北田英治写真展「東京エッジ」』の会場まで歩いて行くことになった。神楽坂と早稲田は地下鉄で一駅だから、歩いてもそうたいした距離ではない。

北田英治写真展「東京エッジ」
 会場:早稲田スコットホールギャラリー
 期間:2013年5月17日(金)〜29日(木)
    …23日(木)休廊
http://www.hoshien.or.jp/gallery/exhibitions/comming_exhibitions/exhibitions130517.html

ギャラリーには、冷えたワインが用意されているらしい。もちろん北田さんの魅力的な写真を見るために行くのだが、歩いて汗ばんだ体をワインで冷やすことも魅力的なことだと言わねばなるまい。

せっかく冷えたワインが待っているのだから、酒の肴の一つや二つはあった方が良いだろうと心に掛けて、Yさんと並んで歩き始めた。人生の先輩でもあるYさんは、早稲田界隈の地理・歴史にも詳しい。ご一緒させていただくと、いろいろなことを教えていただける。

進む道は、「東京エッジ」という写真展を見に行くのにふさわしく、淀橋台とその北側に広がる低地との境目、まさにエッジと言うべき道を歩いていくことになるのだ。

神楽坂のアユミギャラリーを出てすぐの所で、我が地元の千葉から来たという若者が、「づけ大根」なるものを扱っていたのでそれを買い求めた。次はYさんが歴史を感じさせる肴屋さんで、小鯛の酢〆などを求めた。そのお店「肴屋三四郎」は、創業したのが享保8年(1723年)8月6日、初代「三四郎」は三河の人という。夏目漱石の小説「三四郎」は、同店からとったと言われているそうだ。

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さらに「たまごパン 焼きたて」という看板に引き寄せられ、途中から合流したAさんが、八百屋さんの店先に並べられていたイチゴを見て歩みを止めたのだった。

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2013年05月16日

文京区のノラネコ対策

観潮楼跡の東側、藪下道沿いに小さな公園がある。簡易なイスが置いてあって一休みするにはちょうど良い。そこにこんな注意書きが掲示されていた。

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 野良猫や野良犬にはエサをやらないでください
  文京区

こういう注意書きを見るたびに、ノラネコ対策を真剣に考えているのだろうかと疑いの眼差しを向けたくなってしまう。というのは、ただ単に注意書きを掲示して、それで一件落着としたいと思っているのではないかという疑問がつきまとうからだ。

猫へのエサやりを禁じても、都会にはエサとなり得るものがそこら中に存在する。いよいよとなれば近ごろ都会に増えているらしいネズミを捕まえて空腹を満たすことだってできる。人間がエサをやらなくても、猫たちは命をつないでいく術を持っているのである。

そうやって命をながらえた猫たちは、子孫をどんどん増やしていく。強い繁殖力を持つという猫は、次のような試算によれば、1ペアの野良猫は10年後には100万匹を超える数になるそうである。

『猫の繁殖力は高く、生まれた子猫は通常半年で性成熟に達し、年に2-3回出産可能です。その上、1度の出産で3-8匹を出産すると言われています。
 仮に1ペアの野良猫が年に2回繁殖し、毎回8匹の子猫を出産(そのうち70%が死産)、子猫が半年で性成熟し、産まれてきた猫も同じ条件で繁殖を繰り返し、野良猫の寿命を3年とした場合、10年後には100万匹を超える数になります。』
…【犬猫殺処分の現状】
 http://www.conoass.or.jp/situation/osaka.html

こういう数字を見れば、『野良猫や野良犬にはエサをやらないでください』という注意書きを掲げるだけの対策は、対策という名に値せず、ただ問題を放置しているだけだと言わざるを得ない。ただエサやりを禁じるだけでは、ますますノラネコは増えていくのである。

ネコ公園のある台東区では、文京区が行っているような効果を期待できない中途半端な方法から抜け出し、すでにノラネコが増加しないようにするための方策の実践へと踏み出している。それは、行政とボランティアの人たちが協同して、動物愛護という面だけでなく、ノラネコたちを適正に管理して、恵まれない不幸な猫たちが増えないようにするという活動である。具体的には、毎年「地域猫講習会」を開いてエサやりマナーなどの周知に努めたり、飼い主のいない猫の不妊去勢手術助成事業なども実施しているのである。

かつて千駄木町(現在:文京区向丘)には夏目漱石が住まいして、出世作「吾輩は猫である」を書いて世に認められた。猫がいなければ「吾輩は猫である」は生まれなかったわけである。その後、小説家として大家を為すには至らなかったかもしれない。そのように大切な役割を果たした猫を、文京区はどうして邪険に扱うのだろうか。少しは台東区の活動を見習ってほしいものである。

次に、東京都の動物に関わる条例の冒頭部分を引いておく。

【東京都動物の愛護及び管理に関する条例】
 平成一八年三月九日
 条例第四号
http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1013637001.html

第一章 総則
(目的)
第一条 この条例は、動物の愛護及び管理に関し必要な事項を定めることにより、都民の動物愛護の精神の高揚を図るとともに、動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止し、もって人と動物との調和のとれた共生社会の実現に資することを目的とする。

posted by 里実福太朗 at 23:41| 里ふくろうの日乗

2013年05月15日

ロクにリュックを乗っ取られる

愛用のリュックのそばをちょっと離れたスキに、ロクがその上にチャッカリ乗っていた。「チョット、どいてくれないかな」と言っても何食わぬ顔、リュックを少し揺すっても、いっこうにどいてくれそうにもない。仕方がないから、好きなようにさせてあげた。

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ロクは「猫語の教科書」(ポール・ギャリコ)の教え通り、当方愛用の品をまんまと自分の居場所にしてしまったのだ。

『人間は、何か自分のものをとられるのは猫に好かれている証拠、と思いこむらしいのです。』

posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗

2013年05月13日

藪下道の猫

藪下道を根津神社方面に下って行く途中でのこと、小走りで道を横切っていく一匹の猫と遭遇した。声を掛ければ速度を早めて駆け足になりそうな様子だったので、ともかく写真だけは撮っておこうとカメラを構えた。

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家猫なのかノラちゃんなのかは分からない。塀の上に飛び乗るとあったいう間に姿を消してしまい、残念ながら声は掛けずじまいだった。

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もう一匹の猫は、藪下道の崖下の民家の車庫スペースにいた。そこに行くには急な階段を下りていかなければならない。猫の写真は撮れたとしても、その階段を上って藪下道へ戻るには、かなりのエネルギーを費やすことになるに違いない。それを思うとためらいが先に立つ。

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そんな意気地のないことを思っていると、階段下に年配の婦人が姿を現し、手すりを掴みながら上り始めたではないか。よろけることもなく階段を一歩一歩確実に踏みしめながら登ってくる。そしてとうとう私が立つ場所まで上りきり、大きくフウと息をついた。呼吸はあまり乱れていなかった。その様子を見て、やっと意を決して階段を下りたのだった。

猫は私の姿を認めると、すぐブルーシートの下にもぐり込んで、その隙間からさぐるような目でこちらを注視していた。

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posted by 里実福太朗 at 23:45| 里ふくろうの日乗

2013年05月11日

「猫の家」

前回の記事の最後に載せた写真は、藪下道への入り口の角に設置されている案内標識を撮ったものだった。その地図は、藪下道の所在を示すものというよりも、むしろ「猫の家」への道順を案内するものと言った方がよいだろう。

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「猫の家」とは…いまさらこんな説明を加える必要などないのだろうが、かの夏目漱石が英国留学から帰国後に住まいした家で、その家で「我が輩は猫である」を執筆したことで後にそう呼ばれるようになった。現在その家は明治村に移築され、今はその跡地の一角に旧居跡を示す碑が建っている。

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私は根津裏門坂から医科大学の横を通って行ったが、あの解剖坂を通った方が近道となるようだ。鴎外の観潮楼とは目と鼻の先なのだ。こういう距離感は実際に歩いてみないと分からない。ちなみにその家は、10年ほど前まで鴎外も住んでいたそうである。

「我が輩は猫である」で思い出したことがある。内田百閧ノ「贋作吾輩は猫である」という作品があるが、はるか昔のこと、私も「我が輩は猫である」をまねて文章をものしたことがあった。中学二年生の頃だっただろうか、夏休みに作文の宿題が出されて、ちょうどその頃家で飼っていた猫をモデルに書いたとおぼろげに記憶している。

中学生の分際でそんな大それたことをしたのは、夏休みも残り少なくなり、切羽詰まって身近にいる猫のことならなんとか書けそうだと思ったのかもしれない。どんな内容であったのか、書いたことさえ忘れてしまっていたのだから、今はもう一言半句も思い出せない。そういえばあの原稿どうなったのだろうか、提出した後、自分の手もとには戻ってこなかった。

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題字は、川端康成筆


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2013年05月09日

藪下道を歩く

昔荷風が歩いた…いや荷風だけではない…観潮楼を訪れる文人たちが通った藪下道を歩いてみた。観潮楼跡の前にある説明板の標題は「藪下通り」となっていたが、以下の説明をには『「藪下道」とよばれて親しまれている』と記されていた。

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荷風が「日和下駄」で、『片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危まれるばかり』と形容した藪下道は、むろん昔日の面影など残されているはずはなく、舗装された一方通行の道が根津神社の方向に延びていた。ただ、地形の形状は当時と変わりないとみえ、『足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える』と描写したとおりの情景が見渡される。

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観潮楼跡前の崖下には、文京区立第八中学校そして歩を進めれば汐見小学校が続く。右側には上り斜面の傾斜地、そこを登って行けば、その先には東京大学のキャンパスが広がっているはずだ。ここはつまり本郷台地の東側斜面なのである。その斜面の中腹に、この藪下道が通っているということなのだ。

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なだらかな下り道を下りきると、道は平坦になる。逆方向(根津神社方面)から自転車に乗ってきた人は、そのあたりで自転車から降りて押して登っていく。そして道の両側には人家が増えてくる。「文京区の坂(6)」…http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/bunkyoku6-sendagikomagome.htm…によると、下ってきた坂道は「汐見坂」と呼ぶそうだ。

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そこからしばらく歩くと右側に急な石段が見える。同じく「文京区の坂(6)」のよれば、この坂道は「解剖坂」、そのあたりから両側に日本医科大学の関連施設が建ち並んでいるから、そんな不気味な名前がついている所以も自ずと知れてくる。

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向かって左側が高度救命救急センター、右側が医科大学の付属病院、その両者を道路を跨いでつなぐ通路をくぐると、やがて藪下道は根津神社裏門通りへと至る。実はその角に、案内標識が設置されていて、そこには「藪下通り」の文字がはっきりと記されていた。

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2013年05月06日

マリーンズ大嶺投手が1040日ぶりの勝利

昨日の対ホークス戦で、先発した大嶺投手が実に1040日ぶりで勝利投手となった。前回の勝利が2010年6月30日のこと、今季二度目の登板でほぼ3年ぶりの勝ち星を手にした。その日5月5日は、長嶋茂雄さんと松井秀喜さんへの国民栄誉賞の表彰式が行われた日でもあった。また中村紀洋選手が通算2000本安打を記録した日でもあった。

大嶺投手は1988年生まれの「ハンカチ世代」…そう呼ばれることを嫌う選手もいるらしいが…その世代を代表する投手は、もちろん斎藤佑樹そして彼と甲子園で投げ合った田中将大、そして前田健太もその世代だ。

2006年のドラフトでは、本人が入団を希望していたホークスではなくマリーンズが交渉権のクジを引き当ててしまった。当時の監督はあのバレンタインさん、大嶺投手に惚れ込み彼とホークスとの間に割り込んで、結局彼を獲得してしまったと聞く。

田中投手そして早稲田大学に進学したハンカチ王子こと齋藤投手が、それぞれ期待通りの活躍をしたというのに、大嶺投手の入団後の成績は振るわなかった。バレンタイン監督が強引に獲得した選手だから、プロでも十分通用する素質は有していたはずだ。それなのに、なぜか勝ち星に恵まれなかった。

彼の登板した試合では、せっかく好投していてもそれが勝ちに結びつかないことが多かった。あらためて言うまでもないことだが、勝負事の世界では実力だけでなく運も味方に付けなければ、勝利を手にすることができないこともある。彼の負け試合を見ていると、勝敗の分かれ目の大事な場面で運がスルリと逃げていってしまった、そんなふうに感じることがよくあった。運も実力のうちとよく言われるが、彼に運を引き寄せるための何かが欠けていたのだろうか。

昨年のシーズンは一度も一軍での登板はなかった。このままプロの世界から消えていってしまう瀬戸際まで追い込まれていたのかもしれない。そんな彼が今季から指揮を取る伊藤新監督のもと、一軍での再スタートを切ったのだ。最初の登板は4月28日の対ホークス戦、この試合は残念ながら負け投手となってしまったが、5月5日の二回目の登板でみごと勝利投手となった。

今のところマリーンズは調子がいい。今日もホークス相手に5対2で勝った。この良いチーム状態をオールスター戦以後も続けていくためには、大嶺投手が先発投手陣の一人として活躍していくことが必須であるはずだ。出身地の石垣島の人びとのため、マリーンズのファンのため、そして自分のため、今後の活躍を期待したいと思う。大嶺祐太投手、応援していますよ。

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2013年05月03日

憲法記念日に「天声人語」の劣化を思う

「天声人語」といえば言わずとしれた朝日新聞の看板コラム、小論文のお手本とされ書き写しノートまで発売されている。
「天声人語書き写しノート」
http://mana-asa.asahi.com/tensei/material.html

ところが、その「天声人語」が劣化して、昔の輝きが失われているとネット上で取り上げられている。検索してみれば、すぐそういう記事が見つかるので読んでみると、なるほどなとその指摘に納得がいく。

だから今日の天声人語を読んでここはおかしいと思っても、またヘンテコリンなことを書いているな、ということで済ませてしまおうかと思っていたが、時間が経つにつれてこれは看過できないと思い直したのだった。以下、その部分を引用する。

『…▼きのうの紙面に、「女性の61%が9条維持」という世論調査結果が載っていた。逆に「変える」は男性の50、60代で高かった。万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか。政権内の人も多くは同じ世代である▼…』

憲法9条に関して、女性の場合は、「変えないほうがよい」が61%であると具体的な数字を示しているのに対し、男性の場合は、ただ『男性の50、60代で高かった』とだけ述べている。女性の場合と同じように具体的な数字をあげずに『高かった』と述べているだけなのだから、読んだ人の印象では、男性の50・60代では「変える」と答えた人が特別多かったと受け止められてしまうおそれがある。

それでは男性の場合は、実際にはどうだったのか、新聞で確かめてみると以下のような結果となっていた。

〔調査方法〕
・全国の有権者から3000人を選び郵送法で実施
・有効回答は2194
・対象者の選び方は、層化無作為2段抽出法

「変える方がよい」
 全体……50%
  50代…55%
  60代…53%
「変えない方がよい」
 全体…43%

「変える」としたのが全体の50%、50・60代は53〜55%、その差は3〜5%である。これをどうみたらよいのだろうか。ほかの世代に比べて『なかでも高い』ということになるのだろうか。

この点について考えるために、統計処理をした際の誤差について内閣府のウェブページで確認してみた。

【世論調査結果を読む際の注意】(内閣府)
http://www8.cao.go.jp/survey/y-chuui.html

〔単純任意抽出法(無作為抽出)を仮定した場合の誤差(95%は信頼できる誤差の範囲)〕
回答者数2000の場合
 回答比率50%の質問…誤差 +2.2〜−2.2

これだけの誤差が想定されているのである。朝日新聞の場合は層化無作為2段抽出法だから、上記の誤差は若干増減する。また、誤差には調査員のミスや回答者の誤解などによる計算不能な非標本誤差もある、ということだ。

こういう誤差を考慮に入れても、なお50・60代は『高い』と言いきってしまっていいのだろうか、大いなる疑問である。

天声人語の次に続く部分は、悪意さえ感じられよりタチが悪いと言った方がいいだろう。50・60代が『高い』ことの理由として、こんなことが書かれているのである。

『万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか。』

『からか』を申し訳程度に付けているが、だからといってこんなものの言い方が許されていいわけがない。子や孫のことを思えば、平和が続くことを望むのが人の常ではないか。こじつけに満ち、これほど雑に書かれた文章は、往年の天声人語とはもはや別ものと言わざるを得ない。






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2013年05月01日

藪下道はどこだ

先週に引き続き、今週も「藪下道」を探すために根津方面に赴いた。先週はその道への入り口が分からず難渋した末に結局は見つからず、出直すことになったのだった。

そこで今回は、熟慮の結果妙案を思いつきそれを実行に移した。と書くと大袈裟のそしりを受けそうだが、森鴎外の観潮楼が藪下道沿いにあったのだから、それを目印として探せば見逃すおそれはないとふんだのだ。実に単純な方法なのである。

最寄り駅は地下鉄千代田線の千駄木駅、そこが団子坂下である。かつて鴎外が居を構えた観潮楼は、団子坂を上り詰めた坂上にある。まずはそこを目指すのである。

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いつものことだが、地下鉄の駅から地上に出ると方向感覚を失ってしまう。団子坂下の交差点で、進むべき道を探してウロウロしているとき、都合良く道案内役を引き受けてくれたのが、交差点脇に設置されていた地図板だった。

それによれば、森鴎外記念館は平成24年に開館予定になっていて(すでに昨年の11月に開館)、その下に観潮楼跡とあり、さらに目を下に転ずれば、そこには「藪下通り」の文字が記されているではないか。その通りは観潮楼跡に接して東側に位置している。「藪下道」とは、荷風・鴎外の記述から私が適当に呼んでみただけであって、実際には藪下通りと呼ばれていたのだろう。

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団子坂下から団子坂上までは歩いて5分程度、その道の途中に団子坂の説明板が設置されている。坂上の信号を左折すれば、案内図に記されていた藪下通りに入るはずである。一方通行の狭い道を少し歩くと、右側に記念館の東側の出入り口が見えてきた。この道が藪下通りであることは、もう疑いようもない。

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観潮楼は、はるか遠くに東京湾の入り江が見えたことによってそう呼ばれるようになったと聞く。観潮楼跡に立ちそのまま振り返りみれば、下は断崖絶壁を思わせる急傾斜地に階段が連なり、ビルに挟まれた下の道の先、そこに見えるは東京湾の潮にあらず、はるか遠く隅田川を東に越えた地に建つスカイツリーが、ビルの谷間に小さく細く見えたのだった。

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2013年04月30日

荷風お気に入りの藪下道

永井荷風の「日和下駄」に、根津権現(根津神社)に関する記述がある。第九の「崖」という章のその部分を引用してみる。

『根津の低地から弥生ヶ岡と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。』

この中に出て来る『根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路』が、藪下道と呼ばれている古道である。荷風がその道について興味を示している理由は、引用部分の続きを読めば自ずと察せられる。その道の今の姿を確認してみたくて、つつじ苑にも寄らずに先を急いでいたのだ。

『片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危まれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向は一面に遮るものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき行衛をも見極められる。左手には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され其処より起る雑然たる巷の物音が距離のために柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、
  かの平和なる物のひびきは
  街より来る……
といったような心持を起させる。』

荷風がこんなふうに描いた藪下道は、現在ではすっかり変貌して昔の面影など留めてはいないと思われるが、説明板が設置されているかもしれず、それに望みを託して探し歩いてみた。

しかし、歩き回っても手がかりは得られなかった。地元の人と思われる通りがかりの人にも、声を掛けて尋ねてみた。しかし藪下道を知る人はいなかった。これで分からなければ出直すことにしようと決めて声を掛けたのは、品の良い年配の女性だった。根津神社周辺の地理には詳しいということなので、さっそく藪下道のことを訊いてみた。ちょっと思案顔を作ってから、
「そこの信号を渡って真っ直ぐ進み、左側に教会が見えたら、その角を左に折れ、急な坂道を下りきったところでぶつかる道をちょっと歩くと、右側に小道があります。その道です」
と教えてくれた。こちらが予想していた方向とはまったく逆の方向だった。不審に思ったが、あまりにもはっきりと自信に満ちている口調だったので、疑問を呈するわけにもゆかなかった。

その女性が教えてくれた道を辿ってみたところ、藪下道は見つからず、結局振り出しに戻ってしまった。つまり、根津神社の表参道鳥居前に出てしまったのだ。藪下道を尋ねるのではなく、その道の先にある鴎外記念館の所在を尋ねた方が良かったのかもしれない。

ただ、その道を歩いたことで、鴎外の「青年」に描かれている権現坂(新坂、S坂)を確認することができた。

『純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。
…右は高等学校の外囲、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣を繞らした屋敷ばかりで、その間に綺麗な道が、ひろびろと附いている。
…坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。』

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この『割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して』と描かれていることから、「S坂」とも呼ばれるようになったということである。

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そのあと純一は坂を下って根津神社に入る。

『坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬のように鳴るのが、好い心持である。剥げた木像の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬で囲んである。故郷の家で、お祖母様のお部屋に、錦絵の屏風があった。その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣があったと思う。社殿の縁には、ねんねこ絆纏の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常磐木の間に葉の黄ばんだ木の雑った木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。』

裏門から出た純一は、そのあと藪下の道に入る。やはり裏門付近にそこへのはいり口があったのだ。最後に訊いた女性は、見当違いの方向を教えてくれたのだった。

『藪下の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まわれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間というのがこれだなと思って通り過ぎる。』

(引用作品の出典は、ともに青空文庫)
posted by 里実福太朗 at 23:50| 里ふくろうの日乗